祈りは届くと信じてる

 
 僕はぼんやりと外を眺める。
 青々とした緑が揺れ、なぜだかを虚しさを覚える。
 今は高校三年生の8月の始め。じっとりした空気が夏を誇らしげに伝えてくる。
 ジリジリとうるさく鳴く蝉。
「おい、信司。開けろよ。おい、信司!」
 さらには五月蝿い人間だ。
 嫌になって寝返りをうち、突っ伏して枕に顔を埋める。


 高2の7月。

 僕は人間関係の中心となり得る学校へと向かうため、電車に乗っていた。
 よく好んで読む、儚さや切なさを感じさせる小説。
 僕はこういった儚さを感じさせてくれるものが好きだ。いつまでも世に残り続けるものはやがて黒ずみ、汚くなっていく。桜のようにさっさと散ってしまった方がいい。と言っても自分がそうなりたいわけではないが。
 気づけばヨボヨボの老体が僕の目の前に立っていた。
 席を譲ってほしいのだろう。物欲しげにこちらを見つめている。
 だが席を譲る気はない。
 知り合いなら『親切』をすれば返ってくる可能性があるが、赤の他人にそれをしたところで、得られるメリットはただの虚しい自己満足だけだ。そんなことをしてなんになる?
 ――なにもならない。
 そういうものだ。親切をしてむしろ仇で帰ってくることがあることを、僕は知っている。身近な人で、そういう目にあった人がいた。
 だから期待しない。わざわざ人間とは絡まない。
 ――変わったほうがいい、とは思うのだ。
 世の中はひどく色あせて見える。この現実に期待感がなくて、このままでは窒息してしまいそうなほど苦しくて。……こんな生き方は幸福ではない。僕はいつからこんな風に考えるようになってしまったんだろうか。
 周りの人間も誰も席を立たず、席を譲る気配はない。
 賢明な人間の多いことだ。
 やがて電車は僕の学校の駅へと止まり、僕は席を立つ。
 見れば老人はこちらを見て嬉しそうにしていた。席が空いたのが嬉しいのだろう。
 僕はそれを見て、なにも感じなかった。

 ◇

 基本的に、他人との会話はゼロ、後方に配置された席に座る僕は見られた回数さえ少ないのが日常の常態だ。
 僕の学校での立ち位置は『暗い奴』だ。
 ただあくまで『嫌な奴』ではない。そうなってしまえば面倒なことになるからだ。
 つまりクラスでは目立たなくて暗めの人物と認識されているはずだ。
 こういう存在の名刺を持っていれば基本的には誰も近づいてこない。
 そういう風に振る舞ってきた、行動してきた。こうすれば人間と関わることをより避けられるからだ。
「相川君、ちょっとお願いがあるんだけど……」
 そう声を掛けられたのは、その日の昼休みの時だった。
 相手は担任の女教師だ。
「できれば、でいいのだけど」と女教師は前置きをする。
「相川君の家はこのクラスの中で吉野早枝さんと近いの。だから、届け物を頼まれてくれない?」
 突然言われたことに頭を悩ませる。
 人との関わり合いを避ける僕は赤の他人のことを思い出すのに、しばし時間を必要とした。
 ……吉野早枝、確か病弱でほとんど学校に来れていない人間のはずだ。そのわりにはクラスの人気者で僕にはそれが理解できなかった。学校にあまり来ないのに人気者。きっと、そのことは彼女に少しでも興味を示していたなら当然のようにわかることなのだろう。生憎、僕は誰にも注意を払わないのでことさら学校にほとんど来れない人間のことはあまりわからなかった。
「別にかまいませんが……」
「ありがとう! お願いね!」
 言うが早いか、プリントの束を押し付けられる。
本当は断りたいところだった。しかし、断れば『嫌な奴』と思われてしまうかもしれない。
 ……仕方がないので運が悪かったと思うしかないのだろう。

 ◇

「お願いします……なんとか……なんとかなりませんか」
「……すみません、私には、力量不足です」
「お願いします、お金なら、それだけはあるんです」
「……一応、知り合いに聞いてみますよ。でも……すみません、きっと、無理です」
 吉野早枝の家に向かう最中、そんな会話を聞いてしまった。
 思わずその場で立ち止まる。会話はこの角の先、吉野早枝の家の前で行われていた。
「早枝を生かしてください……!」
 その悲痛な声を聞いて、悟る。
 病弱なクラスメイト。そいつは、死ぬかもしれない状況にあるのだと。
 ぽつりぽつりと続く会話。思わずその内容に耳を傾けた。
 僕はあらゆるものに興味を示さない、示しにくい人間だ。けれども、このクラスメイトの死を語る会話には、耳を傾ける価値があって、自分自身のために聞いておかなければならなかった。
 生きているはひどく億劫で、世界はひどく色あせて見せる。生きる意味を見出すことができず、かといって死を選ぶのは何か違う。だから退屈な日常の中で特殊な事柄があれば耳を傾ける。何事にも興味を示さない僕も、それを聞けば変われるかもしれないという期待するからだ。大抵の結果はすぐに興味を失い、僕の願いは叶わないのだが、非日常は一応知ろうとする。ましてや今回は自分が触れることになるかもしれない『死』の話題と推測できる事柄だ。
 自分の虚しい生き方と考え方が嫌いだった。なにかのきっかけが、僕という人間を変えてくれることを望んでいた。
 やがて会話は終わり、医者らしき人物は僕から遠ざかる方向へと帰っていった。
 頃合いを見て家に向かう。
 白くて大きな家だ。金持ちだとわかる家。これが吉野早枝の家だ。インターホンを鳴らし、人間が出てくるのを待つ。やがて中年の女が現れた。先程の吉野早枝の母親だろう、目をやや赤く泣き腫らしている。それに目を逸らしたくなる。どうにも、こういうのは苦手だ。うっすらと湧き出る同情心。でも、僕が他人に同情したからってなにになる?
「今日は担任が用事があって、かわりに僕が届け物をしに来ました」
「あらあら、早枝のお友達かしら。ありがとうね」
「いえ、別に……」
「どう? 上がっていく?」
「いえ、遠慮させていただきます」
 無意味な時間を過ごす気はない。きっぱりと断り、背を向けた。
 背後から「届け物ありがとね」とか細い声。
 振り向こうか迷ったが、聞こえなかったふりをした。
 ようやくお使いは終わりだ。
 そう思い、角を曲がろうとしたとき。
「ねぇねぇ君」
 後ろからまたもや声を掛けられた。
 後ろを振り向くと見覚えがあるような気がする女がいた。
 明るそうな表情で外見も良い。きっとクラスで人気者になれそうだと思える人間だ。そこから僕はこの人物が誰であるかを十分に推測できた。
「何の用?」
「君、盗み聞きはよくないと思うよ」
「それを言うってことは君は盗み聞きに準じる盗み見のようなことを君がしたことになるけど」
「さあ、どうだろうね」
 吉野(よしの)早(さ)枝(え)が僕の目の前に立っていた。
 盗み聞きとは、先程の吉野早枝の母親と、医者とおもわしき人間との会話を僕が聞いていたことを指しているのであろう。だからわかった。この子はもうすぐ死ぬ。寿命が見えている。
 ……かわいそう、だな。
 そう思ったが、僕は人からの同情を嫌う。だからここで勝手に同情などするのは失礼かもしれない、と考える。だから感情を押し殺し、抑揚をつけず、乾いた声で喋った。
「用がないなら帰るよ」
「盗み聞きなんてするなんて、デリカシーが無いんだね君は」
 なんだこいつは、と思った。僕と彼女にはほとんど接点がない、つまり赤の他人のはず。
 なのにこのズケズケとした物言い。こんなことを言われる筋合いはないし、わざわざ話を聞いている間、耳を塞いでいろとでもいうのだろうか。わざわざ同情したのがバカらしくなる。
 この人間には関係ない。
 だからイラッと来たのだろうか、一矢報いてやろうとでも思ったのか、あるいは興味があったからか、自然と言葉が口から出てきた。

「君は死ぬのかい?」

 唐突に吐き出された音の意味に、目の前の人間が顔をこわばらせ、拳に力が入るのが見えた。
 僕だって驚いた。そればっかり考えていたから口に出てしまったのか、なんなのか。
 偶発的に起きた想定外の事態に動転しそうになるのを、外面だけはなんとか保ち、静かに押さえる。
「…………そうだよ」
 長い沈黙の後、彼女はそう答えた。
 先程まで陽気そのものだった表情に影を宿し、俯く。
 だがすぐにその表情に光が差し、陽気な様子に戻った。それはひどく――不自然だった。
「現実迫観念症(リアルイデオロギー)っていうんだよね。とっても珍しい病気で治ることはまずない。考えることが実体を持ったようにガツン! って頭を殴りつけてくるの。悩み事があるひとはすっごく苦しむ病気なんだってー」
 彼女はにっこりと笑う。まるで自分は悩み事なんてなくて、まったく苦しみを感じていないみたいに。
「君の言う通り私は死ぬ、死ぬよ? でもそれだけだし、もう仕方ないことなの」
 僕は僅かに目を細めた。虚勢を張っているのだろうか? と思う。だがこの目の前の人間、彼女からは死に対する踏ん切りが見えた。
 ……よくわからない。
「そうか。本当に、死ぬんだね」
「君は珍しい人だね」
 そう言って本当に嬉しそうに笑う。
 理解できない、と思った。死というものに向き合い慣れているのだろうか。やけに気丈というか……なんというか。
 怪訝そうな僕の顔を見たからだろう。目の前の人間は理由を語り始めた。
「私はもう死ぬからね。周りの人は腫れ物を扱うかのように優しく優しく接してくれるんだよ。でも君は直接それに突っ込んで、触れてくるでしょ? 私のことを知っている人は誰もそうはしてくれないから君は珍しい人だねって」
「寧ろ腫れ物を扱うように深く避けようしているんだけどね。帰りたいと今も思っているしね」
「君は全然紳士じゃないね」
「そんなもの名乗った覚えはないよ」
「ほら、君はやっぱり面白い」
 またそうやって嬉しそうに笑う。なにがツボにはまったのか、さっぱりだ。
「あ、私がもうすぐ死ぬことは誰にも言わないでね」
「元よりそのつもりだよ」
「フフ、信用できるよ。君って自己中そうだし」
 戯言を返してくる彼女に「そうだね」と言う。彼女の評価も何もかも、どうだっていいことだ。『嫌な奴』と認定されなければ問題ない。
「じゃあ僕はもう帰るよ」
「待って待って」
「……なに?」
「私、明日からはしばらく学校に行けるからクラスの皆に伝えといてほしいんだけど」
 初対面の相手なのにどこまでも図々しい人間だ。しかし、ここで断れば『嫌な奴』の判定を受けてしまうかもしれない。なにしろ彼女はクラスの人気者なのだから。
 敵を作らず、世の中に期待しない性分。それは損をしているような気持ちになる。だが諦めなければならない。世の中、そんなものだ。
 無難に担任に伝えておこうと思い、頷いて了承の意を示し、再び帰路につこうとする。
「ちょっと、待って待って」
 だがまた呼び止められた。
 いいかげんうんざりする。
「……なに?」
「君の名前は?」
 そろそろ嫌になる。僕はこれ以上この人間とかかわりたくない。
 だがやけに輝かしい表情と期待感に満ちたその様子を見て……ため息をつく。
「相川信司」
「私の名前は吉野早枝」
 知っている。
「私たち、仲良くなれそうだね!」
 ……なにを言っているのやら。
 軽く反応して帰ろうとする。だが一言だけ言っておきたくて、振り返った。
「君、しつこいっていわれない?」
「なんだと⁉」

 ◇

 家についたあと、インターネットで彼女の病気について調べてみた。
現実迫観念症(リアルイデオロギー)。彼女の言った通り、この病気はとても珍しく、かかってしまえば死んでしまうことは確実。脳疾患の一種で、生まれつきで発症するもののようだ。しかし、赤ん坊の頃はまったくその兆候はつかめず、論理的な思考を行える年にならないとこの病気が発覚しない。この病気の特徴は、思想が現実に影響を及ぼすことだ。自分を責めすぎると、虫に刺されたような腫れが肌に浮かび上がったり、さらに言えばこの病気の患者は『自分の心臓を止めたい』と願えばそれが叶ってしまう。僕らのような普通の人間が全力で自分の心臓を止めようとしても不可能だろう。そんな機能は体に搭載されていない。
つまりはこういうことだった。『患者は自分の体に悪い影響を与えることができ、心臓すら止めることができる』。よってこの病気にかかった者の自殺率は非常に高い。
この脳疾患にかかった者は感情を表に出さなくするよう訓練されるようだ。辛くて自分の死を願ってしまわないように。そのために自分の感情をコントロールできるように。……そのわりには、彼女は感情的な人間だったけれど。
 そして興味深いことに、この脳疾患にかかった患者は自分の死ぬ時期がおおよそわかるらしい。寿命の蠟燭が溶けていくのを見ている気分だと、実際にこの脳疾患にかかった患者がインタビューしていた。その患者は二か月後死んだと書いてあった。

 ◇

再び学校。
 今日も何事もなく、誰とも関わらずに過ごす。そのつもりだった。
 しかし、昨日の人間、吉野早枝が朝に僕の席まで歩いてきた。
「相川君おはよう!」
「……おはよう」
 彼女はクラスの人気者だ。
 そんな彼女が『暗い奴』である僕に近づいてきたのだ。自然とクラス中から注目が注がれる。特に一部の男子からの視線は強く感じた。彼女と話してる最中、もう一人のクラスの人気者、服部という男が「どういう関係?」と聞いてくる。「なにも」と答える。服部はいぶかしそうな反応を見せて集団の輪に戻っていった。
 ……だから嫌なのだ。人と関わること。特にこういう人気者と暗い奴の接触なんて珍しすぎる。服部なんかがわざわざ話しかけてきたのがいい例だ。
 彼女はなんだ? 僕への嫌がらせのつもりか?
 明らかに昨日の最後の一言が余計だった。ほんの少しの仕返しのつもりだった。だがそういうものが回りまわってこんなことになっている。
 所詮、自分はガキなのだ。詰めが甘い。大人にならなければな、と思う。
「相川君、昨日の秘密、守ってくれた?」
「なんのこと?」
 また、わざわざ話しかけてくる吉野早枝。非難の目を向ける。わかってかしらずか、彼女は話を続ける。
「えー、昨日言ったじゃん! このわからずや!」
 わからずや? いや……特に意味のない言葉だ。気にすることはない。どちらにせよ、彼女が死にかけている人間だなんて、僕は触れ回ったりしないから放っておいてわしい。
「そんなものはないよ」
「あるよ!」
「ないよ」
 しつこい。
「えー、衝撃的なニュースなのにー」
 拗ねたようにそう言うと僕に注目を集めたまま自分の席へと戻っていった。
 正直その後ろ姿を睨めつけたい思いだったがなんとかそれを抑えた。


 あとは何事もなく過ぎた。
 というわけでもなく。
 「ねぇねぇ、君」
 もうすぐ家に着くというところで声を掛けられる。まるでデジャブだ。再び僕は昨日と同じように、角を曲がろうとしたとき、背後から吉野早枝に話し掛けられた。
「なに」
「ねぇねぇ、今、君忙しい?」
「いや」
 唐突にそう言われつい答えてしまう。
 言った瞬間、僕は後悔した。
 僕はこんなことをいままで聞かれたことがない。だからつい、なにも考えずに正直に答えてしまった。彼女の唇はイタズラっぽくつり上がり、快活に笑った。
「そう、じゃあちょっと付き合ってよ」
「急に用事を思い出したんだ」
 手首を捕まれ、連行されそうになるが立ち止まる。
「はいはい、面白いこと言ってないで行くよ」
「……」
 そう言って連れていこうとする。
 一応拒絶の意思を見せているのに連行しようなどまるで誘拐だ。
 まあ、男子高校生が同じ学年の女子高生に誘拐されるなどジョークにしかならないが。
 僕は一刻も早く家に帰りたかった。彼女と過ごすのは時間の無駄。めんどくさいししつこし、疲れてしまう。
 ――けれど。
 彼女は『死』に向き合っている者だ。ようするに非日常。変わろうとは思う、意志。
 僕は引かれた腕を振り払わなかった。
 ……僕は個人的に『死』には興味があった。だから、都合がいいのだ。ならば、流れに身を任せてもいいかもしれない。
「ちゃんとついていくよ。離して」
「言質はとったよ!」
 してやったり、という表情を見せる彼女。
 ルンルンとご機嫌な彼女を、呆れた表情を作って見つめながら、僕は彼女の後をついていった。

 僕たちはファーストフード店にいた。互いに向かい合うように机を挟んで座っている。
 僕はポテトに手を伸ばし、彼女は小動物のようにハンバーガーをかじって食べている。
「まったく~、奢ってあげるって言ったのに~」
「それは僕が君に借りを作ることになるからね。それにそこまで落ちぶれているわけじゃない」
「別に気にしなくていいよ~」
「僕が気にするんだ」
「ふーん、そっかー。ところでさ」
「なに?」
「人が死んだら、どうなると思う?」
 唐突に振られたのは思想的な話題。現実迫観念症を患う彼女にとって、このような話は体に悪そうだと思ったが、無視するわけにもいかないので答えてあげた。
「人の意志は脳の作り出す電気信号だ。死ねば人の意思は消えて、なくなると思うよ」
「君は夢がないね」
「そういう話をしてたの?」
「私は世界征服がしたい」
「あ、そう」
「冗談だよ」と彼女は笑う。存在自体が冗談みたいなやつだ。
「死んでも人の意志は消えないんだよ。漂ってどこかに届くんだよ」
「いまさら夢見がちな女の子路線にしようと思ったの?」
「聞き捨てならないことをいってくれるね。まあとにかく、純粋な願いは、祈りは誰かに届くんだよ。人の意志というエネルギーがなにかを変えることがあるかもしれない」
「宗教めいてるね」
「違うよ。神様なんてこの世に存在しない。私は自分の中のなにかを信じてるんだよ」
 それでも死ねば終わりなのは事実だ。
 目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。死ねばすべてが無に帰す。強いて言うなら自分自身が世界を作る神だと言えるだろう。自分の五感が、世界を作り、認識させる。
 ――そんなことを言った。
「夢がないね」と彼女は言う。その言葉には、先ほどの力強さはない。きっと……彼女も似たようなことを考えたことがあるのだろう。何しろ彼女は『死』と向き合っているのだから。
「そういえば君はいつも一人でいるけど。友達はいないの?」
 急に内容が前に言っていたデリカシーのことを説明したくなるような内容へとかわる。しかし、めんどくさくなりそうなので口にはしない。
「そうだよ。その方が楽だから」
「ふーん。友達はいっぱいいた方が楽しいのにね」
「それは君の価値観だ。僕はそうは思わない」 
「意見の平行線だね」
彼女は生真面目そうな顔をした。
「と、ここまで話したから聞くけど今日私が近づいてきたとき一瞬凄い嫌そうな顔したけどなにあれ?」
 ……わかっていて話を続けていたのか。
 素直に理由を話すか、そうすれば一応は僕の意思を汲み取ってくれるだろうか。見ていたところ、人が嫌がるようなことをわざわざするような人間には思えない。なら、話すか。
「僕は友達がいない」
「お、おう。その、ごめん」
 ふざけた反応にムッとくる。まだ話の途中だというのに。
「僕は人間と関わるのがあまり好きじゃないんだよ。君は目立つ。そんな君が僕の方に向かってこれば僕は注目を浴びてしまう、人間と関わる可能性が増える。だからだよ」
「へえーふふふ」
 その反応にムッとくる。なんなんだ。
「あ、ちょっと怒った? なんだかロボットみたいに感情を見せないから心配しちゃったよ」
「……人よりもは感情が希薄だとは自覚してるけどそれは言い過ぎだよ」
「君ってなんか面白いよね」
「……」
 あはは、と楽しげに笑う彼女。
 なにか仕返しをしてやりたい気分になる。
 僕らは食事を続ける。
 むしゃむしゃとリズムよく食べる彼女。
 彼女の家は世間一般的に比べて金持ちだと小耳にはさんだことがある。確かに、この前彼女の家にプリントを届けに行った時、彼女の家は大きかった。親の仕事はなにをしているんだっけか。
 金持ちのはずの彼女がこんな店を使う必要はあまりなかった。お世辞にも、ここの店の食事はあまり美味しいとは言えなかった。物によっては家で作る食事のほうが美味しいだろう。要するに、ここは学校の近くにある、ただ学生の腹を満たすために、安いだけの店なのだ。
「そういえばなんだけど、君はもうすぐ死ぬのにこんな安物の食事をしてていいの?」
「贅沢三昧しろってこと? そういうのはたまにするからいいのー。まあ、最近はちょっと自分に甘めな食事環境だけど」
 死ぬと言ってもこんなものなのだろうか。
 以外にあっさりしているな、と思う。それとも、元から病弱だったのだから覚悟があった、などという理由でもあるのだろうか。
 僕はまだ、わからない。
 やがてお互いに食事を食べ終えた。
「じゃあ解散ということで」
「僕たちはなにしに来たんだっけ」
「お食事会?」
「帰ろっか」
「うん、今日はとっても楽しかったよ! 君の意外な一面も見れたことだしねー」」
 僕はなにかを言おうとした。今日は彼女に押されっぱなしだ。なにか言い返したい気がする。
「君って結構デリカシーないよね」
「ん? なんか言った?」
「君って――」
「じゃーねー! 相川くーん!」
 このやろう、と思う。
 逃げ切られた感がある。……いったい僕はなにやってんだか。
 そうして家に帰る。正直なにをしにきたのかわからない。
 けど――今までの、真の意味でなにもない時間を過ごすよりもはよっぽどいい。これは、非日常だ。
 色あせた景色。なにをやってもつまらない日常。
 きっと、今やっていることは、間違いじゃない。

 家に着き、携帯を見るとメールが届いていた。
『無事に帰れた?』
 彼氏が彼女に送るようなメールだった。
『帰れたよ、お休み』と僕は返信して寝る。返信されたらしばらく返事を返さないといけなくなる気がして嫌だったからだ。

 ……案の定、朝起きたら返事が返ってきていた。
 『まだ九時だよ⁉ はやいね』
 まあ、朝になったのだから返信しなくていいだろう。
 僕は欠伸をして学校に行く準備を始めた。

 学校は平和だった。僕の言葉を理解してくれたのか、吉野早枝は接触してこなかったし、用事を押し付けられるという面倒事が発生することもなかった。
 僕は効率よく生きるために授業を真面目に受ける。ただ家ではほとんど勉強しない。だが案外、授業を本当に真面目に受けていればだいたいの内容はわかる。証拠に僕の成績は学校の中では上位の方だった。
 だが人生は何事も上手くいかない。永遠に続く平和などないのだと、帰路の途中に思い知らされた。
 不意打ちや暗殺の類はたいてい背後から行われる。これもそのような事例の一つとして数えてもかまわないだろう。
「やっほー、相川君」
「僕に話し掛けるときは背後から、とかそういうルールでもあるの?」
「ちょっぴり甘いイタズラですぅ」
「なにそれ、なんのキャラ?」
「それは誰にもわからない」
「はいはい、哲学だね」
「返事適当だね」
 また吉野早枝だ。僕は恒例の一言を言う。
「何の用?」
「よし! 遊ぼう!」
「僕の意思はどうなるの? そして君の頭の中はどうなっているの?」
「死にかけた女の子の願いを叶えたら幸せになるって聞いたことあるよ」
「それ、迷信ってきいたよ」
「ええー!」
 と、まあ、そんな風にやり取りをしつつも僕は歩く彼女についていくのだが。

「と言うわけでショッピングに来ましたー」
「……」
 予想不能行動が大好きな彼女は元気よくそう言った。
「悪いけど僕は今日全然お金持ってないよ」
「大丈夫!奢ってあげるから!」
「そういうのやめた方がいいと思うよ」
「冗談だよ。そういえば何でメール返してくれなかったのー。仕返しに学校ではほったらかしてやったけどどう? 堪えた?」
 明るい人間はだいたい携帯大好き、というケースは多い。きっと僕が返信をする限り永遠とやり取りが続いたのではないだろうか。そういう意味で僕はあの日メールが来たときの判断がやはり間違っていなかったと確信した。
「うーん、凄く堪えたよ」
「あ、珍しく笑ってる。つまり嘘だね」
「人を安易に疑う人は地獄に落ちるってきいたよ」
「私は天国にいく宿命を背負ってるから平気だよ」
 意味不明なことをいう彼女についていき、近くにあったボーリング場に入った。別に僕はどこかに行きたいとかそういうのはないため、全ての決定権は彼女にあった。
 中は騒がしく、若者などがたむろっている。
 僕たちは受付に行って、ボーリングに必要な道具を借りた。
 隣では彼女がにやつき、こちらを見る。
「君はボーリング初めて?」
「一度だけ行ったことがあるよ。結果はガーターばかりで散々だったよ」
「それが普通だよ。落ち込まないでね」
「落ち込むわけないよ」
「そう、じゃあ賭けしようか。古来よりある、負けた方が何でも言うことを聞くってやつ」
「いやだよ」
「なに、負けるのが怖いの?」
 安い挑発だ。だいたいほぼ初心者だといった僕になにをふっかけているのやら。
 しかし、あえて賭けに乗ってやる。
「いいよ、やろう」
「言質は取ったよ」
 彼女の様子からは自信が見える。華の高校生だ。きっとよく遊ぶのだろう。
 それに彼女は病弱な彼女のことだ。外で行うような激しい運動は避け、おとなしい室内のスポーツをよくやりそうだ。
 まず彼女が投げ、スペア。「うーん、まあまあかな」と彼女はこちらをちらりと見、僕は両球ともガーターだった。
「まあ、仕方ないよ、ドンマイ」
「……」
 どこまでも楽しげな彼女。
「お、ストライク出たじゃん。運いいねー」
「そうだね。ラッキーだったよ」
「うんうん、ラッキーボーイだ」
 投球が続く。彼女がガーターを出す。
 ふん、と僕は鼻で笑って見せた。
「なんなの! いやらしい!」
「心が歪んでいるからそう見えるんだよ」
「そういう発言をすると君の意地汚い性格が透けて見えるよ!」
 汚いんだか、透けているんだか。
 第二ゲームに突入する。最初に大きく開いたスコアは、徐々に縮まっていった。
「え、なに君。凄いんですけど」
「僕は別に運動ができないわけじゃないからね。普通よりもは得意だと思うよ」
「なにこれ、さっきまでガーターだったじゃん。何でこうなったの? 覚醒したの? 主人公なの?」
「ちょっと集中するから黙ってて」
「楽しくやろうよぉ」
 最後の投球。彼女が先だ。
「ちょっと、こっちみないでよ」
「頑張って」
「そもそもね、精神攻撃なんて男らしくないと思うの。私が失敗すると若干反応するのなんなの!」
「せっかく『頑張って』って応援したのになあ」
「うわっ、なんか言ってるよ! 心では絶対外せって思ってるくせに!」
 そもそも、最初に挑発を始めたのは彼女のほうだ。
 投球。ガーター。投球。かすり当たり。
 僕が三本倒せば勝ち、という状況になった。
「ここは思いっきりなげるところだよ! 目指せ、ストライク!」 
 たぶん、ストライク狙いでガーターになって欲しいのだろう。
 僕はゆっくり球を投げて、五本倒した。
「勝った」
「そんなことして勝って楽しい? ねえ、楽しい?」
「楽しいよ」
ぐぬぬぬ」
 こんなにも接戦になったのも彼女のミスが多かったからだろう。いろいろ僕が投げるときに変なことを言って妨害してきたが、結局は自分が投げるときにもプレッシャーがかかっている。
「最初に言ったガーターばっかりだったっていうの嘘なの? 嘘ついてくる君に私ガタガタなんですけど」
「はいはい。あと嘘じゃないよ。合計のガーターの数は九本こえてたし。まあ、最後はストライクばっかりだったけどガーターの数の方が多かったよ」
「そういうの詐欺って言うんだよ」
「僕の実力を聞いてから賭けを仕掛けてきた君に言われたくないな」
「ううむ、じゃあどうする? 望みは私の体?」
 わざとらしく自分の体を抱き込み、ぶるりと震える。ガタガタ、という彼女なりのギャグなのだろう、たぶん。
 どこまでも騒がしい彼女。なんだかなあ、という気分になる。

 ◇

 食事を終え、お互いの帰り道の分かれ道に立つ。
 結局、勝利の商品として【驚きの安さ満腹の三百円定食!】を奢ってもらった。ただ奢られたりするのはいやだが、こういうのなら嫌な気分にはならない。
 彼女が笑顔で振り向く。
「楽しかった? 相川君?」
「ん?」
「今日は随分と爽やかな表情だったからさ。ずっとそういう笑顔のままでいればいいのに」
 そう言い、気安く僕の胸を拳で叩いてくる。
「どうだろう? 楽しいというよりもは忙しかったという感じかな。誰かさんはそそっかしいから」
ツンデレしなくていいんだよ?」
「なにそれ」
 ハッハッハッハーと彼女が高笑い。近所迷惑な行動を僕は白けた目で見る。
「まあいいよ。またね!」
「あー、はいはい」
 適当に手を振って遠ざかっていく彼女を見送る。
 考えてみれば、『死』に近づいている彼女を観察しようという思いがなかった。いや、気が付けば忘れていた、という感じだ。
 ……楽しい、か。人間嫌いな僕がそう思うはずがない。今更楽しめるわけがない。
 自分の思考が嫌でたまらなくて、そんな自分を変えたくて変わった日常を過ごしてみた。けれど、こんな行動ごときに、果たして意味なんてあるんだろうか?
 
 ――ひどく色あせたこの世界。
 どこまでいっても苦しくて、救いようがないこの世の中。
 僕はなにを求めているんだろう? 何を願っているんだろう?
 水の中で息を潜めていれば、いつか景色が変わると思っていた。でも、そうはならなくて。
 僕が何かに対して想うということ。同情。感謝。喜び。
 それに対して意味がないと気づいて、虚しくなった。
 親切をしたから死んでしまった人がいた。それがいやでたまらなかった。
 だから、僕は――。
 ……もう少し彼女を、人間を真面目に観察しよう。『死』をよく見よう。
 でも、たぶん僕が求めているものは……そこにはない。

 ◇

 人の醜さを、僕は知っている。
 愚かしさといった欠陥。それに気づいていても直すことのできない不可能性。
 それで、嫌になった。たぶん、失望したのだ。もう救いようはないんだって。
 でも、だからといってすべてを諦めるというのは違うのだ。
 だから抵抗のような、足掻くという行為をした。
 終わりの見えない袋小路。光の射さない穴倉。
 ――人の善意の行動が必ずうまくいくとは限らない。
 それがこの世の中の理。

 ◇

 日曜日。
 やることもないので勉強でも始めるか、と思った。しかし、学校という場以外では、生真面目に生きる気力がない僕は机に座ろうという気が薄く、結局は自分が好きな小説を読み返したりしていた。
 いい一日だった。いや、結局勉強が出来ていない。真面目にやろう。
 そう思い、机についたのは18時だ。ぬくぬくとした自分の部屋と言うのはよくも悪くも自身を甘くする。やや後悔しながら、今後のために今日あったことを学び、失敗を頭に刻み付けた。
 シャープペンシルを取り、教科書を開く。
 ―――――ピリリリリッ
 突然鳴った携帯にビクッと身を震わせてしまった。
 本当に驚いた。勉強の集中に入る瞬間に鳴ったせいで意識の隙間を突かれた感触だ。
 内容はどうせ母親の、今日ご飯何にする? だろう。
 そう予測しながら携帯に手を伸ばすと予想が外れた。
 ――吉野早枝。
 驚きからなんとか立ち直り、携帯を手に取った僕は恒例である最初の言葉を口にした。
「何の用?」
「やっほー、花火行こー」
「……なんなんだい? せっかく勉強をしようとしていたところを邪魔してくれた吉野早枝さん」
「今日は何となく不機嫌なんだね。花火行こー」
「ぶれないね。もう六時だよ。そんなに時間がないじゃないか」
「高校生は十二時まで遊んでも大丈夫でしょ」
「僕は良い子だから八時までが限界なんだ」
「プププ、今の本気で笑った」
 僕は思った。
 きっとこれは人を不快にすることを目的とする類いのイタズラ電話なのだろう。迷わず僕の指は通話終了へと伸び、ホッとため息を着く。
 しかし案の定、すぐに携帯は再び音を鳴らした。
「もしもし、私今、あなたの家ノ前にいるの」
 迷惑で謎ホラーだ。
 瞬時に携帯を投げ捨て、玄関まで向かう。
 彼女は本当に家の前にいた。
 浴衣姿で、楽しむ気は満々らしい。
「迷惑なんだけど」
「死にかけた女の子の願いを叶えたら幸せになるって噂を聞いたことあるよ。花火行こー」
「このあと用事が入る予定なんだ」
「どういう予定なの! へんなこと言ってないでいくよー」
 彼女の中では僕がいくこは決定事項らしい。
 仕方ない、ついていくか、と思う。
 その意思を伝えようとするなにを思ったのか、彼女は突然、ポケットから十円玉を取り出した。
 チィーン。
 小気味良い金属音を響かせたコインが、闇夜の中をくるくると落ちていく。そしてまるで手品師のような動きを見せる彼女の手に収まった。
「わかってるね? 十がかかれてる方が裏だよ? さあ答えて、表か裏か?」
 彼女はボウリングのことといい、勝負事が好きのようだ。きっとこれで僕が負けたら祭りに引きずられていくことになるのだろう。
 そんなことを予想し、僕はなんとなしに浮かんだ感情を彼女に伝えた。
「表」
「はいざんねーん。裏でしたー」
「……」
「運命には逆らえないものなんだよ」
 何気に吐き出された言葉は深い意味を持った。死を背負った彼女の運命は、重い。
「……ちょっと待ってて」
 たぶんもうこれを回避する手段はないのだろう。また、運命から逃れられない彼女に、少しくらいは付き添ってあげた方がいい気がした。助かればいいとまでは思わない。だが同情はする。
 僕の、感情。自然と湧き出る、どうしようもない意志。……でも、こんなものに何の意味があるのだろう? 結果はなにもかわらないのだろう。僕が何を願おうと、何を祈ろうと、意味がない。神はいない。祈りは決して届かない。
 ――彼女を見ていて、少なくとも死んだほうがいい人間だとはとても思えなかった。
「準備万端のようだね!」
「財布持っただけであとは手ぶらという状態はそれに当てはまるのかな?」

 ◇

 花火というのは美しい。爆発の瞬間の派手さではなく、最後に消えていく光の残滓にはなにか思うところがある。もう消えてしまいたい、なんて感情。
 ……ばかげた考えだ。
 見ているだけで暑苦しくなりそうな人の群れと騒がしい屋台。まさにお祭り騒ぎ。そこは突っ込めば花火の音が聞こえなくなりそうなほどうるさくて、正直離れたい。
「さ、いこ!」
 しかし、勇猛果敢な彼女はためらいなくその中に突っ込んでいった。僕は人の群れに突っ込むのをやや躊躇したが、ここではぐれては不味いため、意を決して後を追った。
 しかし、それにしても彼女の進むスピードは速い。あまり人混みに突っ込まない僕に比べてきっとこういうことは慣れているのだろう。
 なんとか追い付き、肩に手を置いて捕まえる。
「ひゃっ、な、なに?」
「暑い、もう少し人が少ないところにいこう」
「二人きりになろうって?」
 ニヤニヤする彼女に手を払う動作をして一蹴。この人混みの中でふざけるぐらいならあとでやってほしいものだ。
「そういうのいいから。あんまり人混みは得意じゃないんだよ」
「もー、仕方ないなー。金魚すくいで私に勝てたらいいよ。三回やってその合計ね」
「僕が勝ったら何か奢ってもらうよ」
「欲張りだね~、自分の意見を聞かせるだけじゃなくて賞品まで望むなんて。でもいいよ」
 僕の要望を人質に、金魚すくいをやることになった。
 まあ、きっと僕が負けても結局は彼女はちゃんと人混みから離れてくれるだろう。
 ようは金魚すくいをやりたいだけなのだ。
 近くにあった屋台で、金魚すくいの中年の男にお金を払って道具を受けとる。
「へい、兄ちゃん! 彼女連れかい?」
「兄妹です」
「えー、じゃあ私お姉ちゃん役ね」
「それにしちゃ似てない兄弟だな!」
 金魚の中年男は愉快そうに笑うと道具を僕らに差し出した。
 金魚すくいというのは中々に難しかった。最初に普通にすくおうとすると輪に紙が張り付いた道具であるポイが一発で破けた。彼女は一本のポイで二匹取っていた。「まあまあかな」と気取った様子でこちらをちらりと見てくるところが腹立たしい。
 二本目は一匹だけとれた。全ての紙の部分を濡らさないことがコツだとわかり、一匹とれたが彼女は五匹取った。「えっへん」と声に出す様がまた腹立たしい。
 三回目は四匹も取ったのだがこの時点で僕の負けだ。彼女は集中して金魚すくいを続けているので僕は暇になった。
「いっぱい取れたよー!」
 嬉しげにそういう彼女。「そう」と僕は答える。
 やることがない。どうするか。名案を思い付く。折角なので実行してみることにした。
 椀の端を水が中に入ってしまうほどに水面に近付け、ポイの端で無理矢理中に入れる。これなら紙の部分が全く残ってなくても金魚をすくえる。
 それが意外と上手くいき、どんどん金魚をすくえるので楽しくなり、集中してしまった。
 しばらくし、ポンポンと肩を叩かれる。振り向くとでかい声で言われた。
「それは流石に反則!」
「そんなルールは書いてなかったよ」
「不文律っていうのがあるでしょ!おじさーん、おじさーん」
 彼女は仲間を呼んだ。卑怯だ。
 結果、金魚の中年男はゴツい顔で僕に反則の判決を下した。納得がいかない。
 ブツブツと不満をいう僕を見て彼女はニヤリと笑った。腹立たしい。
 その後、僕たちは正規の方法でとった金魚を賞品として受け取り、屋台から出た。
「あんな手まで使ってどんだけ人混み苦手なの~。ま、私が勝ったからお祭りをもう少し楽しんでいこうか!」
「暑い……苦しい……」
「リアルな拒絶だね。仕方ないなー。食べ物だけ買ったら風の通る場所に行こうか」
 なるほど。僕が負けたら人混みの中に時間延長と言うわけだ。彼女は最終的には僕の要望を聞いてくれるという予想は、一応当たったが、これなら勝ちたかった。
 それから僕は彼女に縦横無尽、というほどに振り回された。
 主に目的は食べ物だ。
「お祭りなら焼きそばは食べないと」
「お祭りなら綿菓子は食べないと」
「お祭りならたこ焼きは食べないと」
「お祭りといえば林檎飴でしょ」
 どうやら頭の中は食べ物でいっぱいらしい。とても幸せそうなことだ。
「どれだけ食べる気?」とつっこむと、「ここで食べなきゃ女がすたる!」とのこと。彼女の中の女の定義はひどくあいまいだと思った。
 そんな頭の中が食べ物でいっぱいな彼女とともに屋台を回る。
 これだけの食べ物の種類だ。結構時間がかかる。
 途中で、金魚のためを思って涼しいところに行こう、と発言したら「私だって死にそうなんだから金魚だって大丈夫だよ」と謎理論で返された。僕はなにも言い返せなかった。
 僕は夕飯がわりということで、焼きそばだけ彼女と一緒に買い、ようやく人混みの空間から解放された。精神的にとても疲れた。
 いままでに比べると段違いに爽やかな風が吹く。
 僕らは川の近くの涼しい場所に陣取っていた。当然、同じことを考える人間は多いもので、近くに何人もの人間がいた。
 ただ場所が広いため人口密度は高くない。くつろげる空間だ。
 といっても、隣に騒がしい食いしん坊がいるため、くつろげるというのも半々なのだが。
「おいしいおいしい」
「もっと静かに食べれないの?」
「えー、お祭りの日ってさ。テンション上がるじゃん。ほら、君ももっとテンションあげなよ。私だけテンション高いとか恥ずかしいじゃん」
「いつものことだと思う」
「そんな風に思ってたの⁉」
 そんな彼女の様子を見て、少しだけ笑ってしまう。
 そしてはっ、とした。彼女がにやにやと笑っている。
「……なに」
「ぺっつに~」
 そう言って彼女は手元のものを食べ始めた。
 この前よりもかなり食べ方が汚い。
 その女子力の高さを示すようにハンカチとディッシュは常備しているようで、一口食べるごとにベタベタになる口元を何度も拭っていた。
 だが頬っぺたについている食べ物のカスはいっこうにとれない。紳士的な行動として、本来ならその事を教えてやるべきなのだが面白いので黙っておいた。
 本来ならその事を教えてやるべきなのだが面白いので黙っておいた。
「なんでニヤケてるの?」
「いや? 別に?」
「ふーん、楽しいならいいんだけどさ。そう言えば君、目標とかあるの? 死ぬまでにやりたいこととか」
「特にないかな。別に進路を決めろったって大学に入ってから決めればいい」
「ふふふ、いいなあ」
「あ……ごめん」
「いやいいって! 気にしないで! で、話、続行ー、そう言えば君、頭どれぐらい良いんだって?」
「だいたい上位十番には入る程度だよ」
「うわぁ……」
「君が頭悪いからって僕の頭の良さを引くのはおかしいと思うよ」
「失礼な! 順位は半分よりも常に上ですぅー。……そう言えば私、君のことなんにも知らないんだね」
「そりゃそうだろうね。知る必要のないことだ」
「そうじゃなくて私は知りたいの!話戻すけど死ぬまでにやっときたいこととかないの?進路じゃなくてキャビアをお腹一杯食べたいとかそういうやつ」
「僕は特にないよ。いや……そうだな……強いていうなら、大人になったら一人になりたい。人間のいない世界で生きていきたい」
「全人類を倒して世界征服?」
「別に。こんな願望叶える気はさらさらないし、人間がいなきゃどうせ僕は生きてけないんだ。人間撲滅ボタンがあっても僕はそれを押さないよ」
「そりゃよかった。ついでに一人になりたいっていってたけど」
 そこで一度言葉が切れ、食べ物を口へと運ぶ箸も静止した。
「私は君の一人の世界に入れる?」
「……大丈夫だよ。あくまで夢や希望、未来のことを指すんだから、その頃には君は死んでる」
「そう、だね」
 クスリとわざとらしく笑うと静止していた箸を再び稼働させた。
 先程のように頬一杯に詰め込むガツガツとした食べ方ではなく、ファーストフードに行った時のような食べ方だ。所謂、普通に戻った、という感じだろうか。
「ふふ」と彼女は笑う。
「ご存じの通り私はもう死ぬからね。やりたいことはある程度リストアップしてるんだ」
 いかにも内容を聞いてほしそうな言い方だ。だからその要望を答えるべく、満腹で気分のいい僕は口を開く。
「ふーん。どんなこと?」
 僕は焼きそばを食べ終えた。その間に彼女は焼きそばとたこ焼きを食べ終えていた。
 彼女は残った林檎飴と綿菓子を両方掴み、交互に食べる。綿菓子はフワッと食べ、林檎飴は見せつけるように舌を絡ませて艶かしく舐めていた。
 別にそんな美味しそうに食べていたって、微塵も林檎飴を欲しいなどと思わない。
「世界一周旅行はやってるうちに死にそうだから諦めて、ヒッチハイクでぶらり旅も死にそうだから諦めて、美味しいものを食べるのはもうだいたい達成したしなー。あ、キャビア食べたことある?」
「ないよ」
「ふっふっふ。だよねー。ついでに全然美味しくなかったよキャビア。庶民舌なんだろうね。そこらへんのハンバーグの方がよっぽど美味しかった」
「ふーん。食べ物といえば金魚いらないから君にあげるよ」
「なにそれ。発想が恐い。そして要らないんですけど」
「僕が金魚を持って帰れば焼いて食べることになるんだけど」
「余りにも惨い」
 こうして、食べ物の話題から急転換して金魚を押し付けることに成功した。
「もー、なに脱線してくれてんのー。やりたいことやりたいこと……」
 バン! と花火の音。
 一瞬で咲き、散り、儚く消えていく光。星が降ってくるかのようだった。きらきらと輝き、くっきりと網膜に残る光の残滓。
 あまりにも目標がないから花火師にでもなってやろうか、と思う。
 いろいろ難しいらしいがある程度なら僕はなんでもできる。ただ大きな努力は出来た試しがない。運動だって大概普通の人よりも出来た、小学生とはいえサッカーでもクラブチームに入ってもそこそこ活躍するぐらいには運動神経は良かった。だが僕にはスポコンで必要とされる熱意が圧倒的になかった。努力し、僕よりも上手くなっていく周りを見て、そのうち気づいた。僕はきっと何をやっても一生懸命に、命を懸けて行動をすることはできない。なにか夢があって必ず途中で底が見えてしまうだろう。
 それが虚しく、どうしても自分が浅ましく見える。
 だからというか、僕は普通の人間よりもはひねくれている自信はあるが、努力する人間のことは決して笑わない。まあ、表だって応援するわけではないが、尊敬はする。僕が持たないものを持つ人間のことを。
 僕は灰色の景色を見る。
 でも、本当に? 本当に世界や人間、そして僕自身は、救いようがないのだろうか?
「綺麗だね」と彼女が言う。
「たしかに」と僕は答えた。
 色づいた空を眺めていた。その存在を掛けて輝く花の火は、無意味なんかじゃないって、まるでそう言っているかのようで。
「私の病気、現実迫観念症。これ、実はいいこともあるんだよね。感受性がより豊かになって、景色を綺麗に感じられるようになるの。こういうものを見るとニキビができにくくなる効果もあったり、肌が綺麗になるの。でも、なんで神様はこんな病気に救いを与えたんだろうね? 人を殺す病気なら、害だけを与えていればいいのに」
 景色が鮮やかすぎる、と彼女はいった。現実迫観念症は深く考えたことや思想が、現実的である自分の体に影響を及ぼす病気だ。それは花火に深い感銘を感じてしまっている証拠。たぶん、自分を苦しめる病気が自分を喜ばせているという事実は、彼女にとって苦痛だった。
僕らはそれぞれ物思いに耽る。そうしてしばらく時間がたったあと、そろそろと言わんばかりに彼女が復活し、またハイテンションで喋り始めた。
「あ、そうだ。一番やりたいことは私も女の子だしどうせなら燃えるような恋がしたいな。いい関係になりそうだった人はいたけどまだ付き合ったことないんだよね、私」
「君でも女の子らしいことを言うんだね」
「え? 私めっちゃ女の子じゃん。ほら、リンゴ飴だよ? 綿菓子だよ? 二刀流だよ? 萌えるでしょー」
「燃えてしまえ」
「えへへへ」
 そうやって僕の気のきいた冗談に彼女はニコニコと笑った。
「今の私は気分いいから、綿菓子か林檎飴あげようか? 間接キスできるよ?」
「いらない、お腹一杯だから」
 彼女の企みはきっと純情な青少年を弄ぶことなのだろう。普通の人間なら効くだろうが僕には無駄だ。恥ずかしさも怒りもなく淡々と受け流せる。
「ねぇねぇ、ねぇねぇ。君さ、好きな人とかいないの」
 涼しげな風が彼女の黒い髪をたなびかせ、僕の鼻をくすぐる。
 僕はそれがうっとうしくて払った。
「嫌いな人ならいるね」
「私はどうなの?」
「不思議」
「予想の斜め上だよー」
 嫌いな人間。認められないこと。根源の感情。
 原因があった。
 僕は人間が嫌いだ。自分も含めて、なにもかも救いがない、そういう生物が。
 でも、本当は――。
「僕はさ」
「うん」
「……ごめん、なんでもない」
「……うん」
 なにかを言おうとして、吐き出そうとしてやめる。そんなことは意味のないことなのだ。僕がなにかを想って、なにかを願って、なにかを祈って……。それに意味なんかない。僕がなにをしようがなにかが変わることがない。そういうものだと、知っている。
 でも、僕は、この考えが否定されて欲しいのだ。
「あのさ、昔、僕の父が――」
「ん? あれ? よ、吉野さん⁉ 奇遇だねーー。どうしてここにいるのー?」
 と、僕が喋っている途中、乱入者が現れた。
 ぎょっとする。振り向けば遠くに知った顔がある。
 服部という男だ。他人に興味がなくても知ってしまうほどに目立つ、クラスの人気者。
 幸い距離はまだあった。
 上手くいけば彼女と一緒にいるのが僕だとばれないかもしれない。服部という人間は見るからに口が軽そうで頭が悪そうな人間という印象、目立つ彼女と根暗な僕が一緒にいたと言いふらされるのはごめんだった。
「帰る」
 瞬時に行動を決め、立ち上がる。
 駆け出し、暑苦しそうな人混みの中に突っ込もうと足に力を込める。
「あ、待ってよ」
 彼女は手を伸ばし、僕の腕を掴もうとしたがそれを僕は振り払った。
 今後の展開で僕の名前がでることが無いように願いつつ、残った二人の状況を見ぬままに、夢中で駆けた。服部と関わるのは、ごめんだ。
 走る途中、僕が言おうとしたことを考える。
 ガキだった。感情のままに、なにかを喋ろうとしてしまった。もう二度と、失敗はしない。

 ◇

 自己犠牲、という言葉がある。それは果てしなく救いがないものだ。
 目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。死ねばすべてが無に帰す。なのにごくたまに、自分が死んででも誰かを救おうとする奴がいる。
 僕の父が死んだのは、まだ僕が七歳のころだった。
 父は警察官であった。職業義務ではない非番時ですら悪を許さず、身を挺して行い、困っている人間には必ず手をさしのべるような人だった。
「君の父は命の恩人だ」
 ありがとう、と知らない人間が言った。
 それを不思議そうに眺める。いったい、何を言っているんだろう? そんな感じに。
 でもたぶん、幼かったとはいえ、本当は理解していたのだ。その知らない人間の言っていた、言葉の意味を。
「お母さん、お父さんはどうしたの?」
 母は、お父さんはお星様になったのよ、と答えた。
「人はお星様にはなれないって、お父さんは言ってたよ」
 怒ったような口調で言う。母は、苦笑い。
 お星様と同じぐらい遠いところにいってしまったのよ、と母は答えた。
「凄く遠いところに行ってもお父さんは帰ってくるよね? お父さんは僕たちのこと大好きっていってたもん」
 その僕の言葉で今度こそ母の顔は悲痛に染まり、それを見ると僕も悲しくなって……、ただ無言で、頭を撫でられた。
 人には決して出来ないこともあると、僕は学んだ。

 翌日、大勢の人が家に来た。
 偉大なる父の犠牲にお礼を言いに来たという。そうやって何人も、何人もお礼を言いに来るのを見て尊敬する父はこの世にいなくなってしまったのだと理解させられた。
 ……いったい何人救ったんだろう? 病院で起こった火事。動けない病人たちが死んでいく、そういうはずだったのに。
 中に入る必要なんてなかった。電話一本、救護を要請して安全圏から眺めていれば、それでよかったのに。それだけでも十分『立派』だ。
 父はよく言っていた。人を救うというのは素晴らしいことだと。優しい人間になれ、自分で自分を誇れるような『立派』な人間に。

 さらに父は自身についても語っていた。
 昔、父のために、かわりに犠牲となって人が死んでしまったらしい。父より少し年上の人で、人柄もよく、父が尊敬していた人。死はあっさりとやって来て、その人の最後の言葉は聞けなかった。だがその光景を眼に焼き付け、自分を救ってくれた命に感謝し、助けてくれたその人のように生きようと父は決めたそうだ。
『だからな、父さんにとって人を助けるのは義務みたいなものなんだ』
 その言い方に大した苦悩は感じられなかった。
『でも信司にこんな出来事は必要ないよな。お前は考えすぎなぐらい人の気持ちに敏感だから』
 見てたぞ、と父は言う。
 母さんが寝込んだとき、心配そうに見てたよな。そのあと信司が寝込んで、風邪が移ったのかと思ったら知恵熱で。
 父は幸せそうに笑う。
『信司のいいところ、父さんは知ってるからな』
 僕はその時、わけもわからず「うん!」と答えた。

 父が、僕に望んだこと。立派な人間になること。人を助ける、優しい人間であれること。
 ……でも、
「ありがとう、ありがとう。おかげで様で私たち親子共々助かりました。本当にありがとうございました」
 僕の家に来た人たちは大体皆こんなことを言った。そして渡されるのは少量の菓子とお金。
 今でこそ、その人たちの言葉はただの感謝の言葉だとわかる。だが子供の頃の僕にとっては悪意ある言葉に感じた。僕の父を踏み台にしたことによって自分たちは助かったのだと言っているように聞こえた。
 ひどく苦痛だった。結局、この人たちは僕の父ではない。父は、この世から去ったのだ。
 母はそんな人々に笑顔を向け、当然のことです、とか、夫も本望だと思います、とか。そのようなことを言っていた。
 母が父の死を悲しんでいたのを、幼いながらも、僕はしっかりと気づいていた。
 ――しかし、決定的に違う部分があった。
 僕は自分で言うのもなんだが年相応以上に知恵が回った。
 死を恐れた。自分とは何かという哲学的な壁に恐ろしい若さでぶち当たってしまっていた。そういう重い思考をぐるぐる回す、そういう子供だった。
 だからそのせいで考えてしまった。
 父は自身の犠牲を本望に思っているだろう。そう母は言っていた。それは多分、正しい。父はそういう人間だった。人を助けられればいい、それが全てという、世間一般的に言えば究極のお人よしであり、理想とされる人間だった。
 だが残された家族、僕たちはどうなるのだろうか、大切な家族がいるのに死んでしまって、どうなってしまってもいいなどと思っていたのだろうか。
 答えは否、そんなことはないだろう。
 おそらく、衝動的に助けに向かったのはずなのだ。
 誰かが苦しみに喘いでいる。たすけて、と届かない救済を求めている。そういう想像をして。
 父は最期の自分にどういう感情を抱いたののだろうか。
 具体的に言えば最期の時、後悔はしただろうか。
 ――していない。
 残された家族を思い、悲しんだだろう。だが自分のした行動に後悔はしていない。
 自分は善いことをした。人を助けるのは人間として当然のことで、称えられるべきことだ。残された家族には悪いと思う、だが、『この行動そのものは間違ってはいない』。
 僕は父の行動をよく見ていた。トラックに轢かれかけた子供を命がけで助けた。激流に呑まれ、溺れる人を命がけで助けた。
 僕はそんな行動を見ていつもひやひやさせられたものだ。
 ――命を削ってでも人を助けようとする父はいつか遠くに行ってしまうのではないか、と。
 その予想は的中してしまった。
父は自分より他人を優先した、父は自分の命より他人の命を優先した。
 父は縛られていた。尊敬していた人が、目の前で死んだという出来事によって生き方を固定された。
 だから自分の生き方に迷いはない。

 狂っている。生き物として、自身の死を後回しにして行動する父は狂っている。

 子を持った親の行動には責任が伴う。家族を、僕を優先して生きてほしかった。……僕たちのことを愛していると言ったのに。僕のことをわかっていると、言っていたのに。それなら父は決して死なないはずなのに、なのに――。
 しかし、最も僕のことを理解してくれそうな母は僕と考えが違っていた。父は『立派』だと、褒めたたえた。
 世界中全てが父の行動を肯定した、否定するのは自分だけだった。
 不幸を被り、唯一の味方となりうる母は敵だった。単純に考え方の違いだった。
 僕だけがこの考えを持つ、不安になる、自信が持てなくなる。
 だから長い間考えた。自分の思想を。
 考えは変わらなかった。僕は自分が正しいと結論を得た。
 
 そして次の日も、次の日も、お礼を言いに来る人はいなくならなくて。
「ありがとう、ありがとう」
「ありがとう、ありがとう」
「ありがとう、ありがとう」
 感謝が何度も何度も繰り返され、嫌悪感を覚える。
 この人達はなぜ助かったのか――父のおかげだ。
 じゃあ、かわりに何を差し出した――なにも。
 なぜ父の犠牲で笑っている。なにも渡さずにのうのうと生きて――
「帰れよ」
 幼い僕がボソっと呟く。
 一言も喋らなかった僕が口を開いたことによって、母も、目の前の人間も、驚きを顔に浮かべる。
「帰れ、帰れ、……帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ、帰れ!」
 不気味な物を見るような目で、目の前の人間が視線を固定する。
 命を差し出した父に相応の物を捧げろ。ただで息をするな、笑顔を浮かべるな。

 死ね。

「帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ」
「し、信司⁉」
 目の前の人間が踵を返した。
 英雄の子供は精神を病んでいる――そんな言葉が聞こえた。
 そして母が僕に手を伸ばし――僕はそれを振り払った。
 皆嫌いだった。憎かった。
 お礼を言いに来た人々も、思想的に相容れない母も、命を捨てた父も。
 僕は、とても、人間が、嫌いになった。
 灰色の景色。期待できない、世の中。

 ◇

 こんな話が聞こえてきた。
「怒鳴り声がここまで聞こえてきたよな」
「知ってる。吉野さんの母親だろ? 吉野さんには悪いけどちょっとあれは……」
「まあ、モンスターペアレントだよなあ」
 いわく、吉野早枝の母親が学校に乗り込んだとか、そういう話だ。彼女が死にかけている、という内容は噂になっていない。まあだが、吉野早枝の母親が学校に乗り込んだのは十中八九それが理由だろう。
 携帯の鳴る音。めったに用がない僕の携帯に通知が来ていた。だれだか予想がつく。彼女とは特に、今日は接触がなかった。
『いつもの曲がり角で待ち伏せしとくから来てね! あと昨日のことで話があるから~』
 話とは昨日の服部についてのことだろう。僕は自動的に彼女の誘いを断る手段が奪われたことになる。
『わかった』と僕は返信した。
 たぶん、彼女はよく出会う家の近くの道の角にいるのだろう。
 あそこにはクラスの人間はほとんど住んでいないし、僕と彼女が一緒にいることを目撃されるとは思えない。
 現在、僕は服部に目撃されたことで神経が過敏になっている。それもあってやや過度な警戒をしていた。
 ついでに図書館で本を借りていく。僕はいわゆる本の虫という奴で、思想的なものに溺れるのが嫌いではなかった。僕は本を選びつつ、こんなことを思う。彼女の今までの言動を見るに、彼女は思想的な本を読み漁った経験があるようだった。でなければ「人は死んだらどうなると思う?」なんて言葉はでてこない。彼女が思想に溺れた場合、激しく体が痛んだり、怠くなったりするはず。哲学的な思想は、時として普通の人ですら自殺に追い込むことがある。現実迫観念症を患う彼女にとっては、明らかに危険な行為だ。なのになんで、彼女は自分に試練を課すような真似をしたのだろう?
 
 彼女が待っている場所まで来た。
 電柱に背を預け、腕を組んで誰かを待っている。電柱はあまり綺麗とは言えないのでもたれ掛かるのはあまりよくないとは思うのだが。
 彼女は横目でチラチラとお婆さんを見ていた。煙草の吸い殻を集めており、その手にはコンビニでもらえるビニール袋がある。お婆さんはその中に煙草の吸い殻を入れていた。
 吸い殻が転がっている場所はバスの停車場で、バスを待つのに暇をもて余した中年が煙草を吸い、ポイ捨てをしているところをよく見る。気にとめていなかったが、たまる一方の筈の吸い殻が消えていくのは、このお婆さんが定期的に処理していたからだろう。
 そして思う。お婆さんの年齢はそれなりにいっており、もうすぐお迎えがきてもおかしくない外見だ。見えた死に焦り、今頃になって必死に積む善行。それは……偽善行為だ。
 脳裏に浮かぶのは父のことだ。自己犠牲。どうしようない偽善行為。
 一瞬だけ強い嫌悪感が沸き上がり、一拍の後に消える。どうでもいい、と。
 彼女はその光景を見て一度ギュッと強く目を瞑り、お婆さんの元へと駆け寄る。
 やはりか、という思いと共にその様子を淡々と僕は見守った。
「手伝いますよ、お婆さん」
 彼女が笑顔を見せながら告げ、お婆さんも笑顔と共にお礼を返す。よくもとても美しい光景のように『見せかける』ものだ。
 吸い殻拾いは彼女が加わったお陰ですぐに終わり、それが入った袋を彼女が代わりに捨てておくと主張していた。日本人特有の譲り合いが発生し、両者はなかなか袋の所有を譲らなかったが、しつこく食い下がった彼女が手にいれ、笑顔と共に去り行くお婆さんを見送った。
「あ。おーい相川くーん」
 事が済み、周りを見る余裕が出た彼女はすぐさま僕を見つけ、元気な声で手を振る。なぜ元気なのか、という理由はわかりきったことだ。
 呼ばれたので応じ、彼女の目の前に立つ。
「居たなら手伝ってくれればよかったのにー」
「……」
「おうおう、だんまりかーい、坊主ー」
「……そうだね」
 彼女は怪訝そうな表情をした。なにか間違えてしまったか、という不安げな顔。
 でもそれだって……本当はどうだっていいことだ。
「いいことはするもんだよ。ほーら気持ちいいー」
 彼女は大きく背伸びをし、それを肯定するように爽やかな風が吹く。まるで僕の考えは間違っているのだと、世界が僕を否定するように。
「君はさ」と僕は言う。
「なあに」と彼女は答えた。
「どういう風に生きようとしてる?」
「私? そうだなあ」
 ――彼女は僕の様子が変だと気づいている。
「ふふふ」と彼女は笑って後ろを向く。手を後ろに回していて、彼女の顔はここからは見えない。
「なりたい自分になれるような生き方、かな」
「なりたい自分?」
「なりたい自分」
 彼女の髪が風に揺れる。ほのかな、甘い匂い。
「どうせいつか死んでしまうなら、自分で自分を認められなきゃいけない、なんて思うんだよ。私は困っている人を助けたい。それが私自身が満足するためだったとしても、いい人でいたいんだよ」
「偽善行為に近いとわかっていても?」
「そうだよ。そうじゃないと救いようがないから。考えすぎてなにもできなくなることもあったなあ。でもそれは、嫌だったから」
 死に対面している彼女。だからだろうか? 彼女の言うことはあながち間違いではないように感じる。それは僕も考えたことがあることだ。だけど。
 僕は黙る。言いたいことがあった。でも吐き出した言葉は戻すことができない。
 そんな様子を感じ取ったのか「言ってもいいよ」と彼女は言った。
 それに少し、僕はためらう。
 彼女は死ぬ。それは変えられない事実だ。でもそんなことを言ってもいいのだろうか?
 ……いや、言うべきなのだ。彼女が傷つこうが、僕が彼女に嫌われようが、どうだっていいことなはずだ。そもそも彼女と会っているのは『死』に向かう人間がどうなるかが知りたいからで、僕がなにか答えを見つけられるかもしれないと期待していたからからだ。
 だから、言うべきなのだ。
「君は死ぬ」
「うん」
「焦ってないのか? もうすぐ死ぬから、天国に行きたいからいいひとになろうとしてるんじゃないのか? いい人であることは否定しない。けど……過程が省かれて、結果がいい行動だから、なんて、それでいいのか?」
 一度言ってしまえば止まらなかった。
「偽善行為なんてしないほうがましだ。どうせなにかをしたところでなにも変わらない。意味なんてない。それに君が死ぬ以上、君にとって得られるのは充足感だけだ。結果だけ見れば、卑怯な行動に見える。君は同じように考えたことがあるはずだ。それなのに結局、最後に納得なんてできるのか?」
 そんな風に言ってしまって……後悔した。彼女ほんの少しだけ震えていた。思想は彼女の体にとって悪影響だ。寿命を削るほどにまではならないが、苦しさはあるはずだ。
 でもそんなことだって意味のないことだ、なぜなら僕にとって彼女が苦しもうと死んでしまおうと、本質的には関係がない。……そう自分に言い聞かせる。
 矛盾している心情。わけのわからない混乱。それでも彼女から、答えを聞かなければならない。
「たしかに」と彼女は言った。
「君はこう思ってるわけだ。結局、自分は偽善行為をしているのがわかっている。だから自分で自分を許せなくなるかもしれないって。自分を騙しきれないから結果的に誰かを救ったとしても、自分が救われてないんだって」
「……うん。考え始めたら行きつくことだ。いったんそういうのに自分で答えはこうだと定める。でもずっと、その答えが正しいのか悩み続ける。それでもその答えが正しいと思い聞かせるのは……ひどく苦痛だ」
「考えすぎだよっていえないところが悔しいとこだなあ」
 彼女は振り返る。僕をまっすぐと見つめる、綺麗な黒い瞳。彼女はもう、震えていない。
 人間個人の心だけを見れば『自分が満足するため』に善を行なっている。それは……汚いことだ。そういう考えがまとわりつく。……いったいどうすればいいんだろう?
 自己犠牲が許容できなかった。だからこういう考えを持った。父の行動をどうしても肯定することができない。だからからめとられるのだ。『いったいなにが正しいんだ?』
 人間が嫌いだった。父を踏み台にして生きる人間。何も失っていないのにのうのうと生きている汚い奴ら。
 たぶん、過剰に期待しすぎていたのだ。そして、いろんなことを知って、期待するのをやめた。
「でもね」と彼女は言う。
 私は誰かを助けたいと思ったの。それは根本からくる感情。崖の上に生えてる綺麗な花を、子供が取りに行こうとしていたら、危ない! っていって思わず止めちゃうでしょ? 結局は人は善性を持ってるんだよ。それは偽善なんかじゃない、真実。
「だからさ」と彼女は続ける。
 きっとここで私は誰かを助けようと思ったことは無駄じゃないんだよ。きっとこれは綺麗な思いで、否定されることはない。それに、なにもしないでいると……なんだか気持ち悪いの。まるで、見捨てたみたいになっちゃうから。
「ねえ相川君。人の意志は、死にゆく人の気持ちとか、魂はどうなるんだと思う?」
「消えてなくなるだけだよ。なにも、残らない」
「きっとそれが正しいんだよね。でも私はこう思いたいんだ」
「……」
「人の純粋な思いは、願いに似た祈りはきっと誰かに届くんだよ。この世の中にエネルギーがあふれてるなら、人の意志は、その意志を持ったエネルギーは何かを変えるんだって」
「……それは」
「うん、たぶんこれは妄想みたいなものなんだろうね。神様なんていない。祈りは行き場を失う。でも、私たちは人間で、誰かを想うことができる」
 きっと、それは――。
「君は死んでしまえばなにも感じられないって言ってたよね。強いて言うなら神サマなんていうのは自分に宿るものだって。だからこそ、私は自分自身に、自分のために祈るんだ。なりたい自分になるために」
 あはは、と彼女は笑う。ばかばかしいよね、なんて言葉を添えて。
「でも、私はこれでいいと思うの。きっと答えなんてない。だったら開き直るしかないじゃん。私は私自身のために祈るの。誰かが幸せであれますようにって」
 そう言って、はにかむ彼女の姿は。
 とても綺麗なものに見えた。彼女の考えと願い。出した答えと、精一杯物事を綺麗なものだと捉えようとする努力。思想は彼女を苦しめる。しかし、彼女は答えを出した。いや、たぶん現実迫観念症という病気を患ったからこそ、彼女は答えを出そうと思想を行った。
 彼女はこんな考えは所詮、妄想だと言った。しかし、それでもいいと。そう願いたいたいんだと、彼女自身が決めたのだ。それはきっと、誰にも否定できない、とても前向きな信念。
 少しだけ……少しだけだけど、自分の考えていたことがばかばかしくなった。
 父の自己犠牲。そこから見えた人間の性。どこまでも色あせた景色。希望なき、世界。
 依然としてこういう考え方は変わらない。だけど、もう少し前向きに物事を考えるべきなのかもしれない。それはとても難しいことかもしれない。でも、努力はすべきなのだ。
 所詮こんなのは綺麗ごとだ、なにをバカなことをやってるんだと思う時もあるかもしれない。それでも、この考え方はとても綺麗なのものだ。
「君は、さ」
「なあに?」
「どうしてこんなことを考えたの? 普段から考えてないと、君の言葉は普通、出てこない」
「たぶん、それは私がもうすぐ死ぬからだよ。だから苦し紛れに、いっぱい考えた」
 そういう彼女は苦しそうな顔をしていて、でもそれを悟られないように無理に笑っていて。
 それを見て、僕は。
 ――この気持ちはなんだろう?
 もうすぐ死ぬ彼女への同情心? こんな顔をさせてしまった罪悪感?
 違う、はずだ。くだらない同情なんかじゃない。他人のことなど気にしない僕なんかの、罪悪感なはずがない。
 でも、腹が立つのだ。こんな自分自身に。彼女を苦しめてしまって、それで僕自身も苦しむなんていうばからしい結果に。
「後悔、してるの?」と彼女が言う。
 そうなのだろうか? 過ぎてしまった時は戻らない。吐き出した言葉を飲み込むことは、誰にだってできやしない。
「……少しだけ」
「そっか」
 彼女が微笑む。
 とぐろを巻く思考があった。いまだに答えは出ない。僕はどうすればいいんだろう。変わらなければならないはずだ。この色あせた景色を眺め続けるのはひどく辛い。だから、僕はこんなことを彼女に聞いたのだ。
「なあ」と僕は言う。
 そして迷って、言葉を口の中にためて。
「ごめん」
「……どうしたの? 君も、もしかして不治の病に侵されてるの?」
 まるで僕がこんなことを言う人間ではないかのように、彼女は言った。でも、確かに僕はそういう人間だったのかもしれない。
 つまりはくだらない冗談だった。だが、あまり悪い気分ではない。
「あーあー。遊びたいなあー。動物園に行きたいなあー」
 わざとらしい独り言。
 たぶん、ここは僕が歩み寄るべきところなのだろう。素直にそうするのは癪だった。そう思ったけれど。
 まあいっか、とも思った。
「一人で行ってこれば?」
「ひどい!」
「冗談だよ」
 これが正しい選択なのだろうか?
 いや、きっと何が正しいかなんて死ぬ時までわからないのだろう。そういうものだ。
 歩み寄ること。ひねくれていても、なにかを変えようとすること。
 恐る恐る、暗がりへの一歩を踏み出した。その先は何も見えないけれど、僕が欲しかったものがあるかもしれない。

 ◇

 動物園と水族館。どちらかといえば水族館のほうが好きだ。
 だがそんなことを言ったところで彼女の勢いを止められるとは思えない。当然と言えば当然のことだ。なにしろそこを主張しようという熱意が僕には足りない。一方彼女はそうではなかった。
 彼女と僕は動物園の入り口を通ろうとする。
「おっと、嬢ちゃん。百円たりねえぞ?」
「負けて! 私の笑顔で!」
「ハッハッハー、そりゃ無理だ!」
「学割!」
「ハッハッハー、そりゃ無理だ!」
 ゲームのRPGの人物のように同じ台詞繰り返す入り口のおじさん。
 そんな感想は次の彼女とおじさんとのやりとりで打ち破られることになる。
「子供料金!」
「ハッハッハー、しょうがねぇなー。かわいい嬢ちゃんの頼みだ。と、なることは期待しないことだな!」
「えー」
 たかが百円ごときで、恥ずかしいやり取りをしないでほしいものだ。僕の家庭は一般的な庶民で、彼女の家庭は収入的にはお嬢様と言われてもおかしくないほどのものだというのに。
 が……そういう要素は皆無だ。庶民の僕より庶民らしい。
 呆れ返った目付きで彼女を見つめ、足りない百円をくれてやる。
「お、ありがとー」
 無事、彼女は通り抜けることができた。
 次は僕がお金を払う番で、その時おじさんに囁かれる。
「そんな目付きすんなよー、兄ちゃん。かわいい彼女さんをとったりしねぇって!」
 全く囁いていなかった。
 そのデカイ声は僕の耳をじんじんとさせ、彼女のイタズラっぽい笑みを発動させる原因となった。
「欲しいならあげますよ」
「ハッハッハー、欲しいもんだぜ! おじさんはな、JKが大好きなんだよ」
 さりげない性癖の暴露は、僕の耳が悪かったということで聞かなかったことにしてあげた。
ひとまず、そうやって無事通過。パンフレットを手に取り、彼女と共に園内を歩く。
「まったく~照れちゃって~」
「良く思うんだ。君って頭が病気だよね」
「失礼な! こんなに冷静な女子高生は今時珍しいんだよ?」
「はいはい」
 またよくわからないことを言ってるな、と思った。
「ねえ見て! 象さんがいるー!」
「……」
 子供みたいにはしゃぐ彼女。
 とても冷静な判断ができる人物とは思えない。
 象の芸が始まる。彼女の髪が揺れている。
「たぶんなんだけどね。あの象さんは君より美的センスがあると思うよ」
「はいはい。僕の負けだね」
「もっと悔しがれよぉー」
 彼女のこういう言動にも、最近少し慣れてきた気がする。
「ねえ、そういえばさっき子供料金! とかいってたけど。あれ、恥ずかしくないの? たかだか百円のために」
「珍しくそっちから話しかけてきたと思ったら……。別にいいじゃんそれが私なんだし」
「私の笑顔は……とか、ふふ」
「鼻で笑うな! 百円は大事なの! んまい棒十本ぐらい買えるの!」
「そういうと価値が増えたように錯覚するかもしれないけど実際は百円ぐらいじゃ電車代すら払えないよ」
「それでも百円に価値がないことにはならないよ!」
 彼女にはしては珍しく、機転の利いた返しだ。
「どうしたの? 黙ってちゃ何も始まらないよ?」
「……」
 ここぞとばかりに調子に乗る彼女。この野郎、と思った。
 象の芸が終わる。
「トイ……お花摘みに行ってくる」
「いまさら女の子らしく振舞おうったって無駄だと思うよ」
「うっわ、デリカシーないこといってるー」
「君ってそこそこの頻度で見苦しいよね」
 そうして彼女は花を摘みに行った。
 ぼんやりと空を眺める。こんなことをしてなにになるんだろう? でも、少なくとも不愉快ではない。それなら、今の状況も悪いものではないかもしれない。
 ――風船が空を舞う。
 見れば小さな子供二人が手を伸ばしていた。容姿が似ていることから兄弟であろう。
 二人の子供は風船を追いかけた。
 風に流されていく風船。それは木に引っ掛かり、子供たちはうなだれる。
 だがそのうち一人はまだ闘志があるようで、あの手この手を使ってた風船を木から外そうとする。石や木の枝を投げつける。
 そんなことをしても無意味だ。木から風船が外れようともどちらにせよ子供たちの身長では届かない。
 そんなことを思っているうちに子供の投げた石が風船に突き刺さり、割れた。
 無惨な姿となって落ちてくる風船。それを手に取る子供たち。
 小さい方の子供が泣き出しそうになり、大きい方の子供が慰める。
 そうして二人の子供たちは家族のもとに戻ろうとでもいうのか、歩き出し、僕の視界の外へと消えた。
 ――風船は割れたら、もう元には戻らない。
「くらえっ! 水手裏剣!」
 彼女が手から水滴を飛ばしてきた。自分の顔に冷たいものを感じる。
 彼女がニヤニヤした顔でこちらを見ている。
「ばかなの? 君今の自分の年齢言える?」
「十七最。華の女子高生」
「ばかなの?」
 うすく睨み付ける。すると彼女はますます上機嫌そうな顔になり、僕はいつか仕返しをすることを誓った。
「見る動物決めた?」
「別に、わざわざ決めなくても一周回ればいいじゃん。ここはそんなに広くない」
「まあ、そうだね。ところで君好きな動物いる?」
「いや、特には」
「……」
 そんな僕の返事に彼女は無言でこちらを見つめる。
 本当にないのだ。そんな無理に答えを求められても困る。
「……イルカ」
「ここ動物園だって!」
 イルカが好きだというわけではないが思い付いたから言った。そんな適当な返事は彼女に読まれ、ご立腹のようだった。ホタルとかいえば良かっただろうか。いや、どちらにせよ突っ込まれるか。……ありきたりにライオンとでもいえば良かったかもしれない。
 まあ、過ぎたことは戻らないし、仕方がない。そこで矛先をそらすべく逆に聞いてみる。
「君が好きな動物は?」
「ん~人間!」
「……動物園にいるっちゃいるけどね」
 ひねくれたら答えにはひねくれた答えを。それが彼女のモットーなのだろうか。
 
それから僕らは動物園を回った。
「みてみて、あの猿君ににてるよ!」
「言いがかりもここまでくると感心するよ」
「仕方ないから今から私、ゴリラの物まねするからよく見ててね? あ、まって~」
 とか。
「私は鳥になりたい」
「なれば?」
「無理に決まってんでしょ!」
 とか。
 風がなびき、暖かな風が心地よい。生き物を見て癒されるとか、そういうことは感じたことがなかったが、ここまで晴れやかなのかは動物のおかげだろうか。
 隣にいる彼女に話し掛けてみる。
「今更何だけどさ、なんで僕なの?」
「んん?」
「残り少ない時間を無駄にしていいの?」
「うーん。前も言ったんだけどねー。あ、そうだね。こんな話があるんだけど、例えば、適当な人に今日が地球最後の日、今日で死ぬって言われたらなにする? って言う質問をするとどう返って来ると思う?」
「贅沢したい、じゃない?」
「だいたいそんな感じ、美味しいものをたらふく食べたいとか遊園地に行きたいとか。じゃあガンとかでもうすぐ死にそうな若者、老人に同じ質問をするとどう返って来ると思う?」
「同じ、と言いたいところだけどわざわざこんなこと言うってことは違うんだろうなぁ」
「勘がいいね。君の言う通り、普通の人と今にも死にそうな人は違う答えを出すんだ。
 平穏な、普通の日を過ごしたい、ってね」
「…………それが君?」
「そうだね」
「だからなの?」
「うん? 君は珍しい人だよ。死に対して気を使わない、面白い人だよ」
「つまり僕は君にとって平穏な暮らしを得るためのスパイスと言うわけか」
「悪く言うとそうかもね。でも平穏を求めるためだけにつまらない毎日は過ごさないよ。私は今、君と一緒にいてすごい楽しい」
 そう言って彼女は笑った。
「でも楽しいと、病気のせいでより楽しく感じちゃうんだよね。楽しいっていう思考が、体に影響を与えちゃうから。残酷なこの病気は、いつだって私の傍に寄り添うの。楽しい時も、悲しい時も、辛い時も」
 彼女は明るくそういった。

 やがて閉館の時間となった。日は暮れ、風が気持ちよく吹き抜ける。だがそれは少しだけ冷たい。夏はまだ始まったばかりだ。なのに、冷たい。
「ねえねえ」
「なに?」
「夏休み中君はなにするの?」
「特になにも」
「……私、海外に行くの。明日から」
 強い風、生暖かい風、沈みかける夕日。それら全てを背景に、フェンスにもたれ掛かって、彼女は僕にそう言った。
「そう、なんで?」
「日本じゃ、手術できないの。難しい手術だからね。海外にいっても難しいことにはかわらないらしくて……死ぬかもしれない」
 美しく輝く夕焼け。たが皮肉なことにこの太陽が終わるこの時間は人生の最後について語る時間となった。彼女は言葉を続ける。
「それに病気は完治する訳じゃないの。あくまで一年寿命を伸ばすだけ。……もういいよって親に言ったんだけどね。親バカだからさ。たった一年程度のために凄いお金かけるんだよ。そこまでして生きたいとか、成功するかもわからない一年に価値があるのか。私は何か発明するわけでもないし、なにも役に立たない。なのに大金を払ってもらって命を買うことが重い。……でも死にたくない」
 唐突に喋り始めたその言葉は、僕が求めていたもののひとつだった。『死』に触れる人間はとどういう考えを持っているのだろうか?
 死にたくない。それが答えで、大量の金によって僅かに寿命を伸ばすことに引き目を感じている。自身にそんな価値はないと思っている。現実迫観念症という病気を患う彼女にとって、悩みとは現実として自らの体を苛むリアルなものだった。彼女は、苦しんでいた。
 僕はそんな彼女を見て、結論なようなものを出すことができた。例え時間稼ぎにしかならないとしても、生きたいものは生きたい。迷惑がかかるとしても生きたい。死にいくら近い人間でも、そう思ってしまう。
 当たり前の結論だった。僕が彼女と過ごしたのは、死に近い者の思想が知りたかったから。もう目的は果たされ、一緒にいる理由はなくなる。
 もう夕日は半分以上沈みかけている。あとほんの僅かの時間で辺りは暗くなるだろう。
 自嘲的な笑みを浮かべる彼女に言う。
「生きたいなら生きればいい。それは君が選んだことだ。そして君の親も選択したんだ。月並みなことを言わせてもらえばお金は使わないと意味がないし、それを手放すのも君の親の自由。君の親にとっては君の存在はお金よりも価値があったんだろう。ならそれは君の親の責任だし、勝手に気負うのは侮辱に当たるんじゃないかな。まあ、君が親にお金を使わせること強制させたのなら話は全部ひっくり返るけど」
 こんなことをわざわざ言ったのは、彼女に借りを感じているからだろうか?
 それも、あるかもしれない。だが、僕の言った言葉はおそらく間違いではない。親は子を愛す。方向性が一致しないとしても、それは真実だと、僕は知っている。
 彼女は僕の言葉に驚き示した。
 彼女の腕から力が抜けたようにフェンスから手が離れる。
 そしてようやく彼女は驚きから元の世界へと戻ってきたようで口を開いた。
「そうだね、ありがとう」
 夕陽のせいか、彼女の顔に赤みがさす。力が抜けたような、強張りがなくなったような笑み。それはいつも僕をムカつかせる笑顔とは、よく似ているが違ったもので、不思議と苛立ちは感じなかった。
「よっと」
 彼女は小さな段差をジャンプして飛び越え、僕の近くへ立つ。
「もう会えるのはこれが最後かもしれないね。フフフ、必ず生きて帰ってくるよ!」
「これは死んだな」
 そんな風に返したが正直彼女が死ぬとは思えない。今の彼女からは活力が溢れ、何度殺しても生き返りそうな気がした。
 彼女が手を差し出す。それに僕はわざと怪訝そうな顔をしたが彼女が足をカツカツと鳴らせるので握手に応じてやった。
 柔らかい手だ。自分の手とは全く違う。性別が違うと案外変わるものだ。
 彼女は力強く僕の手を握り、僕は申し分ない程度に握り返す。
「君との出会いは忘れないよ。ありがと」
「どういたしまして」
「一年あればやりたいことはいっぱい叶えれるようになる。絶対生き残ってやるから!」
「そこまで死亡フラグを立てて……。死にたいの? 自殺願望でもあるの?」
 無論、死にたいわけではないのはわかっている。ただ心に誓っているだけだろう。それに好都合な僕という存在があったからこうしているだけだ。
 もういいだろうということで手を離そうと力を抜く。
 だが手は離させてもらえなかった。それどころか僕の手を握る腕が一本増えている。
 顔をしかめ、彼女を見ると、
「えへへ」
 嬉しそうに笑って、そのあと手を離した。
 そして一歩下がり、両手を上に挙げてくるりと二回転ほど回った。
 拍手でもしてあげればいいのだろうか。
 そうして僕らは一緒に家まで帰り、いつもの別れ道で別れた。
 その際彼女は大きく手を振ってきた。僕はめんどくさかったので軽く二回ぐらい振り返しておく。そして自分の家のある方向へと向いたのだが、背後ではまだ彼女が手を振っているような気がした。
 振り返ろうとする。何かを言おうとする。でも、気のせいだと言い聞かせた。

 ◇

 夏休みはなにもせずに過ごした。怠惰な日常、無意味な毎日。
 つまらなかった。学校という場に行くよりもは気は楽だった。なにもかも刺激がなく、窮屈な自分の部屋に入り浸っていた。
 彼女がいたときはこうではなかった。よくも悪くも、彼女の存在は僕の感情に波紋を生む存在だった。
 ――まあ、たいていイライラさせられることが多かったのだけど。
 僕は文字どおり、この長い夏休みになにも得なかった。彼女はどうなったのだろう。得るどころか失ってしまったのだろうか。僕からしてみれば無駄な一分一分も、彼女からしてみれば残り少ない、貴重な時間となる。僕は時間を無為に過ごすが、彼女の時間はどんな出来事であろうと輝く、輝かざるえない時間だ。
 こんなことになるならこの僕の時間はあげてやった方がいいかな、と思った。
 僕は夏休み中ずっと寝たきりでいいから彼女はその分の時間を使うといい……。
「はは」
 我ながら名案だと思った。現実的には不可能ではあるが、悪魔が取引を持ちかけてきたら面白いだろう。
 ――ピリリリリッ
 携帯が音を鳴らした。少しの期待とそれを押さえる自制心を持って手を伸ばす。そしてその画面を見てみれば母からのメールだった。内容はどこか遊びに行きたいところはないか、というものだった。それを僕は一人、部屋でせせら笑う。
 今の退屈そうな僕なら家族の時間を過ごせるとでも思ったのだろう。夏休みの間ずっとこのような誘いは来たが全て断ってきた。いい加減やめてほしいものだ。
僕と母は必要最低限しか会話はしないという関係にある。僕は干渉されるのを嫌ったし、母もそれを理解していたので不必要には近づいてこなかった。だが電子器具を用いれば肉声を使わない分、勇気が出るというのか、たまにこういったことをして僕との距離を縮めようとしてくる。
 そんな弱い母を僕は軽蔑した。直接語りに来ようとも心を開くつもりは勿論ないし、結果としては一緒ではあるのだが。僕らの家は金に困っていない。その身を犠牲にした英雄たる父は、金持ちを何人か救っていたからだ。その人間たちは当然だというよう金を僕らに渡してきた。母は浪費家ではというわけではないが、もし全ての財産を失ったとしても、僕の大学費は彼らが肩代わりしてくれるだろう。
 ここまでしてくれだけ、この金持ち共は親切な部類ではある。
 僕は端的に言えばさっさと独立したかった。いままで僕にかけた教育費もろもろ全て色をつけて返すつもりだ。育ててくれたという点では母に感謝している。だがそれは別問題として僕は母が嫌いだった。
 ――ピリリリリリリッ
 再び携帯の音が鳴る。夏休みは今日で終わりだ。なのに彼女からはメールが来なかった。
 死んだか。
 携帯に手を伸ばす。メールだ。
『生きて帰ることができたぞよ』
 その文面に思わず笑ってしまった。
 愉快な気分だ。死ぬかどうかの瀬戸際から帰ってきておいてずいぶんと余裕なことだ。
 まあ、おそらくは空元気だろう。いや、彼女のことだ。そうとは言えまい。
 実を言えば、きっとこのメールは母からではないことはわかっていた。だが確証はなかったし、ただの勘だ。でもそれが外れたら間抜けになってしまうので、あえて思考を封じ、ただただ携帯を見るという行動を起こした。
 まったく……、曲がりなりにも、それなりに心配していたというのに元気な奴だ。バカを見たような気分ではあるが、まあ、悪くはない。
 吉野早枝は生還した。特別恨んでいるわけではないのだから、今はそれを祝おう。

 始業式は丁度、昼前に終わった。
 学校側が何やら偉い人を呼んだようで、ついでとばかりに長い話がたらたらと続いた。さらには恒例である校長の長話もあり、それを聞かされる生徒はダブルノッキング状態だ。
 僕も当然、相当暇だった。だからか、いつもは注意を払わないのだが周りを観察してみるとなかなか面白かった。生徒たちは『やることがない』という共通の感想を胸に結束し、俳句を作っていた。お題は校長で『そよ風』と『校長の髪』を絡めて作っていた。優勝したのはあの騒がしい服部という男で、なかなかに面白い俳句を完成させていた。僕が笑ってしまっただけあって、周りも大笑いし、そのせいで先生にその事がばれた。おかげで服部は罪を一身に背負うことになり、職員室行きが決定した。哀れではあるが、悪口に近い内容を学校の最高権力者相手に言ってしまったのだから仕方のないことかもしれない。
 僕はいつもの家の近くの曲がり角に辿り着き、足を止める。
「やあ」と言ってみる。後ろの気配が驚いているのを感じた。
 そよぐ長い黒髪。まぬけな面構え。
 それに思わず笑ってしまう。相変わらず元気そうな姿だ。しかし、あまり彼女を驚かせたりすると今度こそ死んでしまうかもしれない。
「やや! 久しぶり!」
「生きてたか」
「生きてたよー!」
「はは、よかったね」
 突然、彼女が訝しげな表情を見せ、僕の顔を覗き込む。
 なにか顔に付いているのだろうか?
「……なんか、印象変わったね」
「ん?」
「こんなに簡単に笑わなかったじゃん」
 そう言われて気づいた。僕は自然に笑っていた。すぐに無表情に戻し、自分の顔に触れる。なぜか、きっと、今日はすこぶる機嫌が良いのだろう、たまたまだ。
「せっかくそんないい顔ができるのならずっとそうしてればいいのに、もったいない」
「僕の笑顔は君とは違って希少価値があるんだよ」
「むー⁉ 笑顔はいいことだよ! 円滑な人間関係を築くための素敵な道具ですー!」
「いや、道具って」
 呆れたような声音をだし、返答する。
 そして、たぶん、また僕は笑った。
 彼女はそっぽを向き、横目でこちらを見る。その口からはボソボソと「せっかくカッコイイのに、もったいない」と聞こえた。
 僕はその小さな声に「そうでもないよ」と返した。こちらも小声だ。
 彼女がコロコロと笑う。手を差し伸べ、ウキウキとこちらに問い掛けてくる。
「じゃあさ、今日はどうする?」
「君の帰還パーティーでもやる?」
「おごってくれるの? うれしー」
「…………」
「無表情がとても怖い」
「君の好きにしてよ」
「そうだね。私のお祝いだしね。……祝ってくれる?」
「美味しいもの食べに行くんだよね?」
「なにそれ、私のお祝いはついでだって言いたいわけ? いーよー。いーですよー」
 簡単に拗ねる彼女に僕は苦笑する。そんな僕の反応に、珍しく彼女はさらにプリプリと怒る。
「じゃあ、行こっか」
「あれー? その台詞私の役目だったのにな? ……ていうかお祝いメインって訂正してくれないの? 君のために。みたいなキザっぽいこと少しは言えないの?」
「絶対に言いたくないね」

 ◇

「笑わないね。笑ってくれたほうが私は嬉しいんだけど」
「笑えないし」
 彼女が指差している店は大きかった。看板も派手で、食欲をそそられる良い作りをしている。そして最もインパクトのある、オススメされている料理は『驚きの安さ!400円定食!』と書かれている物だ。激しくデジャブを感じる。だがここら辺は一度も来たことのない場所のはずだ。おかしい。
「友達から聞いたんだけど驚きの300円の店の人の兄弟がやってる店なんだって。どう?笑えてこない?」
「全然」
「すごく素だね。もーう、冗談だって! なんかいつもは美味しいもの食べたいとか絶対言わない君にこんな安い店つれてくるわけないじゃないですかー、やーねー」
 そう言いつつ、まあまあ、と手首を振る仕草をする彼女は、完全に大阪らへんにいそうなおばさんによく似たなにかだった。
 そうしてご機嫌にその店に入っていく。
 入っていくのかよ。
「冗談の意味はどこに行ったの?」
「旅に出た」
「じゃあ僕もそういう気分だから旅に出てくるよ、じゃあね」
「いやいやいや、冗談だって! はい、冗談戻ってきたよー! まあ、ここの店ほんとに美味しいから騙されたと思って食べてみなって!」
 そんな彼女はとても騒がしい。久しぶりに会ったせいかちょっと引いてしまうほどのハイテンションだ。だがきっと、彼女の言葉は正しい。驚きの三百円の店は、実際かなり美味しかった。そういうわけであるのだからどうせここも美味しい。だからこそ、彼女の言い分がわかってしまうからこそなんとなく憎ましい。
 そんな僕らの様子を店の人が微笑みながら見ていたのに気づいた。きっと自分の店が全肯定されて嬉しいのだろう。

 丁寧な物腰の店員さんに案内され、席に座る。丁寧な物腰の店員さんは僕らを案内している間ずっとクスクス笑っていた。
 なんだかバカにされているような感覚を受ける。これでは失礼な店員か。
「すみませーん。400円定食二つ」
「君は二つも定食を食べるの? すごいね」
「え?」
 注文の内容を勝手に決められたのでこんなことを言ってみたが、どうせ僕がもう片方を食べることになるのだろう。始めから僕には自由意思はなかったのだ。不条理を多少感じ、少しの文句を言うが所詮口先。どうせ美味しいのだ。内心ではそこまでの文句はない。
 料理が運ばれてきた。良い臭いと煙が立ち上ぼり、彼女も嬉しそうにヨダレを比喩とかではなく、本当に垂らしている。……それにしても量が多い。というか多すぎる。とてもではないが普通の高校生が食べきれる量ではない。
 僕はどちらかと言えば少食だ。断言できる。これは絶対に食べきれない。
 そこで彼女に僕の定食を分けてあげることにした。彼女はたくさん食べたそうな顔をしているように見えたし、お腹がとても減っていそうな顔をしている。これはあくまで僕の主観的観測ではあるが、強引に店につれてこられたわけだし、強引に押し付けても大丈夫だろう、たぶん。
「え……⁉ ありがとう!」
 これは喜んでいる反応に見える(あくまで主観的観測ではあるが)。ならきっと、もっとあげても大丈夫だろう、たぶん。
「え、え。ちょっと量多くない?どうしたのどうしたの」
「大病を患ってる女の子には優しくした方がいいと思ったんだ」
「お、気が利くねー。はい、ピーマンあげる」
 こうして見事に切り返され、僕は緑の野菜をこれでもかと送りつけられたのだった。
 まあ、ピーマンだけなので量的にも十分食べられる量になった。
 そんなこんなで僕はもっさもっさ、と大量の野菜を食い、そんな僕の顔によって引き起こされた、彼女のありがたいバカ笑いに見守られながら食事を終えた。
 彼女は完食していた。
 ……あれだけの量をよく食べられるものだ。結果的に彼女を困らせることは出来ず、厄介な野菜を僕が押し付けられた形になる。すごく損した気分だ。
「ふ、ふわぁーー。お腹いっぱい。店員さぁーん、お水ください」
 気が弛みきっているとよくわかる欠伸に口調。膨れ上がった今の状態のお腹なら、攻撃すれば、たぶん、倒せる。
 一応、動物園で唐突に水をかけられた意趣返しのつもりだったのだがこれでは完全に、ただのプレゼントだ。
 水が入ったグラスを店員さんが持ってくる。気の効いたことに、頼んだ彼女の分だけではなく、僕の分まであった。
 だが店員さんの体勢は突然低くなり――
 ――パリィィン

 僕の左手に熱と痛みが走る。
 辺りはグラスが割れたことにより、ガラスが錯乱している。
 そして状況を理解した。
 店員が躓いたことにより、グラスが割れたのだ。
 良質なものを使っているようで、ざっくりと僕の左手に三個の破片が刺さっている。
「あ、相川君⁉」
 彼女が驚いた顔、痛ましそうな顔、僕を労る顔を見せ、僕の手に触れる。
 だが今にも血が流れそうになっている状況から、破片を抜くことを躊躇し、焦る。
「申し訳ございません申し訳ございません申し訳ございません」
 大慌てで、何度も何度も頭を下げる店員。
 そんなことより、絆創膏なりなんなりを持ってきてほしいものだ。
「……すみません。止血したいので絆創膏とかが欲しいんですけど」
「も、申し訳ございません、わかりました、今すぐ持って参ります」
 そう言ってまた躓きそうになりながら走っていく。
 僕は手に刺さった破片をやれやれと見つめ、余計深く傷つけないように慎重に、ゆっくり左手から抜いていった。グラスには当然、水が入っていたのでそれが傷口にかなり沁みる。
 少量の血がツー、と流れ、机を汚す。
「ちょっとティッシュ貸して」
「え、あ、うん。…………痛くないの?」
「別に、痛いけど」
 彼女の恐慌は少しは収まったようで、オシャレな鞄に手を伸ばし、中から出したものを僕に手渡す。だが、それはハンカチだった。
「……ティッシュ
「ごめん……ハンカチしかなくて……。じゃなくて! ティッシュあったとしてもハンカチの方がいいって!」
 彼女はそう言うが、僕は拒否した。それでは彼女のハンカチを汚してしまう。洗えば血は取れるだろうが、自分のならまだしも、人の血を拭いたハンカチなど使いたくないであろう。だから使い捨てのティッシュが理想だ。
「いいから使ってよ!」
「いや、別にいいって。そこまで大したことじゃないし」
「あんなに破片が刺さってたじゃん!」
 僕は断り続けたのだがついに、彼女は強引に僕の手を掴み、血を拭おうとする。
 だが僕は傷付いていない右手の方でそれを払い、彼女は傷付いた表情を見せた。
 そしてついに、さっきの店員がやって来た。
「お客様、救急箱をお持ちしました。先程は本当に申し訳ございません!」
 全力で謝ってくる店員。
 それに対し、僕は薄く返事をしながら自分の左手を処置していく。
「相川君……」
 傷口は広くはないが、深い。見た目は小さい傷が幾つも出来ているだけだが、深い傷口は再生に結構な時間がかかる。僕は左手の方が力は強いのだが箸を扱うのは右手だ。勉強や授業中に差し支えない左手だっただけ、不幸中の幸いと言えるだろう。
 全ての傷口を処置し終えた、包帯でぐるぐる巻きだ。店員さんが「私がやりましょうか?」といってきたが首を振って拒否。その時、彼女は開きかけた口を閉じていた。おそらく彼女も店員と同じことを言おうとしたが、断られるのがわかったのだろう。
「ねぇねぇ……何でそんなに平気なの?」
「平気じゃないよ。結構痛い」
「でも、なんで、全く痛そうな顔してない」
「……? 騒ぎ立てたら迷惑じゃないか。だから我慢してるんだよ」
「我慢ってレベルじゃ……」
 わかっている。これは異常なことで、普通じゃない。痛みは痛い。だが我慢できる。単純に精神力の違いだと僕は思っているのだが、よくわからない。
「こんなもんだよ」
 僕がそう言うとなぜか、彼女は悲しそうな表情を見せた。何に同情しているのだろうか、むしろこれは利点だと思うのだが。
 料理は食べ終えた。傷口の処置は終わった。
 会計を済ませようと席を立つ。彼女もやや暗い感情を称えたまま立ち上がった。
 机は汚れているが、水だろうが血だろうが、僕らの責任ではないのでほかっておいても大丈夫だろう。
 レジでお金を払おうとすると男の人がやって来た。名刺がついており、店長とか書かれていることから、だいたいこれから何が起きるかが推測できる。
「すみませんお客様、店の者が粗相をしたようで……。責任をとって、店の者は今回のお代は自分が払うと言っておりました。なので今回のお代は無料で結構でございます」
 その奥のカウンターで先程の店員が少し驚いた表情を見せた。どうやら今しがた責任がこの店員に責任をかぶせることが決定したらしい。それを見て少し不愉快に思った。この店の店長の自分は全く悪くないと言いたげな物言い、勝手に責任のすべてを押し付けた所行。本来ならこうなって当然だとは思う。しかし、そういうことは店員に一言伝えてからするべきことであるし、全く悪びれもない態度は、礼儀知らずだ。
 まあ、そんな思想も一呼吸の間に消えた。自分に関係のない人間であるし、気にしたって無駄、意味がない。しかし、隣の彼女はそうは思わなかったようで、
「お金で解決しようとしないでよ! ちゃんと謝りなさいよ!」
 そう怒鳴る彼女。無表情で冷静に、マニュアルに当てはめたような謝り方が嫌なのだろう。だがこの店の店長は差し出せるのがそれしかないのだ。むしろただ謝るだけでなく食事代をタダにするだけいい方だと思う。だがまあ、
「とりあえず、次も来るのでその時も食事代をタダにしてください」
「ちょっ⁉」
「わかりました。そうさせていただきます」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「いいんだよ」
 わがままをいう子供をあやしつけるような穏やかな声音でそう言っておいた。
 そのまま店を出ようとする。が、彼女が僕の手を掴んだ。
「いつっ」
「あ、わ、ごめん」
 彼女の手は僕の包帯で巻かれた左手を掴んでしまっていた。前もって痛みが来ることがわかっているならば我慢できるのだが、予想外の痛みには反応してしまう。彼女は僕の漏らした声に失態を悟り、どもりながら謝った。
 おかげで彼女の頭は冷え、怒りは収まったようだ。先程の怒る前の暗い表情。再びそれが到来し、静かになる。
 彼女らしくない。だから、
「あのさ」
「ん……なに?」
「君の怒りは間違ってないよ。でも僕が面倒事が嫌だから穏便に済ませただけだ。だから、そんな顔する必要、ないんだよ?」
「ん……ん? あ、うん。ありがとう」
 彼女が無理矢理、という風に笑って見せる。そしてそんな表情は僕の気分的にも余り良いものではなかった。
 普通、いつもの彼女なら元気になるはずであるのに、そうはならなかった。他にも要因があるのだろうか……?
「ねぇねぇ、君さ。さっきは痛みに反応してたけど」
「咄嗟だったからね。耐えようとすれば耐えられるけど完全に予想外だったからああなっただけだよ」
「その……ごめん」
「別にいいよ。大したことじゃないし、痛みは我慢してるだけど痛いものは痛いんだ。だからガラスが突き刺さった時の方がよっぽど痛かったし、それに比べればさっきのなんて一瞬さ」
 言い切る、断言する。しかし、こう言っても、まだ彼女はまだ暗いままだ。いったい何故だ……。
 わからず、わからなく、わからない。
 いつもとは違う彼女に最初は疑問を覚えた。だが、それは次第に疑問を越え、焦りに変わっていく。
 やがて、僕の思考が彼女の体調の危惧まで伸び始めたところ、彼女が口を開いた。
「私、知ってる。君の痛みを我慢できる、ってやつは精神的な病気だよ。幼い頃、精神に強いショックをおったためにかかる軽度の失感情症(アレキサイミヤ)。昔、なにか辛いことあったんでしょ?」
 そう問い掛けてくる彼女。
 昔の思い出、辛い記憶。
 ……知ったことではない。
「……別に」
「話して、くれないんだね」
「……」
 僕は悲劇の主人公を気取るつもりはない。昔は自分のことをかわいそうだなと思った。だが今はそんな昔の自分のことを嫌悪している。だから昔の嫌いな自分など、彼女に伝えるつもりはないし、その必要もない。意味がないことだからだ。
「私、君のこと、何も知らないんだね」
 憂鬱な彼女の言葉が曇った空に消えていく。日は隠れ、冷たさを感じる。
 今は、秋か。そんなことをぼんやりと思った。そして僕たちの間には自然と、会話はなく、お互いの帰路に向かっていた。近づく別れ道、薄ぼんやりと広がる思考。
 どちらかが悪いと言うわけでなく、何もない状態。だが明日はそんなものは消え去っているはずだ。なにもなく、いつもと同じように会話して……時間が過ぎればこれはなかったことになる。きっと、きっと、きっと……。
「ねえ」
「なに?」
「そんなに知りたいの?」
「うん」
「……気が向いたら、話すよ」
「ほ、ほんと?」
 彼女の言葉のトーンが高くなる。
 そんなに知りたいのだろうか? 聞いてもつまらないし、むしろ嫌な気分になるだろう。正直気が進まない。
「いつか、ね」
 でも僕はそう言った。必ず、とは言わない。僕の気が変わったり、お互い、この話について忘れてしまうかもしれない。
 そして僕はお互いが忘れてしまうことを願った、が。
 話してしまう可能性もある気がした。
 この一切の味方なき世界では、話せるとしたら、彼女ぐらいしかいないかもしれないから。

 ◇

 次の日、彼女は学校に来なかった。
 なぜ彼女は学校に来なかったのだろう……? そういった思考が何度もよぎるが頭を振って落とす。相当に親密な関係ならばその介入も許されるだろうとは思うが、僕と彼女がそこまで深い関係だと思わない。
 そして一日、二日と経ち……遂に一週間ぶりになるという日、吉野早枝が学校に来た。吉野早枝は、彼女は珍しく、今日は一人だった。誰とも関わらず、ポツンとした雰囲気。
 最初のうちは何人もの女子生徒が話しかけに言っていた。だが一言二言話すと離れ、静かになる。大方「今日は一人でいたい」とか、そんな感じのことを言ったのだろう。

 時は過ぎ、また何事もなくチャイムがなった。
生徒がぞろぞろと教室を出る。僕は吉野早枝の後ろを追おうと少し遅めに教室を出る。あまりに元気が無さそうなので少し驚かせようと思ったのだ。人を元気にさせようなんて僕らしくないのだが、それで、もし彼女が不快な気分になってしまったとしても、今までのイタズタの分をやりかえしたと思えばいい。
 そんなことを思い、少しワクワクしてくる。復讐だ復讐だ!……という感じに。
 特にあの下着の店のイタズラとか今でも覚えているレベルだ。男子高校生にトラウマを植え付けるなど、よほど強かな女子高生にしかできない。そうして帰路である電車の帰り道の途中のことだ。少し、彼女の様子がおかしい。ふらついている。
 周りには何人か人がいるが、同じ学校の生徒はいない。だからもう話しかけてしまおうか。こんなところで会うなんてストーカーみたい、とか軽口を叩かれそうだが、その時は僕が彼女のことをストーカーのように思ったときの話をして相殺しよう。
 そんなことを思いながら、階段を下る彼女に近づくため、少し歩を速める。

 その時、突然彼女の姿が揺れた。よろめく。落ちる、落ち――――――――
「危ない!」
 声が出、手が出た。よろめき、倒れていく彼女の腕をなんとか掴み、留める。背中にヒヤリとするものを感じつつも、ホッと溜め息をつく。だがもう片方の腕から下げられた鞄は肩からずり落ち、床へ落ちるのは止めることができなかった。
 ガシャーン。
 鞄の中の物が錯乱し、音によって周囲の人々が何事かとこちらを向く。……最近やけに人に注目されることが多いな。彼女の顔を見る。
 虚ろ。
 覇気がないとか、そういう次元ではない。今にも死にそうな、精気のない表情。
 それを見て、僕は……。
「あ……久しぶり」
 そんな彼女の唇から、最初に言うことがそれか、と言いたくなるような一言が漏れた。
「……久しぶり」
 辺りを見渡す。すでに人の注目はないも同然。辺りにはいろいろなものが落ちている。
「拾うの、手伝ってくれない?」
「ああ、いいよ」
 彼女が無理矢理作った微笑み、ばつの悪い苦笑い。それを受け、承諾。
 てきぱきと落ちたものを鞄に積め……、え?
 彼女の鞄の中に、明らかに学校には必要なさそうなものが見える。それは機械機具。いや……何かしらの医療道具。僕が動きを止め、その動作で鞄の中身を見られていることに気づいた彼女はサッと鞄を閉じた。僕はゆっくりと首を回す。
 そして他の錯乱物を見た。教科書以外にも、薬らしきものがいくつかあるのがわかった。
「あっ、あっ」
 それを見られまいとするかのように彼女が僕の視線の先にあるものを奪うようにして取り上げる。あまりにもわかりやすく、僕は彼女の今の状態を悟らざる得なかった。
「あ、相川くん……行こう……?」
 全てのものを鞄に積めた彼女は、問い掛けるように、確かめるようにそう言った。そして、怯えているかのように見えた。僕はなにも知らないかのように、なにも見ていないかのように、いつもと全く同じように、答える。
「ああ、そうだね」
 そうして一緒に電車に乗る。会話はない。沈黙。重く、それゆえに僕が見たものが現実なのだと、深く理解させられた。
 電車を降りる。送っていくよ、とか、体調は大丈夫? とか。そういうことを言いたかった。だが言えなかった。何故なら……――昔、最初に会ったときに言われた言葉が蘇る。
 ――私はもう死ぬからね。周りの人は腫れ物を扱うかのように優しく優しく接してくれるんだよ。でも君は直接それに突っ込んで、触れてくるでしょ?私のことを知っている人は誰もそうはしてくれないから君は珍しい人だねって――
 今更ながら、その言葉の真意がわかった。最初聞いたときにはとるに足らない言葉だと聞き流していた。だがさっきの行動を、薬らしきものを隠そうとした行動から読み取れることがある。二つを合わせればある答えにたどり着いてしまう。彼女は自分の死を悟られたがらない。そして周りの人からのなにかが、彼女にそう思わせている(家族や友人あたりだろうか?)。普段通りに接して欲しいという思い。そして僕は彼女の死など全く気にしないとしていた素振り。
 それらが全て、繋がっていく。だから彼女は執拗なほどに僕に会いたがった。事実を知らない友人となら『普段通り』過ごすことができただろう。しかし、それでは一方的な秘密を彼女は負うことになる。そしてそれは致命的に大きい、いわば心臓部分のような秘密だ。だから苦しく、自分が死ぬと知った時点でも態度の変わらない誰かを望んだ。
 動物園で彼女は言っていた。死が見えている人は『普通に過ごしたい』と願う。
 生に退屈し、非日常を願う僕と。死を目視し、日常を願う彼女。僕らは真逆のものを求め、奇跡的に望んだものを手に入れていた、そういうことなのでは?
 そして思う。日常を非日常と受け取らざるをえない状態の彼女は、もしかしたらかなり追い詰められていたのでは? 現実迫観念症。自分が死ぬという思想、意識はこの上なく彼女を苦しめるはずだ。彼女が非日常を考えるとき、自分の病気について深く意識してしまう。そして自分が死ぬことを思い出してしまう。そういった意識はリアルなものとなって、なにかしらのダメージを体に与える。この循環が延々と続く。
 ……寒気が、した。彼女は思った以上に、苦しい状況にあるんじゃないかって。
 もうすぐいつもの分岐路だ。ポツポツと会話はした。だが彼女の体調のことが頭に何度もよぎる。そしてそのことから考えられる事柄が勝手に展開し、彼女の内の死の波動を強く感じてしまう。
「あ、猫」
 彼女は軽く小走りになって、中に入った子猫を覗き込む。
「食べ物が入ってる。誰か親切な人が入れてくれたのかな?」
「……」
「……飼ってみようかな」
 そう言う彼女の瞳には再び輝きが宿っていた。
「わざわざそこまでする必要はないんじゃないかな」
「……なんで君はそんなこと言うの?」
 彼女が本気で不機嫌そうな声をあげる。
 それが気に入らなくて僕はフン、と鼻を鳴らした。
「私、飼ってみるよ」
「好きにしたら?」
「なんで……なんでさ。なんでそんなに君はそんなに冷たいの」
 いきなりそんな言葉が飛んできた。
 今の彼女は怒っていた。まるで溜め込んでいたものを、もう無理だといっているかのようで。
「心外だね。そんなつもりはないよ。君が好きなようにやればいい、という意味で言っただけだ。他意はない」
「……そう」
 ギスギスした雰囲気。
 なぜこんな風になってしまったのだろうか。どこで失敗したのだろうか。
 すれ違ってしまっている気がする。けれど僕は解決策を持たない。今までのつけとして、人とのかかわりを断ってきた代償として。
 彼女はダンボールごと子猫を持ち上げた。
 表情は笑顔で、嬉しげに子猫の頭を撫でている。だが、影があった。

 僕らは無言のまま進む。
 今度こそ会話はなく、とても静かに。
 しかし、
 ブオオォォォーン。
 突然、クラクションが鳴り響く。
 目の前には転んだ子供、そしてトラック。
 既視感。激しい既視感。なぜだかこの状況を何度か見たことがある気がする。そう、こういった状況になると必ず僕の隣にいた人が――。
 父が。
 隣の彼女が駆け出す、駆け出す。持っていた、子猫の入ったダンボールを足元に落として。

 それによって更なる記憶のフラッシュバックが蘇る、記憶が、こぼれる。

 ――父はいつも他人を優先した。
「待って!」
 ――死んでほしく、なかった。

 激しい恐怖。わけがわからない感情に胸が支配され、僕は衝動的に手を伸ばした。
 破片によって傷ついた方の左手、痛みがあろうとなんとか掴み、引き留める。
 腕を捕まれた彼女が振り向く。
 ――よかった、助けられた、死ななかった。
「なんで」
 しかし、彼女の顔は呆然としていた。
 なんで?
 僕を理解できないというその眼。
 次の瞬間、激しい音を立てて、トラックがスリップした。そしてその音で前を向く彼女。
 滑るタイヤは耳障りのする音を立て、なんとか子供をかわす。電柱にぶつかり、動かなくなる。
 全てが終わった後には、まだ耳に反響するクラクションの音と、一人の子供の鳴き声が残っていた。
「なんで!」
 怒鳴り声。本気の怒り、咎める目付き。
 僕の掴んだ腕は振り払われた。
 ――いつも僕が人の腕を振り払ってきたことは、
 ――こんなにも人を傷つけるのだとわかった。
「なんで止めたの! 子供が、まだ小さい子なのに死んじゃうかもしれなかったんだよ!」
 僕は彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。そうじゃないだろう、それを優先するべきじゃないだろう。一番優先しなければならないのは自分自身、自分の命だ。
 だが僕はなにも言えなかった。かつてない衝撃。救えたと思ったら浴びせられた冷水。
 心が、揺れる。
「なんとか言ってよ! ねえ!」
 僕は彼女に責められ続けた。なんと反応すればいいのだ。どう言葉を返せばいいのだ。僕は、どうすればいいのだ。
 揺れる感情は内面だけ、外面だけは必死に保ち、無表情。思考が凍りつく。まともじゃない、ごちゃごちゃしたものだけが、頭を支配する。
「ぼ、く、は」
「なんで子供の命を優先してあげられないの!」
 その言葉で火がついた。感情が沸騰し、魂の奥底から怒りが沸き上がる。
 なんで、なんで、なんで、なんで。
 自己犠牲。僕が最も嫌う言葉。なんで平然と自分の命を捨てられる。死ねばそこで終わりだ。目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。
 死ねばすべてが無に帰す。自分が死ねば、自分にとっての世界は終わる、何かを救ったとしても、それが認識できないところに意識が追いやられるのなら、すべてすべて、意味のないことなのに。
 なのに……、
「なんで……なんで自分の命を大切にしないんだ! そんな子供より、なんで自分の命を優先にしないんだ!」
 叫ぶ。怒る。喉が枯れるほどに。
「違う! 私の命より、こんな少ない命より! 絶対に子供の命が、大切に決まってる!」
 彼女もさらに強い怒鳴り声。
 彼女の考えは許容できない。そうだ、それが自己犠牲などだ。無意味で最悪の選択肢。だって、そうやって――僕の父は死んだ。
「人間は! 自分の命を最優先にする生き物だ! それは、間違ってる!」
 やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。
「違う! 人間には、感情がある! 私には、感情がある!」
 違う。死なないでくれ。お願いだ、置いていかないでくれ。
 独りに――しないでくれ。
「ふざけるな! 黙れ!」
 そして全ての感情が圧縮され、全力で怒鳴ったその声が、静けさをもたらす。
「う、あ」
 たじろぐ彼女。瞳に涙が滲み、後ずさる。
 僕の今の顔はどうなっているのだろうか。
 憤怒の表情? 鬼の表情? 悪魔の表情?
 彼女の顔には怯えが走っていた。
 僕が本気で怒鳴ったから、本気で怒ったから。
「……もう、いい」
 そう言い、彼女は背中を向けた。
 足元の子猫の入ったダンボールを拾い、
「落としちゃってごめんね」と声を掛ける。

 僕は、僕は。

「…………」

 彼女は去った。
 いつのまにか、子供は消えていた。
 トラックの運転手らしき人が僕から眼をそらし、電話をかけ始める。

 僕は、僕は……。

 ◇

 僕の隣からは彼女が消え、もとの日常が戻るかと思われた。それはまさしく、その通りだろう。元通りになったのだ。
 この数週間、彼女はまちまち学校を休んだ。
僕は真の意味で一人となり、彼女はますますこちらを見なくなった。いや、それは元々のことで、学校という場では僕と彼女は全く接点を持たなかった。それが外でもそうなっただけだ。携帯を見てもなにも起きず、僕は誰とも会話をすることがない。
 淡々と生きる。誰に何を言われようとも、何をされようとも。全てを中途半端にこなせるから、時間は止まらず、ゆっくりと進む。
 そうやって日常は流れていく。たぶん、退屈な日常。だが、それでも生き続けた。意味などとても見い出せない。しかし、これもよくよく考えればいつものことだ。色あせた世界で、生きる理由が欲しかった。でもそんなものはどこにもない。それでも生きているのは、ただ単に死にたくはないからだ。始まりに戻っただけ。なにも変わっていない。
 吉野早枝がこちらを見ていた時があった。。体調は悪そうで、それでも後悔しているかのようにこちらを見てくる彼女。だが僕は無視した。もう関わらない方がいい。土台、無理な話で、間違っていたのだ。
 ……僕は、許せないのだと思う。偽善行為が、自己犠牲が。
 自分の命を大切にしない、そういう人間が。
 けれどこれはどこか矛盾した結論だ。腹を立ててひねくれてしまった子供だ。けど、僕にはとても無理だった。母と同じように、あまりにも思想が違うと拒絶感が出る。どうしても、どうしても。
 ――僕は、愚か者だ。
 本当は寂しいくせに。
 
 ◇

 そうして日常が過ぎていく。なんの障害もなく、何の喜びもなく。だが苦しくはなかった。ただ一つ、心にはしこりが残っていたけども。
 彼女の体調は悪い時もあれば良いときもあった。悪い時は一人でおり、良い時は誰かと喋っている。わかりやすかった。だからこそ、一人でいて体調が悪そうな時、余計に心配になった。
 そんな自分が嫌だった。彼女にはもう関わらない。そう決めたのに何を勝手に彼女を心配などしているのだろうか。僕にはそんな権利、ないくせに。なのに心配だけはする偽善者だ。なにもできないくせに誰かを心配していい気分に浸ろうとするクズ野郎だ――。
 また、帰宅のときとなった。
 元の日常。望んでいた時。
 穏やか。一度苦しみを乗り越えたからか、余計にありがたさがわかった。
 ――だが、
 隣を吉野早枝が歩いていく。ただ一つの悔やみ。もう手が届かない、いや、手を伸ばしてはならない花。それは今にも萎れそうなのに明るく、真実を知る僕にとって胸が痛かった。彼女は俯いていた。僕に気付かず、すれ違って。
 僕は後ろを振り返った。
 ヨロヨロとふらつき、歩く彼女。時折壁に手をつき、何かから逃げるように無理矢理足を動かす。死神から逃れようとのたうつ弱い人間。
 彼女は死ぬ。それが決められた運命で、逃れる手段はない。僕が介入する余地なんかない。
「……」
 後悔、してるんだろうか? 彼女との決裂を。僕がこれからなにもできないということを。僕は彼女を助けたいんだろうか?
 まさかまさか、そんなこと、できるはずがない。人間が嫌いな僕が誰かのためを思う? それは面白い冗談だ。馬鹿げてる。
 そう強く信じている。なのに胸が圧迫される。騒がしい、煩いほどに頭の中で警報が鳴り響く。僕は彼女に話しかけたいから、だから自分の欲望に素直になれと、それで戻れと騒いでいるのか?
 答えは出なかった。だが、思い知った。出来事は唐突にやって来るものだと、今を、現実という名の現在を、必死に生きなかった僕は間違っていた。
「……え」
 背後からドスン、と鈍い音。沈黙の廊下に音が反響し、響くそれは。
 死の音だった。
 命の終わりは唐突にやってくるからこそ、人は己の命を大切にしなければならない。
「う……そ……だ」
 彼女は倒れていた。頭の中が熱かった。暖かみなど皆無で、冷たささえ感じる狂気。
 ――嘘だよ、ね?
 また、死ぬのだろうか。父が死に、今度は、次に死ぬのは誰だろうか。
 現実を受け入れられないガラクタの脳味噌。妥協し、諦めて生きた僕は――。
 意識を切り換える。なにもかもわからない。でも、反射的に体は動いた。杖など放り出し、何を捨ててでも、走った。がむしゃらに彼女を抱く。
 その時、彼女が激しく咳き込んだ。
「死に……たく……ない」
 うわ言のように紡がれる言葉。衝撃を受ける。いつも気丈に振る舞っていた彼女。死を恐れていることは知っていた。死が近いことも知っていた。でも、いつも笑顔だった彼女を見ているとそのことを忘れてしまい……。
 彼女の瞼がびくつく。そしてうっすらと目を開け、僕を見た。
「あい、かわ……くん?」
 彼女の瞳にあるのは後悔だろうか、恐れだろうか。最後の僕への印象は、最悪のはずだ。それなのに……。
「ごめん……ね」
 心臓が飛び出そうになる。予想外の一言に、なにも反応できない。
 本当は謝らなければならないのは僕の方なのに。
 僕の態度が悪かったのに。
 君はなにも悪くないのに。
 自然と涙が溢れ、ただただ問う。
「なん、で……?」
 そう呟いた僕の言葉は彼女に聞き入られなかった。
 ゆっくり閉じていく瞼。最後を予感させるような怠い動作。
「ああぁ……あああああああぁぁ!」
 死んでほしくない。生きていて欲しい。生きて……。
「だれか……だれか!」
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 こんな予感が当たるわけがない。父の背中と重なって見えたなど、こんなものが当たるはずがない。嘘に決まってる。助かるに決まってる。彼女はあんなに笑っていたではないか。元気だったではないか。僕が覚えている彼女は、そうだった。
「だれか、来てくれ! だれか!」
 もう僕にできることはほとんどなかった。僕の力では無理だ。いくら頭を働かそうが、心臓が破裂し、それでも体を動かそうが。
 ――僕はあくまで人間で、無力な個人。彼女を治すことは、できない。
「だれか! だれか! 助けてくれ!」
 できることは願うだけ。奇跡を信じ、叫ぶことだけ。
 喉が裂ける。絶叫を繰り返し、全身から力を絞る。
「助けてくれ! 助けてくれ! 助けて……!」
 喉が枯れていく。声は掠れ、音は小さくなっていく。
「助けて……! 助けて……! だれか、助けて……助けてください……!」
 最後に残った声は掠れ、血の味が滲む。それでも、それでも……僕は。

「おい! だれか! 救急車を呼べ!」
 目の前に教師が立っていた。
 皆が僕らの周りを囲んでいた。
「運べ!」
 優しく持ち上げれ、彼女の体が大柄な教師によって運ばれていく。
 僕の顔は涙でぐちゃぐちゃで、みっともない姿で、遠ざかる彼女に手を伸ばす。
 眼に溜まった涙は熱かった。だが頬を伝い、僕の手へと落ちた雫は、冷たかった。

 ◇

 僕は病院にいた。吉野早枝の手術が終わるのを待つためだ。
 手術は吉野早枝の専属医が行った。世界的にも有名な医者らしく、腕は確かだという。
 医者が言うには、見つけるのがもう少し遅かったら危なかったらしい。だがおかげ様で何の問題もなく手術は成功しそうだ、と僕の手を握った。
 だが吉野早枝の母はそうは思わなかったようで。
「また、あなたなの⁉ あなたは早枝の何なの⁉ どうせ、あなたが何かしたんでしょう! なんで早枝をいじめるの⁉ 早枝はこんなに、必死に生きようとしているのに!!」
 激しい剣幕でそう言った。
 理論もへったくれもないこじつけ。いつもの僕なら鼻で笑い、終わったことだろう。だが僕は……精神的に参っていた。心が壊れそうだった。彼女は死なない、だがその死を強く意識したことによって、世の中の全てが恐ろしくなった。
 全部、全部が怖い。
 後ずさる僕。勢いに乗る吉野早枝の母。
 廊下で喚き声が反響する。
 思わず、僕が全て悪いのではないか? そんな気分になりそうになる。
 どこまでも落ちていくような感覚。たぶん、僕は変わってしまった。これがいい方向なのか、悪い方向なのか、わからない。人の言葉を受け止めるようになり、傷つきやすくなってしまった。これは、こんなものは……ただの弱さだ。
「智子、止めなさい」
 制止が入る。
 威厳のある中年。おそらくそれは、吉野早枝の父。
「信司君、だったかい?ありがとう。あのお医者様が言ったとおり、娘は君のおかげで助かったも同然だ」
「い、え」
 まともに目を合わせられなかった。吉野早枝の父は口では感謝を言っている。だが本当は僕を恨んでいるのではないか? ……そんなことはない。わかっている。けれども頭ではわかっていても、感情がそうだと言ってくれない。世の中の全てが疑わしく見え、全てが僕を責めている気がした。――あの日、世界の全てを敵に感じた時より、ずっと強い悪意を。
まるで本当の罪人のような態度をとってしまう僕に、吉野早枝の父は僕の肩に手をポン、と置き、去って行った。
 吉野早枝の母は残るらしいが吉野早枝の父は仕事があるらしい。
今は七時。僕は学生のため、もう帰りなさいと言われた。僕が不安そうな顔を見せれば若い医者は「絶対に大丈夫だ。だってあの人は……」と、遠い目をしながら言った。その様子から吉野早枝の専属医への信頼が伝わってくる。ならば、大丈夫だろうか。
 正直に言えばここに残りたいという気持ちの他にも、逃げ出したいという思いがあった。
 ここに残ったところでどうする。彼女と顔を合わせるのか? 僕は彼女に何を言うのだ? いったいどんな顔をして?
 ……なにもできない。
 狂おしいほどの寂寥感。はっきりと自覚した。彼女はもう、僕とって大切な人だと。会いたいという切実さ、会ってはならないという恐れにも似た義務感。二つに挟まれ、苦悩する。だが、心は割れていた。ガラスのように、あと少しで壊れてしまいそうなほどに。意思力がなく、欠片ほどの勇気すら出ない。
 今は全く、痛みに耐えられる気がしなかった。もっと、強い人間でいたかったのに。
 僕はその場から逃げ出した。

 ◇

 病院から抜け出した時、僕を呼び止める声があった。
 それは――。
 「……服部」
 彼女と同じ、クラスの人気者。そういう人間が、僕を見つめていた。
 それが恐ろしく思えた。責められているみたいで。でも責められても当然だと思った。
 そう思っていたのに。
「なあ、相川」
苦しげに、彼は口を開く。違和感を感じて、僕は逃げ出そうとした足を止めた。
「おまえ、吉野さんのこと大切なのか?」
「……」
「何とかいえよ」
 彼の声には怒りが混じっているように見えた。やるせなさ。
「どうせおまえは俺の質問をはぐらかして逃げようとするんだろうな。逃げたがっているんだろう?」
「……関係ない」
「おまえ、うぜえよ」
 肩を掴まれる。力は強い。
 殴られるかも、と思う。痛みには強いつもりだ。けど今、僕は痛みに耐えられるだろうか?
 そんな覚悟をした。けれど、暴力なんてものは訪れなかった。
「おまえ、吉野さんが倒れた時、必死だっただろ」
「……」
「そりゃ、見てればわかる。当然だ。だから俺は、おまえにこういってやるんだよ」
 決心して、疲れたような顔。
「おまえ、吉野さんを避けたの後悔してんだろ。なら今変われよ。理由なんていくらでもこじつけれるだろ。人が死にかけた。だから心機一転した。吉野さんに会おうと思った。それでいいだろうが」
 ……彼は。
「お前なんて嫌いだよ。でも人が人を思うやることは正しいんだ、俺にとっては。だからお前が吉野さんのことを思うのは正しいんだ。きっと俺なんかより、お前の方が必死だったから、お前がやるべきなんだ」
「……」
「お前のことなんて嫌いだよ」
 服部は吐き捨てるようにそう言った。彼の声は震えていた。
 理由。僕が彼女に会う理由。そんなもの、ない。
 そう思っていたのに、そうじゃないと彼は言う。……どうして?
 彼の様子から、悔しさから、僕は彼のことを理解した。彼は――。
「わかった、やるよ」
 彼の思い。やりたくないのに、僕に声をかけた。僕はその思いを、汲み取らなければならない。
「くそっ」と彼は怒り交じりに言う。
 服部が去っていく。

 ◇

 なんで彼の言葉は、これほどにまで胸に通ったのだろうか。
 たぶん、嬉しかったからだ。僕は他人を心配できる人間だと彼に思われたのが、嬉しかったからだ。そして彼の人柄が信頼できたから、本当は彼女に会いたいのは彼なのに、僕に託そうとした彼だから、だから彼が僕の善性を認めてくれたのが嬉しかった。
 ずっと苦しかった。心配、気遣うこと、それを偽善だと思ってしまうこと。
 本心なんてわかってる。僕は彼女といて楽しかったのだ。でも今更戻れないから。そう思って、何もできずにいた。僕は彼女を素直に心配したかった。
 それなのに行動できないのは間違ってると、服部は言った。

 ◇ 

 面会時間ぎりぎり、僕は彼女に会いに行く。
 彼女の両親はいなかった。そして病室に居座る彼女を見た瞬間、疲れていたはずの心臓は高鳴り、幸福感とも緊張感ともつかぬ感情が押し寄せてきた。
「久しぶり」
 勇気を振り絞ってはなった一言。
 そんな一言に、目の前の人物はなんでもないようにニカッと笑う。
「ヤッホー」
 吉野早枝が笑った。
 それを見ると、なんというか、つられてしまうというか、なんというか。
 なんだかな。
 自然と出てしまう自分の素直な笑顔が気恥ずかしい。
 話してみれば、関係は一瞬で元に戻った。けれど、と思う。僕は気がかりを口にする。 
「そういえばさ」
「なーに?」
「猫、どうなった?」
「猫ちゃん? 飼い主が引き取りに来たよ。泣いてた。ごめんねっていっぱい言ってて、でも幸せそうだった」
 ならきっと、あの猫の将来も安泰だろう。ホッとする。だがよかったね、とは決して言わない。今更言えない、だから。
「えいっ!」
 落ち込んでいると、いきなり頬を突っつかれた。僕がムッとしたような顔をすると彼女は僕の前で爆笑して見せた。人としてあり得ないと思った。彼女は明らかに調子に乗っていし、理性の枷が外れているのだから、天罰めいたものが降り注いでも自業自得に違いない。
「ああ、心見切ってるからあんまり考えこんじゃだめだよ」
「……なんのこと?」
「さあね」
 読まれている、のだろうか。どうして?
「たぶん、私が考えなしだったんだ」
「どういうこと」
「君は他人の不幸を喜ぶよなやつじゃないってこと!」
 確信があるかのように、彼女は言う。
 なぜこんなことを彼女はいうんだろうか。
 なんだかなあ、と思っていると、
「ねえねえ、君さ」
「なに?」
「私、聞いたの」
「……なにが?」
 彼女が改まって、いきなり話を始める。僕は気の抜けた返事を返し、彼女は俯いた。
「君の、お父さんのこと」
 ――ピシリ
 その一言。たった一言で空気が凍てついた。それまでの暖かさは消え、底冷えするような冷めたさが、空間を支配する。
「……で?」
 俯きながらの、自分でも驚くほど冷たい一言。ひそかに焦りが心中を支配する。
 彼女の方を見れなかった。見たら怒りが爆発してしまいそうだったから、抑えた。
 父のことに触れて欲しくなかった。例え彼女でも、世界中の誰であっても、僕は自分の思い出に触れられることを拒んだ。それだけは、触れてほしくなかった。
 だがその拒絶をえぐりこむようにして彼女は進む。僕の意思を踏みにじる。
「君のお父さん、他人のために死んでしまったって」
「――うるさい」
「人を救うために、自分の命を懸けたって」
 嫌だった。父が他人のために命を懸けたことが。
 だから聞きたくなかった。尊敬する父を、嫌いになりたくなかった。
「うる……さい」
 父は僕をも救った人だから、憎めない。憎みたくない。だから目を逸らしていたい。
 父が死んだあのことは、なかったのだ。自然と死んだわけじゃないことはわかっている。だが、頭の隅に追いやる。忘れたわけではない。ただ、直視したくなかった。今は父のことが嫌いではない。けれども、自己犠牲は許せない。
 だが、彼女は苛むように僕に言う。
「でもそれは立派なこと。人のために自分捨てられる勇気がある人なんて、なかなかいない」
 穢すな。わかったような口をきくな。自分が失ったことがないから、だから平然と言える。
「だ……ま――」
「だから、偽善と、人間が、嫌いなの?」
 その決定的な一言で、自分の中の何かが切れたような気がした。
「黙れ」
 低く、唸るように言う。感情が、怒りが、頭が沸騰するかのように、熱く熱く、赤に染まる。
 そうだ。確かに父は立派だ。結果として、父は他人を救うことができる、そういう人間だったから。けれど納得できないのは、僕を見てくれなかったことだ。僕のために生きようとは思うなかったことだ。父はきっと満足して逝った。自分は人を助けたんだと。残された息子がなにを思うかなんて、点で考えちゃいなかった。たぶん、自分が死んでも息子は立派にやっていけると、そう期待していただろう。
 でも僕には無理だった。立派であれない。父の自己犠牲が許せなかった。僕が望んだのは父が素晴らしい人間を体現することではなく、ただ僕の父であってくれればよかっただけなのだ。
 だから目の前の存在が許せない。自己犠牲を行った父が偉大だという人間のことが。
 強く睨み付ける。もう、彼女が憎い。
 なにも知らないくせに。父がどれだけ偉大だったか、知らないくせに。ただ知ったように結果を口にし、世間一般的には真理とされることを、淡々と喋るな。そんなものは、僕が真理として認めない。あの日、喧嘩した日のように、それよりも強い怒りに、憎しみをも加えた視線を彼女に注ぐ。
「私にはわかる」
「君なんかが?」
 せせらわらう。なにを気取っているのだ。なにがわかるというのだ。もうあの日から、幼い頃から世界の全てが敵だった。それを暖かい、クラスの人気者であったお前がわかるわけがない。こちらは氷の陰の世界だ。そちらは日の当たる陽の世界だ。ぬくぬくと生きてきた、凍えを知らないお前が……なにがわかる?
「私ならわかる、わかってあげられ――」
「知ったようなことを、言うな!」
 彼女の言葉を掻き消すように、どなり散らす。目の前の人間を拒絶する。
 僕は偽善が嫌いだ。外面だけ理解したフリをする人間が嫌いだ。だから服部のことを嫌った。だが今、目の前にいる人間はそれ以上。外面だけでなく、全て理解しているフリをする。ほんっとうに、こういうやつが、嫌で嫌で仕方がないんだ。
 見るな、触れるな、近付くな。
 本気だった。憎しみも、敵意も、なにもかも。しかし、彼女はあの日と違ってたじろかない。僕の視線を正面から受け止め、一歩近づく。
「くるな」
「イヤ」
 簡素な拒絶に簡素な否定。
 彼女は僕の手を握り――僕は振り払えない。
 自分の動かない体に憎しみを覚え、代わりに言葉で彼女を傷つけようとした。
 『死ね』その呪詛で全てが終わる。 
「私の親も、死にかけたことがあるから」
 だが呟かれた一言は、確かに、僕の何かの動きを止めた。
「な……に」
「君と違ってお母さんの方。だいぶ昔の話でだいたい小学一年生の頃かな。私は小さい頃からやんちゃで、轢かれかけたんだよね。実際には私もお母さんも、なんの傷も追わなかった。でも『あと少し車が来てたら』って。……その時の恐怖を今でも覚えてる」
「……」
 ……そんなもの、どうせ。
「昔の記憶なんて、すっかり色褪せた。でもそれだけは濃い、とても濃い恐怖と怯えの色。自分が死ぬのと、同じぐらいの恐怖。……比べられるようなものじゃないかもしれないね。でも大切な人が死ぬのは怖い。世界で独りになってしまうような感覚は――孤独は怖い」
 握りしめられた手に力が入るのを感じる。彼女の瞳は少し、潤んでいた。
「私のお母さんは死んでない。だから君の気持ちの全てはわからないよ。でも欠片だけ、それだけならわかる」
「そん……なの」
 知ったような、フリを……。
「ごめんね。辛かったよね。君にとって周りは理解をしてくれない敵だった。独りだったから他の人と関わらなかった。その方が楽で、賢明だと思ってたから」
 彼女が僕を抱き締める。僕は弱々しく抵抗するが決して離されることはなかった。
「……僕は」
「私は全部は理解できない。でも欠片だけ、少しだけでいいから君の心を」
 彼女を抱き締める。涙がツーと流れ出る。
 誰にも理解されないと思っていた。

 父の行動は素晴らしかった。

 でも子供にとって違った。そんな派手なことはしなくていい。ただ、背中を見せ続けてくれれば、それだけでよかった。
 それでも彼女は理解してくれた。歩み寄ってくれた。僕の最も触れてほしくないところ、同時に最も触れてほしくなかった片隅。僕は世界にとって異端だった。でもそうじゃないと彼女は証明してくれた。理解は欠片のみでよかった。たったそれだけの量で、それで。
 心が開いた。自分のことがわかった。全部、下らない意地。
 心閉じていないと、無駄に傷つくだけだったから――。
 でも、今なら。今なら僕は、ようやく人間になれるかもしれない。
「ごめん、ごめん……。僕は君を何回も傷つけて」
「いいよ」
 彼女が笑った。涙で目を濡らし、それでも嬉しそうに。
「何だって償うよ」
「もぉー、そんなのいいって。気にしないで」
 空気が戻った。いつもの明るい彼女に、戻った。
 償う。ただの自己満足かもしれない。彼女は気にしないでいいと言った。だが僕は、心に誓う。助けられたから。救ってもらったから。
 ――絶対の厳粛な心への誓いを。
「いつまでこうしてようかな?」
「ん?」
 彼女が笑う。そして主張するように抱き締める力を強めて――僕は慌てて身を離した。
「純情だね」
「うるさい」
 彼女が頭を傾け、僕の肩にもたれかかる。いつもの僕なら拒絶する。だが、そういう気には、少なくとも今は、ならなかった。
「疲れた。少し寝るよ」
「女の子の隣でー? 幸せ者だねー」
 クスクスと笑う彼女。おちょくってくる彼女に少しイラッとさせられる。だがこの関係が心地いい。幸せだ。
 うっすらと意識が、安らかに沈んでいく。
「私も疲れたよ。いろいろと本気だったからさ、寝るね」
「おやすみ」
 そうして僕らは目を閉じた。暖かさを感じつつ、優しいまどろみの中へ。
 寄り添う彼女と僕の姿は、他の人から見たら“人”という文字に見えたかもしれない。

 
 あの後、僕は母との決着をつけなければいけない。そう思った。
 彼女が父のことを聞いた、というのは母以外にあり得ない。昔の僕だったらそんな母に対して怒りを抱いただろう。だが今は違う。たまたま結果がいい方向に動いたというのもある。だが、母は僕のことを思っていてくれていたのだ。いまだに思想は相容れない。それでも、このままではダメだと思った。
 今更大きな行動は起こせない。だから小さなことから、頑張ろう。
 本当に小さな一歩、確かな一歩。
 ある時、黙って済ます、家族の食事の時。
「母さん。いつもごはんありがとう。それと、今まで、いろいろとごめんなさい」
 小さな声で呟き、自分の部屋へと戻った。
 後から母のすすり泣く音が聞こえた。
 次の日の朝は母の表情が晴れやかだった。ポツポツと、少ないながらに会話した。
 家族。
 今ようやく、僕はその意味を真に感じてる。

 クラスでは僕の扱いがだいぶ変わった。どうやら彼女を必死に助けようとしていたことからイメージが良くなったとか。こういう好印象なイメージになったのは理由があるらしい。最初はそうとうイメージが悪かったらしい。彼女につきまとう悪い虫、ぐらいの印象がクラスでは蔓延していたのだ。しかし、それは違うと触れ回った人物がいたそうだ。彼女から聞いた話なのだが、あの服部がやってくれたことらしい。正直静かに過ごしたい僕にとってありがた迷惑ではある。
 そう思っていた。けれど、服部と彼女という二人の人気者のおかげか、僕に対して興味を持つ者が出始め、しばしば話しかけられるようになっていた。僕の反応は「ああ」とか「そうだね」とか、会話をぶち切るような対応を一貫していたのだが、それで大人しい生徒だと思われたのだろう。敵対しない相手なら普通に接すればいい。大抵の人はそう思うものだし、僕もそう思う。……いや、こんなことをいっているが、僕の反応は……かなり柔らかなものになっていた。人の気持ち。それを理解しなかった僕。けれど今は……そうではない、のだと思う。たぶん、ここが原因なのかな、と思う。
 まあ、これらのことは、八割方、服部の手腕によるものだ。
 だが意外と、悪くない。
 そんなこんなで僕は今、嫌われていない。いや、それよりも厄介な状況に追い込まれていると言えるだろう。例えば、これは僕をますます追い詰めるような出来事だった。
「ジャン! 私の彼氏、相川君でーす!」
「……え?」
 クラス中が静かになる。
「え? って言われてもね? ほら、君と私、契約したじゃん」
「え? なにが?」
「私の物になってくれるんでしょ?」
「いや……いろいろおかしい気が……。それと一応否定しておくと記憶にないよ」
「どう皆! これが私の相川君! 面白いでしょ!」
 騒ぎとなる。僕は彼女を引っ張って廊下に連れていく。追ってくるものはいない。
「これだから君という奇想天外頭のおかしいびっくり箱の――」
「お、いつもの呪文の詠唱が始まった」
「ひとの話を聞こうか?」
 こんな感じで、無理やり僕の印象の改善が進められている。結果として、何人かと喋るような仲にはなかった。
 ……思ったほどは、悪くない結果だった。

 ◇

「……服部。僕を助けたの、お前だろ? とりあえず、ありがとう」
 隙を窺って、話しかけてみる。
「お! バレてた⁉」
 ニヘラとわざと気持ち悪く笑う服部。なんでわざわざそんなことするのか……。だがそれも人気者としてのひとつの要素なのだろうか? いまいち、わからない。
「服部」
「お、なんだ?」
「なんでわざわざ僕を助けたのか、聞こうと思って」
「バカだな相川。困ってる人がいたなら助ける、普通だろ?」
「ほんとにそう思ってるの?」
「正義は勝つものだ。だから当然だ」
 僕が疑わしそうな視線を向けると服部は笑った。
「はいはい、いくら俺だって全部正義が勝つなんて思ってねーよ。でも助ける能力があるなら、自分ができることなら、やるんじゃね? こういうことを身の程を正しく知るって言うんだよ」
「へえ。初めて聞いたよ、そんな言葉」
 僕がそう言うと服部は嬉しげな表情をし、白い歯を見せる。
「だろ? たまに俺は言葉の発明家になるんだ」
 服部は嬉しそうだ。しかし、ふとその表情が影に染まる。
「なあ愚痴、いっていいか?」
「どうぞ」
「お前のことが羨ましいよ」
なるほど、と僕は思う。
「でもそんな私情で協力しないのは嫌だから、俺はおまえがどんな奴か知っているから。どんなに吉野さんのことを思ってるか、知っているから」
「……」
「だから、祝福されるべきだと思ったんだ」
 服部の気持ちはわかってる。吉野早枝が好きなのだ。だから今、彼女の隣にいる僕を羨ましく思っている。
――だが、真実を知った時、それでも彼は僕の立場を望むだろうか?
 服部の横顔を凝視する。「なんかついてるか?」という言葉に首を振る。
 きっと、それでも望むだろう。服部(コイツ)はバカだ。どこまでも真っ直ぐで純粋。彼女と似た類いの珍しい人間。今までの行動を見ていればわかる。感情のままに、打算なく行動するバカらしさは――少し、羨ましいかもしれない。
「服部、お前には感謝してる」
僕はそれだけを口にする。
彼には信念があった。きっと、彼女とよく似た、誰かを助けないと死んでしまう特性を持つ、奇特な信念。僕はそれが、嫌いではなかった。
「照れくせーよバカ」
服部が笑った。たしかに辛そうだけども、納得している。そんな感情を僕は彼から読み取った。

 ◇

 土曜日。休日ということで僕は彼女と待ち合わせをしていた。
 遠目から集合場所である噴水場を見つけ、時計を何度も確認する彼女が見えた。
 僕はわざと時間に遅れてきていた。早く来すぎたら「楽しみにしてたでしょー」などと言われると思ったからだ。頭の中でこんな高度な情報戦を勝手に繰り広げている僕はバカなのかもしれない。
 本来、五分おくれで着く予定だったのだが、いろいろあって十分の遅刻だ。
「あー、来たー! もう! 来ないかと思ったんですけど~!」
「楽しみで眠れなかったんだ」
「うわっ、うそつきの顔だ」
「まあ、普通に遅刻した。ごめん」
「もうっ! しっかりしてよね! 私の時間は有限なんだから!」
「わかってるよ。時間にルーズでごめんね」
 有限。その台詞が頭の中で反響するも、次の瞬間には彼女の動作によって掻き消された。
 腕に熱が籠り、彼女が頭を擦り付けてくる。振り払うことはせず、僕は言う。
「歩きにくい、離れて」
「もーう、照れちゃって~」
 そうは言われはしたが僕の顔は無表情だ。いつもの何やってんだコイツ、の顔。実際の心中はそうではないのだが、感情の乱れを悟られたら負け、なかば本能が僕の態度を決め付けた。
「はいはい。で、どうするの?」
「んー、どうしたい?」
「どうとでも?」
「じゃあ褒めて」
「何を?」
「……もうっ!」
 突然彼女が僕の脛を蹴りつけた。粗野で暴力を振るう彼女はきっと女の子らしさを出す養分が足りていないのだろう。
「はいはい、かわいいよ」
 プイッ、と背後を向ける彼女に呟くように言った。そして彼女は振り返る。
「なにか言った?」
「……なにも」
「そう」
 お互いに装うのはなんともない、という雰囲気。しかし、彼女の機嫌は良くなったようだった。
「私のこのスカートとか可愛くない?」
 彼女はそのスカートを両端でつまみ、お辞儀。僕としてはまず今後の行動をどうするのか決めて欲しいのだが、山の天気のようにすぐに機嫌を変える彼女にそんなことを言っても無駄だろう。
 ひとまず無難なことを言っておく。山の天気を怒らせたら今後の予定が遭難する。
「いいんじゃない?」
「でしょー。女子力高いでしょー」
 適当な一言にも気をよくしてくれたようで何よりだ。
 ……まあ、いつもの彼女なのだろう。
「あのさ」と彼女は言う。
「あのさ……私が倒れた時のこと、本当に、感謝してる。ありがと」
「え? なんだって?」
「もうっ」
 彼女は楽しげに笑う。今更、気にすることじゃない。君の気持は、届いているから。
「いや、正面からじゃ恥ずかしくてね。君、命の恩人じゃん? で、その埋め合わせ、何が欲しい?」
「自由」
「広々とした空間に行きたいのかー」
「なんでもいいよ」
「ねーねー、もっと体とかそこら辺のこと期待してたんだけど」
「ドンマイ」
「うん……頑張るよ私」
「ああ、今までの全部冗談だから気にしなくていいよ」
「むぅ、そう。とりあえず、仕方ないから予定決めよっかー」
 僕の言葉もまた、彼女の気を晴らしたようだった。テンションをおよそ360度を二回転した彼女は再びうるさいテンションに戻り、宣言する。
「はいやー!」
 そう言って出てきたのは何かが詰め込まれたバインダーだ。
「デレテレッテレーン♪ 旅行のパンフレット~!」
 バインダーの中には大量の旅行パンフレットが入っていた。そのためバインダーはとても分厚く、重そうだ。
「この私の計画力を見て天才って呼んでもいいよ」
「バカの天才」
「素直じゃないなあ!」
「とりあえず、僕が行きたいところは特になし。近場ならどこでもいいから」
「あ、もう神社行くって私決めてるから」
 じゃあ今までのやり取りは何だったのだろう?
 そう思うが、彼女のことを考える。彼女は、死ぬ。僕は神を信じない。だが彼女は信じているのかもしれない。だから彼女は神頼みでも何でもしたい状況。だからすがり付く、奇跡を信じる。長い間病気と戦い続けた彼女だ。今更そんなものを信じているわけではないだろう。だが、彼女の気持ちが少しでも楽になるのなら……。
「了解、文句を言いたいところだけど我慢してあげよう」
 彼女の指差した神社は遠い。だから僕は近場が良かったのだが。
「あ、ちゃんと楽しいデートコースも組み込んでおいたよ!」
 もっと違う場所で気を利かせて欲しい。

 バスで三時間。歩いてさらに三十分。この長い旅の時間を僕は読書、彼女は携帯ゲームらしきものをして過ごしていた。僕がなんだろう、と思って覗き込むと彼女は嬉しそうにそのゲームの良さを語った。そうして神社までやって来た。有名どころなようで、今は初詣と言うわけではないのに人がぼちぼちといる。だが、さすがにこの季節のため、人口密度は少なく、空間には風が通る。
 今は秋。穏やかな天気は暖かく、彼女は上着類を持ってきていない。反対に用心深い僕は上着を持ってきていた。少し暑い。
「あなたは神を信じますか?」
 鳥居の前、通りすぎる前の前座というわけか、彼女がいきなりそのようなことを言い出す。胡散臭い宗教団体が使いそうな言葉に、きっぱりと答えた。
「信じません」
「なら! ここから先は通さない!」
 立ちふさがり、両手を広げて威圧行為。
 彼女はラスボス臭のあるオーラを放っている。
 僕は素通りして中に入った。
「まって~~」
 僕が早足だったため、彼女は走って僕に追い付いてきた。僕は胡散臭いものを見る目で彼女を見る。
「神様信じてないのに来たの?」
「僕が来たいと言ったわけじゃないんだけど」
「じゃあ、あそこの神聖そうなでかい木蹴れる?」
「僕は暴力反対の平和主義者なんだ。例え無生物の自然にだろうと、愛情を注ぐことが正しいと思ってる」
「ホトケかよ」
 そんな彼女は鳥居を軽く足でつついた。なんて罰当たりなんだ。
「君は神様を信じてないの?」
「神様? うーん、微妙。ビミョーだね。だって私この若さで死ぬし」
 苦笑する彼女。たまに出る死ぬ死ぬジョーク。彼女の死を恐れる気持ちに、打ち勝とうとするためにわざと前面に押し出す抵抗的行動。彼女は基本的に自身の死に触れられたがらない。だが僕に対してだけ、話すのだ。僕は決して動じないから。
「じゃあなんでわざわざこんなところに?」
「意味は、ないかもね。強いていうならただの足掻き? 無意味なことなのかもしれないけど、どうせならやれること全部やっときたいてきな? まあ、そんな感じ。ここにいる大神なら奇跡は起こせるかもしれないじゃん」
 そうやってわざと死の話をしてくる彼女には、答えるときには現実を言わなければならない。きっと僕にこんなことを話しているということは、たぶん僕がなんと答える人間か知っているから。
 奇跡を信じていないのは、僕よりも彼女かもしれない。
「そういう大神っていうのは基本的に願いを抱えすぎるものだ。だから君の重い願いよりも軽い願いをたくさん叶えて信仰を集めると思うよ。だからどうせならマイナーな悪魔に願った方が意味はあるかもしれない」
「神様なんて信じてないんじゃないの?」
「もしあったらの仮定の話だよ。いずれにせよ奇跡は存在しない」
「ふーん、そういうものかな」
「そういうものだよ」
「つまんない世界だねー」
 それでも彼女は元気に笑顔を見せる。死を恐れる心というのは永遠になくならないだろう。戦い続けても慣れることはない、痛みと一緒だ。そして僕もまた、佐藤に殺されかけたとき、それ以来彼女の心情が深くわかる。心の奥に踏み込みそうになる。
 ギリッ、と奥歯を噛み締める。
 自分の能力のなさを憎む。僕が彼女に与えているものはゼロではない。だが百与えられないことが、悔しかった。
 僕ができることは小さなことでしかない。彼女は死ぬ。やれることは、できる限り、彼女の進みたい道を支えるだけ。
 そう――それだけしかない。
「よーし。おみくじやろっか、どっちがいい運勢か勝負ね」
 僕が思考に没頭していると、勝負事が好きな性分がまた再発したようで、彼女は突然そう言った。僕は頷いて承諾し、神社の人がいる場所まで歩く。
 そこで百円払っておみくじを振る。彼女は念入りにおみくじを振り、僕はさっさと事を終えていた。僕の番号は七百七だ。
 まるでクジの景品を渡されるかのように、神社の人は笑顔で番号に掛かれた結果に通じる紙を渡し、僕の隣の彼女にも渡した。
「せーの、だよ?」
 早速結果を見ようとした僕を止め、彼女は手元の閉じた紙を僕の方に向ける。
 僕は適当な返事をし、声がかかるのを待った。
「せーっの!」
 同時に紙を開く。
 その結果は僕が大吉、彼女は凶だ。
 彼女は騒がしくなり、つまらない勝利なのに、少し嬉しくなった。どうやら彼女の趣味の勝負事には、僕をなんとなく勝負に熱中させる効果があるらしい。ボーリングの時も、金魚すくいの時もそうだった。
「くはははははははっ!」
 突然した奇笑に僕はびっくりして顔をあげた。見れば彼女が腹を抱えて爆笑しており、紙をヒラヒラと振っていた。
「なんなの」
「あー、ひー、面白かった。いやー、おみくじの結果がね、あまりにもアレで」
「アレで?」
 破顔する彼女に先を促す。
「今年は厄年なんだって。今ある苦難からは逃れられない、諦めろって、アハハハハハハハハハハハハ」
 彼女は最高のジョークでも聞いたように大笑いした。
 僕は自分のおみくじの願いの欄を見る。
「君はさ、神様信じないって言ってたけど案外当たってるじゃん。こりゃほんとにいるのかもしれないよ? 神様」
「……どうだろうね」
 急に神様を信じる方向にシフトし始める彼女。だが僕はそう思わなかった。
 僕のおみくじには願いは叶うと書かれていた。ならば僕が彼女の生存を望んだらどうなるのだろう?
 結果は矛盾し、どちらかが間違っていることになる。
 ――結局、神様など存在しないのだ。

 目を閉じる。

「次はお賽銭だね。それで神社ですることは終わり。さあ、頑張ろ!」
 彼女が指差した先は長い階段。彼女の喋る側から嫌そうな顔をする僕を激励。
 仕方なく、長い階段を上りきり、荒くなった息を整えて、お賽銭を投げる場にたどり着く。彼女は財布から小銭を取り出し、その中の一円玉を僕に寄越し、ウインクする。
 僕は黙って一円玉をポケットに入れ、「盗んだー!」と言ってくる彼女に呆れたように首を振った。フッ、と軽く笑ってしまう。
「私、願い事は君の笑顔を見れることにしとこうかな」
「折角ここまで来たのにそんなものでいいの?」
「勿体ないからさっきみたいに優しく笑ってよ」
「嫌だ」
 結局、彼女は違う願い事を選ぶようで、五円玉を投げて黙礼した。
 短い時間でそれは済み、終わったあと僕に向き直る。
「どうせだから君もなんかお願いしたら?」
「僕は神様を信じてないからね。そんな奴の願いを聞くわけないでしょ?」
「まあ、いい体験だと思ってやってみよーよ」
 まあ、わざわざ反抗する必要もない。というか、どちらでもいい。
 僕はやれやれと首を振り、一円玉を投げた。
 そして手を合わせ、祈る。
 僕は神を信じない。
 彼女のことを思う。
 だがもし奇跡を起こせるなら、僕は絶対の服従を誓ってもいい。例えこの魂を捧げようとも――すぐにこんな発想が出る僕は、悪魔と取引をした方が性に合っているのかもしれない。

 そうして僕は一つだけ願い事をした。
 気づけば、長い間祈ってしまっていた。
 この祈りが届くと、本気で信じたわけじゃない、けれど……。

 彼女の「行こー!」という声に、僕はあとに続く。そして振り返って神の台座を見て、手に握った十円玉を投げ入れた。

 神社から出たあと、近くの喫茶店で休憩した。そして僕はまた自分の愚かさに気づかされることになる。
「……」
 回りにいるのは多数のカップルだ。向かい合い座っている彼女はニコニコと笑い、楽しそうだが僕はそうじゃない。だがつまらなそうな顔をするわけにはいかないので思考放棄をし、無表情になっておいた。彼女は、本当に美味しそうにパフェを食べる。甘いものが大好きなようで、至福の時間、という顔でうっとりしている。
 僕は基本的に味が薄いものが好きなので、スープをずっと啜っていた。いや本心を偽っても仕方ない、本当は食欲がわかなかったのだ。こんなカップルだらけの場では。
 こんな周りがラブめいた雰囲気で、目の前には満面の笑みの彼女。すごく虚しい気分になってくる。
「そんなに見つめちゃって~。そんなに欲しいの、これ?」
「他に見るものがないんだよ」
「食べる?」
「人の話聞いてる?」
 彼女はペロリとパフェを平らげ、追加で豪華そうなプリンとその周りにたっぷりとクリームが乗ったものを注文した。僕はスープをお代わりした。なんなんだろうな……この状況。飲みすぎで太っているわけではないのにお腹を叩くとタプタプと音がする。もう食べれな……じゃなくて飲めない。
「これ食べ終わったら会計にするから待っててね」
 僕の悲しげな感情を感じとったのだろう。彼女は宣言し、プリンが届くなりがっつき始めた。僕は水を飲んだ。
 途中、彼女がスプーンを舐め始める。その念入りな舐めに僕は少し引いた。
 僕がボーッと彼女を見ていると彼女がクスリと笑った。
「ア~ン」
 猫撫で声でスプーンを僕の口元に持ってくる彼女に背筋がゾワッとする。
 僕は断固拒否の態勢を取るため、きっぱり口を閉じたが、無理矢理入れようとグリグリと口にスプーンを押し付ける。痛い。
「いらないのー?」
 陽気な彼女に僕は疲れた声で抗議をあげた。
「もっと周りを見習いなよ」
「ん、見習らってるよ」
 僕は右の静かなカップルを見てそう言ったのだ。なのに彼女は過度にイチャついている左のカップルを見ていた。
「皆キスしてるじゃん」
「うん……まあそうだけど」
「したい?」
 彼女が僕に舌を見せる。小悪魔のように見せびらかすその舌にはクリームが付いていた。さらにその表情には固い決心が刻まれており……。
「キスの味はきっと甘いよ?」
 机の下で彼女の手が僕の手を握った。
「しよ?」
 彼女の顔が迫ってくる。突然の事に心臓の心拍数が上がり、なにがなんだかわからなくなる。だから咄嗟に顔をそらした。
「いい、僕なんかと、しない方がいい」
 それは劣情と、他のなにかが入り雑じった感情で、本能によって導かれた正しい答えだった。僕にとって、彼女は大切な人であり、救世主のような存在。心の借りがあった。だから僕はそれを返すために行動する。そう、誓いを立てたから。
 だが、だからこそだろうか。僕は自分の言ったことを、後悔した。僕の拒絶に、彼女の顔が悲しみ一色に染まる。それはとても深く、彼女が初めて見せた顔。
 心が揺れた。悲惨な結果を望まなかった。
 衝動的に手を伸ばし、僕は彼女を求めて、

 互いの唇が重なる。

 彼女の言っていた通り、甘い味がした。
「あっ」
 彼女が驚きの声をあげ、僕は引きそうになるが、今度は彼女の方が手を伸ばし、僕を離さなかった。そうやって十秒ぐらいたっただろうか。ゆっくり離れ、互いの目が合う。僕は無表情を保とうとするが、無理だった。感情が熱くなり、自分でもどうしようもなくなって声をあげる。
「あーーー、もうくそーー、あーーー」
 勢いでやってしまった。押し寄せるのは初めての感情で、理解不能。彼女が傷ついてしまったから、それで咄嗟に体が動いてしまった。
 机に突っ伏した顔を少し上げ彼女を見る。
「えへへ、ありがと」
 彼女の頬はほんのりと赤かった。
「なんでありがと?」
「だって、私の気持ちに答えてくれたわけでしょ? それが嬉しくて」
 彼女が柔らかく微笑む。だが僕はどぎまきしながらも必死に異議を唱えた。
「それならありがとう、じゃないね。だって君は僕の思いにもこたえたことになるんだから、おあいこだ」
「いーのかな?そんなこと言って」
「……?」
「君、それ告白と一緒だよ?」
「……そんなことはない」
「初めて見たよ君のツンデレのデレのとこ」
「うる……さいな」
「違うの?」
 問い詰めてくる彼女。僕は悔しくて頭を抱える。
「僕は君が好きだよ」
 そう言った。
 僕は彼女に思いを告げれば、元の余裕が戻ってくるのを感じていた。
「……へ?」
「……」
「……」
「……」
「もう一回、言って?」
 だから余裕をもってこう答える。
「嫌だね」
「言って言って言って言ってーー!」
 彼女が駄々をこねる子供のようにしつこく言う。
 だから僕は、
「僕はさっきの言葉を本気で言った。だから二度目は陳腐になる。だから嫌だ」
 そう言い放った。
「悔しいけど素敵、かも」
 彼女は照れたように、いや、照れながら頭を掻く。そして全てを忘れるようにプリンを食べ始めた。
 僕はそれを眺める。そして確認させられた自分の感情に静かに動揺していた。
 だが……これでいい。これがいい。もう腹を決めよう。救われた恩とか、もうすぐ死ぬ女の子には少しぐらいは優しくしてあげようとか、そういう理由は抜きでいい。保つのは体面だけ、だが自分の心まで偽る必要はない。

 僕は、生きる方針を変える必要があった。

「ふう、甘かった。さて行こっか!」
 彼女が元気よく立ち上がる。僕らは会計を済ませ、バス停へと歩いた。その途中、彼女が何度か咳き込む。ハンカチを口に当て、じわりと血が滲んでおり――。
「あ、これ? ちょっと舌噛んじゃって」
 彼女の笑みはぎこちない。なぜなら彼女は死を悟られたがらないから。僕がそばにいられるのは、このことが大きく関係しているから。動揺する。心には嘘はつかない。僕は彼女のことを心配している。そんな心情を素直に理解しながらも僕は、余裕を見せつけた。
「舌噛みちぎったらリアルに死ぬよ」
「噛みちぎってはない! アレだよ。ちょっとさっきのキスに興奮して血が出ちゃったんだよ。漫画で出てくる鼻血ブシャーみたいな」
「はいはい」
 これは演技だ。僕は彼女の死に動揺しない、そんな人間。
 僕は自分の正しい心に気づいた今、新たな選択を迫られていた。自己中心的に生き、彼女の心情をほとんど考えない、今までのように生きるか、彼女の幸せを補助する杖となるか。当然、僕が選んだのは後者だった。
 僕は小さな支え。彼女の死へと向かう道に携わる長い杖。僕は彼女の願いに答える。生きたい、という願いには答えられないけれど、――死と向き合う意思、日常を望む死から離れた生活――せめて、それらには。
 彼女は僕を求めた。だから僕は変化を、時を止めていよう。彼女の望んだ僕という人間へと、自分を固定する。僕は彼女が死の気配を見せようと、平然としなければならない。それを彼女はきっと望んでいるから、僕は……。
 仮面を被り、外の自分を偽る。
 笑えることだが、僕は友達などいたことがないので、自分以外を優先して生きる経験は、初めてかもしれない。
 彼女は僕に、助けてくれ、とは言わなかった。歩みは無理矢理いつもの速度を出しているように見えるし、証拠にペチャクチャな口は動かない。だから静かに隣に佇む。最悪を予期し、備える。彼女が僕を望んだ理由は僕が身近な人の死を恐れなかったから。それがなくなれば、どうなるのだろう? 彼女の症状に僕が一喜一憂したらどう思うだろうか?
 僕はその時、隣にいる価値がない。僕はあくまで彼女に日常が与えられる人間として、価値があるからだ。

 ずっと彼女のそばで支えてあげたい。
 生きてほしい。

 僕が望むことはこの二つだった。しかし、この二つを同時に達成するのは難しいことだ。僕はこんなにも彼女の体について心配しているのにその素振りを見せてはならない。なぜなら僕は彼女の隣で支えたいから、価値があるままでいたいから。
 彼女の死を見れば身がすくむほどに怖い。でも離れたくない。
 孤独は嫌だ。だから僕は自分を偽り、剥がれることのない仮面を被る。表面のみの無感情、無表情、外面だけ取り繕ういつも通りという名の嘘の姿を気取る。

 僕は彼女に話しかけない。元々僕は自分から話しかけるタイプではない。だから不自然ではないはずだ。
 そうして歩き続け、バス停に着き、バスが来る。
 彼女はバスを待っている間、動かなかったお陰か、だいぶ体調は元に戻ったようだ。顔色に血色が戻り始め、元気テンションのエンジンがかかる前兆をいくつか見つける。
 そんな感じで、彼女と長い間過ごしていると、些細なこともだんだんとわかるようになっていた。
「今日のデート楽しかったぁー。もう死んでもいいね!」
「生きてー頑張ってー」
「デートエンドでデッドエンド」
「はいはい」
「ふぅー、なんか疲れたねー」
「うん、疲れたね」
 素直に頷く。
 僕は僕で生きる方針を決めていた。最善を考え、遂に答えを出していた。だから、疲れたのかもしれない。
 まぶたが重く、どっと疲労感を感じる。
 バスには三時間も乗るのだ。少し、眠ろう。

 次に目を開ければ、回りの風景は真っ暗だった。今は秋だから六時ぐらいからは外は真っ暗になるだろう。
 そうして時間を確認してみれば九時。
 ……あれ?
 その時、アナウンスが流れた。
《次は~~。~~。~~。》
 聞き覚えのない地名。僕は焦って隣の彼女を揺らす。
「スヤァ……」
「起きてるなら起きてよ」
「ふにゃ? ん、あ、ふぁーい」
「寝ぼけてないで、ここどこ!」
「ん? あー、わかんね」
 彼女は次の停留所を見て薄ら笑いした。
 不味い。冗談抜きで現在地がわかってないパターンだ。
「とりあえず降りよう」
「おう、イエース」
 なんでこんなに余裕なのだろうか。
 実は今は抱えている問題は大したことないんじゃいかと思いたくなるが、それは現実逃避だ。だって彼女はいつもこんな感じなわけだし。
 大抵、焦って起こした行動はいい方向にいかない。いや、いいときもあるのだ。だが失敗すれば奈落のように、何処までも悪い方向に落ちていけるということを、僕は気づいていなかった。
 バスを降りた。慌てていたため、バスの運転手がなんらかの解決手段の糸口を握っているかもしれない可能性を忘れ、そんな風に。
 ここは山の中だった。辺りは暗く、お化けが出るなら絶好のチャンスだろう。
 森がざわざわと薄暗く揺れる。僕は恐怖を感じなかったが、彼女は違ったようだった。
「あ、相川君、や、やばくない?」
 恐る恐る僕にしがみつく彼女は、普段の『君』と言う呼び方が僕の名字に変わっていた。腕にかかる力は強めで、本気で怖がっているのがわかる。……お化けというのがいるなら、彼女は、死んだら……。
 ………………。
「ほんとにどうしようね?」
「帰れるの? 私たち?」
「どうだろうね」
 周りを見渡すが解決策は見えない。便りの綱のバス停も、今のが最終バスだったようで、電話も繋がらず、望みは断たれた。
 一先ず彼女と話し合い、バスが行ってしまった方の逆の方向へと歩くことになった。
 僕らの町からどれほどの距離があるのかわからない。彼女が途中で体調を崩したら……どうすれば。
 そんな風に僕は彼女の死の可能性までも考えているのだが、肝心の彼女自身は余裕を見せていた。
「なんか怖かったけどだんだん慣れてきたかも」
「それは良かったよ。引っ付かれたら歩けないし」
「またまた照れちゃって~。あっ、そういえば君の寝顔見てたんだけどいい顔するね~。君の笑顔の次に気に入っちゃったわ」
「……」
 もう殺した方がいいかもしれない。
「くしゅんっ」
 そんなことを思っていると突然、隣で彼女がくしゃみをした。
 寒いのだろう。今日は暖かかったが今は夜。薄着の彼女は冷えるに違いない。
 少し葛藤するも、僕は自分の上着を脱ぎ、華奢な彼女に掛けた。
「あ、大丈夫だよ。別にそんな」
「僕は痛みを耐えれるって言ったでしょ? だから寒さだって耐えれる。気にしなくていい」
 寒さに震える声を抑え、震えそうになる体に力を込める。
 本当は寒さは苦手だ。熱さなら意思次第でなんとかなるが、寒さはそうはいかない。殻を閉じても突き刺すようにして冷気は入ってくる。じわじわと体を侵食するような暑さと違って。
「優しいね」
「別に……死なれたら困るから」
 そう言い放った一言は照れ隠しであり、
 ――本音でもあった。
「えへへ」
 彼女が微笑む。
 決断の価値はあったな、と密かな満足感。彼女が僕の上着に袖を通し、匂いを嗅ぎ、オエッ、と言った。
 …………こいつ。
 そうやって僕らは歩き続けていたが、寒い。
 とにかく寒い。時間がたつにつれて、寒さが厳しくなってくる。だが寒さを耐えきれると言った手前、見栄を張った。
 大したことない。寒さなんて平気だ。
 そんな外面を取り繕うも、体は正直なようで震えが走る。生物として押し寄せる、体の反応には逆らえず、僕の手は小さく震え続ける。
「寒そうだけど、大丈夫?」
「暗い夜道が怖くて怖くて仕方がないんだ」
 心配気な彼女に僕は冗談で返す。その声すらも寒さで震え、僕がいかに寒さに弱いかを示してしまっていた。
「これ、返すよ……」
「いや、いい。持っておいて」
 それでも彼女は僕の上着を脱ごうとし、僕はそれを止める。
「これは僕の意思の問題だ。僕をバカにしてるんじゃないなら着ておいて」
「でも……」
 俯く彼女は驚くほどに声が小さい。でも、僕は自分の意思を貫き通した。その時、突然彼女が立ち止まる。怪訝に思い、振り返ろうとしてみれば、背中に重みが加わる。
「ありがと、ね」
 彼女の吐息が首にかかる。首の後ろだけが暖かく、背筋がぞくぞくしてくる。
「ちょっ」
「大好き」
 彼女が目を瞑って僕を優しく抱き締める。僕は、振り払えない。
「歩けないよ」
「ん、わかってる。もうちょっとこうさせて」
 胸が熱い。外はこんなにも冷気で満ち溢れているのに、体の内と、彼女と接している部分だけは熱を持つ。
 僕が恋愛感情と名付けたそれはひどく恥ずかしい感情を僕に与えてしまうようだった。
「そろそろ」
「うん!もう大丈夫!」
 彼女が離れ、名残惜しく思ってしまう自分がなんとなく悔しい。
「手、繋ごっか!」
「……そうだね」
 そんな感情は、まるで見透かされたようで、次の瞬間には彼女の声がかかっていた。
 僕が返答する頃には既にガッシリと手は繋がれ、外せなくなっている。そこから僕は暖かさを感じた。

 また、そうやって歩き続けた。もう一時間ほども経っている。
 いかに彼女の熱があったとしても、冷気は衰えることなく僕を刺し、貫き続ける。
 自分で自分を騙した。自己暗示を掛けて彼女の熱を思い出した。歯の根は合わず、こちらを見てくる彼女に首を振る。
 弱音は決して吐かなかった。僕という人間のちっぽけなプライド。これだけの要因なら決して耐えきることはできなかっただろう。
 だが、僕にはこの先にある誓いがあったから。彼女を愛しく思うようになったから、
 昔とは違い、彼女の死を恐れてしまう。それに対して無反応の演技をしなければならない僕は。
 ――こんなところで挫けるわけにはいかない。
 ボツボツと明かりが見えてきた。町の明かりだ。さらに、それは見覚えのある町で、僕らが生まれ育った町そのものに間違いなかった。
 そうして人のあるところへと辿り着き、安心感を覚える。
「ねえ、聞いて! この道私見たことある、帰れるよー!」
 彼女が興奮し、飛び跳ねる。別に公共機関を辿っていけばもう家まで辿り着くのでそこまで喜ばなくてもいいと思う。
「褒めて褒めて!」
 寒さに耐えきったこっちを褒めてほしいのだが……。
 いや、愚痴は言うまい。僕は他人であろうと喜んでいる人を見て悪感情を持つ人間ではない。だからまあ、よかったということにしておこう。
 そうしていつもの分かれ道に着いた。
「じゃあ、そろそろ上着返して」
「えー、やだー」
「は?」
「やだ怖ーい」
 僕の威圧に彼女がケラケラと笑う。
 結局、ひらひらと逃げ回ったあとに投げて寄越された。人から借りたものは大事にしなさいと教わらなかったのだろうか。
「ねえねえ、私の家行かない?」
「こんな夜遅くには行かない」
 もう十時半だ。
「いーの!私が許すから」
 そう言って僕の腕を引っ張る。
「無理無理」
「じゃー、仕方ないねー。コインで決めようか。表、裏?」
 これで負けようと、こんな夜遅くに彼女の家に行くつもりはない。だが勝てば彼女は静かになるだろう。そう思い、僕は自分の気分を答える。
「表」
 チィーンと高い金属音。
 彼女の手の甲に収まるようにしてコインは吸い込まれ、静かにその手がどかされた。
 裏、だった。
「はい、私の勝ちぃー!」
 嬉しげに彼女は僕の腕を掴み、言う。
「もう逃げられないよ! 私と一緒に遊ぶのだ!」
 ハイテンションな彼女。対して僕は疲れていた。今日はいろいろあった。もうなにも考えたくない。めんどくさくて適当に答える。
「わかったわかった行くから離して」
「言質は取ったよ!」
 彼女が目を輝かせる。
 僕は適当に返事をして、手を振って帰ろうとした。
「ちょっとぉ! 来るんじゃないの⁉」
「ん、へ?」
 思わずマヌケな声が出る。
 自分が過去に言った言葉が頭のなかに反芻するが、……あれ?
「ミスった。さっき言ったのなし」
「もう遅いでーす!」
 彼女は満面の笑みだ。そして更に強引に腕を引く。
 もう、なんだかめんどくさくなってしまった。それに、約束を破りたくない。
 そんな思いが浮かぶも、否定する。これはただの言い訳、建前。面子を保つための理由。僕は、できる限り彼女と長くいたい。もう、時間が余りない彼女と。
 そうして、心の中で言い訳をしながら。また、自分の心を正しく見つめながら、僕は彼女に引きずられていった。

 彼女の家は広かった。外見が立派なだけあって、内面も立派というわけだ。さすが、と言うべきか。こういうのを見るとすっかり忘れ去られた、彼女のお嬢様、という設定を思い出す。そう、彼女はお嬢様なのだ。
「わーい、ヒャッホーイ」
 例え子供のようにベットで飛び跳ねていても、だ。
 ああ、きっと彼女の両親も嘆いているだろう。ついでに僕も嘆いておくことにする。
「アッハハハハハ、自分の部屋に男の子がいると興奮するぅー!」
「やめなよ、はしたない」
 かける言葉がなかったので何処かのシーンで言われそうな台詞を言っておいた。彼女が本物のお嬢様なら本来、よく言われそうな台詞だ。
 そんなことを思い、ベットを見やる。彼女が何回も飛び跳ねるだけあって柔らかそうなベットだ。試しに ベットをバスバスと殴り付けてみる。
「私のベットちゃんをいじめないでー」
「これ無生物だよ?」
 僕は当然ながら女の子の部屋に入ったことはない。友達がいなかったのだから男の部屋すらない。だから他人の部屋というのは純粋に興味を引かれたが、思ったよりも僕のと違うわけではなさそうだった。全面ピンクというわけでもないし、ピンクのぬいぐるみらしきものこそいくつかあるものの、その他は漫画やゲーム、遊び道具がちらほらあるぐらいだ。
 そして、部屋はよく整頓されていた。
 武士はいつ死ぬかもわからない。だから自分の部屋は常に綺麗にしていたという。
 立つ鳥跡を濁さず。そう言われ、自分の去る世界は綺麗しておく、といった感じに。
 僕は彼女の部屋を見たとき、そんなことを連想させられた。
「あ、お風呂入る?」
「シャワーだけ、お願いするよ」
 本来なら人様の風呂など遠慮したい。だが今日は歩き回ったため、汗をかいていた。今は乾いてはいるが、今日は入っておきたい。
 彼女の部屋は上の階にあったため、下の階にある風呂場へ案内してもらう。タオルなどの各種説明を受け、風呂場へ入った。
 念のために鍵を閉めておく。その判断は正しかったと、少しすれば証明された。
 シャワーを気持ちよく浴びていると扉からガチャガチャと扉を開けようとしている音が聞こえた。
「なんで鍵閉めてんの⁉ 女子か!」
「女子である君に言われると僕も心に響くよ。ところで何の用?」
「なんだと思う?」
「突然予想不能奇抜行動をしてくる君の心情を考えられる能力は僕にはないんだ、ごめんね」
「誰にも予想できない行動をするとサッカーで強いってお母さんが言ってた」
「よかったね」
「言うの忘れてたけど着替えどうするのー?」
「もう一回同じの着るよ」
「キタネッ!」
「仕方ないでしょ」
「まーそうだね。お父さんの汚いパンツいる? 貸そうか?」
「なんか嫌だ」
 ナチョラルに汚いと罵倒される吉野早枝の父に同情を覚える。あの人、いい人そうなのにな……。僕は男性側に座る人間として、静かに黙祷を捧げた。
「とりあえずでてけ」
「え? イヤーン、私が覗き何てすると思った? あたしゃそんな無粋な女じゃないよ!」
 なんのキャラだ。そう返そうとしたのだが、既に彼女は消えていた。
 そしてシャワーを終え、彼女の部屋に戻る。途中、誰とも出くわさなかった。当然だ。この家は今は僕と彼女しかおらず、親は仕事らしい。父は大抵の場合、家にいないことは当然のことなのだが、母までいないのはかなり珍しいことだとか。特に母がいないことについては自分の病気以来、かなり珍しくなったと彼女は意味ありげに語っていた。
「上がった? じゃあ次私入ってくるねー」
 部屋に辿り着くと彼女が僕を歓迎した。そしてすぐに出ていく。
「あ、覗いたりしないでね?」
「しないよ、僕は紳士だから」
「前は紳士じゃないねっていってたら肯定してたくせに」
 よくそんな昔のことを覚えているものだ。
「……僕の行動理念はその時その時によってかわる、いわば臨機応変なんだよ」
「それ理念ないだけじゃん!」
 ツッコミが入りながら、パタン、と扉が閉まった。
 やることがないからテレビでも見るか。
 無論、彼女がやったように僕も風呂場への突撃をやり返すという手も、あるにはある。だが僕は平和主義かつ紳士なのでそんなことはしなかった。
 テレビをつければ特番がやっていた。医者についてのもので、彼女が病気なのを知っている僕としては興味を引かれた。
「ん?」
 その中に知った顔が写る。僕はその人物を覚えていた。吉野早枝の専属医だ。
 吉野早枝の専属医はいくつかの質問を受け、答えていた。テレビは彼のことを天才と呼び、奇跡の医者と評す。証拠とばかりに彼と一緒に手術をしたことがある者、他の名医、救われた者、などが褒め称え、僕はそれに希望を抱いてしまう。
 これだけの医者なら、彼女を治してくれるのではないか?彼女は寿命が伸びたと言っていた。それは間違いなくこの医者のお陰だ。なら……寿命の延長をできるくらいなら治すことだって……。
『最近、ある女の子を助けようとしてるんです』
 意識が戻る。テレビに釘付けになる。
『先生ならきっと救えますよ』
『ハハハ……今回ばかりは、難しいんですよ。現実迫観念症は患者が死のイメージを持っている限り、完治することがないんです。思考を奪えば一時的な延命ができるんですが、それはあまり人間にやっていいことではないんです。私にこの病気は治せない』
 苦笑が見えた。「治せない」なんていうのはただの謙遜だと信じたかった。失敗への予防線を張っているだけだと思いたかった。神への祈りは届くと、信じたかった。

 こちらに上がってくる足跡。テレビを消した。
 部屋に入ってきたのは当然ながら吉野早枝で、両手にはグラス、飲み物を持ってきていた。中身は炭酸飲料で、シュワシュワと泡が見える。
「お待たせ! 喉乾いたと思ってね!」
 少し大きすぎる声。よほどシャワーが気持ちよかったのだろうか、彼女からは元気が溢れすぎている。
「ああ……ありがとう」
 立ったまま差し出してくる彼女に、僕は飲み物を受けとる。彼女はグラスを口に運び、むせた。僕も喉を潤そうとする。
「……なにこれ?」
「さあ?なんでしょう?」
 彼女は飲み物を一気に飲みきった。危なっかしい足取りで僕の背後に回り、首に腕を絡める。
「これ……お酒?」
「ピンポーン。だーいせーいかーい」
 その時、引っ張られて突然態勢を崩される。
 着陸したのは、柔らかい感触からベットの上だとわかり、突然の行動に抗議をあげようとした。
「大好き」
 喉がつまったかのように一瞬声が出せなくなる。彼女が僕の上に乗り、こちらから彼女を見上げる形となった。
 ……押し倒された?
 彼女が僕の胸に頭を乗せ、恥じらうように少し笑った。
 突然服を脱ぎ出し、
「なにしてんの」
 僕が、止めた。
「え、何って?」
 彼女はニコニコと、表情を崩さない。
「誘惑だけど」
「……」
 僕が押し倒されたとき、こぼれた液体。そこからはアルコール臭がし、なぜ受け取ったときに気づかなかったのかというほどの臭いだ。彼女は酔っている。
「もしかして嫌?」
「……僕は」
「なぁに?」
 迷いが生まれ、力が緩む。その隙に彼女は服を脱ぎ、ブラジャーが見えた。
 目を逸らす。彼女の誘惑から。
「なんでこんなことを?」
「好きだから」
 彼女が僕を抱き締める。否応なしに胸が押し付けられ、こちらの心臓が高鳴る。
 だが、
「やめときなよ」
「やぁーだよ」
「やめろ」
 彼女が子供のように戸惑いの表情を浮かべる。だが僕はその奥にあるものさえも、うっすらと見えていた。だから僕は言う。
「…………つもりだったの?」
「なに?」
「前置きのつもりだったの?」
「う、うん?」
 彼女がさらに困った表情になる。
「数々の不自然な行動、今日の見せた仕草のいくつかは不自然だった。それはこの瞬間のための、前置きだったつもりなの?」
「……」
 黙る彼女に、僕は更に言葉を重ねる。
「単純に、お酒を飲んですぐ酔っぱらうわけがない。残念ながら僕は頭がいいんだ。そんなの簡単に気づく。僕を、ナメるな」
 決定的な証拠。
 今言える精一杯の拒絶と、嫌味だった。
「……………………」
 黙りこくる彼女は徐々に笑顔になっていった。彼女が今何を考えているのかはわからない。
 僕は告げる。
「後悔するよ、やめておいた方がいい」
「…………後悔?」
 表情は影色となる。
 いつもと全く同じ顔、笑顔なのに決定的に違う顔。
 僕はさらに拒絶を重ねようと口を開こうと……、

「後悔? 後がない人間は、後悔なんてしないよ」

 音が止まった。頭から思考が断絶され、出そうとした言葉は霧散する。
 なにも言えなかった。
 僕は彼女よりも頭がいいつもりだった。
 でもたった一言でなにもかも論破された気がした。
 僕は彼女の言葉を否定できなかった。
 死を意識し、生きてきた彼女は、僕よりも多くのものが見えている。
 ――後がない。
 彼女が僕の服の中に手を突っ込んできた。こそばゆい。
 僕がするのは弱々しい抵抗。意味のない、抵抗にならない無意味な動作。
 繋がろうとする思考は合わさらない。脳が考えるのことを拒否する。
 動揺、願望、祈り、希望、愛情。
 もう、どうすればいいのか、わからない。
 だが、嫌だった。とにかく、嫌だった。
 彼女を愛したい、彼女に愛されたい。そんな感情はしっかりと胸の中にあるのに、嫌だった。
 彼女は嘘の表情を作っていた。嘘の笑顔は彼女の不幸の象徴で、全てを無理矢理動かしているように見えた。
「やめ……てくれ」
「いや」
「やめ……てくれ……!」
 声を荒げる。
 こんなときにアルコールの波を感じた。少量飲んだだけなのに、飲まれそうになっている。泣きそうだった。
「……」
 彼女が動きを止める。完全な停止で、嘘の表情は崩れていく。
 こちらの顔だってどうなっているか、もうわからない。無表情を保つ自信のあった僕は、今、どんな顔だろう。
「なんでよ」
 ポツリと呟かれた一言は、彼女の感情が砕ける前触れで。
「なんで、なの。私のこと……嫌い?」
 そんなこと、ない……!
 叫んだのは心のみ。体が言うことを聞かないせいで、声は届かず、堕ちていく。
「私は、……たしは……」
 彼女の声が消えていく。涙が溢れ、笑顔がしぼむ。
 ポタポタ落ちる水は僕を濡らす。直接降る彼女の感情は身に痛いぐらいに、沁みた。
 彼女が僕に体重を乗せる。再び密着した体からは震えが伝わってきた。その恐怖の根幹となるものは、
「死にたく、ない」
 僕があの日、倒れていた彼女を抱き上げた時の、その、うわ言のような言葉。
「死にたく、ないよぉ」
 僕の胸に顔を押し付け、泣き出す彼女に――。
 悟る。悟らされる。
 彼女は強いのに、弱い。戦い続けた恐怖への傷は大きい。彼女が強かったのは隠すこと。本心を、死への恐怖を誰にも見せず、孤独と戦い続けたこと。その恐怖は絶対に防げない。回復することはなく、摩傷する。僕は、ある意味彼女の唯一の支えだった。
「死にたくない、死にたくない。忘れたくない、失いたくない」
 存在を確かめるように、僕を抱き締める。
 僕の拒絶は彼女を傷付けていた。彼女は些細なことに傷ついていた。思い返せば、僕が手を振り払った数々、彼女は傷ついた表情を見せていた。……普段は笑ってばっかりの彼女が。
 戦慄する。自分の失敗を、恥じる。
 自分を殺したくなる。過去も、未来も、現在も。
 弱い自分が全てを投げ出せと囁く。
 もう動くな、息を止めろ、目を瞑れ。全て、諦めろ。
 だが、次の瞬間、自分の人生が見えた。
 失敗、成功、失敗、後悔、喜び、……彼女は。
 僕は変わらなければならなかった。心に誓ったから、何度も失敗を重ねたから、次に生かすと決めたから。
 母との和解も、そういった決意があったからだ。
 なら、動け。逃げるわけにはいかない。
 息をせず、意思なき死体に意味はない、なにもせずに腐っていくぐらいなら死んだ方がましだ。
 信念を込める、人生を込める。
 ―――生きた証を、ここで見せる
「好きだ」
 抱き締められた腕を振りほどく、傷ついた彼女の顔を、他で塗り潰すために動く。
 彼女を逆に押し倒し、見つめあう。
 彼女は涙を流していた。でも顔は綻んでいた。期待と不安が混ざり、これから行うことを、頷いて、弱々しく先を促す。
 期待を裏切ることはしないさ。
 僕は決して流されない。これは場の雰囲気ではなく、僕の意思だ。まっすぐと見つめ、目を逸らさない。
 まず抱き締める。こちらから、僕がここにいることを主張する。
 髪から甘い匂いがする。
 小さく、柔らかい女の子の体。男の僕とは決定的に違う彼女の体。
 彼女の震えが止まった。次第に落ち着きを取り戻し、目を閉じる。
 そんな彼女にキスをする。
 舌が絡みあい、甘くて熱い。
 僕も目を閉じる。彼女をより深く感じる。より愛しさが増す。
 ゆっくりと唇を離し、身を引いた。物欲しげな彼女の瞳に、僕はもう一度答える。
 どこまでも沈んでしまいそうなほどの心地よさ。
 そしてそれが終わった後、彼女のブラジャーに手を伸ばす。
 ビクッと彼女の体が震えるが、拒絶はなかった。
 形の整ったそれがあらわとなり、彼女が両手で自分の胸を隠した。「う~う~」と唸るものの僕が彼女の髪に触れると、どかした。ゆっくり頭をなで、彼女の表情が蕩けていく。
 彼女をはっきりと見る。
 本当に、可愛いなぁ。
 彼女の肌に口づける。
「んっ」
 彼女が小さく吐息を吐き、体の力が抜けていくのがわかった。
 服を脱がしていき、彼女は僕にされるがままとなる。
 彼女は僕に全てを委ねた。
 互いに一糸纏わぬ姿となり、抱き締め合う。こそばゆい。
 僕も彼女も、互いを見つめあった。
「大好き」
「僕もだ」
 ――互いの影が、深く、濃く、重なった。

 ◇

 目をゆっくりと開いた。目の前にはでかい彼女の顔があった。
「おっはよー」
「……」
 ニコニコな彼女は服を着ている。だが僕はそうではなかった。
 彼女は身をくねくねと動かし、嬉しげにモゾモゾと体を動かす。
「いやー、やっぱ私、君の寝顔好きだわー」
「服着るからさ、とれあえず、出ていこうか」
「今更照れるなよー」
「唾吐きかけるよ」
「そんなことするのー? エッチ!」
「……」
 彼女はたぶん、僕の脅しを信じていないのだろう。ナメてもらっては困る。こちらは佐藤に実際やったので前科持ちだ。とりあえず、動いてくれる気配が無いので冷たく睨めつける。彼女はクスクスと笑いながら退室していった。僕はすぐに服を着た。
「もう入ってもいいよ」
「はーい!」
 彼女がダイナミックにドアを蹴って入ってきた。彼女の名誉のために、機嫌がよすぎるのだろうと思い込むことにする。
「いたたっ」
 そんな彼女だが、突然股の辺りを抑えた。
「大丈夫?」
「うーん、ちょっとヒリヒリ、たまに激痛」
 彼女がドサッと僕の隣に腰を下ろす。距離が近い。
「どう?昨日の私どうだった? よかった?」
「どうだろうね」
「も~、照れ屋さんなんだから~」
「うるさい」
 調子に乗っている彼女を睨む。
 彼女はヘラヘラと笑う。が、傷つきやすい彼女に一応フォローを入れておく。
「一度しか言わないけど、僕が不機嫌そうな素振りを見せても本気じゃないから気にしなくていいからね」
 その言葉に彼女はキョトンとし、「えへへ」と笑い、「わかってますよ~」僕に抱きつく。そのまま手を僕の頬に添えてくるが、僕は溜め息を吐きつつも拒否しなかった。――これからも拒否することはないだろう。
「今って何時?」
「昼の1時だよー」
 彼女が笑った。その表情を僕は読み取る。これはなにかを思い付いたときの笑顔だ。
「これからどっかに食べに行こっか。お母さん帰ってこないうちにね」
 そうして僕らは外へ出た。その日はずっと彼女と一緒にいた。恋人となっても僕らの関係はあまり変わらなかった。いや、変わったのだ。だがそれは些細といえば些細だが、少なくとも僕にとっては違うだろう。彼女は僕によく引っ付きたがり、甘えたがりになった。そんな彼女が愛らしく、僕はなんだか負けた気になった。だが悪くない。心地よい。

 そんな日が何日か続いた。幸せだった。人との関わりを拒絶した僕は、ここまで彼女を好きになった。なんだか、今までの人間嫌いはなんだったのだろう。そう思えるほどに、全てが憎くなくなった。時と共に、全ての流れがよくなり、幸せを感じ、毎日を彼女と過ごし、些細な喧嘩をし、謝って、仲直りして、また好きになって。
 いつしか、あの日の苦悩を忘れていた。色あせた世界。灰色の景色。
 わかっていた。これは魔法の時間。いつもと違う、非日常。いつかは日常へと戻る、それは決められたことで、運命は覆ることはない。
 わかっている、わかっている。この色づいた景色は――期間限定だ。
 彼女が体調が悪そうでも気づかない振りをした。彼女の日常へ溶け込むためにそう装った。そのたびに何度もタイムリミットが近いことを自覚した。
 それでも目は背けない。逃げない。絶対に。
 こんなことをすれば後が苦しいのはわかっている。彼女がいなくなったら余計に苦しくなるのはわかってる。それでも僕は彼女との時間を楽しんだ。過ごせば過ごすほど、苦しかった。でも楽しいのだ。今だけは、今だけは。彼女がいるのは今だけだから、僕は彼女に自身を捧げる。
 彼女がいなくなれば、世界は地獄だろう。
 ――その時、僕は壊れてしまうかもしれない。


 いつものように学校に来た。
 彼女はどこだろう。そう思って見渡すが、いない。たまにあることだ。体調が悪い時に、たまにだが彼女は学校を休む。たまにあるのだ。
 噂が流れていた。それは彼女についてで、僕には同情の視線が寄せられた。
 僕は教室でポツンと佇む。周りには誰もいない。
 全て、わかっていた。
 終礼。担任の女教師が教壇に上る、口を開く。
「今日は、重要なお知らせがあります」
 一部の情報に長けている者は、既に知っていた。知らなかった者も、その重い口調から思わず黙った。
 教師に、注目が集まる。
「吉野早枝さんのことです。もう彼女の余命は短く、学校に来れないようです」
 苦しく、絞り出すようなその声に、辺りがざわついた。噂の情報は百パーセントではなかった。確信はなかった。だから皆、ここで悟った。
 一部の者はただ悲しんだ。
 一部の者は、僕を見た。
 注目は教師でなく、僕に集まる。
 同情。恋人の余命がないことに、僕を憐れむ。
 怒りを覚える。僕は勝手に同情されるのが嫌だった。彼らは知らない。僕が彼女のことをどれだけ好きだったか。どれだけの覚悟を持って付き合っていたのかを、まるで知らない。すべてわかっていた。その上で選んだこの道は。
 同情されるいわれなどない。不幸じゃない。彼女との日々は幸せだった。
 ――勝手に同情するな
 無個性でただただ流される人間たち。主張を持たないくせに、いっちょ前に自分が何を思っているかのみは示す、そんな奴ら。
 感情が込み上げてくる。憎くなる。だがそれを必死で抑えた。僕はもう、人を嫌いたくなかったから。
 僕が犠牲にしたのは己の未来の心。現在を優先し、彼女と過ごした。
 それが、僕の選択。
「早枝さんは入院しています。そして『誰も』見舞いに来てほしくないそうです」
 注目が教師に戻った。一部の者は理解できない、という顔をしていた。
 心情は容易く看破できた。僕は彼女が何を思ってそんな伝言をしたのかがわかった。そして本当の心についても理解した。
「ですが、」
 教師の顔が悲壮に染まる。
「皆のことは大好きだそうです。特に自分と仲良くしてくれた人は、ありがとう……ありがとう、そう言って――」
 教師は泣いていた。ありがとう、が二回言われたのは、教師の思いも重なったからなのかもしれない。絞り出すように告げる言葉は、彼女の感謝を皆に伝えていた。彼女の人間性がわかるその言葉は、クラス中に感情の波紋を引き起こす。
 メソメソとみっともなく泣く奴ら。目に手を当てて、頭上を見上げて耐える奴ら。
 僕は押し寄せる何かを耐えるために、そっと目を閉じた。感情を沈めるため、何も考えないようにした。
 だが、彼女のことを思ってくれる人たちに、感謝した。

 瞳を開く。

 僕は病室の前にいた。扉の向こうには彼女がいる。誰も、と、会うことを拒絶した彼女。教師が言っていた『誰も』には僕も含まれていた。
 ここに厄介な吉野早枝の母がいないことはわかっている。予想ではつきっきりで看病しているであろう吉野早枝の母だが、病院を出ていったのを僕は目撃していた。
 扉を開く。
 彼女は手のひらを見つめていた。まるで自分の生命線はどこまで続いているのか、それを探しているように見える。
 彼女がこちらを向く。その瞳が開かれる。
「こないで、って言ったのに」
 薄い、自嘲するような笑い。
「最初に会ったとき、君は僕に自己中って言っただろう? だからさ。君の言うことなんてきいてやらない。僕は自分の意思で動く」
 最初に出会ったときの言葉が意味を成す。まるで、終わりと始まりは繋がっているようで――終わりの予感に、心が痛みを訴える。
 僕は言いながらも笑った。本当は彼女が誰も来てほしくないとか、嘘だとわかっていた。それは彼女の心情から来ている。
 自分を一刻も早く忘れてもらおうと、顔を見せたくなかったのだ。死者の旅立ちに、少しでも生者がついて来るのを拒んだのだ。僕には、わかる。
「もう、さ」
 彼女は最初は不機嫌そうな顔をしていた。でも、それは嘘の表情で、どんどん剥がれていく。本当の表情が、隠しきれない笑顔が、露出してしまっていた。
 彼女は人間が大好きで、孤独が大嫌いだ。こんなに長く一緒にいればわかる。引っ付きたがりの甘えたがり。常に人を必要とし、人を幸福にする彼女。
 僕は彼女の望みを踏みにじってやった。だがそれは、彼女が心の奥で願っていたことだった。
「で、どれぐらいで死ぬの?」
 務めて明るい声を出す。彼女の死を気にしないというポーズ。彼女は自分の死に誰かが巻き込まれるのが嫌なのだ。
 だからそれを取り払う。嘘の仮面を被る。
 演技で、自身の心をもって、その上で騙す。
 偽善かもしれない。僕の自己満足かもしれない。わざと傷つきにいっているだけかもしれない。でも、そんなことをいっていたら、何もできない。僕は、彼女の幸福を願い、そのために行動する。
「うーん。あと一年ぐらい?」
「……」
 彼女の言葉を聞いて驚く。思った以上に、寿命は残っていた。でも、死ぬ人間は大体そのぐらいの時間を病院で過ごすのかもしれない。
「どう、驚いた?」
 彼女はコロコロと笑う。
「思った以上にしぶといね
「でしょー。私はそう簡単に死んでやらないから。君の足をしばらくは引っ張ってやんよ。ということで毎日お見舞いに来てね。お母さん居ないときにメールで知らせるから」
 そんな彼女の命令は、祈りは、――願ったり叶ったりだ。
 でもそんなこと、言ってやらない。
「うっとうしい奴」
「そんなこといいながらいい笑顔になってるよ。嬉しいんでしょ~。全く、君は重要なときに、私よりも隠し事できないね」
 その言葉に、少しだけ引っ掛かりを覚える。だがそんな思想は泡のように消え、自分の表情を気にした。
 顔に出たのか……。僕もまだまだ、かな。
「はいはい。さっさとくたばっときなよ」
「ひっどーい!」
 テンションが高いのか、彼女は僕を引き寄せ、思いっきり抱き締めてきた。こんな大胆な彼女も珍しい。
 僕は彼女の甘い匂いに安心した。目を閉じ、身を委ねて彼女に溺れる。
 だが………………長い。
 僕がモゾモゾと動く。それでも離して貰えない。仕方ないのでされるがままにしておいた。そしてしばらく経てば、離される。
「?」
「い、いや。私ほんとはあと2週間ぐらいで死ぬと思ってたんだよ! あの、先生に伝えた言葉もその時に伝えたものだし、ちょっと君が来て安心しちゃって」
「まあ、別にいいよ。君の好きなように僕を使えばいい」
「君、さっき自分のこと自己中って言ってたのに尽くしてるじゃん」
「さあ? そんなこといったかな」
 気づいた。
 夢は、希望は、砕かれた。

 僕はなにも気づいていないフリをする。 

 つまらない雑談をして過ごす。お見舞の品を持ってこなかったことを叱られる。お見舞は「僕」そう言ったら笑われる。そしてそのままキスをする。甘ったるい。
「そろそろお母さん来るかも。逃げろ逃げろー!」
「なんで?」
「私のこと大事にしすぎちゃう人なの。仕事もやめちゃったし」
「やっぱりそういう人か。予想はしてたよ」
 その事は大体予想していた。だがもっと、重要なことがある。
 吉野早枝の母は仕事をやめた。寿命は残っているのに?
 一年の価値は、人によって違う。でも彼女はボロを出す。たったひとつの理由なら疑念はなく、僕の頭はお花畑でよかった。でも……そういうわけにはいかなかった。
 僕は、また、選ぶ必要があった。
「じゃ、帰るよ」
「はーい」
 彼女が僕に手を振る。僕は扉に手をかける。
 そして……。
 立ち止まる。忘れていたことがあった、そんな感じで彼女のもとに戻る。
「君、勝負事好きだよね?」
「ん? 帰らないの? まあ、好きだけど」
 勝負事が好きなのは、相手がいないと成り立たないことを好むのは、彼女は人間が好きだからかもしれない。
 財布からコインを取り出す。神社や、彼女が好んでよく使った十円玉。

「――君は、死ぬのかい?」

 声を、発した。
「…………」
 彼女は答えない。
「僕は裏を選ぶ。さあ」
 コインを投げる。彼女は受け取り、それをじっと見つめる。
 そして、彼女がゆっくりとした動作で、コインを弾いた。
 チィーン。
 くるくると舞い、堕ちていくコイン。
 それを僕は空で掴む。
 彼女に拳を見せつけるように。
 選択を突き付けるように。
「気が変わった。君が答えて。表か、裏か」
 彼女は。
「裏」
 その結果は。
「残念、表だ」
 彼女の手のひらに、コインをのせる。
「答えて」
 彼女は死ぬのか、死なないのか。俯く彼女は……笑っていた。
「いひひひ、フフふふふふ、アッハッハッハッハハハハハハハ」
 病院なのに、うるさい音。迷惑行為に、僕は眉を潜める。
「死ぬよ。でもそれは一年後、正確には一年以内かな? なに悩んじゃってるの? 私はそう簡単に死なない。死んでやらないよ」
 彼女の笑顔は本物だった。断言できた。いつも過ごしていたから、わかる。
 これだけなら信じなかった。でも勝負事という手も使った。二つのことが重なった。だからもう、信じれる。信じて、いいんだ。
「死ぬ直前にはメールで教えてあげるよ。お楽しみにね!」
「バカらしくなってくる」
「だから私がバカにしてあげてるじゃん」
「うっさいバーカ」
ツンデレが言いそうな言葉!」
 何でこんなのにいちいち喜ぶんだか……。
 溜め息をついて退室する。
 その時、重かった。その病室を出る線が、重かった。振り返れば彼女が……。
「ん? なに? なんか顔についてる?」
 何ともなかった。
 僕はニヤっと笑い。手を振って別れを済ませる。彼女は嬉しそうだった。
 そして、扉を閉める。
 同時に、瞬時に意識を切り換えた。もう一個の、深い、深い意識。妥協許さぬ臨界点へ。
 本当はもう楽になりたかった。妥協したかった。でも、僕は、誓いを立てたときから、僕は変わっていた。
 とにかく逃げることを許さなかった。
 それで……。
 僕は吉野早枝の専属医の元に向かった。

「こんばんは、相川君、だったよね?」
 僕の目の前にいるのは世界的にも有名な医者だ。さすがというか、雰囲気が今まで出会ってきた人たちとはまるで違う。だがそれにすら、理由はあったようで。
「覚悟があるんだね?」
「……はい」
 医者は全てを知っていた。僕がなぜここに来たのか、わかったようだった。僕たちの間には一つの繋がりしかない。彼女のこと、それだけしか。
「《目を見ればわかる》よくそういう言葉があるがね。私はそういう目を何度も見てきた。死を近くで知っている人間が、大抵その目を持っていた」
 進められた椅子に座り、コーヒーを進められる。
 ここは世界的に有名な彼の個室。普通なら一般人である僕がそんな人に会えるわけがないが、何とかして辿り着いた。
「君の目付きはそれにつぐ。私は、『もうすぐ私は死ぬのですか?』そう聞いてくる患者には必ず真実を言ってきた」
 その言葉には真が籠っていて、なんだか親しみがある。
 僕は雰囲気や言葉、それらからうっすらと理解した。そうこの人は。
「あなたは、僕と同じようなことを感じたことがある」
 医者の表情が笑顔で歪む。僕は続ける。
「全く同じ道じゃない。でも僕とあなたの思考の到達点は同じ、そう感じました」
「面白いね」
「すみません、失礼なことを言って」
「問題ないよ。私はむしろ、君を誉めてる」
 互いのコーヒーが無くなった。それは本題に入る合図のようだった。
「私は自分が逃げることを許さなかった。だから患者には、自分だったら本当のことを言ってほしいから、真実を伝えてきた。……もう一度聞くよ、君はそのためにここに来たんだよね?」
 その問いかけは、確信に満ちていた。
 僕は、誤魔化すつもりはなかった。
「お願い、します」
 苦しかった。
 全てを知った。
「吉野早枝さんは死ぬ、もって2週間」
 彼女は死ぬ。
 ただ一色の、事実だった。
 彼女のことがわかった。彼女は、嘘の中に真実を混ぜていた。最もバレにくい、狡猾な嘘。2週間、という言葉は彼女の口から一度出ていた。少し焦ったときの、あのときに。
 僕はそれを話した。医者は僕のことを驚くほどわかってくれた。その上で、彼は言った。
「君なら同じ道にたどり着くだろうから助言をしておくよ。吉野早枝さんの嘘は優しい嘘だ。でも君は事実を知った。だから、騙されたふりをしなさい」
 その道は、すでにたどり着いている道だ。
「わかってます」
「君のような思想を持つ人はなかなかいないかもしれない。だけど私が肯定しよう。君の行動は全て正しい。……彼女のために、生きるんだろう?」
「勿論です」
「今日の事はここだけのことにしておくよ。でもある程度は便宜を図る。なにしろ私は吉野早枝さんの専属医、だからね」
 そう言って彼は笑った。
 僕は出ていく前に、一つ質問をする。
「あなたほどの人が、なんでわざわざ専属医なんかに? 多くの時間を取られると思うのですが」
「我ながら下らない意地、プライド。それに加えて哀愁もあったからだよ」
 と言い、
「お金も欲しかったのさ、やらないといけないことがあるからね」
 そうやって、少々の茶目っけを出した。

 彼女との賭けの時、彼女は裏を選んだ。その前に、僕は裏を選んだ。そして表が出た。だから強引に、あの表は僕の負けとも捉えられる。
 そして本物の彼女の笑顔は。僕が彼女のことを本気で想った、それを感じ取った故に、本物の笑顔が出せたのかもしれない。
 僕が医者と話したことで得たのはこんなことで、後に抱え込むのは地獄だった。でも、これが僕の選択。
 偽れ、仮面を被れ、嘘を張り付けろ。
 彼女の幸せのために、そのために、僕は何だってしてみせる。
 例え何が削られようとも、逃げるわけにはいかない。
 そうやって新たな誓いを心に重ねていく。それだけしか、できないから。
 帰り道、同じ学校の制服がチラっと見えた気がした。

 彼女に言われた通り、毎日お見舞に行った。延命のために強い副作用のある薬を飲む時間になると、都合良く僕はその場にいなかった。そう見計らった。彼女が辛そうなときはできる限り遠ざかった。彼女はよく、元気な演技をしていた。無理させるわけにはいかない。
 でも、
「もう少し早く来て」
「もっとここにいて」
「好き……」
 たまに出る真の言葉はそれすらも望んでいなかった。彼女は無理をしてでも僕といたいようで。それは嬉しくもあり、辛かった。
 相変わらず彼女との時間は楽しく、同様に地獄は増した。楽しい時間に紛れ込む狂気。意識にのしかかる負担。でもこれらを感じるのは僕だけでいい、彼女は楽しさだけを感じていればいい。
 独善的に生きる。彼女が全てを知れば苦しみを共有しようとするかもしれない。だがそんなものは死にゆく者には必要ない。僕はそうやって判断して、勝手に嘘を踊った。それが僕の『善』。立派な人間であれ。
 僕は独り、歯を食いしばって耐えた。いや、独りではない。あの医者が僕を肯定してくれている。独りじゃない。まだ、耐えられる。

 あるとき彼女がどうしようもないほどに辛そうだった。その時、僕は《静かなお手て繋ぎ恋人ごっこ》がしたいと言って彼女を動けなくさせた。彼女は「ごっこかよ!」と怒った。僕は笑った。それで、幸せだった。
 そうやって続く刻は、目に見える。視界に入るのは死の気配。彼女が弱っていくのがわかってしまう。生の限界を。それがはっきりと感じ取られる。裏は取った。医者は言っていた。
「あの薬はもの凄く副作用がキツイんだ。本当に、死んだ方がマシってぐらいに。それでも吉野早枝さんは寿命の延命を望んだ。いったい、誰のせいだろうね?」
 重……かった。
 その言葉は重い呪いであり、僕が望んだ言葉だった。医者は僕のことがわかるから、更に重荷を加えた。僕はそれを受け入れた。
「吉野早枝さんの病気は自分の死期がおおよそわかってしまう病気だ。彼女が今どれほど苦しんでいるだろうか。死が近いという思考はリアルなものとなって彼女を苦しめる。現実迫観念症を患う者にとって死を感じるということは、死ぬほど辛い状態にあるのと同意だ。これほど苦しまないといけない人間というのも中々珍しい、残酷な病気」
 死が近づく。終わりは近い。砂時計の砂はもうすぐ落ちきる。
 だから、その知らせを聞いても驚かなかった。
 電話が、鳴る。
『相川君、吉野早枝さんが危篤だ』
 それは例の、吉野早枝の専属医からの電話。
 今は学校が終わり、見舞いの品を考えている途中だった。
『すぐ行きます』
 そう言い、電話を切る。
 僕はなにも買わずに、彼女の元に急いだ。
 そして、出会ってしまった。
「また、あなたなのね。早枝を苦しめるのは、あなたなのね」
 吉野早枝の母。
「私が、頼んだの。やめて、お母さん」
 彼女はもう、起き上がることができない。もう、限界が近い。
 ――死んでしまう。
「早枝は黙ってなさい!」
 彼女は黙った。彼女は彼女の母に命を救われている。己の母を愛している。だから、強く言えない。それがわかった。
「早枝さんに、会わせてください」
「調子に、乗らないで」
 恐ろしい形相で吉野早枝の母は睨んでくる。僕は真っ正面から受け止める。
 だが、そうやっていても吉野早枝の母は動かなかった。それどころか怒りは蓄積し、手が動きそうになっている。
 暴力沙汰は、ダメだ。それで悲しむのは彼女で、そんなことはできない。
 僕は引き下がるしかなかった。あの手この手を使っても、医者に頼んでもダメだった。
 危篤の患者は、その親が優先される。当然のことだった。
 僕は絶望しかけた。それでも。
 トボトボと歩いて病院を出る。策を考え、何とかしようとする。彼女に迷惑をかけずに、会う方法。
 その時、チラっと同じ学校の制服が見えた。
 僕はそれを追う。
「……相川」
「……服部」
 それは僕が、善性を認めた生徒だった。
「なんでここに?」
「……それは、いやそれならお前だって! …………ごめん。当然だよな」
 服部が眼を逸らす。教師は『誰も』お見舞に来ないでほしいということを生徒に告げた。なのに僕はここにいて、服部もここにいる。だが、僕と彼女は恋人関係であり、服部と彼女はただの友達関係だ。その重い違いを理解したのだろう。
「別に。気持ちはわかるから、大丈夫だ」
「そうか、ありがとう」
 その時、あることが思い浮かんだ。それは悪魔のような思考。服部を踏みにじる行為で、一直線に彼女のためを思う、そんな作戦。恐らく、まだ服部は彼女のことが……。
「服部、彼女はもうすぐ死ぬ」
「なっ」
 だがそれでも、やらなきゃならない。死にゆく人は優先しなくてはならない。……昔の僕だったらこんな考えをせせら笑うだろうな。
「彼女は僕を愛して、僕も彼女を愛した」
「……」
「僕は彼女に会わなきゃならない。最期の時、側にいなきゃいけない。でもその母親がそれを邪魔する。だから……助けてくれ」
 僕はかすれた声でそう言った。
「おま、え」
 服部は、怒りも、悲しみも。何も示せないようだった。
 僕はただ、彼を待つ。そうすれば服部は徐々に落ち着きを見せ、深呼吸をした。
「あのさ。一つ、いいか?」
「どうぞ」
「失礼なことだとはわかってる。でも、俺はお前が羨ましい」
「……」
 お前なら、そう思うと、思ってた。文句を言われたら終わりだった。でも服部が選んだのは心の独白。ただ、思いを告げることだった。
「吉野さんと過ごしたお前が羨ましい。お前は今、凄く辛いだろう。きっと、俺には推し測れないほどだ。でも、それを含めてでも、俺は、お前が……」
「わかってるよ」
「え?」
 僕が背負っている重荷は誰にもわからないし、わかるわけがない。理解しているなど言われるのなら、僕は怒る。だが、以前考えたことがあるのだ。服部は僕が彼女の隣にいることを羨ましがっているだろう。僕の辛さは服部にはわからない。だが、もし服部が僕の辛さを全て理解できたと仮定しよう。それでも彼は、僕の立ち位置を望むはずだ。彼は、そういう人間で、真っ直ぐすぎるバカだから。
「君と彼女は、結構似てるところがあるんだよ、服部。だから、わかってる」
「……ごめんな、相川。俺は、こんなことをお前に言いたいだけだった……」
 拳を握りしめるのが見えた。そして、彼がなにかを乗り越えたのを、僕は感じた。
 服部は、彼女を除けば唯一全面的に信用できる人間だ。
「お前を助ける、相川。俺は何をすればいい」
 僕が人を信じる。ほんとに、馬鹿げてる。
「ありがとう、服部」
 やるべきことを告げた。
 単純な作戦だ。そしてこれだと服部は彼女に会えない。会えるのは僕だけで、服部が得になることはない。でも、彼女のためだから。
 服部は納得した。「一生の借りだからな」そう、笑って言われた。それに僕は感謝した。
 服部は僕の唯一の友人、そういえるかもしれない。

 服部が吉野早枝の母を引き寄せる。僕はその間に病室に入る。
 それは成功した。
 僕は今、彼女の前に立ち、その顔を覗いている。
「死神さん、かな?」
「そうだね、そうかもしれない」
 彼女は嬉しそうに笑った。僕は死にゆく彼女を見た。
 仮面を被る。心が張り裂けそうだ。でも、悲しげな顔は見せない。だってそんな必要はないから。
「なにか、望むことはある?」
「私は……」
 寝たきりの彼女は眼を閉じる。
 そして開いたその時には。
「外に行きたい。寿命が一日縮んだとしても、ここで死にたくない。ここ、辛いんだよね。あはは、そうだなぁ、夕日見て死にたいなぁ」
 ……もう彼女に生きる意志は、ない。
「わかった」
 彼女の願いは予想がついていた。病室にある車椅子をベットの近くに移動させる。彼女をなんとか持ち上げ、座らせる。
「えへへ、最期の、デートだね」
「……皮肉だね。本当に僕は、死神の真似事をしてる」
「単純に、私は君と過ごしたかった。私のお母さんは世界一の良ママだけど、私は君を選んだ。それが、私の選択」
「……君の意思に従うよ」
 彼女をここから連れ出せば、寿命は縮む。どちらにせよ寿命は、残り二日ももたないだろう。今日の夜すら越せないかもしれない短い命だ。だが、僕は間接的に彼女を殺すことになる。彼女の寿命を削ることになる。
 それでも、だ。僕は決断した。あとで糾弾されるのは目に見えてる。世の中の基準で言えば僕は悪だ。汚名は被る。全て捨てる覚悟はできている。
 未来を捨て去る僕の選択を、赤の他人なら滑稽だと言うだろう。それでも、誰にも笑わせない。
 決して曲がることのない誓いを、心に重ねたから、僕は逃げない。
 これが、僕の選択。
「ふぅ……。デートエンドでデットエンド」
「さすがの僕でもそれは笑えない」
 彼女は笑っていた。死は近い。死神の指はもう半分、彼女の肩にかかってる。それでも、楽しげだった。
 病室を出る。
 当然、吉野早枝の母がいる。今戻ってきた、そんな状況だ。
「あなた、また、あ、アナタは!」
 そんな吉野早枝の母を服部が押さえた。力付くで道を塞ぐ。服部は捕まるかもしれないな。その時は僕が全ての罪を被らねば。
「あなたの娘の、最期に望んだ時間なんです。邪魔、しないでください」
 服部の目には信念が宿り、道を塞いでいる。
 僕は感謝しながら、病院を出た。
 後のことはわからない。だが、服部を信じる。何もかも、アイツなら何とかしてくれる。
「夕日見たいって行ったけど、どこ行きたい?」
「そこらへんの河原でいいや」
 彼女の細い腕が僕にまとわりつく。以前よりもは細くなった、だがもうすぐ死ぬというほどには細いとは思えない腕。
 そんなことで、僕は少しの希望を見たくなる。彼女は死ぬのに、もしかしたら生き残るという、奇跡を考えてしまう。
 僕は、弱い。
 そこら辺の河原に着いた。本当にそこら辺、歩いて十分かからないほどの距離。
 夕日が見える。あの頃、夏休みの前に話した、赤い夕日に似ている。
 僕の目はそれを赤と認識した。だが、心は灰色に感じた。感情はすりきれ、表面を嘘で覆う。これは最後の戦いであり、これを乗りきれば終幕だった。僕にとっては違うかもしれない。でも、彼女にとって終わりを意味する時間なら、僕は今、ここに立つ時間のことだけを考える。
「う、しょ。力入らないや。手伝ってくれる?」
「うん」
 彼女の身を起こす。彼女は草の生えた場所にコロンと寝転ぶ。
 僕もその隣に寝転ぶ。
「私は、死ぬ」
「そうだよ」
 否定はしない。
「もう、終わりかぁ」
 終わってほしくない。生きていてほしい。
 僕の一生より、彼女の一秒の方が、尊い
「天国に行ったら宜しく頼むよ。僕もそこにいく努力をするから」
 全く信じていない死後の世界。だが僕が信じているか信じていないかは大して重要ではない。全ては、命少ない彼女のために。そのために行動するから。
 僕は壊れていく自分の心を見つめながらも彼女のことを考えた。彼女は今、何を考えていて何を望むのか、そればっかり考えていて、打算で動く自分に吐き気がした。これが精一杯で、頑張っても頑張っても答えは見えなくて、結局、普段通りの自分を保つしかなかった。
 一筋の風が頬を撫でる。僕にとっての冷たい風、彼女にとっては、死神の息吹。
 そう思った。だが、僕と彼女では価値観が違う。そのことが、次の言葉には如実に表れていた。
「風、気持ちいいね」
「そう、だね」
 彼女は、死に向かう彼女は嘆いていなかった。それは諦めなのか、絶望が振りきれ、マイナスがプラスへと転じたのか、わからないが、彼女は世界を鮮やかに見ていた。
 僕にとっては灰色で、けど、彼女は幸福感を感じてる。
 でも、刻はまだ続いている。彼女が生き続ける限り、僕の戦いは続く。無表情という名の仮面を張り付けた僕は、声も、動作も、何もかも。全て平時と同じように設定する。そうやって、彼女には負担をかけないようにする。
「私、幸せだった。他の人から見たら、今の私は不幸だと思うかもしれない。でも、私は、楽しかった、なぁ」
「僕も楽し……かったよ」
 声が震える。抑えようとしているのに、なのに。
 全力だった。それでも、胸は裂けるように痛く、堪えきれる気がしなかった。
 けれど、現実迫観念症を患う彼女にとって、死をまじかに感じるということがどれだけ苦しいことなのやら。それに比べれば僕の苦しみなんて、ちんけなものでしかない。
 だから僕は、精一杯歯を食い縛る。
「やりたいことは大体叶った。素敵な恋ができた。私は満足。先に死んじゃってごめんね」
「大丈夫、気にしないで」
 さりげない会話も、一言も、呼吸も。全て、毒になる。
 込み上げてくるものがある。
 苦しい。でも、耐えろ……耐えろ。

 経験や意思、覚悟、固執、傷、悟りや憎悪、悲しみ。

 僕の全ての感情を、人生を懸ける。己の存在そのものを、魂に誓いを込めて、耐える、耐える。そうまでして、ようやくといったところで。
 もうここまで来れば、妄執や執念に近かった。恐ろしいまでの負担は、おぞましいほどの意思力を必要とした。自分が自分でないほどに化け物だった。こんなに感情を溜め込んで、それでも顔には出さなくて。
 僕は、目を瞑る。

 それから楽しかった頃の話をした。彼女のイタズラや迷惑行動にはどれだけ困らせられたか、笑って話した。彼女は僕の感情の起伏が少ないことを指摘してきた。一瞬ドキッとさせられたが、それがかわいいとか健気とか、誉め言葉なのか貶し言葉なのかよくわからないことを言われた。
 時が過ぎ、それに比例して彼女は弱っていった。話すのも苦しそうで、それでも僕は止めなかった。
 苦しむことでさえも彼女が選んだ事だから。
 僕は支え。彼女の意思を助ける杖……だから。
 衰弱していく彼女を間近で見ていた。その苦しみを、激しく咳こみ、吐血しようと、なにもできない。僕に能力がないから。無力な一人の人間だから。
 もう、嘘の笑顔を作る余裕はなかった。無表情に固定し、ただただ喋る。少しでも表情をずらせば、泣いてしまいそうだった。
 そう、そうやって、見ているだけで、僕はなにもできなくて、彼女は苦しんで。
 それでも――それでも僕に彼女を曲げる権利など、なかった。

 夕日が沈みかける。
 彼女の命も沈みかける。
 この苦しみが終わってほしいという思い。
 この幸せが続いてほしいという願い。
 地獄と天国の狭間は、僕の心をゆっくりと、確実に砕いていった。
 逃げられなかった。
 逃げるつもりもなかった。
「もう、時間、ないみたい」
 彼女はもう息も絶え絶えだった。もう生きることは苦痛でしかないはずなのに、命の綱を離そうとはしなかった。
 僕にはなんで命の綱を離そうとしないのか、その気持ちが痛いほどにわかる。最初はただ死ぬのが怖いからそうなるのだと思っていた。でも、それは確かに存在するのだけど、それよりももっと多くが他の部分で占有されていた。
 それは、僕にとっては、父の記憶と……彼女の記憶で。
「私は、君に謝らなきゃ」
 もう喋らなくていい。寿命を減らさなくていい。ただ、生きてくれ――
 そんな願いは心にのみ叫ぶ。
 現実の僕は次の会話に繋がる一言を言う。
「なにが?」
「ごめん、ね」
 彼女が何を言いたいのか、よくわからなかった。でも確実に、彼女は悪くない。それだけは確信できたから。
「謝らなくていい。君はここにいるだけで、僕は幸せだった。……まあ、うるさくはあったけど」
 余裕を気取る。
 そんな平坦な声は、彼女に笑われた。
「ムリしなくていいよ。感情、さ。抑えなくていいよ」
 そうやって唐突に吐き出された言葉は、
 僕に衝撃を与えるが、僕は、答えなければならない。
「僕は普通にしてるけど」
 よかった、声は震えなかった。これで嘘を突き通せる。優しい嘘を、彼女のための偽りを……。
「な、わけないじゃん。ふぅ、わかってる、私は君の彼女、だもん」
 苦しい筈なのに、なのに彼女のその笑みは、僕が最も、大好きな笑顔で。
「私は、君を引きずり、込んじゃった。私は君を愛したし、君は私を……愛してくれた。
 だから、心配なの。ふぅ…………。君はひとりぼっちだった。だから世界は全部敵で、灰色ばっかりだった。私はそこから君を引き上げて、そのお陰で心は元に戻った。でも私がいなくなればまた君はひとりぼっち。折角戻った心は、傷つくだけになっちゃう」
 彼女は、息切れしながらそう言い、途中で深呼吸をして、おそらく最も言いたいことであろうことを言い切った。
 その代償は激しい咳で、僕は彼女の背中をさする。
「大丈夫だよ」
 僕は言う。
「僕は独りで生きていける。僕をナメるな。僕は弱くない、強い。君がいなくても生きていけるし、趣味だってある。退屈にはならないさ」
 看破されていた僕の心は、最後まで誤魔化すことを選んだ。もう今更、後には引けなかった。

 そう、選択しようとした。僕の意思に、偽りはなかった。

 僕は言葉を続ける。さっきの言葉は不十分かもしれない。まったく何も感じないというのは失言かもしれない。だから少し、付け加える。
「ごめん、嘘をついた。僕は君がいなくて、つらい。死んでほしくない。でも、僕は大丈夫だ。大丈夫なんだ、心配しないでいい」
 嘘の中に、真実を混ぜた。そうじゃないと彼女を騙しきれない。騙しきらないと、彼女は幸せに逝けない。彼女を救うことができないのなら、せめてこれだけでも、守らねばならない。
 ――そう思っているのに、心は崩壊を始めている。
「僕は変わった。君のせいだ。でも感謝してる。僕は父のことを憎んでいた。でも本当はそんなことしちゃいけなかった。君が教えてくれた、気づかせてくれた、救ってくれた。君はただ、誇っていればいい。僕にとっては君は、絶対の英雄(ヒロイン)なんだ」
 いくら心が辛くても、それでも――
 彼女は大きく息を吸った。
「そう。よかった」
 いつもの彼女なら、僕のこの嘘は、バレていたかもしれない。でも彼女は余裕がなくて、だから信じてくれたようだった――。
「抱っこ」
 彼女が腕を広げ、僕に甘える。
 抱き締めた。儚い命を、抱き締める。死神から守りたくて、包み込む。
 ――彼女は震えている。
 なぜか。死が怖いからだ。なのに彼女は弱音を吐かない。なぜか。僕が側にいるからだ。僕を気遣って、平常を保っている。――ならば、まさか、もしかしたら。
 予感があった。
 心が砕けていく。耐えきってくれ。あと少しなんだ。ここさえ凌げば、終わるんだ。
 だから――。
 彼女の体から熱を感じた。生者が発するそれはどうしようもなく僕の壁を、固めた氷を溶かしていく。
 ――心が、震える。
「……泣いてるの?」
「…………てない……!」
 彼女の熱。切ない。どうしようもない。
 華奢な身体の彼女を、強く抱き締める。
 一度心にヒビが入れば、もう止めることはできなかった。
 涙が、流れる。
「よしよし」
 そんな僕の頭を――彼女が撫でる。子供の様に泣く僕を、彼女は慰めた。本当は、――本当は僕が慰めねばならないのに。
「私が死ぬのが怖いんだよね。わかってるよ、泣いていいんだよ。それが普通なんだからさ。私の前ぐらい、弱いままの君でいいよ」
「ちが……う、僕は……僕は……守らなきゃ、ダメなのに……」
 彼女の息が耳にかかる。
「私は君が変わってくれて嬉しい。私の命は短くても、君のためになったなら、本望。いい方向に、変わったでしょ? 君は。人間が嫌いだった君は、今は、どう?」
「嫌いじゃ……ない。でも……君みたいには……人を好きになれない」
「いいの、それで充分。とにかく君は変わった。幸せになれる。きっと、きっと、大丈夫。これは私からのお願い」
「無理……だ、無理だよ……君がいないと、僕は……笑えない……辛い……生きていけない……死んだ方が――」
「ダメ」
 キッパリと宣言する。
「それだけは許さない」
 彼女は僕に価値観を押し付ける。死にゆく人の言葉はひどく重たい。祝福のつもりの言葉でも、僕にとっては呪いでしかない。
 彼女が世界にいないなら――。
「無理だ……無理だ。なら……生きてよ。なんだってする。君がいるなら……なんだって」
「私は君についていけない。そこからは君の道。でも、心の中にいるから。だから、君の中の私を大事にして」
 僕は首を振る。それでも彼女は許してくれない。泣いても、すがっても、何をしても。彼女は僕を縛る。でも、それは優しい祈り。それがわかるから、理解できるから、尚更辛い。
「私のお願いだから、君はきっと聞いてくれる」
「だ、ダメだ。待って」
「全部、託すよ。私の全てを、君のためになることを、祈ってる――手、握って」
 僕は必死で手を握る。彼女の体から力が抜けた。背負っていたなにかを、下ろしたようだった。
「死なないで――死なないで」
 もう彼女には言葉が届いていない。僕の願いは届かない。ずるい、そんなの、僕に任せて、それで、勝手に――
「そこに、いるよね? 怖いよ、前が見えない。でも、君がいるから、それなら、満足……かな?」
「生きて……お願い……お願いだから……!」
 僕の願いは、届かなかった。
 でも、僕は彼女の願いを持っていた。
 彼女の手はまだ暖かく、生きている者の手のようで。これからその熱は消えていく。
「私、幸せだった」
 僕の中で、命は消えていく。

 僕はこの熱を、一生忘れることはないだろう。

 彼女はもう喋らなかった。
 眼を閉じていた。
 辺りは静かで、風だけが音を纏っていた。
 病は静かに彼女の命を奪った。現実迫観念症の患者は、血を吐くこともなく、苦しみに身をよじらせることもなく、ただただある時期に死のイメージを膨張させ、脳機能を停止させる。絶対に死なないと信じていれば、もしかしたら現実迫観念症の患者は死なないのかもしれない。
 僕はゆっくり目を閉じる。つないだ手から命が消えるのを、僕は感じていた。

 そうやってどれぐらい過ごしたのだろうか。
 この瞬間は永遠一瞬で未来永劫。
 一生消えることのない想いを、溜め込んだ。

「ねえ」
 彼女に呼び掛ける。
 返事はない。
「ねえ、早枝?」
 一度も呼んだことのなかった名を口にする。
 気に入っていた。君、君、という日常の応答が。
 だが、返事はない。
 神に祈った。一度もやったことのない行動をすれば、奇跡は起こると。
 名前を呼んでも、肩を触れても、返事はない。
 ……いやだ。
 どこを触っても、反応はない。
 ……嘘だ。
 握っていた手は、いつのまにか冷たかった。
 立ち上がる。
「死んだ……もう、終わったのか………………嘘だよね?」
 返事は、なかった。
 心と裏腹に、無感動に死体を見下ろす。安らかな顔をしている。
「終わった、死んだ、終わった、死んだ、これで……終わりだ」
 ブツブツと呟く。口元が、歪む。
「ハハ……ははははハハハ………………認めたく、ない」

 冷たい。

「あくくくくっ、ははは、アハハハハッハ……」
 押し寄せるのは狂気。笑えてくる。楽しい。意味がわからない。でも、笑える。
 ――本当に?
「…………くそ」
 辛い。痛い、痛い痛いいたい。
 …………どうして。
「現実…………認めない」
 苦しい。なんで……こんなにも……僕は。
「いやだ」
 僕は、死を覗く。
「いやだ、いやだ……いや、だぁ」
 彼女がいないなら、
 ――この世はもう、終わればいい。
「…………………………ああ、もうハハ……あ、あああぁぁ、くそぅ……は、もう、うううぅ、あ、いやだ、いやだぁ、いや、だぁ、うそだ、こんなの、こん、な、あ、ああぁ、ああああああああぁぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁ」
 やってきた狂気に身を委ねたかった。
 無理だった。他ならぬ暖かな記憶が、邪魔した。
 楽になりたかった。
 風が僕の涙を運ぶ。
 伝う滴は、空気にさらされて冷たい。
 砕け散った心は、空虚だった。
 心の破片を集める気にはなれなかった。
 死んでしまいたかった。
 逃げる場所がなく、あちこちに手を伸ばす。自分の虚空(こころ)を探る。何かがないか、祈る。
 そこには暖かい思い出がたくさんあった。もう戻らない非日常。大切な彼女との記憶。
 全てを投げ出したかった。思い出の中に、溺れたかった。
 僕は弱く、弱く、弱い。すがるしかない。
 すがって、抱き締めて、この思い出だけを見つめてる。思い出に、忘れられない暖かなこの記憶に。
 あまりにも僕は、弱すぎる。涙はまだ、止まらない。
 その中で。
 ある記憶を見つけて――
 ――「死ぬときはメールするから、楽しみにしててね!」「バカらしい」
 物凄い勢いで携帯を開く。
 なにも…………ない。
 川に捨てた。
「……」
 希望は毒だった。完膚なきまでに心を破壊した。もうどうでもよかった。
 歩く。
 川は汚く、僕にお似合いだ。
 一歩、足を踏み入れる。
 ああ、安らかな死へ……。

 ――足が止まる。
 ――なぜ?

「まだ……死ねないのかな」
 僕を立ち止まらせたのは、彼女の最期の祈り。死にたくても死にたくても、それは僕を縛る。
 ――重い約束は、その祈りは。
 《それだけは許さない》
 《とにかく君は変わった。幸せになれる。きっと、きっと、大丈夫。これは私からのお願い》
 《私のお願いだから、きっと君は聞いてくれる》
 影を落とし、歯を食い縛る。
 振り返った。
 死体があるだけだった。でも、それは最愛の人で、決して忘れることができないものだ。
 何度でも祈った。奇跡を信じなかった僕は、以前敵対していたものを本気で信じた。
 無駄だとわかっているのに、すがって、すがって、祈って。そうやってしばらくしたら、現実はやってきて。
 自分の今の状況が見えてくる。頭がひどく痛む。足は言うことを聞かない、立ち上がれない。
 心に巣くった絶望が何度も僕を弾き返した。もう生きなくていい、死ねばいい、楽になればいい、辛い道を進むことはない。
 でも、そう囁くもう一人の僕よりも――彼女の願いの方が、ずっと強い。
 だから、もう一度立ち上がる。
 僕は生きなきゃ、成長を見せつけ、彼女の存在を証明しなくては。

 涙をふく。
 僕はまた、生きることをやりとげなくてはならない。一度ここで死んだ僕は、彼女の願いを持っているのだから。
 間近なものが、試練が僕を待っている。
 彼女の体を抱く。力の入らない腕で、車イスに乗せる。
 遺体を、届けなければならない。
 不完全な心のままに、僕は歩き始めた。

 ◇

 世界が僕を憎んでいる気がした。全ての人々が僕を蔑んでいるように見えた。全部敵に見えた。それでも、僕は歩いた。
 一歩一歩が重い。欠片だけ残った心で、体を動かすのはひどく困難だった。
 少しずつ病院に近付いていく。人が増えていく。僕を見る。
 視線が恐ろしかった。それでも頭を上げる。立ち向かわなくてはならない。僕は、僕の業を背負い、生きるのだ。
 空気は鈍い。息が吸いにくい。ひたすら苦しい。地獄へと向かう前進は、気力を奪い続ける。何度も挫けかけた。でも、死体であろうと彼女は彼女で、義務は果たさなければならなかった。約束が強制させた。
 辺りを見る。病室に着く。医者が僕を見て、なんの感情も称えない目で僕を奥へと誘う。部屋にいるのは服部と、吉野早枝の母と父だった。
「さ、え……?」
 呆然と呟く吉野早枝の母。その心情は、娘の死を思う心は……。いや、僕には推測する権利すらない。
「あなたが……あなたが殺した!!」
 絶叫が、響く。突き付けられたその指は、僕を指している。
 痛む心を庇わず、全て受け止める。僕は、それだけのことをした。
「なんでこんなことをしたの! なにをしたかわかってるの! 殺した! 殺した! まだ早枝は生きられた! 早枝は生きたがってた! なのにあなたは邪魔した! あなたは早枝の彼氏じゃないの? なんでこんなにひどいことができるの! なんで! なんで!」
 もう、途中から聞けなかった。足元がふらついた。でもだいたい、何を言っているかは把握できた。
「すみません」
「あなたは……そんな言葉で……なにを!」
「報いは受けます。なんなりと」
「うるさい! そんなもの、意味がないじゃない! なら返してよ! 早枝を!それ以外なにも望まない!」
 それしか望んでいないのだ。僕が憎いとか、そんな思いよりも娘のことが大事なのだ。全て、思いはただ一つのことに向いている。
 僕だって、それができるならそうしたいし、今も願っている。
「娘さんはクラスの人気者でした。皆彼女が好きでした。そして僕は皆よりも彼女が好きでした。自分自身より彼女のことが好きなほど――」
「聞きたくない! 早枝はあなたのことを自慢していたわ! あなたのことを素晴らしいって! なのに、あなたは裏切った! 早枝の意思を! 彼氏でしょうに!」
 そうやって、怒りのなかに僕を称賛する声を聞いて……真に理解する。吉野早枝の母がどれだけ彼女のことを思っていたか、どれだけ娘のことだけを思っていたのか。それだけに周りが見えなくなって、もう何をしたらいいのかわからないのだ。
 だから、伝えなきゃ。
「彼女はあなたに感謝していました。以前、救われたから。純粋に、母のことが好きだったから」
「黙れ!」
 言葉は遮られ、否定の花瓶が投げつけられようとする。僕の反応しようとする周りを目で制して止める。
 それは僕に当たり、割れた。痛かった。でも心の痛みの方がずっと痛かった。僕は彼女の意思を伝えなければならない。彼女は母のことだって愛していた。自分のことを好いてくるなら、嫌いになるはずがない。人間が好きな彼女は、自身の母について余り語らなかったが、それだけはよくわかった。
「以前に……彼女に僕の傷を話しました」
 痛みに震えそうな声だろうとも、どれだけ心が痛みを訴えようとも。
「僕が辛かったときの話。僕の傷の中心部。彼女は共感してくれた。父が僕を庇って死にかけた話だった。彼女はよく似たことを、母がしたと言っていた」
「な、にを」
 吉野早枝の母がたじろぐ。
 身ぶり手振りで混乱がわかった。僕はこの人を救わなければならないと思った。彼女が大好きだったであろう人で、彼女のことを思ってくれるこの人のことを。
「彼女はあなたに借りがあったんです、愛していたんです。病気の自分のために全て捧げてくれた。辛いだろうに自分のことを最優先にしてくれた。自分の家族は世界一で、本当に大好きだと、そう言っていて。――だからずっと想ってあげてください、精一杯生きた、彼女のことを」
「……っ!」
 彼女のことを伝えた。これは全てを聞いたわけじゃないし、本当ならもっと適役がいるのかもしれない。でも、彼女との時間を奪ったのは僕だから。そして伝えられるのは最期を看取った僕だから。だから、だからここまではいい。
 不安と悲しみを目に背負う吉野早枝の母。僕の言葉は彼女のものとして、確かに届いたようだった。
 次は、僕の問題。僕が奪った時間はこの程度のことで償われるものではない。どんなことをしても許されないし、許されてはいけないのだろう。でも、それで諦めるのは尚悪い。だから精一杯、誠心誠意をもって、謝るしかないない。
「娘さんの時間を奪って、本当にすみませんでした」
 頭を下げる。気持ちを込める。それしか、できないから、せめて全力で。
 肩を掴まれる。
 殴られる。そう思った。覚悟していた。
 首筋に冷たいものが当たった。
 水。
 恐る恐る顔をあげてみれば、吉野早枝の母は泣いていた。
「自慢の娘だった……快活で、友達が多くって……。あなたの自慢話を何度も聞かされたわ……不思議な人だって、素っ気ないふりして何だかんだで我が儘を聞いてくれるって喜んでた。甘えるのが楽しいって、たまに見せる笑顔が素敵だって……。全部、全部覚えてる……早枝はあなたを選んで、幸せそうだった……」
 話すごとに籠る力が増していく。それは痛い程だったが、感情の大きさに比例していることだとわかった。苦しいほどにその気持ちがわかるから、だから僕は言う。
「僕も、本当に彼女だけが好きでした……初恋で、この思い出はずっと消えることはない――」
 吉野早枝の母は……今や泣き崩れていた。
 地べたに座り、床を滴が濡らす。
 吉野早枝の父がやって来て、肩に手を置いく。
「智子」
 その目でさえも、潤んでいたが、優しげで己の妻を心配していた。吉野早枝の母は赤くなった目で彼を見つめ、差し出された手をとって立ち上がる。力ないその腕は、先程の剣幕の強さからは想像がつかないほどで、いかに弱っているかがわかった。無理をしていたのだろう。そうじゃないと気を保てなかったから。この人の人生の中心は彼女の元にあったのだから。
「早枝がぁ、もう……いないの。私たちの娘はもういない……。死んでしまった……生きてほしかった――。私は、私は……」
 それを吉野早枝の父はそっと抱き締める。
「大丈夫だ智子。早枝は幸せだった。本望だったんだ。そこの彼への自慢話は何度も聞いたじゃないか。私たちはずっと想っていよう。愛する娘のことを」
 すすり泣く声が聞こえ、それを励ます、いや、一緒に支えようとする声。
 その二人は、静かに病室を出ていった。
「信司……」
 今まで黙っていた服部が口を開く。
 僕の心は燃え尽きていた。でも、お礼を言わなければ……。
「服部……ありがとう」
「俺は、なにもしてねえじゃんかよ」
 服部が少し涙ぐむ。僕は目を瞑る。
「相川君」
 最後に吉野早枝の専属医が口を開く。でももう彼女はいないから、違う……か。
「わかってるね? 君は許されないことをした。身内の危篤は親族が優先される。それを君は割り込んで、親の気持ちを踏みにじった。彼らは吉野早枝さんの最期に立ち会えなかった」
「わかって……」
「でも、だ!」
 医者が声を張り上げる。
「君は吉野早枝さんの意思を尊重した。君の行動は世間一般から見れば後ろ指を指される行為だ。でも、それでも私は……彼女の専属医として、お礼を言いたいんだよ。
 ――ありがとう」
 力強い言葉が反響した。
 頭の中に響くその言葉に、何もかもが揺れて。
「う、あ、う、うううぅ。すみま、せん、僕は、僕は……」
 涙が溢れた。
 もう流しきったと、もう泣くことはないと思っていたのに。
 最大の感情は彼女の元に置いてきた。でも、今が虚無なわけじゃない。僕は今、生きている。
 全てを捨てちゃいけない。
 彼女は僕にそう望んだ。
 背中を擦ってくれる医者の手は、暖かくて『人』を感じる。
 だから、
 ――救われた、気がした。

 ◇

 僕はぼんやりと外を眺める。
 青々とした緑が揺れ、それを切なく思った。

 今は高校三年生の8月の始め、それは夏に相応しい暑さを誇っていた。
 ジリジリとうるさく鳴く蝉。
「おい、信司。開けろよ。おい、信司!」
 さらには五月蝿い人間(しんゆう)だ。
 嫌になって寝返りをうち、突っ伏して枕に顔を埋める。
「おーい、信司ー!マジで早く開けろって。時間間に合わなくなるって!」
 全く……、本当にうるさいやつだ。さすが僕の親友、服部なだけはある。
 欠伸をし、起きる。そして服部にも聞こえるように叫んだ。
「ちょっと着替えるから待っててくれ!」
「はー?まだ着替えてねーのかよ!皆との約束遅れるぞ!」
 僕の怒鳴り声を1とするなら服部の怒鳴り声は3だ。とてもうるさい。
 これ以上、親友に近所迷惑行為を続行させるわけにもいかないので、僕はさっさと着替える。
「おせーよ!」
「ごめんごめん。眠くって」
 フン、と鼻を鳴らして怒りを伝えて来る服部だが、それは外面だけで心は違う。いや、まあ少しは怒ってるかもしれないがここまでではない。僕はよく、わかってる。

 彼女は死んだ。それは変えようがない事実であった。受け入れはしないとこちらが主張しても、現実の方が強かった。だから僕は負け犬のようにしばらく家に閉じ籠っていた。
 そんな深淵から引っ張りあげてくれたのは母であり、今、目の前にいる親友、服部である。彼女の死の呪いは強く僕にこびりついた。あの出来事のせいで、僕にとっての世の中の苦しみは増えてしまった。
 でも、幸せなことも増えただろう。僕は今、最高に幸せというわけではない。が、最高に不幸というわけでもない。最大の幸せも不幸も、僕にとっては彼女と過ごしたいた頃が、そうだった。これは呪縛。一生付きまとう、強力な呪い。何故なら他ならぬ僕自身が思い出を忘れることを拒んだから。だから、僕は、長く、長く、苦しんだ。
 ピィーン。
 高鳴る金属音を響かせ、コインが舞う。
 その音で服部が振り向く。
「服部、勝負事でもしようか。表か、裏か」
「お?いいぜ。じゃあ表だ」
 僕は、もう一度コインを打ち上げる。そして、用意していた粘土をポケットから出した。
 コインはくるくると落ち、粘土に綺麗に突き刺さる。
「残念、真ん中だ」
「おまえそれがやりたいだけに粘土持ってきたのか?」
 僕は、ニヤッと笑う。
 そしてもう一度コインを弾き、空で掴みとる。そして、そのままポケットにしまった。
「賢いって褒めてくれ」
「ずる賢いって褒めてやるよ」
 でも、彼女の与えたものは苦しみだけではなかった。僕は今、生きているし、苦しいが、楽しさもある。
 だから僕は選べる。彼女が与えたのは、呪いか、祝福か。
「あーあ。いいよなーお前は。お前は馬鹿みたいに賢いし、世界最強の医者のコネもある。エリート医学部まっしぐらかよ。変わって欲しいぜ」
「君の頭脳じゃ、今入れ代わったとしてもすぐに沈んでくよ」
「賢さも含めて交換だっての!」
 もう一度コインを弾いてみる。そして掴み、結果を見る前に呟く。
「表」
「お前最近それ好きだな。マイブームか?」
 そんな服部の言葉は聞き流し、僕は結果に注視する。
 表、だった。
「フッ」
「でた、不気味な笑い」
「暖かな笑みと言ってくれ」
「え?」
「冗談冗談」
 表だ。
 結果は出た。彼女が願ったのは祝福で、決して呪いではないだろう。
 コインなどあくまで言いわけ、最初から、僕の心は決まっていた。
 彼女との時間は祝福として受け取ろう。

 君もそう望むだろう?

「おーい服部ー」
「おーい相川ー」
 待たせていた皆の僕らを呼ぶ声が聞こえる。フッと目を瞑り、思い出を覗く。
 結局、彼女は僕の嘘をどこで見破っていたのだろうか? 今となってはわからないことだが、たぶん、身を重ねた夜の後だと思う。恋人だからわかる、彼女はそう言っていた。正式に付き合ったのもその頃だし、この時からバレていたんだろうなぁ。
 思えば彼女は僕のことを想って、気づかないふりをしていたのだろうか? きっと、そうだろう。僕も彼女も互いのことを思い、すれ違ってしまった。
 でも、最期は、最後は真にわかりあえた。僕は最善の道を選べなかった。だけど、僕と彼女は、本当に、本当にお互いが好きだったんだ。それは、それだけはこの上なく強く、確認できた。
 なんだか懐かしく、悲しい。最大の感情は彼女の元に置いてきた。でも、今が空虚なわけじゃない。僕は現実に立っている。
 人間が大嫌いだった僕は、変わった。好きになろうとしたし、それはもう半分成功している。彼女ほど人間のことを好きになれないかもしれない。でも、僕は選んだ。
「おし! いくぞ相川!」
 ニヤッと笑い、先に走っていく服部。
 なんだか、眩しい。
「相川ー! 早く来い!」
「はいはい。わかったよ」
 僕は平坦な声を出す。
 そして走り始めた。
 今の僕の表情は、もしかしたら少し、ニヤケているかもしれない。
 《――よかったよかった》
 突然、声。懐かしい気がする。でも、きっとこれは幻聴だ。
 僕は走り続ける。
『ねえ相川君。人の意志は、死にゆく人の気持ちとか、魂はどうなるんだと思う?』
 以前、彼女はこんなこんなことを言っていた。僕はそれに「消えるだけだ」と答えた。
『きっとそれが正しいんだよね。でも私はこう思いたいんだ』
 彼女は、願望を口にした。
『人の純粋な思いは、願いに似た祈りはきっと誰かに届くんだよ。この世の中にエネルギーがあふれてるなら、人の意志は、その意志を持ったエネルギーは何かを変えるんだって』
 人の意思にエネルギーがあるのなら、僕らの知らないところでなにか影響を与えているかもしれない。誰かを思う心が、もしかしたらほんの少し、世界をよくしているかもれしない。もし、人間の意思にエネルギーがあったらだけど。
 この考えが嫌いではなかった。誇大妄想的だし、現実味がない。しかし、誰かを思う心がいい結果を残すというのは、あながち間違いではない気がするのだ。
 だから、
 ――僕は、ここにいるよ。
 服部の背中が見える。僕は、彼女に思いを送る。目を閉じて、ただひとりの人間だけを思う。
 感謝してるんだ、と祈ってみる。
 君のおかげで、僕は人間になれた。幸せを知れた。この世はとても苦しいけれど、苦しいだけじゃないんだってわかったんだ。
 景色は今日も曇りがかかったっているけれど、灰色なんかじゃない。たまには、鮮やかにだって見える。
 この世に意味なんてないと思っていた。死ぬのが怖いから死なないだけだった。心のどこかで、終わってしまうのを望んでいた。
 でも、今は違うから。
 生きることに意味があると、多少なりとも思えるようになったから。
 それはきっと、君のおかげだから。

 もうすぐ待っている仲間の近くにつく。

 ぎゅう、と僕はひとり手を握る。

 ――僕は、ここにいるよ。

 君がほんの少しの時間でも、そばにいてくれてよかった。
 僕がここにいるのは、きっと君のおかげ。
 だからこの、君への感謝は。
 だからこの、切実な思いは。
 君へ。

 ――祈りは届くと信じてる。