祈りは届くと信じてる

 
 僕はぼんやりと外を眺める。
 青々とした緑が揺れ、なぜだかを虚しさを覚える。
 今は高校三年生の8月の始め。じっとりした空気が夏を誇らしげに伝えてくる。
 ジリジリとうるさく鳴く蝉。
「おい、信司。開けろよ。おい、信司!」
 さらには五月蝿い人間だ。
 嫌になって寝返りをうち、突っ伏して枕に顔を埋める。


 高2の7月。

 僕は人間関係の中心となり得る学校へと向かうため、電車に乗っていた。
 よく好んで読む、儚さや切なさを感じさせる小説。
 僕はこういった儚さを感じさせてくれるものが好きだ。いつまでも世に残り続けるものはやがて黒ずみ、汚くなっていく。桜のようにさっさと散ってしまった方がいい。と言っても自分がそうなりたいわけではないが。
 気づけばヨボヨボの老体が僕の目の前に立っていた。
 席を譲ってほしいのだろう。物欲しげにこちらを見つめている。
 だが席を譲る気はない。
 知り合いなら『親切』をすれば返ってくる可能性があるが、赤の他人にそれをしたところで、得られるメリットはただの虚しい自己満足だけだ。そんなことをしてなんになる?
 ――なにもならない。
 そういうものだ。親切をしてむしろ仇で帰ってくることがあることを、僕は知っている。身近な人で、そういう目にあった人がいた。
 だから期待しない。わざわざ人間とは絡まない。
 ――変わったほうがいい、とは思うのだ。
 世の中はひどく色あせて見える。この現実に期待感がなくて、このままでは窒息してしまいそうなほど苦しくて。……こんな生き方は幸福ではない。僕はいつからこんな風に考えるようになってしまったんだろうか。
 周りの人間も誰も席を立たず、席を譲る気配はない。
 賢明な人間の多いことだ。
 やがて電車は僕の学校の駅へと止まり、僕は席を立つ。
 見れば老人はこちらを見て嬉しそうにしていた。席が空いたのが嬉しいのだろう。
 僕はそれを見て、なにも感じなかった。

 ◇

 基本的に、他人との会話はゼロ、後方に配置された席に座る僕は見られた回数さえ少ないのが日常の常態だ。
 僕の学校での立ち位置は『暗い奴』だ。
 ただあくまで『嫌な奴』ではない。そうなってしまえば面倒なことになるからだ。
 つまりクラスでは目立たなくて暗めの人物と認識されているはずだ。
 こういう存在の名刺を持っていれば基本的には誰も近づいてこない。
 そういう風に振る舞ってきた、行動してきた。こうすれば人間と関わることをより避けられるからだ。
「相川君、ちょっとお願いがあるんだけど……」
 そう声を掛けられたのは、その日の昼休みの時だった。
 相手は担任の女教師だ。
「できれば、でいいのだけど」と女教師は前置きをする。
「相川君の家はこのクラスの中で吉野早枝さんと近いの。だから、届け物を頼まれてくれない?」
 突然言われたことに頭を悩ませる。
 人との関わり合いを避ける僕は赤の他人のことを思い出すのに、しばし時間を必要とした。
 ……吉野早枝、確か病弱でほとんど学校に来れていない人間のはずだ。そのわりにはクラスの人気者で僕にはそれが理解できなかった。学校にあまり来ないのに人気者。きっと、そのことは彼女に少しでも興味を示していたなら当然のようにわかることなのだろう。生憎、僕は誰にも注意を払わないのでことさら学校にほとんど来れない人間のことはあまりわからなかった。
「別にかまいませんが……」
「ありがとう! お願いね!」
 言うが早いか、プリントの束を押し付けられる。
本当は断りたいところだった。しかし、断れば『嫌な奴』と思われてしまうかもしれない。
 ……仕方がないので運が悪かったと思うしかないのだろう。

 ◇

「お願いします……なんとか……なんとかなりませんか」
「……すみません、私には、力量不足です」
「お願いします、お金なら、それだけはあるんです」
「……一応、知り合いに聞いてみますよ。でも……すみません、きっと、無理です」
 吉野早枝の家に向かう最中、そんな会話を聞いてしまった。
 思わずその場で立ち止まる。会話はこの角の先、吉野早枝の家の前で行われていた。
「早枝を生かしてください……!」
 その悲痛な声を聞いて、悟る。
 病弱なクラスメイト。そいつは、死ぬかもしれない状況にあるのだと。
 ぽつりぽつりと続く会話。思わずその内容に耳を傾けた。
 僕はあらゆるものに興味を示さない、示しにくい人間だ。けれども、このクラスメイトの死を語る会話には、耳を傾ける価値があって、自分自身のために聞いておかなければならなかった。
 生きているはひどく億劫で、世界はひどく色あせて見せる。生きる意味を見出すことができず、かといって死を選ぶのは何か違う。だから退屈な日常の中で特殊な事柄があれば耳を傾ける。何事にも興味を示さない僕も、それを聞けば変われるかもしれないという期待するからだ。大抵の結果はすぐに興味を失い、僕の願いは叶わないのだが、非日常は一応知ろうとする。ましてや今回は自分が触れることになるかもしれない『死』の話題と推測できる事柄だ。
 自分の虚しい生き方と考え方が嫌いだった。なにかのきっかけが、僕という人間を変えてくれることを望んでいた。
 やがて会話は終わり、医者らしき人物は僕から遠ざかる方向へと帰っていった。
 頃合いを見て家に向かう。
 白くて大きな家だ。金持ちだとわかる家。これが吉野早枝の家だ。インターホンを鳴らし、人間が出てくるのを待つ。やがて中年の女が現れた。先程の吉野早枝の母親だろう、目をやや赤く泣き腫らしている。それに目を逸らしたくなる。どうにも、こういうのは苦手だ。うっすらと湧き出る同情心。でも、僕が他人に同情したからってなにになる?
「今日は担任が用事があって、かわりに僕が届け物をしに来ました」
「あらあら、早枝のお友達かしら。ありがとうね」
「いえ、別に……」
「どう? 上がっていく?」
「いえ、遠慮させていただきます」
 無意味な時間を過ごす気はない。きっぱりと断り、背を向けた。
 背後から「届け物ありがとね」とか細い声。
 振り向こうか迷ったが、聞こえなかったふりをした。
 ようやくお使いは終わりだ。
 そう思い、角を曲がろうとしたとき。
「ねぇねぇ君」
 後ろからまたもや声を掛けられた。
 後ろを振り向くと見覚えがあるような気がする女がいた。
 明るそうな表情で外見も良い。きっとクラスで人気者になれそうだと思える人間だ。そこから僕はこの人物が誰であるかを十分に推測できた。
「何の用?」
「君、盗み聞きはよくないと思うよ」
「それを言うってことは君は盗み聞きに準じる盗み見のようなことを君がしたことになるけど」
「さあ、どうだろうね」
 吉野(よしの)早(さ)枝(え)が僕の目の前に立っていた。
 盗み聞きとは、先程の吉野早枝の母親と、医者とおもわしき人間との会話を僕が聞いていたことを指しているのであろう。だからわかった。この子はもうすぐ死ぬ。寿命が見えている。
 ……かわいそう、だな。
 そう思ったが、僕は人からの同情を嫌う。だからここで勝手に同情などするのは失礼かもしれない、と考える。だから感情を押し殺し、抑揚をつけず、乾いた声で喋った。
「用がないなら帰るよ」
「盗み聞きなんてするなんて、デリカシーが無いんだね君は」
 なんだこいつは、と思った。僕と彼女にはほとんど接点がない、つまり赤の他人のはず。
 なのにこのズケズケとした物言い。こんなことを言われる筋合いはないし、わざわざ話を聞いている間、耳を塞いでいろとでもいうのだろうか。わざわざ同情したのがバカらしくなる。
 この人間には関係ない。
 だからイラッと来たのだろうか、一矢報いてやろうとでも思ったのか、あるいは興味があったからか、自然と言葉が口から出てきた。

「君は死ぬのかい?」

 唐突に吐き出された音の意味に、目の前の人間が顔をこわばらせ、拳に力が入るのが見えた。
 僕だって驚いた。そればっかり考えていたから口に出てしまったのか、なんなのか。
 偶発的に起きた想定外の事態に動転しそうになるのを、外面だけはなんとか保ち、静かに押さえる。
「…………そうだよ」
 長い沈黙の後、彼女はそう答えた。
 先程まで陽気そのものだった表情に影を宿し、俯く。
 だがすぐにその表情に光が差し、陽気な様子に戻った。それはひどく――不自然だった。
「現実迫観念症(リアルイデオロギー)っていうんだよね。とっても珍しい病気で治ることはまずない。考えることが実体を持ったようにガツン! って頭を殴りつけてくるの。悩み事があるひとはすっごく苦しむ病気なんだってー」
 彼女はにっこりと笑う。まるで自分は悩み事なんてなくて、まったく苦しみを感じていないみたいに。
「君の言う通り私は死ぬ、死ぬよ? でもそれだけだし、もう仕方ないことなの」
 僕は僅かに目を細めた。虚勢を張っているのだろうか? と思う。だがこの目の前の人間、彼女からは死に対する踏ん切りが見えた。
 ……よくわからない。
「そうか。本当に、死ぬんだね」
「君は珍しい人だね」
 そう言って本当に嬉しそうに笑う。
 理解できない、と思った。死というものに向き合い慣れているのだろうか。やけに気丈というか……なんというか。
 怪訝そうな僕の顔を見たからだろう。目の前の人間は理由を語り始めた。
「私はもう死ぬからね。周りの人は腫れ物を扱うかのように優しく優しく接してくれるんだよ。でも君は直接それに突っ込んで、触れてくるでしょ? 私のことを知っている人は誰もそうはしてくれないから君は珍しい人だねって」
「寧ろ腫れ物を扱うように深く避けようしているんだけどね。帰りたいと今も思っているしね」
「君は全然紳士じゃないね」
「そんなもの名乗った覚えはないよ」
「ほら、君はやっぱり面白い」
 またそうやって嬉しそうに笑う。なにがツボにはまったのか、さっぱりだ。
「あ、私がもうすぐ死ぬことは誰にも言わないでね」
「元よりそのつもりだよ」
「フフ、信用できるよ。君って自己中そうだし」
 戯言を返してくる彼女に「そうだね」と言う。彼女の評価も何もかも、どうだっていいことだ。『嫌な奴』と認定されなければ問題ない。
「じゃあ僕はもう帰るよ」
「待って待って」
「……なに?」
「私、明日からはしばらく学校に行けるからクラスの皆に伝えといてほしいんだけど」
 初対面の相手なのにどこまでも図々しい人間だ。しかし、ここで断れば『嫌な奴』の判定を受けてしまうかもしれない。なにしろ彼女はクラスの人気者なのだから。
 敵を作らず、世の中に期待しない性分。それは損をしているような気持ちになる。だが諦めなければならない。世の中、そんなものだ。
 無難に担任に伝えておこうと思い、頷いて了承の意を示し、再び帰路につこうとする。
「ちょっと、待って待って」
 だがまた呼び止められた。
 いいかげんうんざりする。
「……なに?」
「君の名前は?」
 そろそろ嫌になる。僕はこれ以上この人間とかかわりたくない。
 だがやけに輝かしい表情と期待感に満ちたその様子を見て……ため息をつく。
「相川信司」
「私の名前は吉野早枝」
 知っている。
「私たち、仲良くなれそうだね!」
 ……なにを言っているのやら。
 軽く反応して帰ろうとする。だが一言だけ言っておきたくて、振り返った。
「君、しつこいっていわれない?」
「なんだと⁉」

 ◇

 家についたあと、インターネットで彼女の病気について調べてみた。
現実迫観念症(リアルイデオロギー)。彼女の言った通り、この病気はとても珍しく、かかってしまえば死んでしまうことは確実。脳疾患の一種で、生まれつきで発症するもののようだ。しかし、赤ん坊の頃はまったくその兆候はつかめず、論理的な思考を行える年にならないとこの病気が発覚しない。この病気の特徴は、思想が現実に影響を及ぼすことだ。自分を責めすぎると、虫に刺されたような腫れが肌に浮かび上がったり、さらに言えばこの病気の患者は『自分の心臓を止めたい』と願えばそれが叶ってしまう。僕らのような普通の人間が全力で自分の心臓を止めようとしても不可能だろう。そんな機能は体に搭載されていない。
つまりはこういうことだった。『患者は自分の体に悪い影響を与えることができ、心臓すら止めることができる』。よってこの病気にかかった者の自殺率は非常に高い。
この脳疾患にかかった者は感情を表に出さなくするよう訓練されるようだ。辛くて自分の死を願ってしまわないように。そのために自分の感情をコントロールできるように。……そのわりには、彼女は感情的な人間だったけれど。
 そして興味深いことに、この脳疾患にかかった患者は自分の死ぬ時期がおおよそわかるらしい。寿命の蠟燭が溶けていくのを見ている気分だと、実際にこの脳疾患にかかった患者がインタビューしていた。その患者は二か月後死んだと書いてあった。

 ◇

再び学校。
 今日も何事もなく、誰とも関わらずに過ごす。そのつもりだった。
 しかし、昨日の人間、吉野早枝が朝に僕の席まで歩いてきた。
「相川君おはよう!」
「……おはよう」
 彼女はクラスの人気者だ。
 そんな彼女が『暗い奴』である僕に近づいてきたのだ。自然とクラス中から注目が注がれる。特に一部の男子からの視線は強く感じた。彼女と話してる最中、もう一人のクラスの人気者、服部という男が「どういう関係?」と聞いてくる。「なにも」と答える。服部はいぶかしそうな反応を見せて集団の輪に戻っていった。
 ……だから嫌なのだ。人と関わること。特にこういう人気者と暗い奴の接触なんて珍しすぎる。服部なんかがわざわざ話しかけてきたのがいい例だ。
 彼女はなんだ? 僕への嫌がらせのつもりか?
 明らかに昨日の最後の一言が余計だった。ほんの少しの仕返しのつもりだった。だがそういうものが回りまわってこんなことになっている。
 所詮、自分はガキなのだ。詰めが甘い。大人にならなければな、と思う。
「相川君、昨日の秘密、守ってくれた?」
「なんのこと?」
 また、わざわざ話しかけてくる吉野早枝。非難の目を向ける。わかってかしらずか、彼女は話を続ける。
「えー、昨日言ったじゃん! このわからずや!」
 わからずや? いや……特に意味のない言葉だ。気にすることはない。どちらにせよ、彼女が死にかけている人間だなんて、僕は触れ回ったりしないから放っておいてわしい。
「そんなものはないよ」
「あるよ!」
「ないよ」
 しつこい。
「えー、衝撃的なニュースなのにー」
 拗ねたようにそう言うと僕に注目を集めたまま自分の席へと戻っていった。
 正直その後ろ姿を睨めつけたい思いだったがなんとかそれを抑えた。


 あとは何事もなく過ぎた。
 というわけでもなく。
 「ねぇねぇ、君」
 もうすぐ家に着くというところで声を掛けられる。まるでデジャブだ。再び僕は昨日と同じように、角を曲がろうとしたとき、背後から吉野早枝に話し掛けられた。
「なに」
「ねぇねぇ、今、君忙しい?」
「いや」
 唐突にそう言われつい答えてしまう。
 言った瞬間、僕は後悔した。
 僕はこんなことをいままで聞かれたことがない。だからつい、なにも考えずに正直に答えてしまった。彼女の唇はイタズラっぽくつり上がり、快活に笑った。
「そう、じゃあちょっと付き合ってよ」
「急に用事を思い出したんだ」
 手首を捕まれ、連行されそうになるが立ち止まる。
「はいはい、面白いこと言ってないで行くよ」
「……」
 そう言って連れていこうとする。
 一応拒絶の意思を見せているのに連行しようなどまるで誘拐だ。
 まあ、男子高校生が同じ学年の女子高生に誘拐されるなどジョークにしかならないが。
 僕は一刻も早く家に帰りたかった。彼女と過ごすのは時間の無駄。めんどくさいししつこし、疲れてしまう。
 ――けれど。
 彼女は『死』に向き合っている者だ。ようするに非日常。変わろうとは思う、意志。
 僕は引かれた腕を振り払わなかった。
 ……僕は個人的に『死』には興味があった。だから、都合がいいのだ。ならば、流れに身を任せてもいいかもしれない。
「ちゃんとついていくよ。離して」
「言質はとったよ!」
 してやったり、という表情を見せる彼女。
 ルンルンとご機嫌な彼女を、呆れた表情を作って見つめながら、僕は彼女の後をついていった。

 僕たちはファーストフード店にいた。互いに向かい合うように机を挟んで座っている。
 僕はポテトに手を伸ばし、彼女は小動物のようにハンバーガーをかじって食べている。
「まったく~、奢ってあげるって言ったのに~」
「それは僕が君に借りを作ることになるからね。それにそこまで落ちぶれているわけじゃない」
「別に気にしなくていいよ~」
「僕が気にするんだ」
「ふーん、そっかー。ところでさ」
「なに?」
「人が死んだら、どうなると思う?」
 唐突に振られたのは思想的な話題。現実迫観念症を患う彼女にとって、このような話は体に悪そうだと思ったが、無視するわけにもいかないので答えてあげた。
「人の意志は脳の作り出す電気信号だ。死ねば人の意思は消えて、なくなると思うよ」
「君は夢がないね」
「そういう話をしてたの?」
「私は世界征服がしたい」
「あ、そう」
「冗談だよ」と彼女は笑う。存在自体が冗談みたいなやつだ。
「死んでも人の意志は消えないんだよ。漂ってどこかに届くんだよ」
「いまさら夢見がちな女の子路線にしようと思ったの?」
「聞き捨てならないことをいってくれるね。まあとにかく、純粋な願いは、祈りは誰かに届くんだよ。人の意志というエネルギーがなにかを変えることがあるかもしれない」
「宗教めいてるね」
「違うよ。神様なんてこの世に存在しない。私は自分の中のなにかを信じてるんだよ」
 それでも死ねば終わりなのは事実だ。
 目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。死ねばすべてが無に帰す。強いて言うなら自分自身が世界を作る神だと言えるだろう。自分の五感が、世界を作り、認識させる。
 ――そんなことを言った。
「夢がないね」と彼女は言う。その言葉には、先ほどの力強さはない。きっと……彼女も似たようなことを考えたことがあるのだろう。何しろ彼女は『死』と向き合っているのだから。
「そういえば君はいつも一人でいるけど。友達はいないの?」
 急に内容が前に言っていたデリカシーのことを説明したくなるような内容へとかわる。しかし、めんどくさくなりそうなので口にはしない。
「そうだよ。その方が楽だから」
「ふーん。友達はいっぱいいた方が楽しいのにね」
「それは君の価値観だ。僕はそうは思わない」 
「意見の平行線だね」
彼女は生真面目そうな顔をした。
「と、ここまで話したから聞くけど今日私が近づいてきたとき一瞬凄い嫌そうな顔したけどなにあれ?」
 ……わかっていて話を続けていたのか。
 素直に理由を話すか、そうすれば一応は僕の意思を汲み取ってくれるだろうか。見ていたところ、人が嫌がるようなことをわざわざするような人間には思えない。なら、話すか。
「僕は友達がいない」
「お、おう。その、ごめん」
 ふざけた反応にムッとくる。まだ話の途中だというのに。
「僕は人間と関わるのがあまり好きじゃないんだよ。君は目立つ。そんな君が僕の方に向かってこれば僕は注目を浴びてしまう、人間と関わる可能性が増える。だからだよ」
「へえーふふふ」
 その反応にムッとくる。なんなんだ。
「あ、ちょっと怒った? なんだかロボットみたいに感情を見せないから心配しちゃったよ」
「……人よりもは感情が希薄だとは自覚してるけどそれは言い過ぎだよ」
「君ってなんか面白いよね」
「……」
 あはは、と楽しげに笑う彼女。
 なにか仕返しをしてやりたい気分になる。
 僕らは食事を続ける。
 むしゃむしゃとリズムよく食べる彼女。
 彼女の家は世間一般的に比べて金持ちだと小耳にはさんだことがある。確かに、この前彼女の家にプリントを届けに行った時、彼女の家は大きかった。親の仕事はなにをしているんだっけか。
 金持ちのはずの彼女がこんな店を使う必要はあまりなかった。お世辞にも、ここの店の食事はあまり美味しいとは言えなかった。物によっては家で作る食事のほうが美味しいだろう。要するに、ここは学校の近くにある、ただ学生の腹を満たすために、安いだけの店なのだ。
「そういえばなんだけど、君はもうすぐ死ぬのにこんな安物の食事をしてていいの?」
「贅沢三昧しろってこと? そういうのはたまにするからいいのー。まあ、最近はちょっと自分に甘めな食事環境だけど」
 死ぬと言ってもこんなものなのだろうか。
 以外にあっさりしているな、と思う。それとも、元から病弱だったのだから覚悟があった、などという理由でもあるのだろうか。
 僕はまだ、わからない。
 やがてお互いに食事を食べ終えた。
「じゃあ解散ということで」
「僕たちはなにしに来たんだっけ」
「お食事会?」
「帰ろっか」
「うん、今日はとっても楽しかったよ! 君の意外な一面も見れたことだしねー」」
 僕はなにかを言おうとした。今日は彼女に押されっぱなしだ。なにか言い返したい気がする。
「君って結構デリカシーないよね」
「ん? なんか言った?」
「君って――」
「じゃーねー! 相川くーん!」
 このやろう、と思う。
 逃げ切られた感がある。……いったい僕はなにやってんだか。
 そうして家に帰る。正直なにをしにきたのかわからない。
 けど――今までの、真の意味でなにもない時間を過ごすよりもはよっぽどいい。これは、非日常だ。
 色あせた景色。なにをやってもつまらない日常。
 きっと、今やっていることは、間違いじゃない。

 家に着き、携帯を見るとメールが届いていた。
『無事に帰れた?』
 彼氏が彼女に送るようなメールだった。
『帰れたよ、お休み』と僕は返信して寝る。返信されたらしばらく返事を返さないといけなくなる気がして嫌だったからだ。

 ……案の定、朝起きたら返事が返ってきていた。
 『まだ九時だよ⁉ はやいね』
 まあ、朝になったのだから返信しなくていいだろう。
 僕は欠伸をして学校に行く準備を始めた。

 学校は平和だった。僕の言葉を理解してくれたのか、吉野早枝は接触してこなかったし、用事を押し付けられるという面倒事が発生することもなかった。
 僕は効率よく生きるために授業を真面目に受ける。ただ家ではほとんど勉強しない。だが案外、授業を本当に真面目に受けていればだいたいの内容はわかる。証拠に僕の成績は学校の中では上位の方だった。
 だが人生は何事も上手くいかない。永遠に続く平和などないのだと、帰路の途中に思い知らされた。
 不意打ちや暗殺の類はたいてい背後から行われる。これもそのような事例の一つとして数えてもかまわないだろう。
「やっほー、相川君」
「僕に話し掛けるときは背後から、とかそういうルールでもあるの?」
「ちょっぴり甘いイタズラですぅ」
「なにそれ、なんのキャラ?」
「それは誰にもわからない」
「はいはい、哲学だね」
「返事適当だね」
 また吉野早枝だ。僕は恒例の一言を言う。
「何の用?」
「よし! 遊ぼう!」
「僕の意思はどうなるの? そして君の頭の中はどうなっているの?」
「死にかけた女の子の願いを叶えたら幸せになるって聞いたことあるよ」
「それ、迷信ってきいたよ」
「ええー!」
 と、まあ、そんな風にやり取りをしつつも僕は歩く彼女についていくのだが。

「と言うわけでショッピングに来ましたー」
「……」
 予想不能行動が大好きな彼女は元気よくそう言った。
「悪いけど僕は今日全然お金持ってないよ」
「大丈夫!奢ってあげるから!」
「そういうのやめた方がいいと思うよ」
「冗談だよ。そういえば何でメール返してくれなかったのー。仕返しに学校ではほったらかしてやったけどどう? 堪えた?」
 明るい人間はだいたい携帯大好き、というケースは多い。きっと僕が返信をする限り永遠とやり取りが続いたのではないだろうか。そういう意味で僕はあの日メールが来たときの判断がやはり間違っていなかったと確信した。
「うーん、凄く堪えたよ」
「あ、珍しく笑ってる。つまり嘘だね」
「人を安易に疑う人は地獄に落ちるってきいたよ」
「私は天国にいく宿命を背負ってるから平気だよ」
 意味不明なことをいう彼女についていき、近くにあったボーリング場に入った。別に僕はどこかに行きたいとかそういうのはないため、全ての決定権は彼女にあった。
 中は騒がしく、若者などがたむろっている。
 僕たちは受付に行って、ボーリングに必要な道具を借りた。
 隣では彼女がにやつき、こちらを見る。
「君はボーリング初めて?」
「一度だけ行ったことがあるよ。結果はガーターばかりで散々だったよ」
「それが普通だよ。落ち込まないでね」
「落ち込むわけないよ」
「そう、じゃあ賭けしようか。古来よりある、負けた方が何でも言うことを聞くってやつ」
「いやだよ」
「なに、負けるのが怖いの?」
 安い挑発だ。だいたいほぼ初心者だといった僕になにをふっかけているのやら。
 しかし、あえて賭けに乗ってやる。
「いいよ、やろう」
「言質は取ったよ」
 彼女の様子からは自信が見える。華の高校生だ。きっとよく遊ぶのだろう。
 それに彼女は病弱な彼女のことだ。外で行うような激しい運動は避け、おとなしい室内のスポーツをよくやりそうだ。
 まず彼女が投げ、スペア。「うーん、まあまあかな」と彼女はこちらをちらりと見、僕は両球ともガーターだった。
「まあ、仕方ないよ、ドンマイ」
「……」
 どこまでも楽しげな彼女。
「お、ストライク出たじゃん。運いいねー」
「そうだね。ラッキーだったよ」
「うんうん、ラッキーボーイだ」
 投球が続く。彼女がガーターを出す。
 ふん、と僕は鼻で笑って見せた。
「なんなの! いやらしい!」
「心が歪んでいるからそう見えるんだよ」
「そういう発言をすると君の意地汚い性格が透けて見えるよ!」
 汚いんだか、透けているんだか。
 第二ゲームに突入する。最初に大きく開いたスコアは、徐々に縮まっていった。
「え、なに君。凄いんですけど」
「僕は別に運動ができないわけじゃないからね。普通よりもは得意だと思うよ」
「なにこれ、さっきまでガーターだったじゃん。何でこうなったの? 覚醒したの? 主人公なの?」
「ちょっと集中するから黙ってて」
「楽しくやろうよぉ」
 最後の投球。彼女が先だ。
「ちょっと、こっちみないでよ」
「頑張って」
「そもそもね、精神攻撃なんて男らしくないと思うの。私が失敗すると若干反応するのなんなの!」
「せっかく『頑張って』って応援したのになあ」
「うわっ、なんか言ってるよ! 心では絶対外せって思ってるくせに!」
 そもそも、最初に挑発を始めたのは彼女のほうだ。
 投球。ガーター。投球。かすり当たり。
 僕が三本倒せば勝ち、という状況になった。
「ここは思いっきりなげるところだよ! 目指せ、ストライク!」 
 たぶん、ストライク狙いでガーターになって欲しいのだろう。
 僕はゆっくり球を投げて、五本倒した。
「勝った」
「そんなことして勝って楽しい? ねえ、楽しい?」
「楽しいよ」
ぐぬぬぬ」
 こんなにも接戦になったのも彼女のミスが多かったからだろう。いろいろ僕が投げるときに変なことを言って妨害してきたが、結局は自分が投げるときにもプレッシャーがかかっている。
「最初に言ったガーターばっかりだったっていうの嘘なの? 嘘ついてくる君に私ガタガタなんですけど」
「はいはい。あと嘘じゃないよ。合計のガーターの数は九本こえてたし。まあ、最後はストライクばっかりだったけどガーターの数の方が多かったよ」
「そういうの詐欺って言うんだよ」
「僕の実力を聞いてから賭けを仕掛けてきた君に言われたくないな」
「ううむ、じゃあどうする? 望みは私の体?」
 わざとらしく自分の体を抱き込み、ぶるりと震える。ガタガタ、という彼女なりのギャグなのだろう、たぶん。
 どこまでも騒がしい彼女。なんだかなあ、という気分になる。

 ◇

 食事を終え、お互いの帰り道の分かれ道に立つ。
 結局、勝利の商品として【驚きの安さ満腹の三百円定食!】を奢ってもらった。ただ奢られたりするのはいやだが、こういうのなら嫌な気分にはならない。
 彼女が笑顔で振り向く。
「楽しかった? 相川君?」
「ん?」
「今日は随分と爽やかな表情だったからさ。ずっとそういう笑顔のままでいればいいのに」
 そう言い、気安く僕の胸を拳で叩いてくる。
「どうだろう? 楽しいというよりもは忙しかったという感じかな。誰かさんはそそっかしいから」
ツンデレしなくていいんだよ?」
「なにそれ」
 ハッハッハッハーと彼女が高笑い。近所迷惑な行動を僕は白けた目で見る。
「まあいいよ。またね!」
「あー、はいはい」
 適当に手を振って遠ざかっていく彼女を見送る。
 考えてみれば、『死』に近づいている彼女を観察しようという思いがなかった。いや、気が付けば忘れていた、という感じだ。
 ……楽しい、か。人間嫌いな僕がそう思うはずがない。今更楽しめるわけがない。
 自分の思考が嫌でたまらなくて、そんな自分を変えたくて変わった日常を過ごしてみた。けれど、こんな行動ごときに、果たして意味なんてあるんだろうか?
 
 ――ひどく色あせたこの世界。
 どこまでいっても苦しくて、救いようがないこの世の中。
 僕はなにを求めているんだろう? 何を願っているんだろう?
 水の中で息を潜めていれば、いつか景色が変わると思っていた。でも、そうはならなくて。
 僕が何かに対して想うということ。同情。感謝。喜び。
 それに対して意味がないと気づいて、虚しくなった。
 親切をしたから死んでしまった人がいた。それがいやでたまらなかった。
 だから、僕は――。
 ……もう少し彼女を、人間を真面目に観察しよう。『死』をよく見よう。
 でも、たぶん僕が求めているものは……そこにはない。

 ◇

 人の醜さを、僕は知っている。
 愚かしさといった欠陥。それに気づいていても直すことのできない不可能性。
 それで、嫌になった。たぶん、失望したのだ。もう救いようはないんだって。
 でも、だからといってすべてを諦めるというのは違うのだ。
 だから抵抗のような、足掻くという行為をした。
 終わりの見えない袋小路。光の射さない穴倉。
 ――人の善意の行動が必ずうまくいくとは限らない。
 それがこの世の中の理。

 ◇

 日曜日。
 やることもないので勉強でも始めるか、と思った。しかし、学校という場以外では、生真面目に生きる気力がない僕は机に座ろうという気が薄く、結局は自分が好きな小説を読み返したりしていた。
 いい一日だった。いや、結局勉強が出来ていない。真面目にやろう。
 そう思い、机についたのは18時だ。ぬくぬくとした自分の部屋と言うのはよくも悪くも自身を甘くする。やや後悔しながら、今後のために今日あったことを学び、失敗を頭に刻み付けた。
 シャープペンシルを取り、教科書を開く。
 ―――――ピリリリリッ
 突然鳴った携帯にビクッと身を震わせてしまった。
 本当に驚いた。勉強の集中に入る瞬間に鳴ったせいで意識の隙間を突かれた感触だ。
 内容はどうせ母親の、今日ご飯何にする? だろう。
 そう予測しながら携帯に手を伸ばすと予想が外れた。
 ――吉野早枝。
 驚きからなんとか立ち直り、携帯を手に取った僕は恒例である最初の言葉を口にした。
「何の用?」
「やっほー、花火行こー」
「……なんなんだい? せっかく勉強をしようとしていたところを邪魔してくれた吉野早枝さん」
「今日は何となく不機嫌なんだね。花火行こー」
「ぶれないね。もう六時だよ。そんなに時間がないじゃないか」
「高校生は十二時まで遊んでも大丈夫でしょ」
「僕は良い子だから八時までが限界なんだ」
「プププ、今の本気で笑った」
 僕は思った。
 きっとこれは人を不快にすることを目的とする類いのイタズラ電話なのだろう。迷わず僕の指は通話終了へと伸び、ホッとため息を着く。
 しかし案の定、すぐに携帯は再び音を鳴らした。
「もしもし、私今、あなたの家ノ前にいるの」
 迷惑で謎ホラーだ。
 瞬時に携帯を投げ捨て、玄関まで向かう。
 彼女は本当に家の前にいた。
 浴衣姿で、楽しむ気は満々らしい。
「迷惑なんだけど」
「死にかけた女の子の願いを叶えたら幸せになるって噂を聞いたことあるよ。花火行こー」
「このあと用事が入る予定なんだ」
「どういう予定なの! へんなこと言ってないでいくよー」
 彼女の中では僕がいくこは決定事項らしい。
 仕方ない、ついていくか、と思う。
 その意思を伝えようとするなにを思ったのか、彼女は突然、ポケットから十円玉を取り出した。
 チィーン。
 小気味良い金属音を響かせたコインが、闇夜の中をくるくると落ちていく。そしてまるで手品師のような動きを見せる彼女の手に収まった。
「わかってるね? 十がかかれてる方が裏だよ? さあ答えて、表か裏か?」
 彼女はボウリングのことといい、勝負事が好きのようだ。きっとこれで僕が負けたら祭りに引きずられていくことになるのだろう。
 そんなことを予想し、僕はなんとなしに浮かんだ感情を彼女に伝えた。
「表」
「はいざんねーん。裏でしたー」
「……」
「運命には逆らえないものなんだよ」
 何気に吐き出された言葉は深い意味を持った。死を背負った彼女の運命は、重い。
「……ちょっと待ってて」
 たぶんもうこれを回避する手段はないのだろう。また、運命から逃れられない彼女に、少しくらいは付き添ってあげた方がいい気がした。助かればいいとまでは思わない。だが同情はする。
 僕の、感情。自然と湧き出る、どうしようもない意志。……でも、こんなものに何の意味があるのだろう? 結果はなにもかわらないのだろう。僕が何を願おうと、何を祈ろうと、意味がない。神はいない。祈りは決して届かない。
 ――彼女を見ていて、少なくとも死んだほうがいい人間だとはとても思えなかった。
「準備万端のようだね!」
「財布持っただけであとは手ぶらという状態はそれに当てはまるのかな?」

 ◇

 花火というのは美しい。爆発の瞬間の派手さではなく、最後に消えていく光の残滓にはなにか思うところがある。もう消えてしまいたい、なんて感情。
 ……ばかげた考えだ。
 見ているだけで暑苦しくなりそうな人の群れと騒がしい屋台。まさにお祭り騒ぎ。そこは突っ込めば花火の音が聞こえなくなりそうなほどうるさくて、正直離れたい。
「さ、いこ!」
 しかし、勇猛果敢な彼女はためらいなくその中に突っ込んでいった。僕は人の群れに突っ込むのをやや躊躇したが、ここではぐれては不味いため、意を決して後を追った。
 しかし、それにしても彼女の進むスピードは速い。あまり人混みに突っ込まない僕に比べてきっとこういうことは慣れているのだろう。
 なんとか追い付き、肩に手を置いて捕まえる。
「ひゃっ、な、なに?」
「暑い、もう少し人が少ないところにいこう」
「二人きりになろうって?」
 ニヤニヤする彼女に手を払う動作をして一蹴。この人混みの中でふざけるぐらいならあとでやってほしいものだ。
「そういうのいいから。あんまり人混みは得意じゃないんだよ」
「もー、仕方ないなー。金魚すくいで私に勝てたらいいよ。三回やってその合計ね」
「僕が勝ったら何か奢ってもらうよ」
「欲張りだね~、自分の意見を聞かせるだけじゃなくて賞品まで望むなんて。でもいいよ」
 僕の要望を人質に、金魚すくいをやることになった。
 まあ、きっと僕が負けても結局は彼女はちゃんと人混みから離れてくれるだろう。
 ようは金魚すくいをやりたいだけなのだ。
 近くにあった屋台で、金魚すくいの中年の男にお金を払って道具を受けとる。
「へい、兄ちゃん! 彼女連れかい?」
「兄妹です」
「えー、じゃあ私お姉ちゃん役ね」
「それにしちゃ似てない兄弟だな!」
 金魚の中年男は愉快そうに笑うと道具を僕らに差し出した。
 金魚すくいというのは中々に難しかった。最初に普通にすくおうとすると輪に紙が張り付いた道具であるポイが一発で破けた。彼女は一本のポイで二匹取っていた。「まあまあかな」と気取った様子でこちらをちらりと見てくるところが腹立たしい。
 二本目は一匹だけとれた。全ての紙の部分を濡らさないことがコツだとわかり、一匹とれたが彼女は五匹取った。「えっへん」と声に出す様がまた腹立たしい。
 三回目は四匹も取ったのだがこの時点で僕の負けだ。彼女は集中して金魚すくいを続けているので僕は暇になった。
「いっぱい取れたよー!」
 嬉しげにそういう彼女。「そう」と僕は答える。
 やることがない。どうするか。名案を思い付く。折角なので実行してみることにした。
 椀の端を水が中に入ってしまうほどに水面に近付け、ポイの端で無理矢理中に入れる。これなら紙の部分が全く残ってなくても金魚をすくえる。
 それが意外と上手くいき、どんどん金魚をすくえるので楽しくなり、集中してしまった。
 しばらくし、ポンポンと肩を叩かれる。振り向くとでかい声で言われた。
「それは流石に反則!」
「そんなルールは書いてなかったよ」
「不文律っていうのがあるでしょ!おじさーん、おじさーん」
 彼女は仲間を呼んだ。卑怯だ。
 結果、金魚の中年男はゴツい顔で僕に反則の判決を下した。納得がいかない。
 ブツブツと不満をいう僕を見て彼女はニヤリと笑った。腹立たしい。
 その後、僕たちは正規の方法でとった金魚を賞品として受け取り、屋台から出た。
「あんな手まで使ってどんだけ人混み苦手なの~。ま、私が勝ったからお祭りをもう少し楽しんでいこうか!」
「暑い……苦しい……」
「リアルな拒絶だね。仕方ないなー。食べ物だけ買ったら風の通る場所に行こうか」
 なるほど。僕が負けたら人混みの中に時間延長と言うわけだ。彼女は最終的には僕の要望を聞いてくれるという予想は、一応当たったが、これなら勝ちたかった。
 それから僕は彼女に縦横無尽、というほどに振り回された。
 主に目的は食べ物だ。
「お祭りなら焼きそばは食べないと」
「お祭りなら綿菓子は食べないと」
「お祭りならたこ焼きは食べないと」
「お祭りといえば林檎飴でしょ」
 どうやら頭の中は食べ物でいっぱいらしい。とても幸せそうなことだ。
「どれだけ食べる気?」とつっこむと、「ここで食べなきゃ女がすたる!」とのこと。彼女の中の女の定義はひどくあいまいだと思った。
 そんな頭の中が食べ物でいっぱいな彼女とともに屋台を回る。
 これだけの食べ物の種類だ。結構時間がかかる。
 途中で、金魚のためを思って涼しいところに行こう、と発言したら「私だって死にそうなんだから金魚だって大丈夫だよ」と謎理論で返された。僕はなにも言い返せなかった。
 僕は夕飯がわりということで、焼きそばだけ彼女と一緒に買い、ようやく人混みの空間から解放された。精神的にとても疲れた。
 いままでに比べると段違いに爽やかな風が吹く。
 僕らは川の近くの涼しい場所に陣取っていた。当然、同じことを考える人間は多いもので、近くに何人もの人間がいた。
 ただ場所が広いため人口密度は高くない。くつろげる空間だ。
 といっても、隣に騒がしい食いしん坊がいるため、くつろげるというのも半々なのだが。
「おいしいおいしい」
「もっと静かに食べれないの?」
「えー、お祭りの日ってさ。テンション上がるじゃん。ほら、君ももっとテンションあげなよ。私だけテンション高いとか恥ずかしいじゃん」
「いつものことだと思う」
「そんな風に思ってたの⁉」
 そんな彼女の様子を見て、少しだけ笑ってしまう。
 そしてはっ、とした。彼女がにやにやと笑っている。
「……なに」
「ぺっつに~」
 そう言って彼女は手元のものを食べ始めた。
 この前よりもかなり食べ方が汚い。
 その女子力の高さを示すようにハンカチとディッシュは常備しているようで、一口食べるごとにベタベタになる口元を何度も拭っていた。
 だが頬っぺたについている食べ物のカスはいっこうにとれない。紳士的な行動として、本来ならその事を教えてやるべきなのだが面白いので黙っておいた。
 本来ならその事を教えてやるべきなのだが面白いので黙っておいた。
「なんでニヤケてるの?」
「いや? 別に?」
「ふーん、楽しいならいいんだけどさ。そう言えば君、目標とかあるの? 死ぬまでにやりたいこととか」
「特にないかな。別に進路を決めろったって大学に入ってから決めればいい」
「ふふふ、いいなあ」
「あ……ごめん」
「いやいいって! 気にしないで! で、話、続行ー、そう言えば君、頭どれぐらい良いんだって?」
「だいたい上位十番には入る程度だよ」
「うわぁ……」
「君が頭悪いからって僕の頭の良さを引くのはおかしいと思うよ」
「失礼な! 順位は半分よりも常に上ですぅー。……そう言えば私、君のことなんにも知らないんだね」
「そりゃそうだろうね。知る必要のないことだ」
「そうじゃなくて私は知りたいの!話戻すけど死ぬまでにやっときたいこととかないの?進路じゃなくてキャビアをお腹一杯食べたいとかそういうやつ」
「僕は特にないよ。いや……そうだな……強いていうなら、大人になったら一人になりたい。人間のいない世界で生きていきたい」
「全人類を倒して世界征服?」
「別に。こんな願望叶える気はさらさらないし、人間がいなきゃどうせ僕は生きてけないんだ。人間撲滅ボタンがあっても僕はそれを押さないよ」
「そりゃよかった。ついでに一人になりたいっていってたけど」
 そこで一度言葉が切れ、食べ物を口へと運ぶ箸も静止した。
「私は君の一人の世界に入れる?」
「……大丈夫だよ。あくまで夢や希望、未来のことを指すんだから、その頃には君は死んでる」
「そう、だね」
 クスリとわざとらしく笑うと静止していた箸を再び稼働させた。
 先程のように頬一杯に詰め込むガツガツとした食べ方ではなく、ファーストフードに行った時のような食べ方だ。所謂、普通に戻った、という感じだろうか。
「ふふ」と彼女は笑う。
「ご存じの通り私はもう死ぬからね。やりたいことはある程度リストアップしてるんだ」
 いかにも内容を聞いてほしそうな言い方だ。だからその要望を答えるべく、満腹で気分のいい僕は口を開く。
「ふーん。どんなこと?」
 僕は焼きそばを食べ終えた。その間に彼女は焼きそばとたこ焼きを食べ終えていた。
 彼女は残った林檎飴と綿菓子を両方掴み、交互に食べる。綿菓子はフワッと食べ、林檎飴は見せつけるように舌を絡ませて艶かしく舐めていた。
 別にそんな美味しそうに食べていたって、微塵も林檎飴を欲しいなどと思わない。
「世界一周旅行はやってるうちに死にそうだから諦めて、ヒッチハイクでぶらり旅も死にそうだから諦めて、美味しいものを食べるのはもうだいたい達成したしなー。あ、キャビア食べたことある?」
「ないよ」
「ふっふっふ。だよねー。ついでに全然美味しくなかったよキャビア。庶民舌なんだろうね。そこらへんのハンバーグの方がよっぽど美味しかった」
「ふーん。食べ物といえば金魚いらないから君にあげるよ」
「なにそれ。発想が恐い。そして要らないんですけど」
「僕が金魚を持って帰れば焼いて食べることになるんだけど」
「余りにも惨い」
 こうして、食べ物の話題から急転換して金魚を押し付けることに成功した。
「もー、なに脱線してくれてんのー。やりたいことやりたいこと……」
 バン! と花火の音。
 一瞬で咲き、散り、儚く消えていく光。星が降ってくるかのようだった。きらきらと輝き、くっきりと網膜に残る光の残滓。
 あまりにも目標がないから花火師にでもなってやろうか、と思う。
 いろいろ難しいらしいがある程度なら僕はなんでもできる。ただ大きな努力は出来た試しがない。運動だって大概普通の人よりも出来た、小学生とはいえサッカーでもクラブチームに入ってもそこそこ活躍するぐらいには運動神経は良かった。だが僕にはスポコンで必要とされる熱意が圧倒的になかった。努力し、僕よりも上手くなっていく周りを見て、そのうち気づいた。僕はきっと何をやっても一生懸命に、命を懸けて行動をすることはできない。なにか夢があって必ず途中で底が見えてしまうだろう。
 それが虚しく、どうしても自分が浅ましく見える。
 だからというか、僕は普通の人間よりもはひねくれている自信はあるが、努力する人間のことは決して笑わない。まあ、表だって応援するわけではないが、尊敬はする。僕が持たないものを持つ人間のことを。
 僕は灰色の景色を見る。
 でも、本当に? 本当に世界や人間、そして僕自身は、救いようがないのだろうか?
「綺麗だね」と彼女が言う。
「たしかに」と僕は答えた。
 色づいた空を眺めていた。その存在を掛けて輝く花の火は、無意味なんかじゃないって、まるでそう言っているかのようで。
「私の病気、現実迫観念症。これ、実はいいこともあるんだよね。感受性がより豊かになって、景色を綺麗に感じられるようになるの。こういうものを見るとニキビができにくくなる効果もあったり、肌が綺麗になるの。でも、なんで神様はこんな病気に救いを与えたんだろうね? 人を殺す病気なら、害だけを与えていればいいのに」
 景色が鮮やかすぎる、と彼女はいった。現実迫観念症は深く考えたことや思想が、現実的である自分の体に影響を及ぼす病気だ。それは花火に深い感銘を感じてしまっている証拠。たぶん、自分を苦しめる病気が自分を喜ばせているという事実は、彼女にとって苦痛だった。
僕らはそれぞれ物思いに耽る。そうしてしばらく時間がたったあと、そろそろと言わんばかりに彼女が復活し、またハイテンションで喋り始めた。
「あ、そうだ。一番やりたいことは私も女の子だしどうせなら燃えるような恋がしたいな。いい関係になりそうだった人はいたけどまだ付き合ったことないんだよね、私」
「君でも女の子らしいことを言うんだね」
「え? 私めっちゃ女の子じゃん。ほら、リンゴ飴だよ? 綿菓子だよ? 二刀流だよ? 萌えるでしょー」
「燃えてしまえ」
「えへへへ」
 そうやって僕の気のきいた冗談に彼女はニコニコと笑った。
「今の私は気分いいから、綿菓子か林檎飴あげようか? 間接キスできるよ?」
「いらない、お腹一杯だから」
 彼女の企みはきっと純情な青少年を弄ぶことなのだろう。普通の人間なら効くだろうが僕には無駄だ。恥ずかしさも怒りもなく淡々と受け流せる。
「ねぇねぇ、ねぇねぇ。君さ、好きな人とかいないの」
 涼しげな風が彼女の黒い髪をたなびかせ、僕の鼻をくすぐる。
 僕はそれがうっとうしくて払った。
「嫌いな人ならいるね」
「私はどうなの?」
「不思議」
「予想の斜め上だよー」
 嫌いな人間。認められないこと。根源の感情。
 原因があった。
 僕は人間が嫌いだ。自分も含めて、なにもかも救いがない、そういう生物が。
 でも、本当は――。
「僕はさ」
「うん」
「……ごめん、なんでもない」
「……うん」
 なにかを言おうとして、吐き出そうとしてやめる。そんなことは意味のないことなのだ。僕がなにかを想って、なにかを願って、なにかを祈って……。それに意味なんかない。僕がなにをしようがなにかが変わることがない。そういうものだと、知っている。
 でも、僕は、この考えが否定されて欲しいのだ。
「あのさ、昔、僕の父が――」
「ん? あれ? よ、吉野さん⁉ 奇遇だねーー。どうしてここにいるのー?」
 と、僕が喋っている途中、乱入者が現れた。
 ぎょっとする。振り向けば遠くに知った顔がある。
 服部という男だ。他人に興味がなくても知ってしまうほどに目立つ、クラスの人気者。
 幸い距離はまだあった。
 上手くいけば彼女と一緒にいるのが僕だとばれないかもしれない。服部という人間は見るからに口が軽そうで頭が悪そうな人間という印象、目立つ彼女と根暗な僕が一緒にいたと言いふらされるのはごめんだった。
「帰る」
 瞬時に行動を決め、立ち上がる。
 駆け出し、暑苦しそうな人混みの中に突っ込もうと足に力を込める。
「あ、待ってよ」
 彼女は手を伸ばし、僕の腕を掴もうとしたがそれを僕は振り払った。
 今後の展開で僕の名前がでることが無いように願いつつ、残った二人の状況を見ぬままに、夢中で駆けた。服部と関わるのは、ごめんだ。
 走る途中、僕が言おうとしたことを考える。
 ガキだった。感情のままに、なにかを喋ろうとしてしまった。もう二度と、失敗はしない。

 ◇

 自己犠牲、という言葉がある。それは果てしなく救いがないものだ。
 目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。死ねばすべてが無に帰す。なのにごくたまに、自分が死んででも誰かを救おうとする奴がいる。
 僕の父が死んだのは、まだ僕が七歳のころだった。
 父は警察官であった。職業義務ではない非番時ですら悪を許さず、身を挺して行い、困っている人間には必ず手をさしのべるような人だった。
「君の父は命の恩人だ」
 ありがとう、と知らない人間が言った。
 それを不思議そうに眺める。いったい、何を言っているんだろう? そんな感じに。
 でもたぶん、幼かったとはいえ、本当は理解していたのだ。その知らない人間の言っていた、言葉の意味を。
「お母さん、お父さんはどうしたの?」
 母は、お父さんはお星様になったのよ、と答えた。
「人はお星様にはなれないって、お父さんは言ってたよ」
 怒ったような口調で言う。母は、苦笑い。
 お星様と同じぐらい遠いところにいってしまったのよ、と母は答えた。
「凄く遠いところに行ってもお父さんは帰ってくるよね? お父さんは僕たちのこと大好きっていってたもん」
 その僕の言葉で今度こそ母の顔は悲痛に染まり、それを見ると僕も悲しくなって……、ただ無言で、頭を撫でられた。
 人には決して出来ないこともあると、僕は学んだ。

 翌日、大勢の人が家に来た。
 偉大なる父の犠牲にお礼を言いに来たという。そうやって何人も、何人もお礼を言いに来るのを見て尊敬する父はこの世にいなくなってしまったのだと理解させられた。
 ……いったい何人救ったんだろう? 病院で起こった火事。動けない病人たちが死んでいく、そういうはずだったのに。
 中に入る必要なんてなかった。電話一本、救護を要請して安全圏から眺めていれば、それでよかったのに。それだけでも十分『立派』だ。
 父はよく言っていた。人を救うというのは素晴らしいことだと。優しい人間になれ、自分で自分を誇れるような『立派』な人間に。

 さらに父は自身についても語っていた。
 昔、父のために、かわりに犠牲となって人が死んでしまったらしい。父より少し年上の人で、人柄もよく、父が尊敬していた人。死はあっさりとやって来て、その人の最後の言葉は聞けなかった。だがその光景を眼に焼き付け、自分を救ってくれた命に感謝し、助けてくれたその人のように生きようと父は決めたそうだ。
『だからな、父さんにとって人を助けるのは義務みたいなものなんだ』
 その言い方に大した苦悩は感じられなかった。
『でも信司にこんな出来事は必要ないよな。お前は考えすぎなぐらい人の気持ちに敏感だから』
 見てたぞ、と父は言う。
 母さんが寝込んだとき、心配そうに見てたよな。そのあと信司が寝込んで、風邪が移ったのかと思ったら知恵熱で。
 父は幸せそうに笑う。
『信司のいいところ、父さんは知ってるからな』
 僕はその時、わけもわからず「うん!」と答えた。

 父が、僕に望んだこと。立派な人間になること。人を助ける、優しい人間であれること。
 ……でも、
「ありがとう、ありがとう。おかげで様で私たち親子共々助かりました。本当にありがとうございました」
 僕の家に来た人たちは大体皆こんなことを言った。そして渡されるのは少量の菓子とお金。
 今でこそ、その人たちの言葉はただの感謝の言葉だとわかる。だが子供の頃の僕にとっては悪意ある言葉に感じた。僕の父を踏み台にしたことによって自分たちは助かったのだと言っているように聞こえた。
 ひどく苦痛だった。結局、この人たちは僕の父ではない。父は、この世から去ったのだ。
 母はそんな人々に笑顔を向け、当然のことです、とか、夫も本望だと思います、とか。そのようなことを言っていた。
 母が父の死を悲しんでいたのを、幼いながらも、僕はしっかりと気づいていた。
 ――しかし、決定的に違う部分があった。
 僕は自分で言うのもなんだが年相応以上に知恵が回った。
 死を恐れた。自分とは何かという哲学的な壁に恐ろしい若さでぶち当たってしまっていた。そういう重い思考をぐるぐる回す、そういう子供だった。
 だからそのせいで考えてしまった。
 父は自身の犠牲を本望に思っているだろう。そう母は言っていた。それは多分、正しい。父はそういう人間だった。人を助けられればいい、それが全てという、世間一般的に言えば究極のお人よしであり、理想とされる人間だった。
 だが残された家族、僕たちはどうなるのだろうか、大切な家族がいるのに死んでしまって、どうなってしまってもいいなどと思っていたのだろうか。
 答えは否、そんなことはないだろう。
 おそらく、衝動的に助けに向かったのはずなのだ。
 誰かが苦しみに喘いでいる。たすけて、と届かない救済を求めている。そういう想像をして。
 父は最期の自分にどういう感情を抱いたののだろうか。
 具体的に言えば最期の時、後悔はしただろうか。
 ――していない。
 残された家族を思い、悲しんだだろう。だが自分のした行動に後悔はしていない。
 自分は善いことをした。人を助けるのは人間として当然のことで、称えられるべきことだ。残された家族には悪いと思う、だが、『この行動そのものは間違ってはいない』。
 僕は父の行動をよく見ていた。トラックに轢かれかけた子供を命がけで助けた。激流に呑まれ、溺れる人を命がけで助けた。
 僕はそんな行動を見ていつもひやひやさせられたものだ。
 ――命を削ってでも人を助けようとする父はいつか遠くに行ってしまうのではないか、と。
 その予想は的中してしまった。
父は自分より他人を優先した、父は自分の命より他人の命を優先した。
 父は縛られていた。尊敬していた人が、目の前で死んだという出来事によって生き方を固定された。
 だから自分の生き方に迷いはない。

 狂っている。生き物として、自身の死を後回しにして行動する父は狂っている。

 子を持った親の行動には責任が伴う。家族を、僕を優先して生きてほしかった。……僕たちのことを愛していると言ったのに。僕のことをわかっていると、言っていたのに。それなら父は決して死なないはずなのに、なのに――。
 しかし、最も僕のことを理解してくれそうな母は僕と考えが違っていた。父は『立派』だと、褒めたたえた。
 世界中全てが父の行動を肯定した、否定するのは自分だけだった。
 不幸を被り、唯一の味方となりうる母は敵だった。単純に考え方の違いだった。
 僕だけがこの考えを持つ、不安になる、自信が持てなくなる。
 だから長い間考えた。自分の思想を。
 考えは変わらなかった。僕は自分が正しいと結論を得た。
 
 そして次の日も、次の日も、お礼を言いに来る人はいなくならなくて。
「ありがとう、ありがとう」
「ありがとう、ありがとう」
「ありがとう、ありがとう」
 感謝が何度も何度も繰り返され、嫌悪感を覚える。
 この人達はなぜ助かったのか――父のおかげだ。
 じゃあ、かわりに何を差し出した――なにも。
 なぜ父の犠牲で笑っている。なにも渡さずにのうのうと生きて――
「帰れよ」
 幼い僕がボソっと呟く。
 一言も喋らなかった僕が口を開いたことによって、母も、目の前の人間も、驚きを顔に浮かべる。
「帰れ、帰れ、……帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ、帰れ!」
 不気味な物を見るような目で、目の前の人間が視線を固定する。
 命を差し出した父に相応の物を捧げろ。ただで息をするな、笑顔を浮かべるな。

 死ね。

「帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ」
「し、信司⁉」
 目の前の人間が踵を返した。
 英雄の子供は精神を病んでいる――そんな言葉が聞こえた。
 そして母が僕に手を伸ばし――僕はそれを振り払った。
 皆嫌いだった。憎かった。
 お礼を言いに来た人々も、思想的に相容れない母も、命を捨てた父も。
 僕は、とても、人間が、嫌いになった。
 灰色の景色。期待できない、世の中。

 ◇

 こんな話が聞こえてきた。
「怒鳴り声がここまで聞こえてきたよな」
「知ってる。吉野さんの母親だろ? 吉野さんには悪いけどちょっとあれは……」
「まあ、モンスターペアレントだよなあ」
 いわく、吉野早枝の母親が学校に乗り込んだとか、そういう話だ。彼女が死にかけている、という内容は噂になっていない。まあだが、吉野早枝の母親が学校に乗り込んだのは十中八九それが理由だろう。
 携帯の鳴る音。めったに用がない僕の携帯に通知が来ていた。だれだか予想がつく。彼女とは特に、今日は接触がなかった。
『いつもの曲がり角で待ち伏せしとくから来てね! あと昨日のことで話があるから~』
 話とは昨日の服部についてのことだろう。僕は自動的に彼女の誘いを断る手段が奪われたことになる。
『わかった』と僕は返信した。
 たぶん、彼女はよく出会う家の近くの道の角にいるのだろう。
 あそこにはクラスの人間はほとんど住んでいないし、僕と彼女が一緒にいることを目撃されるとは思えない。
 現在、僕は服部に目撃されたことで神経が過敏になっている。それもあってやや過度な警戒をしていた。
 ついでに図書館で本を借りていく。僕はいわゆる本の虫という奴で、思想的なものに溺れるのが嫌いではなかった。僕は本を選びつつ、こんなことを思う。彼女の今までの言動を見るに、彼女は思想的な本を読み漁った経験があるようだった。でなければ「人は死んだらどうなると思う?」なんて言葉はでてこない。彼女が思想に溺れた場合、激しく体が痛んだり、怠くなったりするはず。哲学的な思想は、時として普通の人ですら自殺に追い込むことがある。現実迫観念症を患う彼女にとっては、明らかに危険な行為だ。なのになんで、彼女は自分に試練を課すような真似をしたのだろう?
 
 彼女が待っている場所まで来た。
 電柱に背を預け、腕を組んで誰かを待っている。電柱はあまり綺麗とは言えないのでもたれ掛かるのはあまりよくないとは思うのだが。
 彼女は横目でチラチラとお婆さんを見ていた。煙草の吸い殻を集めており、その手にはコンビニでもらえるビニール袋がある。お婆さんはその中に煙草の吸い殻を入れていた。
 吸い殻が転がっている場所はバスの停車場で、バスを待つのに暇をもて余した中年が煙草を吸い、ポイ捨てをしているところをよく見る。気にとめていなかったが、たまる一方の筈の吸い殻が消えていくのは、このお婆さんが定期的に処理していたからだろう。
 そして思う。お婆さんの年齢はそれなりにいっており、もうすぐお迎えがきてもおかしくない外見だ。見えた死に焦り、今頃になって必死に積む善行。それは……偽善行為だ。
 脳裏に浮かぶのは父のことだ。自己犠牲。どうしようない偽善行為。
 一瞬だけ強い嫌悪感が沸き上がり、一拍の後に消える。どうでもいい、と。
 彼女はその光景を見て一度ギュッと強く目を瞑り、お婆さんの元へと駆け寄る。
 やはりか、という思いと共にその様子を淡々と僕は見守った。
「手伝いますよ、お婆さん」
 彼女が笑顔を見せながら告げ、お婆さんも笑顔と共にお礼を返す。よくもとても美しい光景のように『見せかける』ものだ。
 吸い殻拾いは彼女が加わったお陰ですぐに終わり、それが入った袋を彼女が代わりに捨てておくと主張していた。日本人特有の譲り合いが発生し、両者はなかなか袋の所有を譲らなかったが、しつこく食い下がった彼女が手にいれ、笑顔と共に去り行くお婆さんを見送った。
「あ。おーい相川くーん」
 事が済み、周りを見る余裕が出た彼女はすぐさま僕を見つけ、元気な声で手を振る。なぜ元気なのか、という理由はわかりきったことだ。
 呼ばれたので応じ、彼女の目の前に立つ。
「居たなら手伝ってくれればよかったのにー」
「……」
「おうおう、だんまりかーい、坊主ー」
「……そうだね」
 彼女は怪訝そうな表情をした。なにか間違えてしまったか、という不安げな顔。
 でもそれだって……本当はどうだっていいことだ。
「いいことはするもんだよ。ほーら気持ちいいー」
 彼女は大きく背伸びをし、それを肯定するように爽やかな風が吹く。まるで僕の考えは間違っているのだと、世界が僕を否定するように。
「君はさ」と僕は言う。
「なあに」と彼女は答えた。
「どういう風に生きようとしてる?」
「私? そうだなあ」
 ――彼女は僕の様子が変だと気づいている。
「ふふふ」と彼女は笑って後ろを向く。手を後ろに回していて、彼女の顔はここからは見えない。
「なりたい自分になれるような生き方、かな」
「なりたい自分?」
「なりたい自分」
 彼女の髪が風に揺れる。ほのかな、甘い匂い。
「どうせいつか死んでしまうなら、自分で自分を認められなきゃいけない、なんて思うんだよ。私は困っている人を助けたい。それが私自身が満足するためだったとしても、いい人でいたいんだよ」
「偽善行為に近いとわかっていても?」
「そうだよ。そうじゃないと救いようがないから。考えすぎてなにもできなくなることもあったなあ。でもそれは、嫌だったから」
 死に対面している彼女。だからだろうか? 彼女の言うことはあながち間違いではないように感じる。それは僕も考えたことがあることだ。だけど。
 僕は黙る。言いたいことがあった。でも吐き出した言葉は戻すことができない。
 そんな様子を感じ取ったのか「言ってもいいよ」と彼女は言った。
 それに少し、僕はためらう。
 彼女は死ぬ。それは変えられない事実だ。でもそんなことを言ってもいいのだろうか?
 ……いや、言うべきなのだ。彼女が傷つこうが、僕が彼女に嫌われようが、どうだっていいことなはずだ。そもそも彼女と会っているのは『死』に向かう人間がどうなるかが知りたいからで、僕がなにか答えを見つけられるかもしれないと期待していたからからだ。
 だから、言うべきなのだ。
「君は死ぬ」
「うん」
「焦ってないのか? もうすぐ死ぬから、天国に行きたいからいいひとになろうとしてるんじゃないのか? いい人であることは否定しない。けど……過程が省かれて、結果がいい行動だから、なんて、それでいいのか?」
 一度言ってしまえば止まらなかった。
「偽善行為なんてしないほうがましだ。どうせなにかをしたところでなにも変わらない。意味なんてない。それに君が死ぬ以上、君にとって得られるのは充足感だけだ。結果だけ見れば、卑怯な行動に見える。君は同じように考えたことがあるはずだ。それなのに結局、最後に納得なんてできるのか?」
 そんな風に言ってしまって……後悔した。彼女ほんの少しだけ震えていた。思想は彼女の体にとって悪影響だ。寿命を削るほどにまではならないが、苦しさはあるはずだ。
 でもそんなことだって意味のないことだ、なぜなら僕にとって彼女が苦しもうと死んでしまおうと、本質的には関係がない。……そう自分に言い聞かせる。
 矛盾している心情。わけのわからない混乱。それでも彼女から、答えを聞かなければならない。
「たしかに」と彼女は言った。
「君はこう思ってるわけだ。結局、自分は偽善行為をしているのがわかっている。だから自分で自分を許せなくなるかもしれないって。自分を騙しきれないから結果的に誰かを救ったとしても、自分が救われてないんだって」
「……うん。考え始めたら行きつくことだ。いったんそういうのに自分で答えはこうだと定める。でもずっと、その答えが正しいのか悩み続ける。それでもその答えが正しいと思い聞かせるのは……ひどく苦痛だ」
「考えすぎだよっていえないところが悔しいとこだなあ」
 彼女は振り返る。僕をまっすぐと見つめる、綺麗な黒い瞳。彼女はもう、震えていない。
 人間個人の心だけを見れば『自分が満足するため』に善を行なっている。それは……汚いことだ。そういう考えがまとわりつく。……いったいどうすればいいんだろう?
 自己犠牲が許容できなかった。だからこういう考えを持った。父の行動をどうしても肯定することができない。だからからめとられるのだ。『いったいなにが正しいんだ?』
 人間が嫌いだった。父を踏み台にして生きる人間。何も失っていないのにのうのうと生きている汚い奴ら。
 たぶん、過剰に期待しすぎていたのだ。そして、いろんなことを知って、期待するのをやめた。
「でもね」と彼女は言う。
 私は誰かを助けたいと思ったの。それは根本からくる感情。崖の上に生えてる綺麗な花を、子供が取りに行こうとしていたら、危ない! っていって思わず止めちゃうでしょ? 結局は人は善性を持ってるんだよ。それは偽善なんかじゃない、真実。
「だからさ」と彼女は続ける。
 きっとここで私は誰かを助けようと思ったことは無駄じゃないんだよ。きっとこれは綺麗な思いで、否定されることはない。それに、なにもしないでいると……なんだか気持ち悪いの。まるで、見捨てたみたいになっちゃうから。
「ねえ相川君。人の意志は、死にゆく人の気持ちとか、魂はどうなるんだと思う?」
「消えてなくなるだけだよ。なにも、残らない」
「きっとそれが正しいんだよね。でも私はこう思いたいんだ」
「……」
「人の純粋な思いは、願いに似た祈りはきっと誰かに届くんだよ。この世の中にエネルギーがあふれてるなら、人の意志は、その意志を持ったエネルギーは何かを変えるんだって」
「……それは」
「うん、たぶんこれは妄想みたいなものなんだろうね。神様なんていない。祈りは行き場を失う。でも、私たちは人間で、誰かを想うことができる」
 きっと、それは――。
「君は死んでしまえばなにも感じられないって言ってたよね。強いて言うなら神サマなんていうのは自分に宿るものだって。だからこそ、私は自分自身に、自分のために祈るんだ。なりたい自分になるために」
 あはは、と彼女は笑う。ばかばかしいよね、なんて言葉を添えて。
「でも、私はこれでいいと思うの。きっと答えなんてない。だったら開き直るしかないじゃん。私は私自身のために祈るの。誰かが幸せであれますようにって」
 そう言って、はにかむ彼女の姿は。
 とても綺麗なものに見えた。彼女の考えと願い。出した答えと、精一杯物事を綺麗なものだと捉えようとする努力。思想は彼女を苦しめる。しかし、彼女は答えを出した。いや、たぶん現実迫観念症という病気を患ったからこそ、彼女は答えを出そうと思想を行った。
 彼女はこんな考えは所詮、妄想だと言った。しかし、それでもいいと。そう願いたいたいんだと、彼女自身が決めたのだ。それはきっと、誰にも否定できない、とても前向きな信念。
 少しだけ……少しだけだけど、自分の考えていたことがばかばかしくなった。
 父の自己犠牲。そこから見えた人間の性。どこまでも色あせた景色。希望なき、世界。
 依然としてこういう考え方は変わらない。だけど、もう少し前向きに物事を考えるべきなのかもしれない。それはとても難しいことかもしれない。でも、努力はすべきなのだ。
 所詮こんなのは綺麗ごとだ、なにをバカなことをやってるんだと思う時もあるかもしれない。それでも、この考え方はとても綺麗なのものだ。
「君は、さ」
「なあに?」
「どうしてこんなことを考えたの? 普段から考えてないと、君の言葉は普通、出てこない」
「たぶん、それは私がもうすぐ死ぬからだよ。だから苦し紛れに、いっぱい考えた」
 そういう彼女は苦しそうな顔をしていて、でもそれを悟られないように無理に笑っていて。
 それを見て、僕は。
 ――この気持ちはなんだろう?
 もうすぐ死ぬ彼女への同情心? こんな顔をさせてしまった罪悪感?
 違う、はずだ。くだらない同情なんかじゃない。他人のことなど気にしない僕なんかの、罪悪感なはずがない。
 でも、腹が立つのだ。こんな自分自身に。彼女を苦しめてしまって、それで僕自身も苦しむなんていうばからしい結果に。
「後悔、してるの?」と彼女が言う。
 そうなのだろうか? 過ぎてしまった時は戻らない。吐き出した言葉を飲み込むことは、誰にだってできやしない。
「……少しだけ」
「そっか」
 彼女が微笑む。
 とぐろを巻く思考があった。いまだに答えは出ない。僕はどうすればいいんだろう。変わらなければならないはずだ。この色あせた景色を眺め続けるのはひどく辛い。だから、僕はこんなことを彼女に聞いたのだ。
「なあ」と僕は言う。
 そして迷って、言葉を口の中にためて。
「ごめん」
「……どうしたの? 君も、もしかして不治の病に侵されてるの?」
 まるで僕がこんなことを言う人間ではないかのように、彼女は言った。でも、確かに僕はそういう人間だったのかもしれない。
 つまりはくだらない冗談だった。だが、あまり悪い気分ではない。
「あーあー。遊びたいなあー。動物園に行きたいなあー」
 わざとらしい独り言。
 たぶん、ここは僕が歩み寄るべきところなのだろう。素直にそうするのは癪だった。そう思ったけれど。
 まあいっか、とも思った。
「一人で行ってこれば?」
「ひどい!」
「冗談だよ」
 これが正しい選択なのだろうか?
 いや、きっと何が正しいかなんて死ぬ時までわからないのだろう。そういうものだ。
 歩み寄ること。ひねくれていても、なにかを変えようとすること。
 恐る恐る、暗がりへの一歩を踏み出した。その先は何も見えないけれど、僕が欲しかったものがあるかもしれない。

 ◇

 動物園と水族館。どちらかといえば水族館のほうが好きだ。
 だがそんなことを言ったところで彼女の勢いを止められるとは思えない。当然と言えば当然のことだ。なにしろそこを主張しようという熱意が僕には足りない。一方彼女はそうではなかった。
 彼女と僕は動物園の入り口を通ろうとする。
「おっと、嬢ちゃん。百円たりねえぞ?」
「負けて! 私の笑顔で!」
「ハッハッハー、そりゃ無理だ!」
「学割!」
「ハッハッハー、そりゃ無理だ!」
 ゲームのRPGの人物のように同じ台詞繰り返す入り口のおじさん。
 そんな感想は次の彼女とおじさんとのやりとりで打ち破られることになる。
「子供料金!」
「ハッハッハー、しょうがねぇなー。かわいい嬢ちゃんの頼みだ。と、なることは期待しないことだな!」
「えー」
 たかが百円ごときで、恥ずかしいやり取りをしないでほしいものだ。僕の家庭は一般的な庶民で、彼女の家庭は収入的にはお嬢様と言われてもおかしくないほどのものだというのに。
 が……そういう要素は皆無だ。庶民の僕より庶民らしい。
 呆れ返った目付きで彼女を見つめ、足りない百円をくれてやる。
「お、ありがとー」
 無事、彼女は通り抜けることができた。
 次は僕がお金を払う番で、その時おじさんに囁かれる。
「そんな目付きすんなよー、兄ちゃん。かわいい彼女さんをとったりしねぇって!」
 全く囁いていなかった。
 そのデカイ声は僕の耳をじんじんとさせ、彼女のイタズラっぽい笑みを発動させる原因となった。
「欲しいならあげますよ」
「ハッハッハー、欲しいもんだぜ! おじさんはな、JKが大好きなんだよ」
 さりげない性癖の暴露は、僕の耳が悪かったということで聞かなかったことにしてあげた。
ひとまず、そうやって無事通過。パンフレットを手に取り、彼女と共に園内を歩く。
「まったく~照れちゃって~」
「良く思うんだ。君って頭が病気だよね」
「失礼な! こんなに冷静な女子高生は今時珍しいんだよ?」
「はいはい」
 またよくわからないことを言ってるな、と思った。
「ねえ見て! 象さんがいるー!」
「……」
 子供みたいにはしゃぐ彼女。
 とても冷静な判断ができる人物とは思えない。
 象の芸が始まる。彼女の髪が揺れている。
「たぶんなんだけどね。あの象さんは君より美的センスがあると思うよ」
「はいはい。僕の負けだね」
「もっと悔しがれよぉー」
 彼女のこういう言動にも、最近少し慣れてきた気がする。
「ねえ、そういえばさっき子供料金! とかいってたけど。あれ、恥ずかしくないの? たかだか百円のために」
「珍しくそっちから話しかけてきたと思ったら……。別にいいじゃんそれが私なんだし」
「私の笑顔は……とか、ふふ」
「鼻で笑うな! 百円は大事なの! んまい棒十本ぐらい買えるの!」
「そういうと価値が増えたように錯覚するかもしれないけど実際は百円ぐらいじゃ電車代すら払えないよ」
「それでも百円に価値がないことにはならないよ!」
 彼女にはしては珍しく、機転の利いた返しだ。
「どうしたの? 黙ってちゃ何も始まらないよ?」
「……」
 ここぞとばかりに調子に乗る彼女。この野郎、と思った。
 象の芸が終わる。
「トイ……お花摘みに行ってくる」
「いまさら女の子らしく振舞おうったって無駄だと思うよ」
「うっわ、デリカシーないこといってるー」
「君ってそこそこの頻度で見苦しいよね」
 そうして彼女は花を摘みに行った。
 ぼんやりと空を眺める。こんなことをしてなにになるんだろう? でも、少なくとも不愉快ではない。それなら、今の状況も悪いものではないかもしれない。
 ――風船が空を舞う。
 見れば小さな子供二人が手を伸ばしていた。容姿が似ていることから兄弟であろう。
 二人の子供は風船を追いかけた。
 風に流されていく風船。それは木に引っ掛かり、子供たちはうなだれる。
 だがそのうち一人はまだ闘志があるようで、あの手この手を使ってた風船を木から外そうとする。石や木の枝を投げつける。
 そんなことをしても無意味だ。木から風船が外れようともどちらにせよ子供たちの身長では届かない。
 そんなことを思っているうちに子供の投げた石が風船に突き刺さり、割れた。
 無惨な姿となって落ちてくる風船。それを手に取る子供たち。
 小さい方の子供が泣き出しそうになり、大きい方の子供が慰める。
 そうして二人の子供たちは家族のもとに戻ろうとでもいうのか、歩き出し、僕の視界の外へと消えた。
 ――風船は割れたら、もう元には戻らない。
「くらえっ! 水手裏剣!」
 彼女が手から水滴を飛ばしてきた。自分の顔に冷たいものを感じる。
 彼女がニヤニヤした顔でこちらを見ている。
「ばかなの? 君今の自分の年齢言える?」
「十七最。華の女子高生」
「ばかなの?」
 うすく睨み付ける。すると彼女はますます上機嫌そうな顔になり、僕はいつか仕返しをすることを誓った。
「見る動物決めた?」
「別に、わざわざ決めなくても一周回ればいいじゃん。ここはそんなに広くない」
「まあ、そうだね。ところで君好きな動物いる?」
「いや、特には」
「……」
 そんな僕の返事に彼女は無言でこちらを見つめる。
 本当にないのだ。そんな無理に答えを求められても困る。
「……イルカ」
「ここ動物園だって!」
 イルカが好きだというわけではないが思い付いたから言った。そんな適当な返事は彼女に読まれ、ご立腹のようだった。ホタルとかいえば良かっただろうか。いや、どちらにせよ突っ込まれるか。……ありきたりにライオンとでもいえば良かったかもしれない。
 まあ、過ぎたことは戻らないし、仕方がない。そこで矛先をそらすべく逆に聞いてみる。
「君が好きな動物は?」
「ん~人間!」
「……動物園にいるっちゃいるけどね」
 ひねくれたら答えにはひねくれた答えを。それが彼女のモットーなのだろうか。
 
それから僕らは動物園を回った。
「みてみて、あの猿君ににてるよ!」
「言いがかりもここまでくると感心するよ」
「仕方ないから今から私、ゴリラの物まねするからよく見ててね? あ、まって~」
 とか。
「私は鳥になりたい」
「なれば?」
「無理に決まってんでしょ!」
 とか。
 風がなびき、暖かな風が心地よい。生き物を見て癒されるとか、そういうことは感じたことがなかったが、ここまで晴れやかなのかは動物のおかげだろうか。
 隣にいる彼女に話し掛けてみる。
「今更何だけどさ、なんで僕なの?」
「んん?」
「残り少ない時間を無駄にしていいの?」
「うーん。前も言ったんだけどねー。あ、そうだね。こんな話があるんだけど、例えば、適当な人に今日が地球最後の日、今日で死ぬって言われたらなにする? って言う質問をするとどう返って来ると思う?」
「贅沢したい、じゃない?」
「だいたいそんな感じ、美味しいものをたらふく食べたいとか遊園地に行きたいとか。じゃあガンとかでもうすぐ死にそうな若者、老人に同じ質問をするとどう返って来ると思う?」
「同じ、と言いたいところだけどわざわざこんなこと言うってことは違うんだろうなぁ」
「勘がいいね。君の言う通り、普通の人と今にも死にそうな人は違う答えを出すんだ。
 平穏な、普通の日を過ごしたい、ってね」
「…………それが君?」
「そうだね」
「だからなの?」
「うん? 君は珍しい人だよ。死に対して気を使わない、面白い人だよ」
「つまり僕は君にとって平穏な暮らしを得るためのスパイスと言うわけか」
「悪く言うとそうかもね。でも平穏を求めるためだけにつまらない毎日は過ごさないよ。私は今、君と一緒にいてすごい楽しい」
 そう言って彼女は笑った。
「でも楽しいと、病気のせいでより楽しく感じちゃうんだよね。楽しいっていう思考が、体に影響を与えちゃうから。残酷なこの病気は、いつだって私の傍に寄り添うの。楽しい時も、悲しい時も、辛い時も」
 彼女は明るくそういった。

 やがて閉館の時間となった。日は暮れ、風が気持ちよく吹き抜ける。だがそれは少しだけ冷たい。夏はまだ始まったばかりだ。なのに、冷たい。
「ねえねえ」
「なに?」
「夏休み中君はなにするの?」
「特になにも」
「……私、海外に行くの。明日から」
 強い風、生暖かい風、沈みかける夕日。それら全てを背景に、フェンスにもたれ掛かって、彼女は僕にそう言った。
「そう、なんで?」
「日本じゃ、手術できないの。難しい手術だからね。海外にいっても難しいことにはかわらないらしくて……死ぬかもしれない」
 美しく輝く夕焼け。たが皮肉なことにこの太陽が終わるこの時間は人生の最後について語る時間となった。彼女は言葉を続ける。
「それに病気は完治する訳じゃないの。あくまで一年寿命を伸ばすだけ。……もういいよって親に言ったんだけどね。親バカだからさ。たった一年程度のために凄いお金かけるんだよ。そこまでして生きたいとか、成功するかもわからない一年に価値があるのか。私は何か発明するわけでもないし、なにも役に立たない。なのに大金を払ってもらって命を買うことが重い。……でも死にたくない」
 唐突に喋り始めたその言葉は、僕が求めていたもののひとつだった。『死』に触れる人間はとどういう考えを持っているのだろうか?
 死にたくない。それが答えで、大量の金によって僅かに寿命を伸ばすことに引き目を感じている。自身にそんな価値はないと思っている。現実迫観念症という病気を患う彼女にとって、悩みとは現実として自らの体を苛むリアルなものだった。彼女は、苦しんでいた。
 僕はそんな彼女を見て、結論なようなものを出すことができた。例え時間稼ぎにしかならないとしても、生きたいものは生きたい。迷惑がかかるとしても生きたい。死にいくら近い人間でも、そう思ってしまう。
 当たり前の結論だった。僕が彼女と過ごしたのは、死に近い者の思想が知りたかったから。もう目的は果たされ、一緒にいる理由はなくなる。
 もう夕日は半分以上沈みかけている。あとほんの僅かの時間で辺りは暗くなるだろう。
 自嘲的な笑みを浮かべる彼女に言う。
「生きたいなら生きればいい。それは君が選んだことだ。そして君の親も選択したんだ。月並みなことを言わせてもらえばお金は使わないと意味がないし、それを手放すのも君の親の自由。君の親にとっては君の存在はお金よりも価値があったんだろう。ならそれは君の親の責任だし、勝手に気負うのは侮辱に当たるんじゃないかな。まあ、君が親にお金を使わせること強制させたのなら話は全部ひっくり返るけど」
 こんなことをわざわざ言ったのは、彼女に借りを感じているからだろうか?
 それも、あるかもしれない。だが、僕の言った言葉はおそらく間違いではない。親は子を愛す。方向性が一致しないとしても、それは真実だと、僕は知っている。
 彼女は僕の言葉に驚き示した。
 彼女の腕から力が抜けたようにフェンスから手が離れる。
 そしてようやく彼女は驚きから元の世界へと戻ってきたようで口を開いた。
「そうだね、ありがとう」
 夕陽のせいか、彼女の顔に赤みがさす。力が抜けたような、強張りがなくなったような笑み。それはいつも僕をムカつかせる笑顔とは、よく似ているが違ったもので、不思議と苛立ちは感じなかった。
「よっと」
 彼女は小さな段差をジャンプして飛び越え、僕の近くへ立つ。
「もう会えるのはこれが最後かもしれないね。フフフ、必ず生きて帰ってくるよ!」
「これは死んだな」
 そんな風に返したが正直彼女が死ぬとは思えない。今の彼女からは活力が溢れ、何度殺しても生き返りそうな気がした。
 彼女が手を差し出す。それに僕はわざと怪訝そうな顔をしたが彼女が足をカツカツと鳴らせるので握手に応じてやった。
 柔らかい手だ。自分の手とは全く違う。性別が違うと案外変わるものだ。
 彼女は力強く僕の手を握り、僕は申し分ない程度に握り返す。
「君との出会いは忘れないよ。ありがと」
「どういたしまして」
「一年あればやりたいことはいっぱい叶えれるようになる。絶対生き残ってやるから!」
「そこまで死亡フラグを立てて……。死にたいの? 自殺願望でもあるの?」
 無論、死にたいわけではないのはわかっている。ただ心に誓っているだけだろう。それに好都合な僕という存在があったからこうしているだけだ。
 もういいだろうということで手を離そうと力を抜く。
 だが手は離させてもらえなかった。それどころか僕の手を握る腕が一本増えている。
 顔をしかめ、彼女を見ると、
「えへへ」
 嬉しそうに笑って、そのあと手を離した。
 そして一歩下がり、両手を上に挙げてくるりと二回転ほど回った。
 拍手でもしてあげればいいのだろうか。
 そうして僕らは一緒に家まで帰り、いつもの別れ道で別れた。
 その際彼女は大きく手を振ってきた。僕はめんどくさかったので軽く二回ぐらい振り返しておく。そして自分の家のある方向へと向いたのだが、背後ではまだ彼女が手を振っているような気がした。
 振り返ろうとする。何かを言おうとする。でも、気のせいだと言い聞かせた。

 ◇

 夏休みはなにもせずに過ごした。怠惰な日常、無意味な毎日。
 つまらなかった。学校という場に行くよりもは気は楽だった。なにもかも刺激がなく、窮屈な自分の部屋に入り浸っていた。
 彼女がいたときはこうではなかった。よくも悪くも、彼女の存在は僕の感情に波紋を生む存在だった。
 ――まあ、たいていイライラさせられることが多かったのだけど。
 僕は文字どおり、この長い夏休みになにも得なかった。彼女はどうなったのだろう。得るどころか失ってしまったのだろうか。僕からしてみれば無駄な一分一分も、彼女からしてみれば残り少ない、貴重な時間となる。僕は時間を無為に過ごすが、彼女の時間はどんな出来事であろうと輝く、輝かざるえない時間だ。
 こんなことになるならこの僕の時間はあげてやった方がいいかな、と思った。
 僕は夏休み中ずっと寝たきりでいいから彼女はその分の時間を使うといい……。
「はは」
 我ながら名案だと思った。現実的には不可能ではあるが、悪魔が取引を持ちかけてきたら面白いだろう。
 ――ピリリリリッ
 携帯が音を鳴らした。少しの期待とそれを押さえる自制心を持って手を伸ばす。そしてその画面を見てみれば母からのメールだった。内容はどこか遊びに行きたいところはないか、というものだった。それを僕は一人、部屋でせせら笑う。
 今の退屈そうな僕なら家族の時間を過ごせるとでも思ったのだろう。夏休みの間ずっとこのような誘いは来たが全て断ってきた。いい加減やめてほしいものだ。
僕と母は必要最低限しか会話はしないという関係にある。僕は干渉されるのを嫌ったし、母もそれを理解していたので不必要には近づいてこなかった。だが電子器具を用いれば肉声を使わない分、勇気が出るというのか、たまにこういったことをして僕との距離を縮めようとしてくる。
 そんな弱い母を僕は軽蔑した。直接語りに来ようとも心を開くつもりは勿論ないし、結果としては一緒ではあるのだが。僕らの家は金に困っていない。その身を犠牲にした英雄たる父は、金持ちを何人か救っていたからだ。その人間たちは当然だというよう金を僕らに渡してきた。母は浪費家ではというわけではないが、もし全ての財産を失ったとしても、僕の大学費は彼らが肩代わりしてくれるだろう。
 ここまでしてくれだけ、この金持ち共は親切な部類ではある。
 僕は端的に言えばさっさと独立したかった。いままで僕にかけた教育費もろもろ全て色をつけて返すつもりだ。育ててくれたという点では母に感謝している。だがそれは別問題として僕は母が嫌いだった。
 ――ピリリリリリリッ
 再び携帯の音が鳴る。夏休みは今日で終わりだ。なのに彼女からはメールが来なかった。
 死んだか。
 携帯に手を伸ばす。メールだ。
『生きて帰ることができたぞよ』
 その文面に思わず笑ってしまった。
 愉快な気分だ。死ぬかどうかの瀬戸際から帰ってきておいてずいぶんと余裕なことだ。
 まあ、おそらくは空元気だろう。いや、彼女のことだ。そうとは言えまい。
 実を言えば、きっとこのメールは母からではないことはわかっていた。だが確証はなかったし、ただの勘だ。でもそれが外れたら間抜けになってしまうので、あえて思考を封じ、ただただ携帯を見るという行動を起こした。
 まったく……、曲がりなりにも、それなりに心配していたというのに元気な奴だ。バカを見たような気分ではあるが、まあ、悪くはない。
 吉野早枝は生還した。特別恨んでいるわけではないのだから、今はそれを祝おう。

 始業式は丁度、昼前に終わった。
 学校側が何やら偉い人を呼んだようで、ついでとばかりに長い話がたらたらと続いた。さらには恒例である校長の長話もあり、それを聞かされる生徒はダブルノッキング状態だ。
 僕も当然、相当暇だった。だからか、いつもは注意を払わないのだが周りを観察してみるとなかなか面白かった。生徒たちは『やることがない』という共通の感想を胸に結束し、俳句を作っていた。お題は校長で『そよ風』と『校長の髪』を絡めて作っていた。優勝したのはあの騒がしい服部という男で、なかなかに面白い俳句を完成させていた。僕が笑ってしまっただけあって、周りも大笑いし、そのせいで先生にその事がばれた。おかげで服部は罪を一身に背負うことになり、職員室行きが決定した。哀れではあるが、悪口に近い内容を学校の最高権力者相手に言ってしまったのだから仕方のないことかもしれない。
 僕はいつもの家の近くの曲がり角に辿り着き、足を止める。
「やあ」と言ってみる。後ろの気配が驚いているのを感じた。
 そよぐ長い黒髪。まぬけな面構え。
 それに思わず笑ってしまう。相変わらず元気そうな姿だ。しかし、あまり彼女を驚かせたりすると今度こそ死んでしまうかもしれない。
「やや! 久しぶり!」
「生きてたか」
「生きてたよー!」
「はは、よかったね」
 突然、彼女が訝しげな表情を見せ、僕の顔を覗き込む。
 なにか顔に付いているのだろうか?
「……なんか、印象変わったね」
「ん?」
「こんなに簡単に笑わなかったじゃん」
 そう言われて気づいた。僕は自然に笑っていた。すぐに無表情に戻し、自分の顔に触れる。なぜか、きっと、今日はすこぶる機嫌が良いのだろう、たまたまだ。
「せっかくそんないい顔ができるのならずっとそうしてればいいのに、もったいない」
「僕の笑顔は君とは違って希少価値があるんだよ」
「むー⁉ 笑顔はいいことだよ! 円滑な人間関係を築くための素敵な道具ですー!」
「いや、道具って」
 呆れたような声音をだし、返答する。
 そして、たぶん、また僕は笑った。
 彼女はそっぽを向き、横目でこちらを見る。その口からはボソボソと「せっかくカッコイイのに、もったいない」と聞こえた。
 僕はその小さな声に「そうでもないよ」と返した。こちらも小声だ。
 彼女がコロコロと笑う。手を差し伸べ、ウキウキとこちらに問い掛けてくる。
「じゃあさ、今日はどうする?」
「君の帰還パーティーでもやる?」
「おごってくれるの? うれしー」
「…………」
「無表情がとても怖い」
「君の好きにしてよ」
「そうだね。私のお祝いだしね。……祝ってくれる?」
「美味しいもの食べに行くんだよね?」
「なにそれ、私のお祝いはついでだって言いたいわけ? いーよー。いーですよー」
 簡単に拗ねる彼女に僕は苦笑する。そんな僕の反応に、珍しく彼女はさらにプリプリと怒る。
「じゃあ、行こっか」
「あれー? その台詞私の役目だったのにな? ……ていうかお祝いメインって訂正してくれないの? 君のために。みたいなキザっぽいこと少しは言えないの?」
「絶対に言いたくないね」

 ◇

「笑わないね。笑ってくれたほうが私は嬉しいんだけど」
「笑えないし」
 彼女が指差している店は大きかった。看板も派手で、食欲をそそられる良い作りをしている。そして最もインパクトのある、オススメされている料理は『驚きの安さ!400円定食!』と書かれている物だ。激しくデジャブを感じる。だがここら辺は一度も来たことのない場所のはずだ。おかしい。
「友達から聞いたんだけど驚きの300円の店の人の兄弟がやってる店なんだって。どう?笑えてこない?」
「全然」
「すごく素だね。もーう、冗談だって! なんかいつもは美味しいもの食べたいとか絶対言わない君にこんな安い店つれてくるわけないじゃないですかー、やーねー」
 そう言いつつ、まあまあ、と手首を振る仕草をする彼女は、完全に大阪らへんにいそうなおばさんによく似たなにかだった。
 そうしてご機嫌にその店に入っていく。
 入っていくのかよ。
「冗談の意味はどこに行ったの?」
「旅に出た」
「じゃあ僕もそういう気分だから旅に出てくるよ、じゃあね」
「いやいやいや、冗談だって! はい、冗談戻ってきたよー! まあ、ここの店ほんとに美味しいから騙されたと思って食べてみなって!」
 そんな彼女はとても騒がしい。久しぶりに会ったせいかちょっと引いてしまうほどのハイテンションだ。だがきっと、彼女の言葉は正しい。驚きの三百円の店は、実際かなり美味しかった。そういうわけであるのだからどうせここも美味しい。だからこそ、彼女の言い分がわかってしまうからこそなんとなく憎ましい。
 そんな僕らの様子を店の人が微笑みながら見ていたのに気づいた。きっと自分の店が全肯定されて嬉しいのだろう。

 丁寧な物腰の店員さんに案内され、席に座る。丁寧な物腰の店員さんは僕らを案内している間ずっとクスクス笑っていた。
 なんだかバカにされているような感覚を受ける。これでは失礼な店員か。
「すみませーん。400円定食二つ」
「君は二つも定食を食べるの? すごいね」
「え?」
 注文の内容を勝手に決められたのでこんなことを言ってみたが、どうせ僕がもう片方を食べることになるのだろう。始めから僕には自由意思はなかったのだ。不条理を多少感じ、少しの文句を言うが所詮口先。どうせ美味しいのだ。内心ではそこまでの文句はない。
 料理が運ばれてきた。良い臭いと煙が立ち上ぼり、彼女も嬉しそうにヨダレを比喩とかではなく、本当に垂らしている。……それにしても量が多い。というか多すぎる。とてもではないが普通の高校生が食べきれる量ではない。
 僕はどちらかと言えば少食だ。断言できる。これは絶対に食べきれない。
 そこで彼女に僕の定食を分けてあげることにした。彼女はたくさん食べたそうな顔をしているように見えたし、お腹がとても減っていそうな顔をしている。これはあくまで僕の主観的観測ではあるが、強引に店につれてこられたわけだし、強引に押し付けても大丈夫だろう、たぶん。
「え……⁉ ありがとう!」
 これは喜んでいる反応に見える(あくまで主観的観測ではあるが)。ならきっと、もっとあげても大丈夫だろう、たぶん。
「え、え。ちょっと量多くない?どうしたのどうしたの」
「大病を患ってる女の子には優しくした方がいいと思ったんだ」
「お、気が利くねー。はい、ピーマンあげる」
 こうして見事に切り返され、僕は緑の野菜をこれでもかと送りつけられたのだった。
 まあ、ピーマンだけなので量的にも十分食べられる量になった。
 そんなこんなで僕はもっさもっさ、と大量の野菜を食い、そんな僕の顔によって引き起こされた、彼女のありがたいバカ笑いに見守られながら食事を終えた。
 彼女は完食していた。
 ……あれだけの量をよく食べられるものだ。結果的に彼女を困らせることは出来ず、厄介な野菜を僕が押し付けられた形になる。すごく損した気分だ。
「ふ、ふわぁーー。お腹いっぱい。店員さぁーん、お水ください」
 気が弛みきっているとよくわかる欠伸に口調。膨れ上がった今の状態のお腹なら、攻撃すれば、たぶん、倒せる。
 一応、動物園で唐突に水をかけられた意趣返しのつもりだったのだがこれでは完全に、ただのプレゼントだ。
 水が入ったグラスを店員さんが持ってくる。気の効いたことに、頼んだ彼女の分だけではなく、僕の分まであった。
 だが店員さんの体勢は突然低くなり――
 ――パリィィン

 僕の左手に熱と痛みが走る。
 辺りはグラスが割れたことにより、ガラスが錯乱している。
 そして状況を理解した。
 店員が躓いたことにより、グラスが割れたのだ。
 良質なものを使っているようで、ざっくりと僕の左手に三個の破片が刺さっている。
「あ、相川君⁉」
 彼女が驚いた顔、痛ましそうな顔、僕を労る顔を見せ、僕の手に触れる。
 だが今にも血が流れそうになっている状況から、破片を抜くことを躊躇し、焦る。
「申し訳ございません申し訳ございません申し訳ございません」
 大慌てで、何度も何度も頭を下げる店員。
 そんなことより、絆創膏なりなんなりを持ってきてほしいものだ。
「……すみません。止血したいので絆創膏とかが欲しいんですけど」
「も、申し訳ございません、わかりました、今すぐ持って参ります」
 そう言ってまた躓きそうになりながら走っていく。
 僕は手に刺さった破片をやれやれと見つめ、余計深く傷つけないように慎重に、ゆっくり左手から抜いていった。グラスには当然、水が入っていたのでそれが傷口にかなり沁みる。
 少量の血がツー、と流れ、机を汚す。
「ちょっとティッシュ貸して」
「え、あ、うん。…………痛くないの?」
「別に、痛いけど」
 彼女の恐慌は少しは収まったようで、オシャレな鞄に手を伸ばし、中から出したものを僕に手渡す。だが、それはハンカチだった。
「……ティッシュ
「ごめん……ハンカチしかなくて……。じゃなくて! ティッシュあったとしてもハンカチの方がいいって!」
 彼女はそう言うが、僕は拒否した。それでは彼女のハンカチを汚してしまう。洗えば血は取れるだろうが、自分のならまだしも、人の血を拭いたハンカチなど使いたくないであろう。だから使い捨てのティッシュが理想だ。
「いいから使ってよ!」
「いや、別にいいって。そこまで大したことじゃないし」
「あんなに破片が刺さってたじゃん!」
 僕は断り続けたのだがついに、彼女は強引に僕の手を掴み、血を拭おうとする。
 だが僕は傷付いていない右手の方でそれを払い、彼女は傷付いた表情を見せた。
 そしてついに、さっきの店員がやって来た。
「お客様、救急箱をお持ちしました。先程は本当に申し訳ございません!」
 全力で謝ってくる店員。
 それに対し、僕は薄く返事をしながら自分の左手を処置していく。
「相川君……」
 傷口は広くはないが、深い。見た目は小さい傷が幾つも出来ているだけだが、深い傷口は再生に結構な時間がかかる。僕は左手の方が力は強いのだが箸を扱うのは右手だ。勉強や授業中に差し支えない左手だっただけ、不幸中の幸いと言えるだろう。
 全ての傷口を処置し終えた、包帯でぐるぐる巻きだ。店員さんが「私がやりましょうか?」といってきたが首を振って拒否。その時、彼女は開きかけた口を閉じていた。おそらく彼女も店員と同じことを言おうとしたが、断られるのがわかったのだろう。
「ねぇねぇ……何でそんなに平気なの?」
「平気じゃないよ。結構痛い」
「でも、なんで、全く痛そうな顔してない」
「……? 騒ぎ立てたら迷惑じゃないか。だから我慢してるんだよ」
「我慢ってレベルじゃ……」
 わかっている。これは異常なことで、普通じゃない。痛みは痛い。だが我慢できる。単純に精神力の違いだと僕は思っているのだが、よくわからない。
「こんなもんだよ」
 僕がそう言うとなぜか、彼女は悲しそうな表情を見せた。何に同情しているのだろうか、むしろこれは利点だと思うのだが。
 料理は食べ終えた。傷口の処置は終わった。
 会計を済ませようと席を立つ。彼女もやや暗い感情を称えたまま立ち上がった。
 机は汚れているが、水だろうが血だろうが、僕らの責任ではないのでほかっておいても大丈夫だろう。
 レジでお金を払おうとすると男の人がやって来た。名刺がついており、店長とか書かれていることから、だいたいこれから何が起きるかが推測できる。
「すみませんお客様、店の者が粗相をしたようで……。責任をとって、店の者は今回のお代は自分が払うと言っておりました。なので今回のお代は無料で結構でございます」
 その奥のカウンターで先程の店員が少し驚いた表情を見せた。どうやら今しがた責任がこの店員に責任をかぶせることが決定したらしい。それを見て少し不愉快に思った。この店の店長の自分は全く悪くないと言いたげな物言い、勝手に責任のすべてを押し付けた所行。本来ならこうなって当然だとは思う。しかし、そういうことは店員に一言伝えてからするべきことであるし、全く悪びれもない態度は、礼儀知らずだ。
 まあ、そんな思想も一呼吸の間に消えた。自分に関係のない人間であるし、気にしたって無駄、意味がない。しかし、隣の彼女はそうは思わなかったようで、
「お金で解決しようとしないでよ! ちゃんと謝りなさいよ!」
 そう怒鳴る彼女。無表情で冷静に、マニュアルに当てはめたような謝り方が嫌なのだろう。だがこの店の店長は差し出せるのがそれしかないのだ。むしろただ謝るだけでなく食事代をタダにするだけいい方だと思う。だがまあ、
「とりあえず、次も来るのでその時も食事代をタダにしてください」
「ちょっ⁉」
「わかりました。そうさせていただきます」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「いいんだよ」
 わがままをいう子供をあやしつけるような穏やかな声音でそう言っておいた。
 そのまま店を出ようとする。が、彼女が僕の手を掴んだ。
「いつっ」
「あ、わ、ごめん」
 彼女の手は僕の包帯で巻かれた左手を掴んでしまっていた。前もって痛みが来ることがわかっているならば我慢できるのだが、予想外の痛みには反応してしまう。彼女は僕の漏らした声に失態を悟り、どもりながら謝った。
 おかげで彼女の頭は冷え、怒りは収まったようだ。先程の怒る前の暗い表情。再びそれが到来し、静かになる。
 彼女らしくない。だから、
「あのさ」
「ん……なに?」
「君の怒りは間違ってないよ。でも僕が面倒事が嫌だから穏便に済ませただけだ。だから、そんな顔する必要、ないんだよ?」
「ん……ん? あ、うん。ありがとう」
 彼女が無理矢理、という風に笑って見せる。そしてそんな表情は僕の気分的にも余り良いものではなかった。
 普通、いつもの彼女なら元気になるはずであるのに、そうはならなかった。他にも要因があるのだろうか……?
「ねぇねぇ、君さ。さっきは痛みに反応してたけど」
「咄嗟だったからね。耐えようとすれば耐えられるけど完全に予想外だったからああなっただけだよ」
「その……ごめん」
「別にいいよ。大したことじゃないし、痛みは我慢してるだけど痛いものは痛いんだ。だからガラスが突き刺さった時の方がよっぽど痛かったし、それに比べればさっきのなんて一瞬さ」
 言い切る、断言する。しかし、こう言っても、まだ彼女はまだ暗いままだ。いったい何故だ……。
 わからず、わからなく、わからない。
 いつもとは違う彼女に最初は疑問を覚えた。だが、それは次第に疑問を越え、焦りに変わっていく。
 やがて、僕の思考が彼女の体調の危惧まで伸び始めたところ、彼女が口を開いた。
「私、知ってる。君の痛みを我慢できる、ってやつは精神的な病気だよ。幼い頃、精神に強いショックをおったためにかかる軽度の失感情症(アレキサイミヤ)。昔、なにか辛いことあったんでしょ?」
 そう問い掛けてくる彼女。
 昔の思い出、辛い記憶。
 ……知ったことではない。
「……別に」
「話して、くれないんだね」
「……」
 僕は悲劇の主人公を気取るつもりはない。昔は自分のことをかわいそうだなと思った。だが今はそんな昔の自分のことを嫌悪している。だから昔の嫌いな自分など、彼女に伝えるつもりはないし、その必要もない。意味がないことだからだ。
「私、君のこと、何も知らないんだね」
 憂鬱な彼女の言葉が曇った空に消えていく。日は隠れ、冷たさを感じる。
 今は、秋か。そんなことをぼんやりと思った。そして僕たちの間には自然と、会話はなく、お互いの帰路に向かっていた。近づく別れ道、薄ぼんやりと広がる思考。
 どちらかが悪いと言うわけでなく、何もない状態。だが明日はそんなものは消え去っているはずだ。なにもなく、いつもと同じように会話して……時間が過ぎればこれはなかったことになる。きっと、きっと、きっと……。
「ねえ」
「なに?」
「そんなに知りたいの?」
「うん」
「……気が向いたら、話すよ」
「ほ、ほんと?」
 彼女の言葉のトーンが高くなる。
 そんなに知りたいのだろうか? 聞いてもつまらないし、むしろ嫌な気分になるだろう。正直気が進まない。
「いつか、ね」
 でも僕はそう言った。必ず、とは言わない。僕の気が変わったり、お互い、この話について忘れてしまうかもしれない。
 そして僕はお互いが忘れてしまうことを願った、が。
 話してしまう可能性もある気がした。
 この一切の味方なき世界では、話せるとしたら、彼女ぐらいしかいないかもしれないから。

 ◇

 次の日、彼女は学校に来なかった。
 なぜ彼女は学校に来なかったのだろう……? そういった思考が何度もよぎるが頭を振って落とす。相当に親密な関係ならばその介入も許されるだろうとは思うが、僕と彼女がそこまで深い関係だと思わない。
 そして一日、二日と経ち……遂に一週間ぶりになるという日、吉野早枝が学校に来た。吉野早枝は、彼女は珍しく、今日は一人だった。誰とも関わらず、ポツンとした雰囲気。
 最初のうちは何人もの女子生徒が話しかけに言っていた。だが一言二言話すと離れ、静かになる。大方「今日は一人でいたい」とか、そんな感じのことを言ったのだろう。

 時は過ぎ、また何事もなくチャイムがなった。
生徒がぞろぞろと教室を出る。僕は吉野早枝の後ろを追おうと少し遅めに教室を出る。あまりに元気が無さそうなので少し驚かせようと思ったのだ。人を元気にさせようなんて僕らしくないのだが、それで、もし彼女が不快な気分になってしまったとしても、今までのイタズタの分をやりかえしたと思えばいい。
 そんなことを思い、少しワクワクしてくる。復讐だ復讐だ!……という感じに。
 特にあの下着の店のイタズラとか今でも覚えているレベルだ。男子高校生にトラウマを植え付けるなど、よほど強かな女子高生にしかできない。そうして帰路である電車の帰り道の途中のことだ。少し、彼女の様子がおかしい。ふらついている。
 周りには何人か人がいるが、同じ学校の生徒はいない。だからもう話しかけてしまおうか。こんなところで会うなんてストーカーみたい、とか軽口を叩かれそうだが、その時は僕が彼女のことをストーカーのように思ったときの話をして相殺しよう。
 そんなことを思いながら、階段を下る彼女に近づくため、少し歩を速める。

 その時、突然彼女の姿が揺れた。よろめく。落ちる、落ち――――――――
「危ない!」
 声が出、手が出た。よろめき、倒れていく彼女の腕をなんとか掴み、留める。背中にヒヤリとするものを感じつつも、ホッと溜め息をつく。だがもう片方の腕から下げられた鞄は肩からずり落ち、床へ落ちるのは止めることができなかった。
 ガシャーン。
 鞄の中の物が錯乱し、音によって周囲の人々が何事かとこちらを向く。……最近やけに人に注目されることが多いな。彼女の顔を見る。
 虚ろ。
 覇気がないとか、そういう次元ではない。今にも死にそうな、精気のない表情。
 それを見て、僕は……。
「あ……久しぶり」
 そんな彼女の唇から、最初に言うことがそれか、と言いたくなるような一言が漏れた。
「……久しぶり」
 辺りを見渡す。すでに人の注目はないも同然。辺りにはいろいろなものが落ちている。
「拾うの、手伝ってくれない?」
「ああ、いいよ」
 彼女が無理矢理作った微笑み、ばつの悪い苦笑い。それを受け、承諾。
 てきぱきと落ちたものを鞄に積め……、え?
 彼女の鞄の中に、明らかに学校には必要なさそうなものが見える。それは機械機具。いや……何かしらの医療道具。僕が動きを止め、その動作で鞄の中身を見られていることに気づいた彼女はサッと鞄を閉じた。僕はゆっくりと首を回す。
 そして他の錯乱物を見た。教科書以外にも、薬らしきものがいくつかあるのがわかった。
「あっ、あっ」
 それを見られまいとするかのように彼女が僕の視線の先にあるものを奪うようにして取り上げる。あまりにもわかりやすく、僕は彼女の今の状態を悟らざる得なかった。
「あ、相川くん……行こう……?」
 全てのものを鞄に積めた彼女は、問い掛けるように、確かめるようにそう言った。そして、怯えているかのように見えた。僕はなにも知らないかのように、なにも見ていないかのように、いつもと全く同じように、答える。
「ああ、そうだね」
 そうして一緒に電車に乗る。会話はない。沈黙。重く、それゆえに僕が見たものが現実なのだと、深く理解させられた。
 電車を降りる。送っていくよ、とか、体調は大丈夫? とか。そういうことを言いたかった。だが言えなかった。何故なら……――昔、最初に会ったときに言われた言葉が蘇る。
 ――私はもう死ぬからね。周りの人は腫れ物を扱うかのように優しく優しく接してくれるんだよ。でも君は直接それに突っ込んで、触れてくるでしょ?私のことを知っている人は誰もそうはしてくれないから君は珍しい人だねって――
 今更ながら、その言葉の真意がわかった。最初聞いたときにはとるに足らない言葉だと聞き流していた。だがさっきの行動を、薬らしきものを隠そうとした行動から読み取れることがある。二つを合わせればある答えにたどり着いてしまう。彼女は自分の死を悟られたがらない。そして周りの人からのなにかが、彼女にそう思わせている(家族や友人あたりだろうか?)。普段通りに接して欲しいという思い。そして僕は彼女の死など全く気にしないとしていた素振り。
 それらが全て、繋がっていく。だから彼女は執拗なほどに僕に会いたがった。事実を知らない友人となら『普段通り』過ごすことができただろう。しかし、それでは一方的な秘密を彼女は負うことになる。そしてそれは致命的に大きい、いわば心臓部分のような秘密だ。だから苦しく、自分が死ぬと知った時点でも態度の変わらない誰かを望んだ。
 動物園で彼女は言っていた。死が見えている人は『普通に過ごしたい』と願う。
 生に退屈し、非日常を願う僕と。死を目視し、日常を願う彼女。僕らは真逆のものを求め、奇跡的に望んだものを手に入れていた、そういうことなのでは?
 そして思う。日常を非日常と受け取らざるをえない状態の彼女は、もしかしたらかなり追い詰められていたのでは? 現実迫観念症。自分が死ぬという思想、意識はこの上なく彼女を苦しめるはずだ。彼女が非日常を考えるとき、自分の病気について深く意識してしまう。そして自分が死ぬことを思い出してしまう。そういった意識はリアルなものとなって、なにかしらのダメージを体に与える。この循環が延々と続く。
 ……寒気が、した。彼女は思った以上に、苦しい状況にあるんじゃないかって。
 もうすぐいつもの分岐路だ。ポツポツと会話はした。だが彼女の体調のことが頭に何度もよぎる。そしてそのことから考えられる事柄が勝手に展開し、彼女の内の死の波動を強く感じてしまう。
「あ、猫」
 彼女は軽く小走りになって、中に入った子猫を覗き込む。
「食べ物が入ってる。誰か親切な人が入れてくれたのかな?」
「……」
「……飼ってみようかな」
 そう言う彼女の瞳には再び輝きが宿っていた。
「わざわざそこまでする必要はないんじゃないかな」
「……なんで君はそんなこと言うの?」
 彼女が本気で不機嫌そうな声をあげる。
 それが気に入らなくて僕はフン、と鼻を鳴らした。
「私、飼ってみるよ」
「好きにしたら?」
「なんで……なんでさ。なんでそんなに君はそんなに冷たいの」
 いきなりそんな言葉が飛んできた。
 今の彼女は怒っていた。まるで溜め込んでいたものを、もう無理だといっているかのようで。
「心外だね。そんなつもりはないよ。君が好きなようにやればいい、という意味で言っただけだ。他意はない」
「……そう」
 ギスギスした雰囲気。
 なぜこんな風になってしまったのだろうか。どこで失敗したのだろうか。
 すれ違ってしまっている気がする。けれど僕は解決策を持たない。今までのつけとして、人とのかかわりを断ってきた代償として。
 彼女はダンボールごと子猫を持ち上げた。
 表情は笑顔で、嬉しげに子猫の頭を撫でている。だが、影があった。

 僕らは無言のまま進む。
 今度こそ会話はなく、とても静かに。
 しかし、
 ブオオォォォーン。
 突然、クラクションが鳴り響く。
 目の前には転んだ子供、そしてトラック。
 既視感。激しい既視感。なぜだかこの状況を何度か見たことがある気がする。そう、こういった状況になると必ず僕の隣にいた人が――。
 父が。
 隣の彼女が駆け出す、駆け出す。持っていた、子猫の入ったダンボールを足元に落として。

 それによって更なる記憶のフラッシュバックが蘇る、記憶が、こぼれる。

 ――父はいつも他人を優先した。
「待って!」
 ――死んでほしく、なかった。

 激しい恐怖。わけがわからない感情に胸が支配され、僕は衝動的に手を伸ばした。
 破片によって傷ついた方の左手、痛みがあろうとなんとか掴み、引き留める。
 腕を捕まれた彼女が振り向く。
 ――よかった、助けられた、死ななかった。
「なんで」
 しかし、彼女の顔は呆然としていた。
 なんで?
 僕を理解できないというその眼。
 次の瞬間、激しい音を立てて、トラックがスリップした。そしてその音で前を向く彼女。
 滑るタイヤは耳障りのする音を立て、なんとか子供をかわす。電柱にぶつかり、動かなくなる。
 全てが終わった後には、まだ耳に反響するクラクションの音と、一人の子供の鳴き声が残っていた。
「なんで!」
 怒鳴り声。本気の怒り、咎める目付き。
 僕の掴んだ腕は振り払われた。
 ――いつも僕が人の腕を振り払ってきたことは、
 ――こんなにも人を傷つけるのだとわかった。
「なんで止めたの! 子供が、まだ小さい子なのに死んじゃうかもしれなかったんだよ!」
 僕は彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。そうじゃないだろう、それを優先するべきじゃないだろう。一番優先しなければならないのは自分自身、自分の命だ。
 だが僕はなにも言えなかった。かつてない衝撃。救えたと思ったら浴びせられた冷水。
 心が、揺れる。
「なんとか言ってよ! ねえ!」
 僕は彼女に責められ続けた。なんと反応すればいいのだ。どう言葉を返せばいいのだ。僕は、どうすればいいのだ。
 揺れる感情は内面だけ、外面だけは必死に保ち、無表情。思考が凍りつく。まともじゃない、ごちゃごちゃしたものだけが、頭を支配する。
「ぼ、く、は」
「なんで子供の命を優先してあげられないの!」
 その言葉で火がついた。感情が沸騰し、魂の奥底から怒りが沸き上がる。
 なんで、なんで、なんで、なんで。
 自己犠牲。僕が最も嫌う言葉。なんで平然と自分の命を捨てられる。死ねばそこで終わりだ。目を閉じれば何も見えない。耳をふさげば何も聞こえない。死んでしまえば、なにも感じない。
 死ねばすべてが無に帰す。自分が死ねば、自分にとっての世界は終わる、何かを救ったとしても、それが認識できないところに意識が追いやられるのなら、すべてすべて、意味のないことなのに。
 なのに……、
「なんで……なんで自分の命を大切にしないんだ! そんな子供より、なんで自分の命を優先にしないんだ!」
 叫ぶ。怒る。喉が枯れるほどに。
「違う! 私の命より、こんな少ない命より! 絶対に子供の命が、大切に決まってる!」
 彼女もさらに強い怒鳴り声。
 彼女の考えは許容できない。そうだ、それが自己犠牲などだ。無意味で最悪の選択肢。だって、そうやって――僕の父は死んだ。
「人間は! 自分の命を最優先にする生き物だ! それは、間違ってる!」
 やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。
「違う! 人間には、感情がある! 私には、感情がある!」
 違う。死なないでくれ。お願いだ、置いていかないでくれ。
 独りに――しないでくれ。
「ふざけるな! 黙れ!」
 そして全ての感情が圧縮され、全力で怒鳴ったその声が、静けさをもたらす。
「う、あ」
 たじろぐ彼女。瞳に涙が滲み、後ずさる。
 僕の今の顔はどうなっているのだろうか。
 憤怒の表情? 鬼の表情? 悪魔の表情?
 彼女の顔には怯えが走っていた。
 僕が本気で怒鳴ったから、本気で怒ったから。
「……もう、いい」
 そう言い、彼女は背中を向けた。
 足元の子猫の入ったダンボールを拾い、
「落としちゃってごめんね」と声を掛ける。

 僕は、僕は。

「…………」

 彼女は去った。
 いつのまにか、子供は消えていた。
 トラックの運転手らしき人が僕から眼をそらし、電話をかけ始める。

 僕は、僕は……。

 ◇

 僕の隣からは彼女が消え、もとの日常が戻るかと思われた。それはまさしく、その通りだろう。元通りになったのだ。
 この数週間、彼女はまちまち学校を休んだ。
僕は真の意味で一人となり、彼女はますますこちらを見なくなった。いや、それは元々のことで、学校という場では僕と彼女は全く接点を持たなかった。それが外でもそうなっただけだ。携帯を見てもなにも起きず、僕は誰とも会話をすることがない。
 淡々と生きる。誰に何を言われようとも、何をされようとも。全てを中途半端にこなせるから、時間は止まらず、ゆっくりと進む。
 そうやって日常は流れていく。たぶん、退屈な日常。だが、それでも生き続けた。意味などとても見い出せない。しかし、これもよくよく考えればいつものことだ。色あせた世界で、生きる理由が欲しかった。でもそんなものはどこにもない。それでも生きているのは、ただ単に死にたくはないからだ。始まりに戻っただけ。なにも変わっていない。
 吉野早枝がこちらを見ていた時があった。。体調は悪そうで、それでも後悔しているかのようにこちらを見てくる彼女。だが僕は無視した。もう関わらない方がいい。土台、無理な話で、間違っていたのだ。
 ……僕は、許せないのだと思う。偽善行為が、自己犠牲が。
 自分の命を大切にしない、そういう人間が。
 けれどこれはどこか矛盾した結論だ。腹を立ててひねくれてしまった子供だ。けど、僕にはとても無理だった。母と同じように、あまりにも思想が違うと拒絶感が出る。どうしても、どうしても。
 ――僕は、愚か者だ。
 本当は寂しいくせに。
 
 ◇

 そうして日常が過ぎていく。なんの障害もなく、何の喜びもなく。だが苦しくはなかった。ただ一つ、心にはしこりが残っていたけども。
 彼女の体調は悪い時もあれば良いときもあった。悪い時は一人でおり、良い時は誰かと喋っている。わかりやすかった。だからこそ、一人でいて体調が悪そうな時、余計に心配になった。
 そんな自分が嫌だった。彼女にはもう関わらない。そう決めたのに何を勝手に彼女を心配などしているのだろうか。僕にはそんな権利、ないくせに。なのに心配だけはする偽善者だ。なにもできないくせに誰かを心配していい気分に浸ろうとするクズ野郎だ――。
 また、帰宅のときとなった。
 元の日常。望んでいた時。
 穏やか。一度苦しみを乗り越えたからか、余計にありがたさがわかった。
 ――だが、
 隣を吉野早枝が歩いていく。ただ一つの悔やみ。もう手が届かない、いや、手を伸ばしてはならない花。それは今にも萎れそうなのに明るく、真実を知る僕にとって胸が痛かった。彼女は俯いていた。僕に気付かず、すれ違って。
 僕は後ろを振り返った。
 ヨロヨロとふらつき、歩く彼女。時折壁に手をつき、何かから逃げるように無理矢理足を動かす。死神から逃れようとのたうつ弱い人間。
 彼女は死ぬ。それが決められた運命で、逃れる手段はない。僕が介入する余地なんかない。
「……」
 後悔、してるんだろうか? 彼女との決裂を。僕がこれからなにもできないということを。僕は彼女を助けたいんだろうか?
 まさかまさか、そんなこと、できるはずがない。人間が嫌いな僕が誰かのためを思う? それは面白い冗談だ。馬鹿げてる。
 そう強く信じている。なのに胸が圧迫される。騒がしい、煩いほどに頭の中で警報が鳴り響く。僕は彼女に話しかけたいから、だから自分の欲望に素直になれと、それで戻れと騒いでいるのか?
 答えは出なかった。だが、思い知った。出来事は唐突にやって来るものだと、今を、現実という名の現在を、必死に生きなかった僕は間違っていた。
「……え」
 背後からドスン、と鈍い音。沈黙の廊下に音が反響し、響くそれは。
 死の音だった。
 命の終わりは唐突にやってくるからこそ、人は己の命を大切にしなければならない。
「う……そ……だ」
 彼女は倒れていた。頭の中が熱かった。暖かみなど皆無で、冷たささえ感じる狂気。
 ――嘘だよ、ね?
 また、死ぬのだろうか。父が死に、今度は、次に死ぬのは誰だろうか。
 現実を受け入れられないガラクタの脳味噌。妥協し、諦めて生きた僕は――。
 意識を切り換える。なにもかもわからない。でも、反射的に体は動いた。杖など放り出し、何を捨ててでも、走った。がむしゃらに彼女を抱く。
 その時、彼女が激しく咳き込んだ。
「死に……たく……ない」
 うわ言のように紡がれる言葉。衝撃を受ける。いつも気丈に振る舞っていた彼女。死を恐れていることは知っていた。死が近いことも知っていた。でも、いつも笑顔だった彼女を見ているとそのことを忘れてしまい……。
 彼女の瞼がびくつく。そしてうっすらと目を開け、僕を見た。
「あい、かわ……くん?」
 彼女の瞳にあるのは後悔だろうか、恐れだろうか。最後の僕への印象は、最悪のはずだ。それなのに……。
「ごめん……ね」
 心臓が飛び出そうになる。予想外の一言に、なにも反応できない。
 本当は謝らなければならないのは僕の方なのに。
 僕の態度が悪かったのに。
 君はなにも悪くないのに。
 自然と涙が溢れ、ただただ問う。
「なん、で……?」
 そう呟いた僕の言葉は彼女に聞き入られなかった。
 ゆっくり閉じていく瞼。最後を予感させるような怠い動作。
「ああぁ……あああああああぁぁ!」
 死んでほしくない。生きていて欲しい。生きて……。
「だれか……だれか!」
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 こんな予感が当たるわけがない。父の背中と重なって見えたなど、こんなものが当たるはずがない。嘘に決まってる。助かるに決まってる。彼女はあんなに笑っていたではないか。元気だったではないか。僕が覚えている彼女は、そうだった。
「だれか、来てくれ! だれか!」
 もう僕にできることはほとんどなかった。僕の力では無理だ。いくら頭を働かそうが、心臓が破裂し、それでも体を動かそうが。
 ――僕はあくまで人間で、無力な個人。彼女を治すことは、できない。
「だれか! だれか! 助けてくれ!」
 できることは願うだけ。奇跡を信じ、叫ぶことだけ。
 喉が裂ける。絶叫を繰り返し、全身から力を絞る。
「助けてくれ! 助けてくれ! 助けて……!」
 喉が枯れていく。声は掠れ、音は小さくなっていく。
「助けて……! 助けて……! だれか、助けて……助けてください……!」
 最後に残った声は掠れ、血の味が滲む。それでも、それでも……僕は。

「おい! だれか! 救急車を呼べ!」
 目の前に教師が立っていた。
 皆が僕らの周りを囲んでいた。
「運べ!」
 優しく持ち上げれ、彼女の体が大柄な教師によって運ばれていく。
 僕の顔は涙でぐちゃぐちゃで、みっともない姿で、遠ざかる彼女に手を伸ばす。
 眼に溜まった涙は熱かった。だが頬を伝い、僕の手へと落ちた雫は、冷たかった。

 ◇

 僕は病院にいた。吉野早枝の手術が終わるのを待つためだ。
 手術は吉野早枝の専属医が行った。世界的にも有名な医者らしく、腕は確かだという。
 医者が言うには、見つけるのがもう少し遅かったら危なかったらしい。だがおかげ様で何の問題もなく手術は成功しそうだ、と僕の手を握った。
 だが吉野早枝の母はそうは思わなかったようで。
「また、あなたなの⁉ あなたは早枝の何なの⁉ どうせ、あなたが何かしたんでしょう! なんで早枝をいじめるの⁉ 早枝はこんなに、必死に生きようとしているのに!!」
 激しい剣幕でそう言った。
 理論もへったくれもないこじつけ。いつもの僕なら鼻で笑い、終わったことだろう。だが僕は……精神的に参っていた。心が壊れそうだった。彼女は死なない、だがその死を強く意識したことによって、世の中の全てが恐ろしくなった。
 全部、全部が怖い。
 後ずさる僕。勢いに乗る吉野早枝の母。
 廊下で喚き声が反響する。
 思わず、僕が全て悪いのではないか? そんな気分になりそうになる。
 どこまでも落ちていくような感覚。たぶん、僕は変わってしまった。これがいい方向なのか、悪い方向なのか、わからない。人の言葉を受け止めるようになり、傷つきやすくなってしまった。これは、こんなものは……ただの弱さだ。
「智子、止めなさい」
 制止が入る。
 威厳のある中年。おそらくそれは、吉野早枝の父。
「信司君、だったかい?ありがとう。あのお医者様が言ったとおり、娘は君のおかげで助かったも同然だ」
「い、え」
 まともに目を合わせられなかった。吉野早枝の父は口では感謝を言っている。だが本当は僕を恨んでいるのではないか? ……そんなことはない。わかっている。けれども頭ではわかっていても、感情がそうだと言ってくれない。世の中の全てが疑わしく見え、全てが僕を責めている気がした。――あの日、世界の全てを敵に感じた時より、ずっと強い悪意を。
まるで本当の罪人のような態度をとってしまう僕に、吉野早枝の父は僕の肩に手をポン、と置き、去って行った。
 吉野早枝の母は残るらしいが吉野早枝の父は仕事があるらしい。
今は七時。僕は学生のため、もう帰りなさいと言われた。僕が不安そうな顔を見せれば若い医者は「絶対に大丈夫だ。だってあの人は……」と、遠い目をしながら言った。その様子から吉野早枝の専属医への信頼が伝わってくる。ならば、大丈夫だろうか。
 正直に言えばここに残りたいという気持ちの他にも、逃げ出したいという思いがあった。
 ここに残ったところでどうする。彼女と顔を合わせるのか? 僕は彼女に何を言うのだ? いったいどんな顔をして?
 ……なにもできない。
 狂おしいほどの寂寥感。はっきりと自覚した。彼女はもう、僕とって大切な人だと。会いたいという切実さ、会ってはならないという恐れにも似た義務感。二つに挟まれ、苦悩する。だが、心は割れていた。ガラスのように、あと少しで壊れてしまいそうなほどに。意思力がなく、欠片ほどの勇気すら出ない。
 今は全く、痛みに耐えられる気がしなかった。もっと、強い人間でいたかったのに。
 僕はその場から逃げ出した。

 ◇

 病院から抜け出した時、僕を呼び止める声があった。
 それは――。
 「……服部」
 彼女と同じ、クラスの人気者。そういう人間が、僕を見つめていた。
 それが恐ろしく思えた。責められているみたいで。でも責められても当然だと思った。
 そう思っていたのに。
「なあ、相川」
苦しげに、彼は口を開く。違和感を感じて、僕は逃げ出そうとした足を止めた。
「おまえ、吉野さんのこと大切なのか?」
「……」
「何とかいえよ」
 彼の声には怒りが混じっているように見えた。やるせなさ。
「どうせおまえは俺の質問をはぐらかして逃げようとするんだろうな。逃げたがっているんだろう?」
「……関係ない」
「おまえ、うぜえよ」
 肩を掴まれる。力は強い。
 殴られるかも、と思う。痛みには強いつもりだ。けど今、僕は痛みに耐えられるだろうか?
 そんな覚悟をした。けれど、暴力なんてものは訪れなかった。
「おまえ、吉野さんが倒れた時、必死だっただろ」
「……」
「そりゃ、見てればわかる。当然だ。だから俺は、おまえにこういってやるんだよ」
 決心して、疲れたような顔。
「おまえ、吉野さんを避けたの後悔してんだろ。なら今変われよ。理由なんていくらでもこじつけれるだろ。人が死にかけた。だから心機一転した。吉野さんに会おうと思った。それでいいだろうが」
 ……彼は。
「お前なんて嫌いだよ。でも人が人を思うやることは正しいんだ、俺にとっては。だからお前が吉野さんのことを思うのは正しいんだ。きっと俺なんかより、お前の方が必死だったから、お前がやるべきなんだ」
「……」
「お前のことなんて嫌いだよ」
 服部は吐き捨てるようにそう言った。彼の声は震えていた。
 理由。僕が彼女に会う理由。そんなもの、ない。
 そう思っていたのに、そうじゃないと彼は言う。……どうして?
 彼の様子から、悔しさから、僕は彼のことを理解した。彼は――。
「わかった、やるよ」
 彼の思い。やりたくないのに、僕に声をかけた。僕はその思いを、汲み取らなければならない。
「くそっ」と彼は怒り交じりに言う。
 服部が去っていく。

 ◇

 なんで彼の言葉は、これほどにまで胸に通ったのだろうか。
 たぶん、嬉しかったからだ。僕は他人を心配できる人間だと彼に思われたのが、嬉しかったからだ。そして彼の人柄が信頼できたから、本当は彼女に会いたいのは彼なのに、僕に託そうとした彼だから、だから彼が僕の善性を認めてくれたのが嬉しかった。
 ずっと苦しかった。心配、気遣うこと、それを偽善だと思ってしまうこと。
 本心なんてわかってる。僕は彼女といて楽しかったのだ。でも今更戻れないから。そう思って、何もできずにいた。僕は彼女を素直に心配したかった。
 それなのに行動できないのは間違ってると、服部は言った。

 ◇ 

 面会時間ぎりぎり、僕は彼女に会いに行く。
 彼女の両親はいなかった。そして病室に居座る彼女を見た瞬間、疲れていたはずの心臓は高鳴り、幸福感とも緊張感ともつかぬ感情が押し寄せてきた。
「久しぶり」
 勇気を振り絞ってはなった一言。
 そんな一言に、目の前の人物はなんでもないようにニカッと笑う。
「ヤッホー」
 吉野早枝が笑った。
 それを見ると、なんというか、つられてしまうというか、なんというか。
 なんだかな。
 自然と出てしまう自分の素直な笑顔が気恥ずかしい。
 話してみれば、関係は一瞬で元に戻った。けれど、と思う。僕は気がかりを口にする。 
「そういえばさ」
「なーに?」
「猫、どうなった?」
「猫ちゃん? 飼い主が引き取りに来たよ。泣いてた。ごめんねっていっぱい言ってて、でも幸せそうだった」
 ならきっと、あの猫の将来も安泰だろう。ホッとする。だがよかったね、とは決して言わない。今更言えない、だから。
「えいっ!」
 落ち込んでいると、いきなり頬を突っつかれた。僕がムッとしたような顔をすると彼女は僕の前で爆笑して見せた。人としてあり得ないと思った。彼女は明らかに調子に乗っていし、理性の枷が外れているのだから、天罰めいたものが降り注いでも自業自得に違いない。
「ああ、心見切ってるからあんまり考えこんじゃだめだよ」
「……なんのこと?」
「さあね」
 読まれている、のだろうか。どうして?
「たぶん、私が考えなしだったんだ」
「どういうこと」
「君は他人の不幸を喜ぶよなやつじゃないってこと!」
 確信があるかのように、彼女は言う。
 なぜこんなことを彼女はいうんだろうか。
 なんだかなあ、と思っていると、
「ねえねえ、君さ」
「なに?」
「私、聞いたの」
「……なにが?」
 彼女が改まって、いきなり話を始める。僕は気の抜けた返事を返し、彼女は俯いた。
「君の、お父さんのこと」
 ――ピシリ
 その一言。たった一言で空気が凍てついた。それまでの暖かさは消え、底冷えするような冷めたさが、空間を支配する。
「……で?」
 俯きながらの、自分でも驚くほど冷たい一言。ひそかに焦りが心中を支配する。
 彼女の方を見れなかった。見たら怒りが爆発してしまいそうだったから、抑えた。
 父のことに触れて欲しくなかった。例え彼女でも、世界中の誰であっても、僕は自分の思い出に触れられることを拒んだ。それだけは、触れてほしくなかった。
 だがその拒絶をえぐりこむようにして彼女は進む。僕の意思を踏みにじる。
「君のお父さん、他人のために死んでしまったって」
「――うるさい」
「人を救うために、自分の命を懸けたって」
 嫌だった。父が他人のために命を懸けたことが。
 だから聞きたくなかった。尊敬する父を、嫌いになりたくなかった。
「うる……さい」
 父は僕をも救った人だから、憎めない。憎みたくない。だから目を逸らしていたい。
 父が死んだあのことは、なかったのだ。自然と死んだわけじゃないことはわかっている。だが、頭の隅に追いやる。忘れたわけではない。ただ、直視したくなかった。今は父のことが嫌いではない。けれども、自己犠牲は許せない。
 だが、彼女は苛むように僕に言う。
「でもそれは立派なこと。人のために自分捨てられる勇気がある人なんて、なかなかいない」
 穢すな。わかったような口をきくな。自分が失ったことがないから、だから平然と言える。
「だ……ま――」
「だから、偽善と、人間が、嫌いなの?」
 その決定的な一言で、自分の中の何かが切れたような気がした。
「黙れ」
 低く、唸るように言う。感情が、怒りが、頭が沸騰するかのように、熱く熱く、赤に染まる。
 そうだ。確かに父は立派だ。結果として、父は他人を救うことができる、そういう人間だったから。けれど納得できないのは、僕を見てくれなかったことだ。僕のために生きようとは思うなかったことだ。父はきっと満足して逝った。自分は人を助けたんだと。残された息子がなにを思うかなんて、点で考えちゃいなかった。たぶん、自分が死んでも息子は立派にやっていけると、そう期待していただろう。
 でも僕には無理だった。立派であれない。父の自己犠牲が許せなかった。僕が望んだのは父が素晴らしい人間を体現することではなく、ただ僕の父であってくれればよかっただけなのだ。
 だから目の前の存在が許せない。自己犠牲を行った父が偉大だという人間のことが。
 強く睨み付ける。もう、彼女が憎い。
 なにも知らないくせに。父がどれだけ偉大だったか、知らないくせに。ただ知ったように結果を口にし、世間一般的には真理とされることを、淡々と喋るな。そんなものは、僕が真理として認めない。あの日、喧嘩した日のように、それよりも強い怒りに、憎しみをも加えた視線を彼女に注ぐ。
「私にはわかる」
「君なんかが?」
 せせらわらう。なにを気取っているのだ。なにがわかるというのだ。もうあの日から、幼い頃から世界の全てが敵だった。それを暖かい、クラスの人気者であったお前がわかるわけがない。こちらは氷の陰の世界だ。そちらは日の当たる陽の世界だ。ぬくぬくと生きてきた、凍えを知らないお前が……なにがわかる?
「私ならわかる、わかってあげられ――」
「知ったようなことを、言うな!」
 彼女の言葉を掻き消すように、どなり散らす。目の前の人間を拒絶する。
 僕は偽善が嫌いだ。外面だけ理解したフリをする人間が嫌いだ。だから服部のことを嫌った。だが今、目の前にいる人間はそれ以上。外面だけでなく、全て理解しているフリをする。ほんっとうに、こういうやつが、嫌で嫌で仕方がないんだ。
 見るな、触れるな、近付くな。
 本気だった。憎しみも、敵意も、なにもかも。しかし、彼女はあの日と違ってたじろかない。僕の視線を正面から受け止め、一歩近づく。
「くるな」
「イヤ」
 簡素な拒絶に簡素な否定。
 彼女は僕の手を握り――僕は振り払えない。
 自分の動かない体に憎しみを覚え、代わりに言葉で彼女を傷つけようとした。
 『死ね』その呪詛で全てが終わる。 
「私の親も、死にかけたことがあるから」
 だが呟かれた一言は、確かに、僕の何かの動きを止めた。
「な……に」
「君と違ってお母さんの方。だいぶ昔の話でだいたい小学一年生の頃かな。私は小さい頃からやんちゃで、轢かれかけたんだよね。実際には私もお母さんも、なんの傷も追わなかった。でも『あと少し車が来てたら』って。……その時の恐怖を今でも覚えてる」
「……」
 ……そんなもの、どうせ。
「昔の記憶なんて、すっかり色褪せた。でもそれだけは濃い、とても濃い恐怖と怯えの色。自分が死ぬのと、同じぐらいの恐怖。……比べられるようなものじゃないかもしれないね。でも大切な人が死ぬのは怖い。世界で独りになってしまうような感覚は――孤独は怖い」
 握りしめられた手に力が入るのを感じる。彼女の瞳は少し、潤んでいた。
「私のお母さんは死んでない。だから君の気持ちの全てはわからないよ。でも欠片だけ、それだけならわかる」
「そん……なの」
 知ったような、フリを……。
「ごめんね。辛かったよね。君にとって周りは理解をしてくれない敵だった。独りだったから他の人と関わらなかった。その方が楽で、賢明だと思ってたから」
 彼女が僕を抱き締める。僕は弱々しく抵抗するが決して離されることはなかった。
「……僕は」
「私は全部は理解できない。でも欠片だけ、少しだけでいいから君の心を」
 彼女を抱き締める。涙がツーと流れ出る。
 誰にも理解されないと思っていた。

 父の行動は素晴らしかった。

 でも子供にとって違った。そんな派手なことはしなくていい。ただ、背中を見せ続けてくれれば、それだけでよかった。
 それでも彼女は理解してくれた。歩み寄ってくれた。僕の最も触れてほしくないところ、同時に最も触れてほしくなかった片隅。僕は世界にとって異端だった。でもそうじゃないと彼女は証明してくれた。理解は欠片のみでよかった。たったそれだけの量で、それで。
 心が開いた。自分のことがわかった。全部、下らない意地。
 心閉じていないと、無駄に傷つくだけだったから――。
 でも、今なら。今なら僕は、ようやく人間になれるかもしれない。
「ごめん、ごめん……。僕は君を何回も傷つけて」
「いいよ」
 彼女が笑った。涙で目を濡らし、それでも嬉しそうに。
「何だって償うよ」
「もぉー、そんなのいいって。気にしないで」
 空気が戻った。いつもの明るい彼女に、戻った。
 償う。ただの自己満足かもしれない。彼女は気にしないでいいと言った。だが僕は、心に誓う。助けられたから。救ってもらったから。
 ――絶対の厳粛な心への誓いを。
「いつまでこうしてようかな?」
「ん?」
 彼女が笑う。そして主張するように抱き締める力を強めて――僕は慌てて身を離した。
「純情だね」
「うるさい」
 彼女が頭を傾け、僕の肩にもたれかかる。いつもの僕なら拒絶する。だが、そういう気には、少なくとも今は、ならなかった。
「疲れた。少し寝るよ」
「女の子の隣でー? 幸せ者だねー」
 クスクスと笑う彼女。おちょくってくる彼女に少しイラッとさせられる。だがこの関係が心地いい。幸せだ。
 うっすらと意識が、安らかに沈んでいく。
「私も疲れたよ。いろいろと本気だったからさ、寝るね」
「おやすみ」
 そうして僕らは目を閉じた。暖かさを感じつつ、優しいまどろみの中へ。
 寄り添う彼女と僕の姿は、他の人から見たら“人”という文字に見えたかもしれない。

 
 あの後、僕は母との決着をつけなければいけない。そう思った。
 彼女が父のことを聞いた、というのは母以外にあり得ない。昔の僕だったらそんな母に対して怒りを抱いただろう。だが今は違う。たまたま結果がいい方向に動いたというのもある。だが、母は僕のことを思っていてくれていたのだ。いまだに思想は相容れない。それでも、このままではダメだと思った。
 今更大きな行動は起こせない。だから小さなことから、頑張ろう。
 本当に小さな一歩、確かな一歩。
 ある時、黙って済ます、家族の食事の時。
「母さん。いつもごはんありがとう。それと、今まで、いろいろとごめんなさい」
 小さな声で呟き、自分の部屋へと戻った。
 後から母のすすり泣く音が聞こえた。
 次の日の朝は母の表情が晴れやかだった。ポツポツと、少ないながらに会話した。
 家族。
 今ようやく、僕はその意味を真に感じてる。

 クラスでは僕の扱いがだいぶ変わった。どうやら彼女を必死に助けようとしていたことからイメージが良くなったとか。こういう好印象なイメージになったのは理由があるらしい。最初はそうとうイメージが悪かったらしい。彼女につきまとう悪い虫、ぐらいの印象がクラスでは蔓延していたのだ。しかし、それは違うと触れ回った人物がいたそうだ。彼女から聞いた話なのだが、あの服部がやってくれたことらしい。正直静かに過ごしたい僕にとってありがた迷惑ではある。
 そう思っていた。けれど、服部と彼女という二人の人気者のおかげか、僕に対して興味を持つ者が出始め、しばしば話しかけられるようになっていた。僕の反応は「ああ」とか「そうだね」とか、会話をぶち切るような対応を一貫していたのだが、それで大人しい生徒だと思われたのだろう。敵対しない相手なら普通に接すればいい。大抵の人はそう思うものだし、僕もそう思う。……いや、こんなことをいっているが、僕の反応は……かなり柔らかなものになっていた。人の気持ち。それを理解しなかった僕。けれど今は……そうではない、のだと思う。たぶん、ここが原因なのかな、と思う。
 まあ、これらのことは、八割方、服部の手腕によるものだ。
 だが意外と、悪くない。
 そんなこんなで僕は今、嫌われていない。いや、それよりも厄介な状況に追い込まれていると言えるだろう。例えば、これは僕をますます追い詰めるような出来事だった。
「ジャン! 私の彼氏、相川君でーす!」
「……え?」
 クラス中が静かになる。
「え? って言われてもね? ほら、君と私、契約したじゃん」
「え? なにが?」
「私の物になってくれるんでしょ?」
「いや……いろいろおかしい気が……。それと一応否定しておくと記憶にないよ」
「どう皆! これが私の相川君! 面白いでしょ!」
 騒ぎとなる。僕は彼女を引っ張って廊下に連れていく。追ってくるものはいない。
「これだから君という奇想天外頭のおかしいびっくり箱の――」
「お、いつもの呪文の詠唱が始まった」
「ひとの話を聞こうか?」
 こんな感じで、無理やり僕の印象の改善が進められている。結果として、何人かと喋るような仲にはなかった。
 ……思ったほどは、悪くない結果だった。

 ◇

「……服部。僕を助けたの、お前だろ? とりあえず、ありがとう」
 隙を窺って、話しかけてみる。
「お! バレてた⁉」
 ニヘラとわざと気持ち悪く笑う服部。なんでわざわざそんなことするのか……。だがそれも人気者としてのひとつの要素なのだろうか? いまいち、わからない。
「服部」
「お、なんだ?」
「なんでわざわざ僕を助けたのか、聞こうと思って」
「バカだな相川。困ってる人がいたなら助ける、普通だろ?」
「ほんとにそう思ってるの?」
「正義は勝つものだ。だから当然だ」
 僕が疑わしそうな視線を向けると服部は笑った。
「はいはい、いくら俺だって全部正義が勝つなんて思ってねーよ。でも助ける能力があるなら、自分ができることなら、やるんじゃね? こういうことを身の程を正しく知るって言うんだよ」
「へえ。初めて聞いたよ、そんな言葉」
 僕がそう言うと服部は嬉しげな表情をし、白い歯を見せる。
「だろ? たまに俺は言葉の発明家になるんだ」
 服部は嬉しそうだ。しかし、ふとその表情が影に染まる。
「なあ愚痴、いっていいか?」
「どうぞ」
「お前のことが羨ましいよ」
なるほど、と僕は思う。
「でもそんな私情で協力しないのは嫌だから、俺はおまえがどんな奴か知っているから。どんなに吉野さんのことを思ってるか、知っているから」
「……」
「だから、祝福されるべきだと思ったんだ」
 服部の気持ちはわかってる。吉野早枝が好きなのだ。だから今、彼女の隣にいる僕を羨ましく思っている。
――だが、真実を知った時、それでも彼は僕の立場を望むだろうか?
 服部の横顔を凝視する。「なんかついてるか?」という言葉に首を振る。
 きっと、それでも望むだろう。服部(コイツ)はバカだ。どこまでも真っ直ぐで純粋。彼女と似た類いの珍しい人間。今までの行動を見ていればわかる。感情のままに、打算なく行動するバカらしさは――少し、羨ましいかもしれない。
「服部、お前には感謝してる」
僕はそれだけを口にする。
彼には信念があった。きっと、彼女とよく似た、誰かを助けないと死んでしまう特性を持つ、奇特な信念。僕はそれが、嫌いではなかった。
「照れくせーよバカ」
服部が笑った。たしかに辛そうだけども、納得している。そんな感情を僕は彼から読み取った。

 ◇

 土曜日。休日ということで僕は彼女と待ち合わせをしていた。
 遠目から集合場所である噴水場を見つけ、時計を何度も確認する彼女が見えた。
 僕はわざと時間に遅れてきていた。早く来すぎたら「楽しみにしてたでしょー」などと言われると思ったからだ。頭の中でこんな高度な情報戦を勝手に繰り広げている僕はバカなのかもしれない。
 本来、五分おくれで着く予定だったのだが、いろいろあって十分の遅刻だ。
「あー、来たー! もう! 来ないかと思ったんですけど~!」
「楽しみで眠れなかったんだ」
「うわっ、うそつきの顔だ」
「まあ、普通に遅刻した。ごめん」
「もうっ! しっかりしてよね! 私の時間は有限なんだから!」
「わかってるよ。時間にルーズでごめんね」
 有限。その台詞が頭の中で反響するも、次の瞬間には彼女の動作によって掻き消された。
 腕に熱が籠り、彼女が頭を擦り付けてくる。振り払うことはせず、僕は言う。
「歩きにくい、離れて」
「もーう、照れちゃって~」
 そうは言われはしたが僕の顔は無表情だ。いつもの何やってんだコイツ、の顔。実際の心中はそうではないのだが、感情の乱れを悟られたら負け、なかば本能が僕の態度を決め付けた。
「はいはい。で、どうするの?」
「んー、どうしたい?」
「どうとでも?」
「じゃあ褒めて」
「何を?」
「……もうっ!」
 突然彼女が僕の脛を蹴りつけた。粗野で暴力を振るう彼女はきっと女の子らしさを出す養分が足りていないのだろう。
「はいはい、かわいいよ」
 プイッ、と背後を向ける彼女に呟くように言った。そして彼女は振り返る。
「なにか言った?」
「……なにも」
「そう」
 お互いに装うのはなんともない、という雰囲気。しかし、彼女の機嫌は良くなったようだった。
「私のこのスカートとか可愛くない?」
 彼女はそのスカートを両端でつまみ、お辞儀。僕としてはまず今後の行動をどうするのか決めて欲しいのだが、山の天気のようにすぐに機嫌を変える彼女にそんなことを言っても無駄だろう。
 ひとまず無難なことを言っておく。山の天気を怒らせたら今後の予定が遭難する。
「いいんじゃない?」
「でしょー。女子力高いでしょー」
 適当な一言にも気をよくしてくれたようで何よりだ。
 ……まあ、いつもの彼女なのだろう。
「あのさ」と彼女は言う。
「あのさ……私が倒れた時のこと、本当に、感謝してる。ありがと」
「え? なんだって?」
「もうっ」
 彼女は楽しげに笑う。今更、気にすることじゃない。君の気持は、届いているから。
「いや、正面からじゃ恥ずかしくてね。君、命の恩人じゃん? で、その埋め合わせ、何が欲しい?」
「自由」
「広々とした空間に行きたいのかー」
「なんでもいいよ」
「ねーねー、もっと体とかそこら辺のこと期待してたんだけど」
「ドンマイ」
「うん……頑張るよ私」
「ああ、今までの全部冗談だから気にしなくていいよ」
「むぅ、そう。とりあえず、仕方ないから予定決めよっかー」
 僕の言葉もまた、彼女の気を晴らしたようだった。テンションをおよそ360度を二回転した彼女は再びうるさいテンションに戻り、宣言する。
「はいやー!」
 そう言って出てきたのは何かが詰め込まれたバインダーだ。
「デレテレッテレーン♪ 旅行のパンフレット~!」
 バインダーの中には大量の旅行パンフレットが入っていた。そのためバインダーはとても分厚く、重そうだ。
「この私の計画力を見て天才って呼んでもいいよ」
「バカの天才」
「素直じゃないなあ!」
「とりあえず、僕が行きたいところは特になし。近場ならどこでもいいから」
「あ、もう神社行くって私決めてるから」
 じゃあ今までのやり取りは何だったのだろう?
 そう思うが、彼女のことを考える。彼女は、死ぬ。僕は神を信じない。だが彼女は信じているのかもしれない。だから彼女は神頼みでも何でもしたい状況。だからすがり付く、奇跡を信じる。長い間病気と戦い続けた彼女だ。今更そんなものを信じているわけではないだろう。だが、彼女の気持ちが少しでも楽になるのなら……。
「了解、文句を言いたいところだけど我慢してあげよう」
 彼女の指差した神社は遠い。だから僕は近場が良かったのだが。
「あ、ちゃんと楽しいデートコースも組み込んでおいたよ!」
 もっと違う場所で気を利かせて欲しい。

 バスで三時間。歩いてさらに三十分。この長い旅の時間を僕は読書、彼女は携帯ゲームらしきものをして過ごしていた。僕がなんだろう、と思って覗き込むと彼女は嬉しそうにそのゲームの良さを語った。そうして神社までやって来た。有名どころなようで、今は初詣と言うわけではないのに人がぼちぼちといる。だが、さすがにこの季節のため、人口密度は少なく、空間には風が通る。
 今は秋。穏やかな天気は暖かく、彼女は上着類を持ってきていない。反対に用心深い僕は上着を持ってきていた。少し暑い。
「あなたは神を信じますか?」
 鳥居の前、通りすぎる前の前座というわけか、彼女がいきなりそのようなことを言い出す。胡散臭い宗教団体が使いそうな言葉に、きっぱりと答えた。
「信じません」
「なら! ここから先は通さない!」
 立ちふさがり、両手を広げて威圧行為。
 彼女はラスボス臭のあるオーラを放っている。
 僕は素通りして中に入った。
「まって~~」
 僕が早足だったため、彼女は走って僕に追い付いてきた。僕は胡散臭いものを見る目で彼女を見る。
「神様信じてないのに来たの?」
「僕が来たいと言ったわけじゃないんだけど」
「じゃあ、あそこの神聖そうなでかい木蹴れる?」
「僕は暴力反対の平和主義者なんだ。例え無生物の自然にだろうと、愛情を注ぐことが正しいと思ってる」
「ホトケかよ」
 そんな彼女は鳥居を軽く足でつついた。なんて罰当たりなんだ。
「君は神様を信じてないの?」
「神様? うーん、微妙。ビミョーだね。だって私この若さで死ぬし」
 苦笑する彼女。たまに出る死ぬ死ぬジョーク。彼女の死を恐れる気持ちに、打ち勝とうとするためにわざと前面に押し出す抵抗的行動。彼女は基本的に自身の死に触れられたがらない。だが僕に対してだけ、話すのだ。僕は決して動じないから。
「じゃあなんでわざわざこんなところに?」
「意味は、ないかもね。強いていうならただの足掻き? 無意味なことなのかもしれないけど、どうせならやれること全部やっときたいてきな? まあ、そんな感じ。ここにいる大神なら奇跡は起こせるかもしれないじゃん」
 そうやってわざと死の話をしてくる彼女には、答えるときには現実を言わなければならない。きっと僕にこんなことを話しているということは、たぶん僕がなんと答える人間か知っているから。
 奇跡を信じていないのは、僕よりも彼女かもしれない。
「そういう大神っていうのは基本的に願いを抱えすぎるものだ。だから君の重い願いよりも軽い願いをたくさん叶えて信仰を集めると思うよ。だからどうせならマイナーな悪魔に願った方が意味はあるかもしれない」
「神様なんて信じてないんじゃないの?」
「もしあったらの仮定の話だよ。いずれにせよ奇跡は存在しない」
「ふーん、そういうものかな」
「そういうものだよ」
「つまんない世界だねー」
 それでも彼女は元気に笑顔を見せる。死を恐れる心というのは永遠になくならないだろう。戦い続けても慣れることはない、痛みと一緒だ。そして僕もまた、佐藤に殺されかけたとき、それ以来彼女の心情が深くわかる。心の奥に踏み込みそうになる。
 ギリッ、と奥歯を噛み締める。
 自分の能力のなさを憎む。僕が彼女に与えているものはゼロではない。だが百与えられないことが、悔しかった。
 僕ができることは小さなことでしかない。彼女は死ぬ。やれることは、できる限り、彼女の進みたい道を支えるだけ。
 そう――それだけしかない。
「よーし。おみくじやろっか、どっちがいい運勢か勝負ね」
 僕が思考に没頭していると、勝負事が好きな性分がまた再発したようで、彼女は突然そう言った。僕は頷いて承諾し、神社の人がいる場所まで歩く。
 そこで百円払っておみくじを振る。彼女は念入りにおみくじを振り、僕はさっさと事を終えていた。僕の番号は七百七だ。
 まるでクジの景品を渡されるかのように、神社の人は笑顔で番号に掛かれた結果に通じる紙を渡し、僕の隣の彼女にも渡した。
「せーの、だよ?」
 早速結果を見ようとした僕を止め、彼女は手元の閉じた紙を僕の方に向ける。
 僕は適当な返事をし、声がかかるのを待った。
「せーっの!」
 同時に紙を開く。
 その結果は僕が大吉、彼女は凶だ。
 彼女は騒がしくなり、つまらない勝利なのに、少し嬉しくなった。どうやら彼女の趣味の勝負事には、僕をなんとなく勝負に熱中させる効果があるらしい。ボーリングの時も、金魚すくいの時もそうだった。
「くはははははははっ!」
 突然した奇笑に僕はびっくりして顔をあげた。見れば彼女が腹を抱えて爆笑しており、紙をヒラヒラと振っていた。
「なんなの」
「あー、ひー、面白かった。いやー、おみくじの結果がね、あまりにもアレで」
「アレで?」
 破顔する彼女に先を促す。
「今年は厄年なんだって。今ある苦難からは逃れられない、諦めろって、アハハハハハハハハハハハハ」
 彼女は最高のジョークでも聞いたように大笑いした。
 僕は自分のおみくじの願いの欄を見る。
「君はさ、神様信じないって言ってたけど案外当たってるじゃん。こりゃほんとにいるのかもしれないよ? 神様」
「……どうだろうね」
 急に神様を信じる方向にシフトし始める彼女。だが僕はそう思わなかった。
 僕のおみくじには願いは叶うと書かれていた。ならば僕が彼女の生存を望んだらどうなるのだろう?
 結果は矛盾し、どちらかが間違っていることになる。
 ――結局、神様など存在しないのだ。

 目を閉じる。

「次はお賽銭だね。それで神社ですることは終わり。さあ、頑張ろ!」
 彼女が指差した先は長い階段。彼女の喋る側から嫌そうな顔をする僕を激励。
 仕方なく、長い階段を上りきり、荒くなった息を整えて、お賽銭を投げる場にたどり着く。彼女は財布から小銭を取り出し、その中の一円玉を僕に寄越し、ウインクする。
 僕は黙って一円玉をポケットに入れ、「盗んだー!」と言ってくる彼女に呆れたように首を振った。フッ、と軽く笑ってしまう。
「私、願い事は君の笑顔を見れることにしとこうかな」
「折角ここまで来たのにそんなものでいいの?」
「勿体ないからさっきみたいに優しく笑ってよ」
「嫌だ」
 結局、彼女は違う願い事を選ぶようで、五円玉を投げて黙礼した。
 短い時間でそれは済み、終わったあと僕に向き直る。
「どうせだから君もなんかお願いしたら?」
「僕は神様を信じてないからね。そんな奴の願いを聞くわけないでしょ?」
「まあ、いい体験だと思ってやってみよーよ」
 まあ、わざわざ反抗する必要もない。というか、どちらでもいい。
 僕はやれやれと首を振り、一円玉を投げた。
 そして手を合わせ、祈る。
 僕は神を信じない。
 彼女のことを思う。
 だがもし奇跡を起こせるなら、僕は絶対の服従を誓ってもいい。例えこの魂を捧げようとも――すぐにこんな発想が出る僕は、悪魔と取引をした方が性に合っているのかもしれない。

 そうして僕は一つだけ願い事をした。
 気づけば、長い間祈ってしまっていた。
 この祈りが届くと、本気で信じたわけじゃない、けれど……。

 彼女の「行こー!」という声に、僕はあとに続く。そして振り返って神の台座を見て、手に握った十円玉を投げ入れた。

 神社から出たあと、近くの喫茶店で休憩した。そして僕はまた自分の愚かさに気づかされることになる。
「……」
 回りにいるのは多数のカップルだ。向かい合い座っている彼女はニコニコと笑い、楽しそうだが僕はそうじゃない。だがつまらなそうな顔をするわけにはいかないので思考放棄をし、無表情になっておいた。彼女は、本当に美味しそうにパフェを食べる。甘いものが大好きなようで、至福の時間、という顔でうっとりしている。
 僕は基本的に味が薄いものが好きなので、スープをずっと啜っていた。いや本心を偽っても仕方ない、本当は食欲がわかなかったのだ。こんなカップルだらけの場では。
 こんな周りがラブめいた雰囲気で、目の前には満面の笑みの彼女。すごく虚しい気分になってくる。
「そんなに見つめちゃって~。そんなに欲しいの、これ?」
「他に見るものがないんだよ」
「食べる?」
「人の話聞いてる?」
 彼女はペロリとパフェを平らげ、追加で豪華そうなプリンとその周りにたっぷりとクリームが乗ったものを注文した。僕はスープをお代わりした。なんなんだろうな……この状況。飲みすぎで太っているわけではないのにお腹を叩くとタプタプと音がする。もう食べれな……じゃなくて飲めない。
「これ食べ終わったら会計にするから待っててね」
 僕の悲しげな感情を感じとったのだろう。彼女は宣言し、プリンが届くなりがっつき始めた。僕は水を飲んだ。
 途中、彼女がスプーンを舐め始める。その念入りな舐めに僕は少し引いた。
 僕がボーッと彼女を見ていると彼女がクスリと笑った。
「ア~ン」
 猫撫で声でスプーンを僕の口元に持ってくる彼女に背筋がゾワッとする。
 僕は断固拒否の態勢を取るため、きっぱり口を閉じたが、無理矢理入れようとグリグリと口にスプーンを押し付ける。痛い。
「いらないのー?」
 陽気な彼女に僕は疲れた声で抗議をあげた。
「もっと周りを見習いなよ」
「ん、見習らってるよ」
 僕は右の静かなカップルを見てそう言ったのだ。なのに彼女は過度にイチャついている左のカップルを見ていた。
「皆キスしてるじゃん」
「うん……まあそうだけど」
「したい?」
 彼女が僕に舌を見せる。小悪魔のように見せびらかすその舌にはクリームが付いていた。さらにその表情には固い決心が刻まれており……。
「キスの味はきっと甘いよ?」
 机の下で彼女の手が僕の手を握った。
「しよ?」
 彼女の顔が迫ってくる。突然の事に心臓の心拍数が上がり、なにがなんだかわからなくなる。だから咄嗟に顔をそらした。
「いい、僕なんかと、しない方がいい」
 それは劣情と、他のなにかが入り雑じった感情で、本能によって導かれた正しい答えだった。僕にとって、彼女は大切な人であり、救世主のような存在。心の借りがあった。だから僕はそれを返すために行動する。そう、誓いを立てたから。
 だが、だからこそだろうか。僕は自分の言ったことを、後悔した。僕の拒絶に、彼女の顔が悲しみ一色に染まる。それはとても深く、彼女が初めて見せた顔。
 心が揺れた。悲惨な結果を望まなかった。
 衝動的に手を伸ばし、僕は彼女を求めて、

 互いの唇が重なる。

 彼女の言っていた通り、甘い味がした。
「あっ」
 彼女が驚きの声をあげ、僕は引きそうになるが、今度は彼女の方が手を伸ばし、僕を離さなかった。そうやって十秒ぐらいたっただろうか。ゆっくり離れ、互いの目が合う。僕は無表情を保とうとするが、無理だった。感情が熱くなり、自分でもどうしようもなくなって声をあげる。
「あーーー、もうくそーー、あーーー」
 勢いでやってしまった。押し寄せるのは初めての感情で、理解不能。彼女が傷ついてしまったから、それで咄嗟に体が動いてしまった。
 机に突っ伏した顔を少し上げ彼女を見る。
「えへへ、ありがと」
 彼女の頬はほんのりと赤かった。
「なんでありがと?」
「だって、私の気持ちに答えてくれたわけでしょ? それが嬉しくて」
 彼女が柔らかく微笑む。だが僕はどぎまきしながらも必死に異議を唱えた。
「それならありがとう、じゃないね。だって君は僕の思いにもこたえたことになるんだから、おあいこだ」
「いーのかな?そんなこと言って」
「……?」
「君、それ告白と一緒だよ?」
「……そんなことはない」
「初めて見たよ君のツンデレのデレのとこ」
「うる……さいな」
「違うの?」
 問い詰めてくる彼女。僕は悔しくて頭を抱える。
「僕は君が好きだよ」
 そう言った。
 僕は彼女に思いを告げれば、元の余裕が戻ってくるのを感じていた。
「……へ?」
「……」
「……」
「……」
「もう一回、言って?」
 だから余裕をもってこう答える。
「嫌だね」
「言って言って言って言ってーー!」
 彼女が駄々をこねる子供のようにしつこく言う。
 だから僕は、
「僕はさっきの言葉を本気で言った。だから二度目は陳腐になる。だから嫌だ」
 そう言い放った。
「悔しいけど素敵、かも」
 彼女は照れたように、いや、照れながら頭を掻く。そして全てを忘れるようにプリンを食べ始めた。
 僕はそれを眺める。そして確認させられた自分の感情に静かに動揺していた。
 だが……これでいい。これがいい。もう腹を決めよう。救われた恩とか、もうすぐ死ぬ女の子には少しぐらいは優しくしてあげようとか、そういう理由は抜きでいい。保つのは体面だけ、だが自分の心まで偽る必要はない。

 僕は、生きる方針を変える必要があった。

「ふう、甘かった。さて行こっか!」
 彼女が元気よく立ち上がる。僕らは会計を済ませ、バス停へと歩いた。その途中、彼女が何度か咳き込む。ハンカチを口に当て、じわりと血が滲んでおり――。
「あ、これ? ちょっと舌噛んじゃって」
 彼女の笑みはぎこちない。なぜなら彼女は死を悟られたがらないから。僕がそばにいられるのは、このことが大きく関係しているから。動揺する。心には嘘はつかない。僕は彼女のことを心配している。そんな心情を素直に理解しながらも僕は、余裕を見せつけた。
「舌噛みちぎったらリアルに死ぬよ」
「噛みちぎってはない! アレだよ。ちょっとさっきのキスに興奮して血が出ちゃったんだよ。漫画で出てくる鼻血ブシャーみたいな」
「はいはい」
 これは演技だ。僕は彼女の死に動揺しない、そんな人間。
 僕は自分の正しい心に気づいた今、新たな選択を迫られていた。自己中心的に生き、彼女の心情をほとんど考えない、今までのように生きるか、彼女の幸せを補助する杖となるか。当然、僕が選んだのは後者だった。
 僕は小さな支え。彼女の死へと向かう道に携わる長い杖。僕は彼女の願いに答える。生きたい、という願いには答えられないけれど、――死と向き合う意思、日常を望む死から離れた生活――せめて、それらには。
 彼女は僕を求めた。だから僕は変化を、時を止めていよう。彼女の望んだ僕という人間へと、自分を固定する。僕は彼女が死の気配を見せようと、平然としなければならない。それを彼女はきっと望んでいるから、僕は……。
 仮面を被り、外の自分を偽る。
 笑えることだが、僕は友達などいたことがないので、自分以外を優先して生きる経験は、初めてかもしれない。
 彼女は僕に、助けてくれ、とは言わなかった。歩みは無理矢理いつもの速度を出しているように見えるし、証拠にペチャクチャな口は動かない。だから静かに隣に佇む。最悪を予期し、備える。彼女が僕を望んだ理由は僕が身近な人の死を恐れなかったから。それがなくなれば、どうなるのだろう? 彼女の症状に僕が一喜一憂したらどう思うだろうか?
 僕はその時、隣にいる価値がない。僕はあくまで彼女に日常が与えられる人間として、価値があるからだ。

 ずっと彼女のそばで支えてあげたい。
 生きてほしい。

 僕が望むことはこの二つだった。しかし、この二つを同時に達成するのは難しいことだ。僕はこんなにも彼女の体について心配しているのにその素振りを見せてはならない。なぜなら僕は彼女の隣で支えたいから、価値があるままでいたいから。
 彼女の死を見れば身がすくむほどに怖い。でも離れたくない。
 孤独は嫌だ。だから僕は自分を偽り、剥がれることのない仮面を被る。表面のみの無感情、無表情、外面だけ取り繕ういつも通りという名の嘘の姿を気取る。

 僕は彼女に話しかけない。元々僕は自分から話しかけるタイプではない。だから不自然ではないはずだ。
 そうして歩き続け、バス停に着き、バスが来る。
 彼女はバスを待っている間、動かなかったお陰か、だいぶ体調は元に戻ったようだ。顔色に血色が戻り始め、元気テンションのエンジンがかかる前兆をいくつか見つける。
 そんな感じで、彼女と長い間過ごしていると、些細なこともだんだんとわかるようになっていた。
「今日のデート楽しかったぁー。もう死んでもいいね!」
「生きてー頑張ってー」
「デートエンドでデッドエンド」
「はいはい」
「ふぅー、なんか疲れたねー」
「うん、疲れたね」
 素直に頷く。
 僕は僕で生きる方針を決めていた。最善を考え、遂に答えを出していた。だから、疲れたのかもしれない。
 まぶたが重く、どっと疲労感を感じる。
 バスには三時間も乗るのだ。少し、眠ろう。

 次に目を開ければ、回りの風景は真っ暗だった。今は秋だから六時ぐらいからは外は真っ暗になるだろう。
 そうして時間を確認してみれば九時。
 ……あれ?
 その時、アナウンスが流れた。
《次は~~。~~。~~。》
 聞き覚えのない地名。僕は焦って隣の彼女を揺らす。
「スヤァ……」
「起きてるなら起きてよ」
「ふにゃ? ん、あ、ふぁーい」
「寝ぼけてないで、ここどこ!」
「ん? あー、わかんね」
 彼女は次の停留所を見て薄ら笑いした。
 不味い。冗談抜きで現在地がわかってないパターンだ。
「とりあえず降りよう」
「おう、イエース」
 なんでこんなに余裕なのだろうか。
 実は今は抱えている問題は大したことないんじゃいかと思いたくなるが、それは現実逃避だ。だって彼女はいつもこんな感じなわけだし。
 大抵、焦って起こした行動はいい方向にいかない。いや、いいときもあるのだ。だが失敗すれば奈落のように、何処までも悪い方向に落ちていけるということを、僕は気づいていなかった。
 バスを降りた。慌てていたため、バスの運転手がなんらかの解決手段の糸口を握っているかもしれない可能性を忘れ、そんな風に。
 ここは山の中だった。辺りは暗く、お化けが出るなら絶好のチャンスだろう。
 森がざわざわと薄暗く揺れる。僕は恐怖を感じなかったが、彼女は違ったようだった。
「あ、相川君、や、やばくない?」
 恐る恐る僕にしがみつく彼女は、普段の『君』と言う呼び方が僕の名字に変わっていた。腕にかかる力は強めで、本気で怖がっているのがわかる。……お化けというのがいるなら、彼女は、死んだら……。
 ………………。
「ほんとにどうしようね?」
「帰れるの? 私たち?」
「どうだろうね」
 周りを見渡すが解決策は見えない。便りの綱のバス停も、今のが最終バスだったようで、電話も繋がらず、望みは断たれた。
 一先ず彼女と話し合い、バスが行ってしまった方の逆の方向へと歩くことになった。
 僕らの町からどれほどの距離があるのかわからない。彼女が途中で体調を崩したら……どうすれば。
 そんな風に僕は彼女の死の可能性までも考えているのだが、肝心の彼女自身は余裕を見せていた。
「なんか怖かったけどだんだん慣れてきたかも」
「それは良かったよ。引っ付かれたら歩けないし」
「またまた照れちゃって~。あっ、そういえば君の寝顔見てたんだけどいい顔するね~。君の笑顔の次に気に入っちゃったわ」
「……」
 もう殺した方がいいかもしれない。
「くしゅんっ」
 そんなことを思っていると突然、隣で彼女がくしゃみをした。
 寒いのだろう。今日は暖かかったが今は夜。薄着の彼女は冷えるに違いない。
 少し葛藤するも、僕は自分の上着を脱ぎ、華奢な彼女に掛けた。
「あ、大丈夫だよ。別にそんな」
「僕は痛みを耐えれるって言ったでしょ? だから寒さだって耐えれる。気にしなくていい」
 寒さに震える声を抑え、震えそうになる体に力を込める。
 本当は寒さは苦手だ。熱さなら意思次第でなんとかなるが、寒さはそうはいかない。殻を閉じても突き刺すようにして冷気は入ってくる。じわじわと体を侵食するような暑さと違って。
「優しいね」
「別に……死なれたら困るから」
 そう言い放った一言は照れ隠しであり、
 ――本音でもあった。
「えへへ」
 彼女が微笑む。
 決断の価値はあったな、と密かな満足感。彼女が僕の上着に袖を通し、匂いを嗅ぎ、オエッ、と言った。
 …………こいつ。
 そうやって僕らは歩き続けていたが、寒い。
 とにかく寒い。時間がたつにつれて、寒さが厳しくなってくる。だが寒さを耐えきれると言った手前、見栄を張った。
 大したことない。寒さなんて平気だ。
 そんな外面を取り繕うも、体は正直なようで震えが走る。生物として押し寄せる、体の反応には逆らえず、僕の手は小さく震え続ける。
「寒そうだけど、大丈夫?」
「暗い夜道が怖くて怖くて仕方がないんだ」
 心配気な彼女に僕は冗談で返す。その声すらも寒さで震え、僕がいかに寒さに弱いかを示してしまっていた。
「これ、返すよ……」
「いや、いい。持っておいて」
 それでも彼女は僕の上着を脱ごうとし、僕はそれを止める。
「これは僕の意思の問題だ。僕をバカにしてるんじゃないなら着ておいて」
「でも……」
 俯く彼女は驚くほどに声が小さい。でも、僕は自分の意思を貫き通した。その時、突然彼女が立ち止まる。怪訝に思い、振り返ろうとしてみれば、背中に重みが加わる。
「ありがと、ね」
 彼女の吐息が首にかかる。首の後ろだけが暖かく、背筋がぞくぞくしてくる。
「ちょっ」
「大好き」
 彼女が目を瞑って僕を優しく抱き締める。僕は、振り払えない。
「歩けないよ」
「ん、わかってる。もうちょっとこうさせて」
 胸が熱い。外はこんなにも冷気で満ち溢れているのに、体の内と、彼女と接している部分だけは熱を持つ。
 僕が恋愛感情と名付けたそれはひどく恥ずかしい感情を僕に与えてしまうようだった。
「そろそろ」
「うん!もう大丈夫!」
 彼女が離れ、名残惜しく思ってしまう自分がなんとなく悔しい。
「手、繋ごっか!」
「……そうだね」
 そんな感情は、まるで見透かされたようで、次の瞬間には彼女の声がかかっていた。
 僕が返答する頃には既にガッシリと手は繋がれ、外せなくなっている。そこから僕は暖かさを感じた。

 また、そうやって歩き続けた。もう一時間ほども経っている。
 いかに彼女の熱があったとしても、冷気は衰えることなく僕を刺し、貫き続ける。
 自分で自分を騙した。自己暗示を掛けて彼女の熱を思い出した。歯の根は合わず、こちらを見てくる彼女に首を振る。
 弱音は決して吐かなかった。僕という人間のちっぽけなプライド。これだけの要因なら決して耐えきることはできなかっただろう。
 だが、僕にはこの先にある誓いがあったから。彼女を愛しく思うようになったから、
 昔とは違い、彼女の死を恐れてしまう。それに対して無反応の演技をしなければならない僕は。
 ――こんなところで挫けるわけにはいかない。
 ボツボツと明かりが見えてきた。町の明かりだ。さらに、それは見覚えのある町で、僕らが生まれ育った町そのものに間違いなかった。
 そうして人のあるところへと辿り着き、安心感を覚える。
「ねえ、聞いて! この道私見たことある、帰れるよー!」
 彼女が興奮し、飛び跳ねる。別に公共機関を辿っていけばもう家まで辿り着くのでそこまで喜ばなくてもいいと思う。
「褒めて褒めて!」
 寒さに耐えきったこっちを褒めてほしいのだが……。
 いや、愚痴は言うまい。僕は他人であろうと喜んでいる人を見て悪感情を持つ人間ではない。だからまあ、よかったということにしておこう。
 そうしていつもの分かれ道に着いた。
「じゃあ、そろそろ上着返して」
「えー、やだー」
「は?」
「やだ怖ーい」
 僕の威圧に彼女がケラケラと笑う。
 結局、ひらひらと逃げ回ったあとに投げて寄越された。人から借りたものは大事にしなさいと教わらなかったのだろうか。
「ねえねえ、私の家行かない?」
「こんな夜遅くには行かない」
 もう十時半だ。
「いーの!私が許すから」
 そう言って僕の腕を引っ張る。
「無理無理」
「じゃー、仕方ないねー。コインで決めようか。表、裏?」
 これで負けようと、こんな夜遅くに彼女の家に行くつもりはない。だが勝てば彼女は静かになるだろう。そう思い、僕は自分の気分を答える。
「表」
 チィーンと高い金属音。
 彼女の手の甲に収まるようにしてコインは吸い込まれ、静かにその手がどかされた。
 裏、だった。
「はい、私の勝ちぃー!」
 嬉しげに彼女は僕の腕を掴み、言う。
「もう逃げられないよ! 私と一緒に遊ぶのだ!」
 ハイテンションな彼女。対して僕は疲れていた。今日はいろいろあった。もうなにも考えたくない。めんどくさくて適当に答える。
「わかったわかった行くから離して」
「言質は取ったよ!」
 彼女が目を輝かせる。
 僕は適当に返事をして、手を振って帰ろうとした。
「ちょっとぉ! 来るんじゃないの⁉」
「ん、へ?」
 思わずマヌケな声が出る。
 自分が過去に言った言葉が頭のなかに反芻するが、……あれ?
「ミスった。さっき言ったのなし」
「もう遅いでーす!」
 彼女は満面の笑みだ。そして更に強引に腕を引く。
 もう、なんだかめんどくさくなってしまった。それに、約束を破りたくない。
 そんな思いが浮かぶも、否定する。これはただの言い訳、建前。面子を保つための理由。僕は、できる限り彼女と長くいたい。もう、時間が余りない彼女と。
 そうして、心の中で言い訳をしながら。また、自分の心を正しく見つめながら、僕は彼女に引きずられていった。

 彼女の家は広かった。外見が立派なだけあって、内面も立派というわけだ。さすが、と言うべきか。こういうのを見るとすっかり忘れ去られた、彼女のお嬢様、という設定を思い出す。そう、彼女はお嬢様なのだ。
「わーい、ヒャッホーイ」
 例え子供のようにベットで飛び跳ねていても、だ。
 ああ、きっと彼女の両親も嘆いているだろう。ついでに僕も嘆いておくことにする。
「アッハハハハハ、自分の部屋に男の子がいると興奮するぅー!」
「やめなよ、はしたない」
 かける言葉がなかったので何処かのシーンで言われそうな台詞を言っておいた。彼女が本物のお嬢様なら本来、よく言われそうな台詞だ。
 そんなことを思い、ベットを見やる。彼女が何回も飛び跳ねるだけあって柔らかそうなベットだ。試しに ベットをバスバスと殴り付けてみる。
「私のベットちゃんをいじめないでー」
「これ無生物だよ?」
 僕は当然ながら女の子の部屋に入ったことはない。友達がいなかったのだから男の部屋すらない。だから他人の部屋というのは純粋に興味を引かれたが、思ったよりも僕のと違うわけではなさそうだった。全面ピンクというわけでもないし、ピンクのぬいぐるみらしきものこそいくつかあるものの、その他は漫画やゲーム、遊び道具がちらほらあるぐらいだ。
 そして、部屋はよく整頓されていた。
 武士はいつ死ぬかもわからない。だから自分の部屋は常に綺麗にしていたという。
 立つ鳥跡を濁さず。そう言われ、自分の去る世界は綺麗しておく、といった感じに。
 僕は彼女の部屋を見たとき、そんなことを連想させられた。
「あ、お風呂入る?」
「シャワーだけ、お願いするよ」
 本来なら人様の風呂など遠慮したい。だが今日は歩き回ったため、汗をかいていた。今は乾いてはいるが、今日は入っておきたい。
 彼女の部屋は上の階にあったため、下の階にある風呂場へ案内してもらう。タオルなどの各種説明を受け、風呂場へ入った。
 念のために鍵を閉めておく。その判断は正しかったと、少しすれば証明された。
 シャワーを気持ちよく浴びていると扉からガチャガチャと扉を開けようとしている音が聞こえた。
「なんで鍵閉めてんの⁉ 女子か!」
「女子である君に言われると僕も心に響くよ。ところで何の用?」
「なんだと思う?」
「突然予想不能奇抜行動をしてくる君の心情を考えられる能力は僕にはないんだ、ごめんね」
「誰にも予想できない行動をするとサッカーで強いってお母さんが言ってた」
「よかったね」
「言うの忘れてたけど着替えどうするのー?」
「もう一回同じの着るよ」
「キタネッ!」
「仕方ないでしょ」
「まーそうだね。お父さんの汚いパンツいる? 貸そうか?」
「なんか嫌だ」
 ナチョラルに汚いと罵倒される吉野早枝の父に同情を覚える。あの人、いい人そうなのにな……。僕は男性側に座る人間として、静かに黙祷を捧げた。
「とりあえずでてけ」
「え? イヤーン、私が覗き何てすると思った? あたしゃそんな無粋な女じゃないよ!」
 なんのキャラだ。そう返そうとしたのだが、既に彼女は消えていた。
 そしてシャワーを終え、彼女の部屋に戻る。途中、誰とも出くわさなかった。当然だ。この家は今は僕と彼女しかおらず、親は仕事らしい。父は大抵の場合、家にいないことは当然のことなのだが、母までいないのはかなり珍しいことだとか。特に母がいないことについては自分の病気以来、かなり珍しくなったと彼女は意味ありげに語っていた。
「上がった? じゃあ次私入ってくるねー」
 部屋に辿り着くと彼女が僕を歓迎した。そしてすぐに出ていく。
「あ、覗いたりしないでね?」
「しないよ、僕は紳士だから」
「前は紳士じゃないねっていってたら肯定してたくせに」
 よくそんな昔のことを覚えているものだ。
「……僕の行動理念はその時その時によってかわる、いわば臨機応変なんだよ」
「それ理念ないだけじゃん!」
 ツッコミが入りながら、パタン、と扉が閉まった。
 やることがないからテレビでも見るか。
 無論、彼女がやったように僕も風呂場への突撃をやり返すという手も、あるにはある。だが僕は平和主義かつ紳士なのでそんなことはしなかった。
 テレビをつければ特番がやっていた。医者についてのもので、彼女が病気なのを知っている僕としては興味を引かれた。
「ん?」
 その中に知った顔が写る。僕はその人物を覚えていた。吉野早枝の専属医だ。
 吉野早枝の専属医はいくつかの質問を受け、答えていた。テレビは彼のことを天才と呼び、奇跡の医者と評す。証拠とばかりに彼と一緒に手術をしたことがある者、他の名医、救われた者、などが褒め称え、僕はそれに希望を抱いてしまう。
 これだけの医者なら、彼女を治してくれるのではないか?彼女は寿命が伸びたと言っていた。それは間違いなくこの医者のお陰だ。なら……寿命の延長をできるくらいなら治すことだって……。
『最近、ある女の子を助けようとしてるんです』
 意識が戻る。テレビに釘付けになる。
『先生ならきっと救えますよ』
『ハハハ……今回ばかりは、難しいんですよ。現実迫観念症は患者が死のイメージを持っている限り、完治することがないんです。思考を奪えば一時的な延命ができるんですが、それはあまり人間にやっていいことではないんです。私にこの病気は治せない』
 苦笑が見えた。「治せない」なんていうのはただの謙遜だと信じたかった。失敗への予防線を張っているだけだと思いたかった。神への祈りは届くと、信じたかった。

 こちらに上がってくる足跡。テレビを消した。
 部屋に入ってきたのは当然ながら吉野早枝で、両手にはグラス、飲み物を持ってきていた。中身は炭酸飲料で、シュワシュワと泡が見える。
「お待たせ! 喉乾いたと思ってね!」
 少し大きすぎる声。よほどシャワーが気持ちよかったのだろうか、彼女からは元気が溢れすぎている。
「ああ……ありがとう」
 立ったまま差し出してくる彼女に、僕は飲み物を受けとる。彼女はグラスを口に運び、むせた。僕も喉を潤そうとする。
「……なにこれ?」
「さあ?なんでしょう?」
 彼女は飲み物を一気に飲みきった。危なっかしい足取りで僕の背後に回り、首に腕を絡める。
「これ……お酒?」
「ピンポーン。だーいせーいかーい」
 その時、引っ張られて突然態勢を崩される。
 着陸したのは、柔らかい感触からベットの上だとわかり、突然の行動に抗議をあげようとした。
「大好き」
 喉がつまったかのように一瞬声が出せなくなる。彼女が僕の上に乗り、こちらから彼女を見上げる形となった。
 ……押し倒された?
 彼女が僕の胸に頭を乗せ、恥じらうように少し笑った。
 突然服を脱ぎ出し、
「なにしてんの」
 僕が、止めた。
「え、何って?」
 彼女はニコニコと、表情を崩さない。
「誘惑だけど」
「……」
 僕が押し倒されたとき、こぼれた液体。そこからはアルコール臭がし、なぜ受け取ったときに気づかなかったのかというほどの臭いだ。彼女は酔っている。
「もしかして嫌?」
「……僕は」
「なぁに?」
 迷いが生まれ、力が緩む。その隙に彼女は服を脱ぎ、ブラジャーが見えた。
 目を逸らす。彼女の誘惑から。
「なんでこんなことを?」
「好きだから」
 彼女が僕を抱き締める。否応なしに胸が押し付けられ、こちらの心臓が高鳴る。
 だが、
「やめときなよ」
「やぁーだよ」
「やめろ」
 彼女が子供のように戸惑いの表情を浮かべる。だが僕はその奥にあるものさえも、うっすらと見えていた。だから僕は言う。
「…………つもりだったの?」
「なに?」
「前置きのつもりだったの?」
「う、うん?」
 彼女がさらに困った表情になる。
「数々の不自然な行動、今日の見せた仕草のいくつかは不自然だった。それはこの瞬間のための、前置きだったつもりなの?」
「……」
 黙る彼女に、僕は更に言葉を重ねる。
「単純に、お酒を飲んですぐ酔っぱらうわけがない。残念ながら僕は頭がいいんだ。そんなの簡単に気づく。僕を、ナメるな」
 決定的な証拠。
 今言える精一杯の拒絶と、嫌味だった。
「……………………」
 黙りこくる彼女は徐々に笑顔になっていった。彼女が今何を考えているのかはわからない。
 僕は告げる。
「後悔するよ、やめておいた方がいい」
「…………後悔?」
 表情は影色となる。
 いつもと全く同じ顔、笑顔なのに決定的に違う顔。
 僕はさらに拒絶を重ねようと口を開こうと……、

「後悔? 後がない人間は、後悔なんてしないよ」

 音が止まった。頭から思考が断絶され、出そうとした言葉は霧散する。
 なにも言えなかった。
 僕は彼女よりも頭がいいつもりだった。
 でもたった一言でなにもかも論破された気がした。
 僕は彼女の言葉を否定できなかった。
 死を意識し、生きてきた彼女は、僕よりも多くのものが見えている。
 ――後がない。
 彼女が僕の服の中に手を突っ込んできた。こそばゆい。
 僕がするのは弱々しい抵抗。意味のない、抵抗にならない無意味な動作。
 繋がろうとする思考は合わさらない。脳が考えるのことを拒否する。
 動揺、願望、祈り、希望、愛情。
 もう、どうすればいいのか、わからない。
 だが、嫌だった。とにかく、嫌だった。
 彼女を愛したい、彼女に愛されたい。そんな感情はしっかりと胸の中にあるのに、嫌だった。
 彼女は嘘の表情を作っていた。嘘の笑顔は彼女の不幸の象徴で、全てを無理矢理動かしているように見えた。
「やめ……てくれ」
「いや」
「やめ……てくれ……!」
 声を荒げる。
 こんなときにアルコールの波を感じた。少量飲んだだけなのに、飲まれそうになっている。泣きそうだった。
「……」
 彼女が動きを止める。完全な停止で、嘘の表情は崩れていく。
 こちらの顔だってどうなっているか、もうわからない。無表情を保つ自信のあった僕は、今、どんな顔だろう。
「なんでよ」
 ポツリと呟かれた一言は、彼女の感情が砕ける前触れで。
「なんで、なの。私のこと……嫌い?」
 そんなこと、ない……!
 叫んだのは心のみ。体が言うことを聞かないせいで、声は届かず、堕ちていく。
「私は、……たしは……」
 彼女の声が消えていく。涙が溢れ、笑顔がしぼむ。
 ポタポタ落ちる水は僕を濡らす。直接降る彼女の感情は身に痛いぐらいに、沁みた。
 彼女が僕に体重を乗せる。再び密着した体からは震えが伝わってきた。その恐怖の根幹となるものは、
「死にたく、ない」
 僕があの日、倒れていた彼女を抱き上げた時の、その、うわ言のような言葉。
「死にたく、ないよぉ」
 僕の胸に顔を押し付け、泣き出す彼女に――。
 悟る。悟らされる。
 彼女は強いのに、弱い。戦い続けた恐怖への傷は大きい。彼女が強かったのは隠すこと。本心を、死への恐怖を誰にも見せず、孤独と戦い続けたこと。その恐怖は絶対に防げない。回復することはなく、摩傷する。僕は、ある意味彼女の唯一の支えだった。
「死にたくない、死にたくない。忘れたくない、失いたくない」
 存在を確かめるように、僕を抱き締める。
 僕の拒絶は彼女を傷付けていた。彼女は些細なことに傷ついていた。思い返せば、僕が手を振り払った数々、彼女は傷ついた表情を見せていた。……普段は笑ってばっかりの彼女が。
 戦慄する。自分の失敗を、恥じる。
 自分を殺したくなる。過去も、未来も、現在も。
 弱い自分が全てを投げ出せと囁く。
 もう動くな、息を止めろ、目を瞑れ。全て、諦めろ。
 だが、次の瞬間、自分の人生が見えた。
 失敗、成功、失敗、後悔、喜び、……彼女は。
 僕は変わらなければならなかった。心に誓ったから、何度も失敗を重ねたから、次に生かすと決めたから。
 母との和解も、そういった決意があったからだ。
 なら、動け。逃げるわけにはいかない。
 息をせず、意思なき死体に意味はない、なにもせずに腐っていくぐらいなら死んだ方がましだ。
 信念を込める、人生を込める。
 ―――生きた証を、ここで見せる
「好きだ」
 抱き締められた腕を振りほどく、傷ついた彼女の顔を、他で塗り潰すために動く。
 彼女を逆に押し倒し、見つめあう。
 彼女は涙を流していた。でも顔は綻んでいた。期待と不安が混ざり、これから行うことを、頷いて、弱々しく先を促す。
 期待を裏切ることはしないさ。
 僕は決して流されない。これは場の雰囲気ではなく、僕の意思だ。まっすぐと見つめ、目を逸らさない。
 まず抱き締める。こちらから、僕がここにいることを主張する。
 髪から甘い匂いがする。
 小さく、柔らかい女の子の体。男の僕とは決定的に違う彼女の体。
 彼女の震えが止まった。次第に落ち着きを取り戻し、目を閉じる。
 そんな彼女にキスをする。
 舌が絡みあい、甘くて熱い。
 僕も目を閉じる。彼女をより深く感じる。より愛しさが増す。
 ゆっくりと唇を離し、身を引いた。物欲しげな彼女の瞳に、僕はもう一度答える。
 どこまでも沈んでしまいそうなほどの心地よさ。
 そしてそれが終わった後、彼女のブラジャーに手を伸ばす。
 ビクッと彼女の体が震えるが、拒絶はなかった。
 形の整ったそれがあらわとなり、彼女が両手で自分の胸を隠した。「う~う~」と唸るものの僕が彼女の髪に触れると、どかした。ゆっくり頭をなで、彼女の表情が蕩けていく。
 彼女をはっきりと見る。
 本当に、可愛いなぁ。
 彼女の肌に口づける。
「んっ」
 彼女が小さく吐息を吐き、体の力が抜けていくのがわかった。
 服を脱がしていき、彼女は僕にされるがままとなる。
 彼女は僕に全てを委ねた。
 互いに一糸纏わぬ姿となり、抱き締め合う。こそばゆい。
 僕も彼女も、互いを見つめあった。
「大好き」
「僕もだ」
 ――互いの影が、深く、濃く、重なった。

 ◇

 目をゆっくりと開いた。目の前にはでかい彼女の顔があった。
「おっはよー」
「……」
 ニコニコな彼女は服を着ている。だが僕はそうではなかった。
 彼女は身をくねくねと動かし、嬉しげにモゾモゾと体を動かす。
「いやー、やっぱ私、君の寝顔好きだわー」
「服着るからさ、とれあえず、出ていこうか」
「今更照れるなよー」
「唾吐きかけるよ」
「そんなことするのー? エッチ!」
「……」
 彼女はたぶん、僕の脅しを信じていないのだろう。ナメてもらっては困る。こちらは佐藤に実際やったので前科持ちだ。とりあえず、動いてくれる気配が無いので冷たく睨めつける。彼女はクスクスと笑いながら退室していった。僕はすぐに服を着た。
「もう入ってもいいよ」
「はーい!」
 彼女がダイナミックにドアを蹴って入ってきた。彼女の名誉のために、機嫌がよすぎるのだろうと思い込むことにする。
「いたたっ」
 そんな彼女だが、突然股の辺りを抑えた。
「大丈夫?」
「うーん、ちょっとヒリヒリ、たまに激痛」
 彼女がドサッと僕の隣に腰を下ろす。距離が近い。
「どう?昨日の私どうだった? よかった?」
「どうだろうね」
「も~、照れ屋さんなんだから~」
「うるさい」
 調子に乗っている彼女を睨む。
 彼女はヘラヘラと笑う。が、傷つきやすい彼女に一応フォローを入れておく。
「一度しか言わないけど、僕が不機嫌そうな素振りを見せても本気じゃないから気にしなくていいからね」
 その言葉に彼女はキョトンとし、「えへへ」と笑い、「わかってますよ~」僕に抱きつく。そのまま手を僕の頬に添えてくるが、僕は溜め息を吐きつつも拒否しなかった。――これからも拒否することはないだろう。
「今って何時?」
「昼の1時だよー」
 彼女が笑った。その表情を僕は読み取る。これはなにかを思い付いたときの笑顔だ。
「これからどっかに食べに行こっか。お母さん帰ってこないうちにね」
 そうして僕らは外へ出た。その日はずっと彼女と一緒にいた。恋人となっても僕らの関係はあまり変わらなかった。いや、変わったのだ。だがそれは些細といえば些細だが、少なくとも僕にとっては違うだろう。彼女は僕によく引っ付きたがり、甘えたがりになった。そんな彼女が愛らしく、僕はなんだか負けた気になった。だが悪くない。心地よい。

 そんな日が何日か続いた。幸せだった。人との関わりを拒絶した僕は、ここまで彼女を好きになった。なんだか、今までの人間嫌いはなんだったのだろう。そう思えるほどに、全てが憎くなくなった。時と共に、全ての流れがよくなり、幸せを感じ、毎日を彼女と過ごし、些細な喧嘩をし、謝って、仲直りして、また好きになって。
 いつしか、あの日の苦悩を忘れていた。色あせた世界。灰色の景色。
 わかっていた。これは魔法の時間。いつもと違う、非日常。いつかは日常へと戻る、それは決められたことで、運命は覆ることはない。
 わかっている、わかっている。この色づいた景色は――期間限定だ。
 彼女が体調が悪そうでも気づかない振りをした。彼女の日常へ溶け込むためにそう装った。そのたびに何度もタイムリミットが近いことを自覚した。
 それでも目は背けない。逃げない。絶対に。
 こんなことをすれば後が苦しいのはわかっている。彼女がいなくなったら余計に苦しくなるのはわかってる。それでも僕は彼女との時間を楽しんだ。過ごせば過ごすほど、苦しかった。でも楽しいのだ。今だけは、今だけは。彼女がいるのは今だけだから、僕は彼女に自身を捧げる。
 彼女がいなくなれば、世界は地獄だろう。
 ――その時、僕は壊れてしまうかもしれない。


 いつものように学校に来た。
 彼女はどこだろう。そう思って見渡すが、いない。たまにあることだ。体調が悪い時に、たまにだが彼女は学校を休む。たまにあるのだ。
 噂が流れていた。それは彼女についてで、僕には同情の視線が寄せられた。
 僕は教室でポツンと佇む。周りには誰もいない。
 全て、わかっていた。
 終礼。担任の女教師が教壇に上る、口を開く。
「今日は、重要なお知らせがあります」
 一部の情報に長けている者は、既に知っていた。知らなかった者も、その重い口調から思わず黙った。
 教師に、注目が集まる。
「吉野早枝さんのことです。もう彼女の余命は短く、学校に来れないようです」
 苦しく、絞り出すようなその声に、辺りがざわついた。噂の情報は百パーセントではなかった。確信はなかった。だから皆、ここで悟った。
 一部の者はただ悲しんだ。
 一部の者は、僕を見た。
 注目は教師でなく、僕に集まる。
 同情。恋人の余命がないことに、僕を憐れむ。
 怒りを覚える。僕は勝手に同情されるのが嫌だった。彼らは知らない。僕が彼女のことをどれだけ好きだったか。どれだけの覚悟を持って付き合っていたのかを、まるで知らない。すべてわかっていた。その上で選んだこの道は。
 同情されるいわれなどない。不幸じゃない。彼女との日々は幸せだった。
 ――勝手に同情するな
 無個性でただただ流される人間たち。主張を持たないくせに、いっちょ前に自分が何を思っているかのみは示す、そんな奴ら。
 感情が込み上げてくる。憎くなる。だがそれを必死で抑えた。僕はもう、人を嫌いたくなかったから。
 僕が犠牲にしたのは己の未来の心。現在を優先し、彼女と過ごした。
 それが、僕の選択。
「早枝さんは入院しています。そして『誰も』見舞いに来てほしくないそうです」
 注目が教師に戻った。一部の者は理解できない、という顔をしていた。
 心情は容易く看破できた。僕は彼女が何を思ってそんな伝言をしたのかがわかった。そして本当の心についても理解した。
「ですが、」
 教師の顔が悲壮に染まる。
「皆のことは大好きだそうです。特に自分と仲良くしてくれた人は、ありがとう……ありがとう、そう言って――」
 教師は泣いていた。ありがとう、が二回言われたのは、教師の思いも重なったからなのかもしれない。絞り出すように告げる言葉は、彼女の感謝を皆に伝えていた。彼女の人間性がわかるその言葉は、クラス中に感情の波紋を引き起こす。
 メソメソとみっともなく泣く奴ら。目に手を当てて、頭上を見上げて耐える奴ら。
 僕は押し寄せる何かを耐えるために、そっと目を閉じた。感情を沈めるため、何も考えないようにした。
 だが、彼女のことを思ってくれる人たちに、感謝した。

 瞳を開く。

 僕は病室の前にいた。扉の向こうには彼女がいる。誰も、と、会うことを拒絶した彼女。教師が言っていた『誰も』には僕も含まれていた。
 ここに厄介な吉野早枝の母がいないことはわかっている。予想ではつきっきりで看病しているであろう吉野早枝の母だが、病院を出ていったのを僕は目撃していた。
 扉を開く。
 彼女は手のひらを見つめていた。まるで自分の生命線はどこまで続いているのか、それを探しているように見える。
 彼女がこちらを向く。その瞳が開かれる。
「こないで、って言ったのに」
 薄い、自嘲するような笑い。
「最初に会ったとき、君は僕に自己中って言っただろう? だからさ。君の言うことなんてきいてやらない。僕は自分の意思で動く」
 最初に出会ったときの言葉が意味を成す。まるで、終わりと始まりは繋がっているようで――終わりの予感に、心が痛みを訴える。
 僕は言いながらも笑った。本当は彼女が誰も来てほしくないとか、嘘だとわかっていた。それは彼女の心情から来ている。
 自分を一刻も早く忘れてもらおうと、顔を見せたくなかったのだ。死者の旅立ちに、少しでも生者がついて来るのを拒んだのだ。僕には、わかる。
「もう、さ」
 彼女は最初は不機嫌そうな顔をしていた。でも、それは嘘の表情で、どんどん剥がれていく。本当の表情が、隠しきれない笑顔が、露出してしまっていた。
 彼女は人間が大好きで、孤独が大嫌いだ。こんなに長く一緒にいればわかる。引っ付きたがりの甘えたがり。常に人を必要とし、人を幸福にする彼女。
 僕は彼女の望みを踏みにじってやった。だがそれは、彼女が心の奥で願っていたことだった。
「で、どれぐらいで死ぬの?」
 務めて明るい声を出す。彼女の死を気にしないというポーズ。彼女は自分の死に誰かが巻き込まれるのが嫌なのだ。
 だからそれを取り払う。嘘の仮面を被る。
 演技で、自身の心をもって、その上で騙す。
 偽善かもしれない。僕の自己満足かもしれない。わざと傷つきにいっているだけかもしれない。でも、そんなことをいっていたら、何もできない。僕は、彼女の幸福を願い、そのために行動する。
「うーん。あと一年ぐらい?」
「……」
 彼女の言葉を聞いて驚く。思った以上に、寿命は残っていた。でも、死ぬ人間は大体そのぐらいの時間を病院で過ごすのかもしれない。
「どう、驚いた?」
 彼女はコロコロと笑う。
「思った以上にしぶといね
「でしょー。私はそう簡単に死んでやらないから。君の足をしばらくは引っ張ってやんよ。ということで毎日お見舞いに来てね。お母さん居ないときにメールで知らせるから」
 そんな彼女の命令は、祈りは、――願ったり叶ったりだ。
 でもそんなこと、言ってやらない。
「うっとうしい奴」
「そんなこといいながらいい笑顔になってるよ。嬉しいんでしょ~。全く、君は重要なときに、私よりも隠し事できないね」
 その言葉に、少しだけ引っ掛かりを覚える。だがそんな思想は泡のように消え、自分の表情を気にした。
 顔に出たのか……。僕もまだまだ、かな。
「はいはい。さっさとくたばっときなよ」
「ひっどーい!」
 テンションが高いのか、彼女は僕を引き寄せ、思いっきり抱き締めてきた。こんな大胆な彼女も珍しい。
 僕は彼女の甘い匂いに安心した。目を閉じ、身を委ねて彼女に溺れる。
 だが………………長い。
 僕がモゾモゾと動く。それでも離して貰えない。仕方ないのでされるがままにしておいた。そしてしばらく経てば、離される。
「?」
「い、いや。私ほんとはあと2週間ぐらいで死ぬと思ってたんだよ! あの、先生に伝えた言葉もその時に伝えたものだし、ちょっと君が来て安心しちゃって」
「まあ、別にいいよ。君の好きなように僕を使えばいい」
「君、さっき自分のこと自己中って言ってたのに尽くしてるじゃん」
「さあ? そんなこといったかな」
 気づいた。
 夢は、希望は、砕かれた。

 僕はなにも気づいていないフリをする。 

 つまらない雑談をして過ごす。お見舞の品を持ってこなかったことを叱られる。お見舞は「僕」そう言ったら笑われる。そしてそのままキスをする。甘ったるい。
「そろそろお母さん来るかも。逃げろ逃げろー!」
「なんで?」
「私のこと大事にしすぎちゃう人なの。仕事もやめちゃったし」
「やっぱりそういう人か。予想はしてたよ」
 その事は大体予想していた。だがもっと、重要なことがある。
 吉野早枝の母は仕事をやめた。寿命は残っているのに?
 一年の価値は、人によって違う。でも彼女はボロを出す。たったひとつの理由なら疑念はなく、僕の頭はお花畑でよかった。でも……そういうわけにはいかなかった。
 僕は、また、選ぶ必要があった。
「じゃ、帰るよ」
「はーい」
 彼女が僕に手を振る。僕は扉に手をかける。
 そして……。
 立ち止まる。忘れていたことがあった、そんな感じで彼女のもとに戻る。
「君、勝負事好きだよね?」
「ん? 帰らないの? まあ、好きだけど」
 勝負事が好きなのは、相手がいないと成り立たないことを好むのは、彼女は人間が好きだからかもしれない。
 財布からコインを取り出す。神社や、彼女が好んでよく使った十円玉。

「――君は、死ぬのかい?」

 声を、発した。
「…………」
 彼女は答えない。
「僕は裏を選ぶ。さあ」
 コインを投げる。彼女は受け取り、それをじっと見つめる。
 そして、彼女がゆっくりとした動作で、コインを弾いた。
 チィーン。
 くるくると舞い、堕ちていくコイン。
 それを僕は空で掴む。
 彼女に拳を見せつけるように。
 選択を突き付けるように。
「気が変わった。君が答えて。表か、裏か」
 彼女は。
「裏」
 その結果は。
「残念、表だ」
 彼女の手のひらに、コインをのせる。
「答えて」
 彼女は死ぬのか、死なないのか。俯く彼女は……笑っていた。
「いひひひ、フフふふふふ、アッハッハッハッハハハハハハハ」
 病院なのに、うるさい音。迷惑行為に、僕は眉を潜める。
「死ぬよ。でもそれは一年後、正確には一年以内かな? なに悩んじゃってるの? 私はそう簡単に死なない。死んでやらないよ」
 彼女の笑顔は本物だった。断言できた。いつも過ごしていたから、わかる。
 これだけなら信じなかった。でも勝負事という手も使った。二つのことが重なった。だからもう、信じれる。信じて、いいんだ。
「死ぬ直前にはメールで教えてあげるよ。お楽しみにね!」
「バカらしくなってくる」
「だから私がバカにしてあげてるじゃん」
「うっさいバーカ」
ツンデレが言いそうな言葉!」
 何でこんなのにいちいち喜ぶんだか……。
 溜め息をついて退室する。
 その時、重かった。その病室を出る線が、重かった。振り返れば彼女が……。
「ん? なに? なんか顔についてる?」
 何ともなかった。
 僕はニヤっと笑い。手を振って別れを済ませる。彼女は嬉しそうだった。
 そして、扉を閉める。
 同時に、瞬時に意識を切り換えた。もう一個の、深い、深い意識。妥協許さぬ臨界点へ。
 本当はもう楽になりたかった。妥協したかった。でも、僕は、誓いを立てたときから、僕は変わっていた。
 とにかく逃げることを許さなかった。
 それで……。
 僕は吉野早枝の専属医の元に向かった。

「こんばんは、相川君、だったよね?」
 僕の目の前にいるのは世界的にも有名な医者だ。さすがというか、雰囲気が今まで出会ってきた人たちとはまるで違う。だがそれにすら、理由はあったようで。
「覚悟があるんだね?」
「……はい」
 医者は全てを知っていた。僕がなぜここに来たのか、わかったようだった。僕たちの間には一つの繋がりしかない。彼女のこと、それだけしか。
「《目を見ればわかる》よくそういう言葉があるがね。私はそういう目を何度も見てきた。死を近くで知っている人間が、大抵その目を持っていた」
 進められた椅子に座り、コーヒーを進められる。
 ここは世界的に有名な彼の個室。普通なら一般人である僕がそんな人に会えるわけがないが、何とかして辿り着いた。
「君の目付きはそれにつぐ。私は、『もうすぐ私は死ぬのですか?』そう聞いてくる患者には必ず真実を言ってきた」
 その言葉には真が籠っていて、なんだか親しみがある。
 僕は雰囲気や言葉、それらからうっすらと理解した。そうこの人は。
「あなたは、僕と同じようなことを感じたことがある」
 医者の表情が笑顔で歪む。僕は続ける。
「全く同じ道じゃない。でも僕とあなたの思考の到達点は同じ、そう感じました」
「面白いね」
「すみません、失礼なことを言って」
「問題ないよ。私はむしろ、君を誉めてる」
 互いのコーヒーが無くなった。それは本題に入る合図のようだった。
「私は自分が逃げることを許さなかった。だから患者には、自分だったら本当のことを言ってほしいから、真実を伝えてきた。……もう一度聞くよ、君はそのためにここに来たんだよね?」
 その問いかけは、確信に満ちていた。
 僕は、誤魔化すつもりはなかった。
「お願い、します」
 苦しかった。
 全てを知った。
「吉野早枝さんは死ぬ、もって2週間」
 彼女は死ぬ。
 ただ一色の、事実だった。
 彼女のことがわかった。彼女は、嘘の中に真実を混ぜていた。最もバレにくい、狡猾な嘘。2週間、という言葉は彼女の口から一度出ていた。少し焦ったときの、あのときに。
 僕はそれを話した。医者は僕のことを驚くほどわかってくれた。その上で、彼は言った。
「君なら同じ道にたどり着くだろうから助言をしておくよ。吉野早枝さんの嘘は優しい嘘だ。でも君は事実を知った。だから、騙されたふりをしなさい」
 その道は、すでにたどり着いている道だ。
「わかってます」
「君のような思想を持つ人はなかなかいないかもしれない。だけど私が肯定しよう。君の行動は全て正しい。……彼女のために、生きるんだろう?」
「勿論です」
「今日の事はここだけのことにしておくよ。でもある程度は便宜を図る。なにしろ私は吉野早枝さんの専属医、だからね」
 そう言って彼は笑った。
 僕は出ていく前に、一つ質問をする。
「あなたほどの人が、なんでわざわざ専属医なんかに? 多くの時間を取られると思うのですが」
「我ながら下らない意地、プライド。それに加えて哀愁もあったからだよ」
 と言い、
「お金も欲しかったのさ、やらないといけないことがあるからね」
 そうやって、少々の茶目っけを出した。

 彼女との賭けの時、彼女は裏を選んだ。その前に、僕は裏を選んだ。そして表が出た。だから強引に、あの表は僕の負けとも捉えられる。
 そして本物の彼女の笑顔は。僕が彼女のことを本気で想った、それを感じ取った故に、本物の笑顔が出せたのかもしれない。
 僕が医者と話したことで得たのはこんなことで、後に抱え込むのは地獄だった。でも、これが僕の選択。
 偽れ、仮面を被れ、嘘を張り付けろ。
 彼女の幸せのために、そのために、僕は何だってしてみせる。
 例え何が削られようとも、逃げるわけにはいかない。
 そうやって新たな誓いを心に重ねていく。それだけしか、できないから。
 帰り道、同じ学校の制服がチラっと見えた気がした。

 彼女に言われた通り、毎日お見舞に行った。延命のために強い副作用のある薬を飲む時間になると、都合良く僕はその場にいなかった。そう見計らった。彼女が辛そうなときはできる限り遠ざかった。彼女はよく、元気な演技をしていた。無理させるわけにはいかない。
 でも、
「もう少し早く来て」
「もっとここにいて」
「好き……」
 たまに出る真の言葉はそれすらも望んでいなかった。彼女は無理をしてでも僕といたいようで。それは嬉しくもあり、辛かった。
 相変わらず彼女との時間は楽しく、同様に地獄は増した。楽しい時間に紛れ込む狂気。意識にのしかかる負担。でもこれらを感じるのは僕だけでいい、彼女は楽しさだけを感じていればいい。
 独善的に生きる。彼女が全てを知れば苦しみを共有しようとするかもしれない。だがそんなものは死にゆく者には必要ない。僕はそうやって判断して、勝手に嘘を踊った。それが僕の『善』。立派な人間であれ。
 僕は独り、歯を食いしばって耐えた。いや、独りではない。あの医者が僕を肯定してくれている。独りじゃない。まだ、耐えられる。

 あるとき彼女がどうしようもないほどに辛そうだった。その時、僕は《静かなお手て繋ぎ恋人ごっこ》がしたいと言って彼女を動けなくさせた。彼女は「ごっこかよ!」と怒った。僕は笑った。それで、幸せだった。
 そうやって続く刻は、目に見える。視界に入るのは死の気配。彼女が弱っていくのがわかってしまう。生の限界を。それがはっきりと感じ取られる。裏は取った。医者は言っていた。
「あの薬はもの凄く副作用がキツイんだ。本当に、死んだ方がマシってぐらいに。それでも吉野早枝さんは寿命の延命を望んだ。いったい、誰のせいだろうね?」
 重……かった。
 その言葉は重い呪いであり、僕が望んだ言葉だった。医者は僕のことがわかるから、更に重荷を加えた。僕はそれを受け入れた。
「吉野早枝さんの病気は自分の死期がおおよそわかってしまう病気だ。彼女が今どれほど苦しんでいるだろうか。死が近いという思考はリアルなものとなって彼女を苦しめる。現実迫観念症を患う者にとって死を感じるということは、死ぬほど辛い状態にあるのと同意だ。これほど苦しまないといけない人間というのも中々珍しい、残酷な病気」
 死が近づく。終わりは近い。砂時計の砂はもうすぐ落ちきる。
 だから、その知らせを聞いても驚かなかった。
 電話が、鳴る。
『相川君、吉野早枝さんが危篤だ』
 それは例の、吉野早枝の専属医からの電話。
 今は学校が終わり、見舞いの品を考えている途中だった。
『すぐ行きます』
 そう言い、電話を切る。
 僕はなにも買わずに、彼女の元に急いだ。
 そして、出会ってしまった。
「また、あなたなのね。早枝を苦しめるのは、あなたなのね」
 吉野早枝の母。
「私が、頼んだの。やめて、お母さん」
 彼女はもう、起き上がることができない。もう、限界が近い。
 ――死んでしまう。
「早枝は黙ってなさい!」
 彼女は黙った。彼女は彼女の母に命を救われている。己の母を愛している。だから、強く言えない。それがわかった。
「早枝さんに、会わせてください」
「調子に、乗らないで」
 恐ろしい形相で吉野早枝の母は睨んでくる。僕は真っ正面から受け止める。
 だが、そうやっていても吉野早枝の母は動かなかった。それどころか怒りは蓄積し、手が動きそうになっている。
 暴力沙汰は、ダメだ。それで悲しむのは彼女で、そんなことはできない。
 僕は引き下がるしかなかった。あの手この手を使っても、医者に頼んでもダメだった。
 危篤の患者は、その親が優先される。当然のことだった。
 僕は絶望しかけた。それでも。
 トボトボと歩いて病院を出る。策を考え、何とかしようとする。彼女に迷惑をかけずに、会う方法。
 その時、チラっと同じ学校の制服が見えた。
 僕はそれを追う。
「……相川」
「……服部」
 それは僕が、善性を認めた生徒だった。
「なんでここに?」
「……それは、いやそれならお前だって! …………ごめん。当然だよな」
 服部が眼を逸らす。教師は『誰も』お見舞に来ないでほしいということを生徒に告げた。なのに僕はここにいて、服部もここにいる。だが、僕と彼女は恋人関係であり、服部と彼女はただの友達関係だ。その重い違いを理解したのだろう。
「別に。気持ちはわかるから、大丈夫だ」
「そうか、ありがとう」
 その時、あることが思い浮かんだ。それは悪魔のような思考。服部を踏みにじる行為で、一直線に彼女のためを思う、そんな作戦。恐らく、まだ服部は彼女のことが……。
「服部、彼女はもうすぐ死ぬ」
「なっ」
 だがそれでも、やらなきゃならない。死にゆく人は優先しなくてはならない。……昔の僕だったらこんな考えをせせら笑うだろうな。
「彼女は僕を愛して、僕も彼女を愛した」
「……」
「僕は彼女に会わなきゃならない。最期の時、側にいなきゃいけない。でもその母親がそれを邪魔する。だから……助けてくれ」
 僕はかすれた声でそう言った。
「おま、え」
 服部は、怒りも、悲しみも。何も示せないようだった。
 僕はただ、彼を待つ。そうすれば服部は徐々に落ち着きを見せ、深呼吸をした。
「あのさ。一つ、いいか?」
「どうぞ」
「失礼なことだとはわかってる。でも、俺はお前が羨ましい」
「……」
 お前なら、そう思うと、思ってた。文句を言われたら終わりだった。でも服部が選んだのは心の独白。ただ、思いを告げることだった。
「吉野さんと過ごしたお前が羨ましい。お前は今、凄く辛いだろう。きっと、俺には推し測れないほどだ。でも、それを含めてでも、俺は、お前が……」
「わかってるよ」
「え?」
 僕が背負っている重荷は誰にもわからないし、わかるわけがない。理解しているなど言われるのなら、僕は怒る。だが、以前考えたことがあるのだ。服部は僕が彼女の隣にいることを羨ましがっているだろう。僕の辛さは服部にはわからない。だが、もし服部が僕の辛さを全て理解できたと仮定しよう。それでも彼は、僕の立ち位置を望むはずだ。彼は、そういう人間で、真っ直ぐすぎるバカだから。
「君と彼女は、結構似てるところがあるんだよ、服部。だから、わかってる」
「……ごめんな、相川。俺は、こんなことをお前に言いたいだけだった……」
 拳を握りしめるのが見えた。そして、彼がなにかを乗り越えたのを、僕は感じた。
 服部は、彼女を除けば唯一全面的に信用できる人間だ。
「お前を助ける、相川。俺は何をすればいい」
 僕が人を信じる。ほんとに、馬鹿げてる。
「ありがとう、服部」
 やるべきことを告げた。
 単純な作戦だ。そしてこれだと服部は彼女に会えない。会えるのは僕だけで、服部が得になることはない。でも、彼女のためだから。
 服部は納得した。「一生の借りだからな」そう、笑って言われた。それに僕は感謝した。
 服部は僕の唯一の友人、そういえるかもしれない。

 服部が吉野早枝の母を引き寄せる。僕はその間に病室に入る。
 それは成功した。
 僕は今、彼女の前に立ち、その顔を覗いている。
「死神さん、かな?」
「そうだね、そうかもしれない」
 彼女は嬉しそうに笑った。僕は死にゆく彼女を見た。
 仮面を被る。心が張り裂けそうだ。でも、悲しげな顔は見せない。だってそんな必要はないから。
「なにか、望むことはある?」
「私は……」
 寝たきりの彼女は眼を閉じる。
 そして開いたその時には。
「外に行きたい。寿命が一日縮んだとしても、ここで死にたくない。ここ、辛いんだよね。あはは、そうだなぁ、夕日見て死にたいなぁ」
 ……もう彼女に生きる意志は、ない。
「わかった」
 彼女の願いは予想がついていた。病室にある車椅子をベットの近くに移動させる。彼女をなんとか持ち上げ、座らせる。
「えへへ、最期の、デートだね」
「……皮肉だね。本当に僕は、死神の真似事をしてる」
「単純に、私は君と過ごしたかった。私のお母さんは世界一の良ママだけど、私は君を選んだ。それが、私の選択」
「……君の意思に従うよ」
 彼女をここから連れ出せば、寿命は縮む。どちらにせよ寿命は、残り二日ももたないだろう。今日の夜すら越せないかもしれない短い命だ。だが、僕は間接的に彼女を殺すことになる。彼女の寿命を削ることになる。
 それでも、だ。僕は決断した。あとで糾弾されるのは目に見えてる。世の中の基準で言えば僕は悪だ。汚名は被る。全て捨てる覚悟はできている。
 未来を捨て去る僕の選択を、赤の他人なら滑稽だと言うだろう。それでも、誰にも笑わせない。
 決して曲がることのない誓いを、心に重ねたから、僕は逃げない。
 これが、僕の選択。
「ふぅ……。デートエンドでデットエンド」
「さすがの僕でもそれは笑えない」
 彼女は笑っていた。死は近い。死神の指はもう半分、彼女の肩にかかってる。それでも、楽しげだった。
 病室を出る。
 当然、吉野早枝の母がいる。今戻ってきた、そんな状況だ。
「あなた、また、あ、アナタは!」
 そんな吉野早枝の母を服部が押さえた。力付くで道を塞ぐ。服部は捕まるかもしれないな。その時は僕が全ての罪を被らねば。
「あなたの娘の、最期に望んだ時間なんです。邪魔、しないでください」
 服部の目には信念が宿り、道を塞いでいる。
 僕は感謝しながら、病院を出た。
 後のことはわからない。だが、服部を信じる。何もかも、アイツなら何とかしてくれる。
「夕日見たいって行ったけど、どこ行きたい?」
「そこらへんの河原でいいや」
 彼女の細い腕が僕にまとわりつく。以前よりもは細くなった、だがもうすぐ死ぬというほどには細いとは思えない腕。
 そんなことで、僕は少しの希望を見たくなる。彼女は死ぬのに、もしかしたら生き残るという、奇跡を考えてしまう。
 僕は、弱い。
 そこら辺の河原に着いた。本当にそこら辺、歩いて十分かからないほどの距離。
 夕日が見える。あの頃、夏休みの前に話した、赤い夕日に似ている。
 僕の目はそれを赤と認識した。だが、心は灰色に感じた。感情はすりきれ、表面を嘘で覆う。これは最後の戦いであり、これを乗りきれば終幕だった。僕にとっては違うかもしれない。でも、彼女にとって終わりを意味する時間なら、僕は今、ここに立つ時間のことだけを考える。
「う、しょ。力入らないや。手伝ってくれる?」
「うん」
 彼女の身を起こす。彼女は草の生えた場所にコロンと寝転ぶ。
 僕もその隣に寝転ぶ。
「私は、死ぬ」
「そうだよ」
 否定はしない。
「もう、終わりかぁ」
 終わってほしくない。生きていてほしい。
 僕の一生より、彼女の一秒の方が、尊い
「天国に行ったら宜しく頼むよ。僕もそこにいく努力をするから」
 全く信じていない死後の世界。だが僕が信じているか信じていないかは大して重要ではない。全ては、命少ない彼女のために。そのために行動するから。
 僕は壊れていく自分の心を見つめながらも彼女のことを考えた。彼女は今、何を考えていて何を望むのか、そればっかり考えていて、打算で動く自分に吐き気がした。これが精一杯で、頑張っても頑張っても答えは見えなくて、結局、普段通りの自分を保つしかなかった。
 一筋の風が頬を撫でる。僕にとっての冷たい風、彼女にとっては、死神の息吹。
 そう思った。だが、僕と彼女では価値観が違う。そのことが、次の言葉には如実に表れていた。
「風、気持ちいいね」
「そう、だね」
 彼女は、死に向かう彼女は嘆いていなかった。それは諦めなのか、絶望が振りきれ、マイナスがプラスへと転じたのか、わからないが、彼女は世界を鮮やかに見ていた。
 僕にとっては灰色で、けど、彼女は幸福感を感じてる。
 でも、刻はまだ続いている。彼女が生き続ける限り、僕の戦いは続く。無表情という名の仮面を張り付けた僕は、声も、動作も、何もかも。全て平時と同じように設定する。そうやって、彼女には負担をかけないようにする。
「私、幸せだった。他の人から見たら、今の私は不幸だと思うかもしれない。でも、私は、楽しかった、なぁ」
「僕も楽し……かったよ」
 声が震える。抑えようとしているのに、なのに。
 全力だった。それでも、胸は裂けるように痛く、堪えきれる気がしなかった。
 けれど、現実迫観念症を患う彼女にとって、死をまじかに感じるということがどれだけ苦しいことなのやら。それに比べれば僕の苦しみなんて、ちんけなものでしかない。
 だから僕は、精一杯歯を食い縛る。
「やりたいことは大体叶った。素敵な恋ができた。私は満足。先に死んじゃってごめんね」
「大丈夫、気にしないで」
 さりげない会話も、一言も、呼吸も。全て、毒になる。
 込み上げてくるものがある。
 苦しい。でも、耐えろ……耐えろ。

 経験や意思、覚悟、固執、傷、悟りや憎悪、悲しみ。

 僕の全ての感情を、人生を懸ける。己の存在そのものを、魂に誓いを込めて、耐える、耐える。そうまでして、ようやくといったところで。
 もうここまで来れば、妄執や執念に近かった。恐ろしいまでの負担は、おぞましいほどの意思力を必要とした。自分が自分でないほどに化け物だった。こんなに感情を溜め込んで、それでも顔には出さなくて。
 僕は、目を瞑る。

 それから楽しかった頃の話をした。彼女のイタズラや迷惑行動にはどれだけ困らせられたか、笑って話した。彼女は僕の感情の起伏が少ないことを指摘してきた。一瞬ドキッとさせられたが、それがかわいいとか健気とか、誉め言葉なのか貶し言葉なのかよくわからないことを言われた。
 時が過ぎ、それに比例して彼女は弱っていった。話すのも苦しそうで、それでも僕は止めなかった。
 苦しむことでさえも彼女が選んだ事だから。
 僕は支え。彼女の意思を助ける杖……だから。
 衰弱していく彼女を間近で見ていた。その苦しみを、激しく咳こみ、吐血しようと、なにもできない。僕に能力がないから。無力な一人の人間だから。
 もう、嘘の笑顔を作る余裕はなかった。無表情に固定し、ただただ喋る。少しでも表情をずらせば、泣いてしまいそうだった。
 そう、そうやって、見ているだけで、僕はなにもできなくて、彼女は苦しんで。
 それでも――それでも僕に彼女を曲げる権利など、なかった。

 夕日が沈みかける。
 彼女の命も沈みかける。
 この苦しみが終わってほしいという思い。
 この幸せが続いてほしいという願い。
 地獄と天国の狭間は、僕の心をゆっくりと、確実に砕いていった。
 逃げられなかった。
 逃げるつもりもなかった。
「もう、時間、ないみたい」
 彼女はもう息も絶え絶えだった。もう生きることは苦痛でしかないはずなのに、命の綱を離そうとはしなかった。
 僕にはなんで命の綱を離そうとしないのか、その気持ちが痛いほどにわかる。最初はただ死ぬのが怖いからそうなるのだと思っていた。でも、それは確かに存在するのだけど、それよりももっと多くが他の部分で占有されていた。
 それは、僕にとっては、父の記憶と……彼女の記憶で。
「私は、君に謝らなきゃ」
 もう喋らなくていい。寿命を減らさなくていい。ただ、生きてくれ――
 そんな願いは心にのみ叫ぶ。
 現実の僕は次の会話に繋がる一言を言う。
「なにが?」
「ごめん、ね」
 彼女が何を言いたいのか、よくわからなかった。でも確実に、彼女は悪くない。それだけは確信できたから。
「謝らなくていい。君はここにいるだけで、僕は幸せだった。……まあ、うるさくはあったけど」
 余裕を気取る。
 そんな平坦な声は、彼女に笑われた。
「ムリしなくていいよ。感情、さ。抑えなくていいよ」
 そうやって唐突に吐き出された言葉は、
 僕に衝撃を与えるが、僕は、答えなければならない。
「僕は普通にしてるけど」
 よかった、声は震えなかった。これで嘘を突き通せる。優しい嘘を、彼女のための偽りを……。
「な、わけないじゃん。ふぅ、わかってる、私は君の彼女、だもん」
 苦しい筈なのに、なのに彼女のその笑みは、僕が最も、大好きな笑顔で。
「私は、君を引きずり、込んじゃった。私は君を愛したし、君は私を……愛してくれた。
 だから、心配なの。ふぅ…………。君はひとりぼっちだった。だから世界は全部敵で、灰色ばっかりだった。私はそこから君を引き上げて、そのお陰で心は元に戻った。でも私がいなくなればまた君はひとりぼっち。折角戻った心は、傷つくだけになっちゃう」
 彼女は、息切れしながらそう言い、途中で深呼吸をして、おそらく最も言いたいことであろうことを言い切った。
 その代償は激しい咳で、僕は彼女の背中をさする。
「大丈夫だよ」
 僕は言う。
「僕は独りで生きていける。僕をナメるな。僕は弱くない、強い。君がいなくても生きていけるし、趣味だってある。退屈にはならないさ」
 看破されていた僕の心は、最後まで誤魔化すことを選んだ。もう今更、後には引けなかった。

 そう、選択しようとした。僕の意思に、偽りはなかった。

 僕は言葉を続ける。さっきの言葉は不十分かもしれない。まったく何も感じないというのは失言かもしれない。だから少し、付け加える。
「ごめん、嘘をついた。僕は君がいなくて、つらい。死んでほしくない。でも、僕は大丈夫だ。大丈夫なんだ、心配しないでいい」
 嘘の中に、真実を混ぜた。そうじゃないと彼女を騙しきれない。騙しきらないと、彼女は幸せに逝けない。彼女を救うことができないのなら、せめてこれだけでも、守らねばならない。
 ――そう思っているのに、心は崩壊を始めている。
「僕は変わった。君のせいだ。でも感謝してる。僕は父のことを憎んでいた。でも本当はそんなことしちゃいけなかった。君が教えてくれた、気づかせてくれた、救ってくれた。君はただ、誇っていればいい。僕にとっては君は、絶対の英雄(ヒロイン)なんだ」
 いくら心が辛くても、それでも――
 彼女は大きく息を吸った。
「そう。よかった」
 いつもの彼女なら、僕のこの嘘は、バレていたかもしれない。でも彼女は余裕がなくて、だから信じてくれたようだった――。
「抱っこ」
 彼女が腕を広げ、僕に甘える。
 抱き締めた。儚い命を、抱き締める。死神から守りたくて、包み込む。
 ――彼女は震えている。
 なぜか。死が怖いからだ。なのに彼女は弱音を吐かない。なぜか。僕が側にいるからだ。僕を気遣って、平常を保っている。――ならば、まさか、もしかしたら。
 予感があった。
 心が砕けていく。耐えきってくれ。あと少しなんだ。ここさえ凌げば、終わるんだ。
 だから――。
 彼女の体から熱を感じた。生者が発するそれはどうしようもなく僕の壁を、固めた氷を溶かしていく。
 ――心が、震える。
「……泣いてるの?」
「…………てない……!」
 彼女の熱。切ない。どうしようもない。
 華奢な身体の彼女を、強く抱き締める。
 一度心にヒビが入れば、もう止めることはできなかった。
 涙が、流れる。
「よしよし」
 そんな僕の頭を――彼女が撫でる。子供の様に泣く僕を、彼女は慰めた。本当は、――本当は僕が慰めねばならないのに。
「私が死ぬのが怖いんだよね。わかってるよ、泣いていいんだよ。それが普通なんだからさ。私の前ぐらい、弱いままの君でいいよ」
「ちが……う、僕は……僕は……守らなきゃ、ダメなのに……」
 彼女の息が耳にかかる。
「私は君が変わってくれて嬉しい。私の命は短くても、君のためになったなら、本望。いい方向に、変わったでしょ? 君は。人間が嫌いだった君は、今は、どう?」
「嫌いじゃ……ない。でも……君みたいには……人を好きになれない」
「いいの、それで充分。とにかく君は変わった。幸せになれる。きっと、きっと、大丈夫。これは私からのお願い」
「無理……だ、無理だよ……君がいないと、僕は……笑えない……辛い……生きていけない……死んだ方が――」
「ダメ」
 キッパリと宣言する。
「それだけは許さない」
 彼女は僕に価値観を押し付ける。死にゆく人の言葉はひどく重たい。祝福のつもりの言葉でも、僕にとっては呪いでしかない。
 彼女が世界にいないなら――。
「無理だ……無理だ。なら……生きてよ。なんだってする。君がいるなら……なんだって」
「私は君についていけない。そこからは君の道。でも、心の中にいるから。だから、君の中の私を大事にして」
 僕は首を振る。それでも彼女は許してくれない。泣いても、すがっても、何をしても。彼女は僕を縛る。でも、それは優しい祈り。それがわかるから、理解できるから、尚更辛い。
「私のお願いだから、君はきっと聞いてくれる」
「だ、ダメだ。待って」
「全部、託すよ。私の全てを、君のためになることを、祈ってる――手、握って」
 僕は必死で手を握る。彼女の体から力が抜けた。背負っていたなにかを、下ろしたようだった。
「死なないで――死なないで」
 もう彼女には言葉が届いていない。僕の願いは届かない。ずるい、そんなの、僕に任せて、それで、勝手に――
「そこに、いるよね? 怖いよ、前が見えない。でも、君がいるから、それなら、満足……かな?」
「生きて……お願い……お願いだから……!」
 僕の願いは、届かなかった。
 でも、僕は彼女の願いを持っていた。
 彼女の手はまだ暖かく、生きている者の手のようで。これからその熱は消えていく。
「私、幸せだった」
 僕の中で、命は消えていく。

 僕はこの熱を、一生忘れることはないだろう。

 彼女はもう喋らなかった。
 眼を閉じていた。
 辺りは静かで、風だけが音を纏っていた。
 病は静かに彼女の命を奪った。現実迫観念症の患者は、血を吐くこともなく、苦しみに身をよじらせることもなく、ただただある時期に死のイメージを膨張させ、脳機能を停止させる。絶対に死なないと信じていれば、もしかしたら現実迫観念症の患者は死なないのかもしれない。
 僕はゆっくり目を閉じる。つないだ手から命が消えるのを、僕は感じていた。

 そうやってどれぐらい過ごしたのだろうか。
 この瞬間は永遠一瞬で未来永劫。
 一生消えることのない想いを、溜め込んだ。

「ねえ」
 彼女に呼び掛ける。
 返事はない。
「ねえ、早枝?」
 一度も呼んだことのなかった名を口にする。
 気に入っていた。君、君、という日常の応答が。
 だが、返事はない。
 神に祈った。一度もやったことのない行動をすれば、奇跡は起こると。
 名前を呼んでも、肩を触れても、返事はない。
 ……いやだ。
 どこを触っても、反応はない。
 ……嘘だ。
 握っていた手は、いつのまにか冷たかった。
 立ち上がる。
「死んだ……もう、終わったのか………………嘘だよね?」
 返事は、なかった。
 心と裏腹に、無感動に死体を見下ろす。安らかな顔をしている。
「終わった、死んだ、終わった、死んだ、これで……終わりだ」
 ブツブツと呟く。口元が、歪む。
「ハハ……ははははハハハ………………認めたく、ない」

 冷たい。

「あくくくくっ、ははは、アハハハハッハ……」
 押し寄せるのは狂気。笑えてくる。楽しい。意味がわからない。でも、笑える。
 ――本当に?
「…………くそ」
 辛い。痛い、痛い痛いいたい。
 …………どうして。
「現実…………認めない」
 苦しい。なんで……こんなにも……僕は。
「いやだ」
 僕は、死を覗く。
「いやだ、いやだ……いや、だぁ」
 彼女がいないなら、
 ――この世はもう、終わればいい。
「…………………………ああ、もうハハ……あ、あああぁぁ、くそぅ……は、もう、うううぅ、あ、いやだ、いやだぁ、いや、だぁ、うそだ、こんなの、こん、な、あ、ああぁ、ああああああああぁぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁ」
 やってきた狂気に身を委ねたかった。
 無理だった。他ならぬ暖かな記憶が、邪魔した。
 楽になりたかった。
 風が僕の涙を運ぶ。
 伝う滴は、空気にさらされて冷たい。
 砕け散った心は、空虚だった。
 心の破片を集める気にはなれなかった。
 死んでしまいたかった。
 逃げる場所がなく、あちこちに手を伸ばす。自分の虚空(こころ)を探る。何かがないか、祈る。
 そこには暖かい思い出がたくさんあった。もう戻らない非日常。大切な彼女との記憶。
 全てを投げ出したかった。思い出の中に、溺れたかった。
 僕は弱く、弱く、弱い。すがるしかない。
 すがって、抱き締めて、この思い出だけを見つめてる。思い出に、忘れられない暖かなこの記憶に。
 あまりにも僕は、弱すぎる。涙はまだ、止まらない。
 その中で。
 ある記憶を見つけて――
 ――「死ぬときはメールするから、楽しみにしててね!」「バカらしい」
 物凄い勢いで携帯を開く。
 なにも…………ない。
 川に捨てた。
「……」
 希望は毒だった。完膚なきまでに心を破壊した。もうどうでもよかった。
 歩く。
 川は汚く、僕にお似合いだ。
 一歩、足を踏み入れる。
 ああ、安らかな死へ……。

 ――足が止まる。
 ――なぜ?

「まだ……死ねないのかな」
 僕を立ち止まらせたのは、彼女の最期の祈り。死にたくても死にたくても、それは僕を縛る。
 ――重い約束は、その祈りは。
 《それだけは許さない》
 《とにかく君は変わった。幸せになれる。きっと、きっと、大丈夫。これは私からのお願い》
 《私のお願いだから、きっと君は聞いてくれる》
 影を落とし、歯を食い縛る。
 振り返った。
 死体があるだけだった。でも、それは最愛の人で、決して忘れることができないものだ。
 何度でも祈った。奇跡を信じなかった僕は、以前敵対していたものを本気で信じた。
 無駄だとわかっているのに、すがって、すがって、祈って。そうやってしばらくしたら、現実はやってきて。
 自分の今の状況が見えてくる。頭がひどく痛む。足は言うことを聞かない、立ち上がれない。
 心に巣くった絶望が何度も僕を弾き返した。もう生きなくていい、死ねばいい、楽になればいい、辛い道を進むことはない。
 でも、そう囁くもう一人の僕よりも――彼女の願いの方が、ずっと強い。
 だから、もう一度立ち上がる。
 僕は生きなきゃ、成長を見せつけ、彼女の存在を証明しなくては。

 涙をふく。
 僕はまた、生きることをやりとげなくてはならない。一度ここで死んだ僕は、彼女の願いを持っているのだから。
 間近なものが、試練が僕を待っている。
 彼女の体を抱く。力の入らない腕で、車イスに乗せる。
 遺体を、届けなければならない。
 不完全な心のままに、僕は歩き始めた。

 ◇

 世界が僕を憎んでいる気がした。全ての人々が僕を蔑んでいるように見えた。全部敵に見えた。それでも、僕は歩いた。
 一歩一歩が重い。欠片だけ残った心で、体を動かすのはひどく困難だった。
 少しずつ病院に近付いていく。人が増えていく。僕を見る。
 視線が恐ろしかった。それでも頭を上げる。立ち向かわなくてはならない。僕は、僕の業を背負い、生きるのだ。
 空気は鈍い。息が吸いにくい。ひたすら苦しい。地獄へと向かう前進は、気力を奪い続ける。何度も挫けかけた。でも、死体であろうと彼女は彼女で、義務は果たさなければならなかった。約束が強制させた。
 辺りを見る。病室に着く。医者が僕を見て、なんの感情も称えない目で僕を奥へと誘う。部屋にいるのは服部と、吉野早枝の母と父だった。
「さ、え……?」
 呆然と呟く吉野早枝の母。その心情は、娘の死を思う心は……。いや、僕には推測する権利すらない。
「あなたが……あなたが殺した!!」
 絶叫が、響く。突き付けられたその指は、僕を指している。
 痛む心を庇わず、全て受け止める。僕は、それだけのことをした。
「なんでこんなことをしたの! なにをしたかわかってるの! 殺した! 殺した! まだ早枝は生きられた! 早枝は生きたがってた! なのにあなたは邪魔した! あなたは早枝の彼氏じゃないの? なんでこんなにひどいことができるの! なんで! なんで!」
 もう、途中から聞けなかった。足元がふらついた。でもだいたい、何を言っているかは把握できた。
「すみません」
「あなたは……そんな言葉で……なにを!」
「報いは受けます。なんなりと」
「うるさい! そんなもの、意味がないじゃない! なら返してよ! 早枝を!それ以外なにも望まない!」
 それしか望んでいないのだ。僕が憎いとか、そんな思いよりも娘のことが大事なのだ。全て、思いはただ一つのことに向いている。
 僕だって、それができるならそうしたいし、今も願っている。
「娘さんはクラスの人気者でした。皆彼女が好きでした。そして僕は皆よりも彼女が好きでした。自分自身より彼女のことが好きなほど――」
「聞きたくない! 早枝はあなたのことを自慢していたわ! あなたのことを素晴らしいって! なのに、あなたは裏切った! 早枝の意思を! 彼氏でしょうに!」
 そうやって、怒りのなかに僕を称賛する声を聞いて……真に理解する。吉野早枝の母がどれだけ彼女のことを思っていたか、どれだけ娘のことだけを思っていたのか。それだけに周りが見えなくなって、もう何をしたらいいのかわからないのだ。
 だから、伝えなきゃ。
「彼女はあなたに感謝していました。以前、救われたから。純粋に、母のことが好きだったから」
「黙れ!」
 言葉は遮られ、否定の花瓶が投げつけられようとする。僕の反応しようとする周りを目で制して止める。
 それは僕に当たり、割れた。痛かった。でも心の痛みの方がずっと痛かった。僕は彼女の意思を伝えなければならない。彼女は母のことだって愛していた。自分のことを好いてくるなら、嫌いになるはずがない。人間が好きな彼女は、自身の母について余り語らなかったが、それだけはよくわかった。
「以前に……彼女に僕の傷を話しました」
 痛みに震えそうな声だろうとも、どれだけ心が痛みを訴えようとも。
「僕が辛かったときの話。僕の傷の中心部。彼女は共感してくれた。父が僕を庇って死にかけた話だった。彼女はよく似たことを、母がしたと言っていた」
「な、にを」
 吉野早枝の母がたじろぐ。
 身ぶり手振りで混乱がわかった。僕はこの人を救わなければならないと思った。彼女が大好きだったであろう人で、彼女のことを思ってくれるこの人のことを。
「彼女はあなたに借りがあったんです、愛していたんです。病気の自分のために全て捧げてくれた。辛いだろうに自分のことを最優先にしてくれた。自分の家族は世界一で、本当に大好きだと、そう言っていて。――だからずっと想ってあげてください、精一杯生きた、彼女のことを」
「……っ!」
 彼女のことを伝えた。これは全てを聞いたわけじゃないし、本当ならもっと適役がいるのかもしれない。でも、彼女との時間を奪ったのは僕だから。そして伝えられるのは最期を看取った僕だから。だから、だからここまではいい。
 不安と悲しみを目に背負う吉野早枝の母。僕の言葉は彼女のものとして、確かに届いたようだった。
 次は、僕の問題。僕が奪った時間はこの程度のことで償われるものではない。どんなことをしても許されないし、許されてはいけないのだろう。でも、それで諦めるのは尚悪い。だから精一杯、誠心誠意をもって、謝るしかないない。
「娘さんの時間を奪って、本当にすみませんでした」
 頭を下げる。気持ちを込める。それしか、できないから、せめて全力で。
 肩を掴まれる。
 殴られる。そう思った。覚悟していた。
 首筋に冷たいものが当たった。
 水。
 恐る恐る顔をあげてみれば、吉野早枝の母は泣いていた。
「自慢の娘だった……快活で、友達が多くって……。あなたの自慢話を何度も聞かされたわ……不思議な人だって、素っ気ないふりして何だかんだで我が儘を聞いてくれるって喜んでた。甘えるのが楽しいって、たまに見せる笑顔が素敵だって……。全部、全部覚えてる……早枝はあなたを選んで、幸せそうだった……」
 話すごとに籠る力が増していく。それは痛い程だったが、感情の大きさに比例していることだとわかった。苦しいほどにその気持ちがわかるから、だから僕は言う。
「僕も、本当に彼女だけが好きでした……初恋で、この思い出はずっと消えることはない――」
 吉野早枝の母は……今や泣き崩れていた。
 地べたに座り、床を滴が濡らす。
 吉野早枝の父がやって来て、肩に手を置いく。
「智子」
 その目でさえも、潤んでいたが、優しげで己の妻を心配していた。吉野早枝の母は赤くなった目で彼を見つめ、差し出された手をとって立ち上がる。力ないその腕は、先程の剣幕の強さからは想像がつかないほどで、いかに弱っているかがわかった。無理をしていたのだろう。そうじゃないと気を保てなかったから。この人の人生の中心は彼女の元にあったのだから。
「早枝がぁ、もう……いないの。私たちの娘はもういない……。死んでしまった……生きてほしかった――。私は、私は……」
 それを吉野早枝の父はそっと抱き締める。
「大丈夫だ智子。早枝は幸せだった。本望だったんだ。そこの彼への自慢話は何度も聞いたじゃないか。私たちはずっと想っていよう。愛する娘のことを」
 すすり泣く声が聞こえ、それを励ます、いや、一緒に支えようとする声。
 その二人は、静かに病室を出ていった。
「信司……」
 今まで黙っていた服部が口を開く。
 僕の心は燃え尽きていた。でも、お礼を言わなければ……。
「服部……ありがとう」
「俺は、なにもしてねえじゃんかよ」
 服部が少し涙ぐむ。僕は目を瞑る。
「相川君」
 最後に吉野早枝の専属医が口を開く。でももう彼女はいないから、違う……か。
「わかってるね? 君は許されないことをした。身内の危篤は親族が優先される。それを君は割り込んで、親の気持ちを踏みにじった。彼らは吉野早枝さんの最期に立ち会えなかった」
「わかって……」
「でも、だ!」
 医者が声を張り上げる。
「君は吉野早枝さんの意思を尊重した。君の行動は世間一般から見れば後ろ指を指される行為だ。でも、それでも私は……彼女の専属医として、お礼を言いたいんだよ。
 ――ありがとう」
 力強い言葉が反響した。
 頭の中に響くその言葉に、何もかもが揺れて。
「う、あ、う、うううぅ。すみま、せん、僕は、僕は……」
 涙が溢れた。
 もう流しきったと、もう泣くことはないと思っていたのに。
 最大の感情は彼女の元に置いてきた。でも、今が虚無なわけじゃない。僕は今、生きている。
 全てを捨てちゃいけない。
 彼女は僕にそう望んだ。
 背中を擦ってくれる医者の手は、暖かくて『人』を感じる。
 だから、
 ――救われた、気がした。

 ◇

 僕はぼんやりと外を眺める。
 青々とした緑が揺れ、それを切なく思った。

 今は高校三年生の8月の始め、それは夏に相応しい暑さを誇っていた。
 ジリジリとうるさく鳴く蝉。
「おい、信司。開けろよ。おい、信司!」
 さらには五月蝿い人間(しんゆう)だ。
 嫌になって寝返りをうち、突っ伏して枕に顔を埋める。
「おーい、信司ー!マジで早く開けろって。時間間に合わなくなるって!」
 全く……、本当にうるさいやつだ。さすが僕の親友、服部なだけはある。
 欠伸をし、起きる。そして服部にも聞こえるように叫んだ。
「ちょっと着替えるから待っててくれ!」
「はー?まだ着替えてねーのかよ!皆との約束遅れるぞ!」
 僕の怒鳴り声を1とするなら服部の怒鳴り声は3だ。とてもうるさい。
 これ以上、親友に近所迷惑行為を続行させるわけにもいかないので、僕はさっさと着替える。
「おせーよ!」
「ごめんごめん。眠くって」
 フン、と鼻を鳴らして怒りを伝えて来る服部だが、それは外面だけで心は違う。いや、まあ少しは怒ってるかもしれないがここまでではない。僕はよく、わかってる。

 彼女は死んだ。それは変えようがない事実であった。受け入れはしないとこちらが主張しても、現実の方が強かった。だから僕は負け犬のようにしばらく家に閉じ籠っていた。
 そんな深淵から引っ張りあげてくれたのは母であり、今、目の前にいる親友、服部である。彼女の死の呪いは強く僕にこびりついた。あの出来事のせいで、僕にとっての世の中の苦しみは増えてしまった。
 でも、幸せなことも増えただろう。僕は今、最高に幸せというわけではない。が、最高に不幸というわけでもない。最大の幸せも不幸も、僕にとっては彼女と過ごしたいた頃が、そうだった。これは呪縛。一生付きまとう、強力な呪い。何故なら他ならぬ僕自身が思い出を忘れることを拒んだから。だから、僕は、長く、長く、苦しんだ。
 ピィーン。
 高鳴る金属音を響かせ、コインが舞う。
 その音で服部が振り向く。
「服部、勝負事でもしようか。表か、裏か」
「お?いいぜ。じゃあ表だ」
 僕は、もう一度コインを打ち上げる。そして、用意していた粘土をポケットから出した。
 コインはくるくると落ち、粘土に綺麗に突き刺さる。
「残念、真ん中だ」
「おまえそれがやりたいだけに粘土持ってきたのか?」
 僕は、ニヤッと笑う。
 そしてもう一度コインを弾き、空で掴みとる。そして、そのままポケットにしまった。
「賢いって褒めてくれ」
「ずる賢いって褒めてやるよ」
 でも、彼女の与えたものは苦しみだけではなかった。僕は今、生きているし、苦しいが、楽しさもある。
 だから僕は選べる。彼女が与えたのは、呪いか、祝福か。
「あーあ。いいよなーお前は。お前は馬鹿みたいに賢いし、世界最強の医者のコネもある。エリート医学部まっしぐらかよ。変わって欲しいぜ」
「君の頭脳じゃ、今入れ代わったとしてもすぐに沈んでくよ」
「賢さも含めて交換だっての!」
 もう一度コインを弾いてみる。そして掴み、結果を見る前に呟く。
「表」
「お前最近それ好きだな。マイブームか?」
 そんな服部の言葉は聞き流し、僕は結果に注視する。
 表、だった。
「フッ」
「でた、不気味な笑い」
「暖かな笑みと言ってくれ」
「え?」
「冗談冗談」
 表だ。
 結果は出た。彼女が願ったのは祝福で、決して呪いではないだろう。
 コインなどあくまで言いわけ、最初から、僕の心は決まっていた。
 彼女との時間は祝福として受け取ろう。

 君もそう望むだろう?

「おーい服部ー」
「おーい相川ー」
 待たせていた皆の僕らを呼ぶ声が聞こえる。フッと目を瞑り、思い出を覗く。
 結局、彼女は僕の嘘をどこで見破っていたのだろうか? 今となってはわからないことだが、たぶん、身を重ねた夜の後だと思う。恋人だからわかる、彼女はそう言っていた。正式に付き合ったのもその頃だし、この時からバレていたんだろうなぁ。
 思えば彼女は僕のことを想って、気づかないふりをしていたのだろうか? きっと、そうだろう。僕も彼女も互いのことを思い、すれ違ってしまった。
 でも、最期は、最後は真にわかりあえた。僕は最善の道を選べなかった。だけど、僕と彼女は、本当に、本当にお互いが好きだったんだ。それは、それだけはこの上なく強く、確認できた。
 なんだか懐かしく、悲しい。最大の感情は彼女の元に置いてきた。でも、今が空虚なわけじゃない。僕は現実に立っている。
 人間が大嫌いだった僕は、変わった。好きになろうとしたし、それはもう半分成功している。彼女ほど人間のことを好きになれないかもしれない。でも、僕は選んだ。
「おし! いくぞ相川!」
 ニヤッと笑い、先に走っていく服部。
 なんだか、眩しい。
「相川ー! 早く来い!」
「はいはい。わかったよ」
 僕は平坦な声を出す。
 そして走り始めた。
 今の僕の表情は、もしかしたら少し、ニヤケているかもしれない。
 《――よかったよかった》
 突然、声。懐かしい気がする。でも、きっとこれは幻聴だ。
 僕は走り続ける。
『ねえ相川君。人の意志は、死にゆく人の気持ちとか、魂はどうなるんだと思う?』
 以前、彼女はこんなこんなことを言っていた。僕はそれに「消えるだけだ」と答えた。
『きっとそれが正しいんだよね。でも私はこう思いたいんだ』
 彼女は、願望を口にした。
『人の純粋な思いは、願いに似た祈りはきっと誰かに届くんだよ。この世の中にエネルギーがあふれてるなら、人の意志は、その意志を持ったエネルギーは何かを変えるんだって』
 人の意思にエネルギーがあるのなら、僕らの知らないところでなにか影響を与えているかもしれない。誰かを思う心が、もしかしたらほんの少し、世界をよくしているかもれしない。もし、人間の意思にエネルギーがあったらだけど。
 この考えが嫌いではなかった。誇大妄想的だし、現実味がない。しかし、誰かを思う心がいい結果を残すというのは、あながち間違いではない気がするのだ。
 だから、
 ――僕は、ここにいるよ。
 服部の背中が見える。僕は、彼女に思いを送る。目を閉じて、ただひとりの人間だけを思う。
 感謝してるんだ、と祈ってみる。
 君のおかげで、僕は人間になれた。幸せを知れた。この世はとても苦しいけれど、苦しいだけじゃないんだってわかったんだ。
 景色は今日も曇りがかかったっているけれど、灰色なんかじゃない。たまには、鮮やかにだって見える。
 この世に意味なんてないと思っていた。死ぬのが怖いから死なないだけだった。心のどこかで、終わってしまうのを望んでいた。
 でも、今は違うから。
 生きることに意味があると、多少なりとも思えるようになったから。
 それはきっと、君のおかげだから。

 もうすぐ待っている仲間の近くにつく。

 ぎゅう、と僕はひとり手を握る。

 ――僕は、ここにいるよ。

 君がほんの少しの時間でも、そばにいてくれてよかった。
 僕がここにいるのは、きっと君のおかげ。
 だからこの、君への感謝は。
 だからこの、切実な思いは。
 君へ。

 ――祈りは届くと信じてる。

犠牲の都市

犠牲の都市完成版《仮》

犠牲の都市一


人が一人が死んで、何人救えれば納得できる?
人類は一度滅びた。天に現れた黒く、巨大な星によって。
人間は地下に都市を作った。その存続には犠牲が必要とされた。
……堕ちてきた星は、人間に有害な粒子をまき散らした。その粒子はどこにでも入り込む。対抗手段として、人はその粒子を道具として使った。そのためには、ある理由により人が一人死ぬ必要があった。
――いったい何人救えれば、死ぬべき犠牲者は満足するのだろうか。
百人? 一万人? 数十万人? どれも同じこと。
それでも、犠牲になる人間は必要だった。犠牲者本人の意思は、決して汲み取られることがない。
「犠牲になる人のこと、どう思う?」
彼女はたまに、そんなことを言っていた。僕はそれにかわいそうなことだと答えた。けれど仕方がないと。現実的には、誰かがそれをやらなくてはならないと。だって、そうしないと何十万もの人が死ぬ。
「生真面目さん」と彼女は笑った。それは関係ないだろうと、なぜだかむきになって返したのを今でも覚えている。
――幸せ、だった。
彼女といられることが。一緒に笑って、おかしなことを言って、彼女の笑顔を見て余韻に浸って。
当時、僕らは十七だった。同い年の彼女と一緒にいることが多かった。
欠けているものなど、なかった。
たびたび犠牲者についての話題は繰り返された。
僕の結論は、いつだって変わらない。そういう決まりは、法は守られるべきだ。社会の秩序は絶対的でなくてはならない。それならば、たった一人の個人はその意思を……無視されなければならないと。
そのたびに彼女は笑った。気づくことが、できなかった。
「立派だね、よく考えてる」
決まって彼女はそのあと、少しの間だけ後ろを向いていた。表情は見えなかった。
――見えれば、きっと、見捨てられたような顔をしているに違いなかった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー


『我々の命は常に犠牲の上に成り立っている。我々が住むのは犠牲の都市だ』
人が一人を犠牲にし、ようやく自分たちは生きていられる。それを忘れないための、自戒の言葉。
それは頭に浮かんだ最初の言葉だった。とても、信じられなかった。
「……どういうことですか」
「私たちの娘が、犠牲者として選ばれた」
彼女は忽然と姿を消した。僕の日常から、なんの前兆もなしに。
彼女の両親の表情に、いつもの穏やかさと言ったものはない。それが否が応にも、真実なのだと知らしめた。
「一年前からだ。緑の矢が、私たちの娘には立っていた」
緑とは、命を表す色。緑の矢がたてられた者はその身を捧げなければならない。
『星堕ち』という出来事で人類が滅んで以来、人は魔法という能力を手に入れた。大抵の人は炎やら氷やらを生み出すことができる。しかし、体力の消耗と生み出されるわずかな奇跡は、結果として釣り合っていない。犠牲に選ばれるのは、決まって魔力が高い者だ。魔法とは、ただただ犠牲のための身に存在する。……一般的には、何の意味もない奇跡。
「……嘘ですよね?」
呆然とつぶやく。言葉が宙にうく。否定してくれと、誘うみたいに。だがそれは、ひらひらと落ちていく。
認めたくなくて、さらに言葉を紡ぐ。
「緑の矢がたてられるほど……魔力は高くなかったはずですよね?」
「……」
沈黙が続く。
……どうしてこんなことになっているんだろう。
じゃあ防げたのか?と自問する。まさか、そんなはずはない。
確かに、彼女のたしかに魔力は高めだった。「まあ、あんまり意味はないけどね」と彼女は言っていた。実際、周囲の羨望も彼女の身体能力のほうに向いていた。魔法というのは実に、犠牲のためにしか使い道がない。
沈黙。咳払い。溜息。
「私が話そう」
と、彼女の父が言った。
これは本当は関係者の親族以外には話してはいけないことなんだけどね、と彼女の父は続ける。
「犠牲者の平穏な日常を乱さないために定期的な魔力検査の結果は、魔力が高い者に限り……調整が入るらしい。実際に緑の矢が立てられたのは一年前だ。しかし、私たちが知ったのはもっとあとになってからだ」
馬鹿げてる、と思った。平穏な日常を乱さないために? そんなもの、ただの詭弁だ。要するに無駄な混乱を起こしたくないのだ。
そんなもののために、と拳を握り締める。
知ってしまったら戻れない真実、というものが存在する。確かに、一年前に自分が緑の矢がたてられる予定であることを、彼女が知ったらどうなるだろう。きっと、その一年間ずっと死に怯えることになるだろう。だがだからこそ、最後の一年間を有意義に過ごそうとするはずだ。突然、緑の矢があなたにたちました、人々のために死んでください。なんて言われても、悔いが残って仕方ないはずだ。
――本当にそうか?
そう考えるのはただの自分のエゴではないのか?
『ねえ、この都市を保つために犠牲になっている人たちについてどう思う?』
――目の前が真っ暗になる。
僕はこの彼女の言葉に何と答えた?
仕方ない、と答えたのだ。可哀想だけど必要なことだと。
――じゃあ、彼女はこれを聞いて何を思ったのか。
「娘はね、あなたのことが好きだったみたいなの」と彼女の母は言った。なにかをこらえるように、それだけを言った。
頭が痛い。立ち上がるもふらつく。
「失礼……します」
「気を付けて帰りなさい」
「はい」
扉を開ける。目の前にはどこまでも真っ暗な風景が広がっていた。
罪悪感。それを今、僕は感じている。だからと言って何かができるわけではない。
「……きさん……ゆうきさん!」
誰かが呼ぶ声。その方向に眼を向ける。そいつが誰か、僕は知っている。
「卓也」
彼女の一つ年下の弟だ。彼は僕のことを裕樹さん、と親しみをこめて言う。今、最も顔を合わせたくない相手だった。
「こっちに来てくれ。話があるんだ」
「……わかった」
卓也に黙ってついていく。やがて人気のしない場所に出た。そこでようやく、彼は話し始めた。
「父さんと母さんから、話は聞いたよな?」
「うん」
「じゃあさ――」
姉さんを救おう。飛び出したのは、そんな言葉だった。
「馬鹿な。何を言って……」
「父さんと母さんには許可はとってある」
その言葉に思わず絶句する。その言葉がどういった意味を持っているのか。
この都市において、法は絶対だ。それを守りきるために、破れば過剰な罰が与えられる。特に、反乱行為には顕著だ。
……実際、前例がある。緑の矢に選ばれた者を救うために、施設に忍び込んだものがいた。そいつは犠牲者の父親だった。結果はあっけなく捕らえられた。……それだけで終わったわけではない。
『犠牲者の血縁関係があるものがその奪還を目論んだ場合、その血を絶やす』こんな条文がある。
まさか。本当に実行されるとは思わなかった。国民のほとんどは、これがただのこけおどしの法だし思っていただろう。
果たしてそれは実行された。
今でもよく覚えている。

私は娘を救おうとしただけだ!私たちは関係ないじゃない!せめて子供だけは……

処刑は市街地、誰にでも見られる場所で行われた。最初はたくさんのやじ馬がいた。だが最初の一人が処刑されたあと、その場に残っているものはほとんどいなかった……。
つまり、卓也が言っているのは。
「親が死んでも……いいの?」
「本人が望んだんだ」
「それでも……」
言葉を詰まらせる僕にまくしたてるように彼は言った。
「心配しないでくれよ! 調べてみたんだけど『犠牲者の血縁関係があるものがその奪還を目論んだ場合、その血を絶やす』っていうのはおそらくミス法文なんだ! 『犠牲者の血縁関係』が奪還を企てなければ罰せられることはないんだよ! 俺、ほかにも調べたんだけどさ、裕樹さんの言う通り、法に例外はないみたいだ。明らかに間違ったことが行われても、法の穴を通ってしまった場合は見逃されて、それを元に法が組み替えられて、ようやく次に起こった奴が罰せられるんだ! ……裕樹さんの家族が殺されることはないよ」
たしかに、裕樹さんには命をかけてもらうことになるけどさ。彼は付け足すようにそう言った。
この一歩犠牲に関して間違えれば壊滅する都市は、法を絶対的に遵守している。絶対的な統治のために、必要なものとして。だから、きっと卓也の言うことは間違っていないのだろう。僕は法を今まで勉強してきた。法の番人こそが、将来目指すものだったからだ。
しかし、
「違う」
彼は勘違いしている。
「だったらなにを――」
「犠牲者とは、必要な犠牲なんだ」
今度は卓也が言葉を詰まらせる番だった。まるで理解できないという表情。
「なにいってんだよ裕樹さん」
「法破りの罰があまりに厳しいのは、例外を極力生まないためだ。……特に、『犠牲』に関して厳しいのはもしものミスで失敗をしたらこの都市すべての人間が死んでしまう。だから、いくら彼女が犠牲者だからと言って、例外は認めることはできない」
そう。それが法の番人を一心に目指してきた僕の答え。僕の考え。大のために小を切り捨てる。それが正義だ。
そして、例外は認められない。一度法が破られ、無意味なものとなったらこの都市は終わる。
……ほとんどの奴は気づいちゃいない。自分たちは、運が悪ければ次の瞬間にも死んでしまう、そのことを。
「……なんだよ」
呻くような声。
「裕樹さんの考えも、その正義もわかる。俺だって一度は本気であんたと同じ道を行こうとしたから。でもさ」
その声は、悲痛に染まっている。
「俺たちが生きてるのは現実なんだ。そんな理論は仮想で使うものだ! ……大事な人を助けるためなら、平然と投げ捨てるものじゃないのかよ」
『ねえ、この都市を保つために犠牲になっている人たちについてどう思う?』
胸がズキンと痛む。それでも、僕の理論は正しい。すべての人間を犠牲にするほど、彼女の命は重くない。
僕は首を横に振る。
「全ての人間が自己の犠牲を拒むなら、この都市は終わる。平等でなくては、ならないんだ」
「そんなの……」
「それに、どうやって助けるつもりだ?」
「……」
「政府の部隊はどうする? 助けたあとはどこに行く? そもそも成功の確率的に君と両親、合わせて三人分の命をかける価値はあるのか?」
いくら本人の了解を得ているからって、人の命なんて他人が背負えるわけがない。人の命とは、人にとって重すぎる。
救出の後も先も、どうやったって未来がない。たった二人で何ができる? この都市は一生分逃げ回れるほど広くない。本気の政府が相手など……。
「嘘だ」
泣いている。十六にもなる少年が、最後の希望に裏切られたと泣いている。
「嘘だ!」
せきを切ったように、涙がこぼれている。
「姉さんはアンタのことが好きだっていってたんだぞ! どうせアンタだって姉さんのことが好きなくせに! 告白してない? はっ、そんなことを言い訳にするのかよ!」
怒鳴っている。感情をむき出しにしている。悲しんでいる。
僕にとって、彼女がどんなに大切でも自分の打ち立てた理論に逆らっている限り、救うということはできなかった。
まるで見当違いの言葉だった。現実も理屈も何もかも、どの要素をとっても『僕は彼女を救わない」という答えが出る。
なのに……なんでこんなにも胸が痛むんだろう。
「見損なったぞ!」
きっと、客観的な第三者がいれば、こういうだろう。お前の選択が正しい、と。
第一君が命をかける必要もない。現実的にも難しい。|仕方のないことなんだ《、、、、、、、、、、》。 
「なあ、頼むよ裕樹ささん。姉さんを助けられるのは、裕樹さんだけなんだ」
願うように、祈るように彼は言う。
それでも僕は。
「ごめん」
選択は変わらない。

「俺はレジスタンスに入るよ。なんとかして姉さんを救う手段を見つけるんだ」
それが彼が去り際に残していった最後の言葉だった。
――きっと、彼は僕が来ることを期待している。

 

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暗い照明が地を照らす。
この地下都市では、夜を表現するために暗めの明かりが用いられる。朝はもっと明るい光だ。
大勢の人々がたむろしている。息苦しい、むせかえるほどの人ごみ。
流されていく。行き場のないまま。なにもみえないまま。
思えば、そんな風に生きていくのが、一番嫌だった。生きていく目標が欲しかった。
何のために生きる?なんのために死ぬ?
世情を見て、その答えを出した。
世の中を、変えてやるんだ。生きた証をどこかに刻もう。そうだ、できれば人のためになることをしよう。
所詮、子供の考えることだった。だが、その思いはどこまでも純真で、それだけに僕の基盤となった。
『裕樹クンは立派だねー』
……思えば、他にも要因があった気もする。
『私、雪っていうんだ。ユウキ、から一文字とればユキ。これって運命じゃない?』
人に認められるということ。
『そっか。じゃあ私が応援してあげるねー』
ほんの少しの勇気をもらうということ。
『君ならできる!』
……。
だが、だからと言ってなんだというのだ?現実には刃向かえない。
小さいころは何でもできると思っていた。でも今はそんなことはないと、十分わかっている。
大人になるということ、何かをあきらめるということ。それら二つはよく似ている。もう、僕は大人にならなければならない年だ。
突然何かにぶつかる。違和感を覚える。前に何かがある気配はなかった。
「おっとすまないね」
その人物が口を開く。
どこまでも異様な雰囲気を放つ人物だった。確かにそこにいるはずなのに確信が持てない。しかし、強い存在感を感じる。矛盾の塊。
男は笑っている。
「認識できるみたいだね」
注意してみれば案外、その声は若い。
「……だれ」
「謎の人物だよ」
「はあ」
「ところで君に聞きたいことがあるんだけど」
目が合う。吸い込まれるような黒い瞳。
「君はどれぐらい生きたていたい?」
瞬間、身動きが取れなくなった。人ごみの中でとまっているのに誰も気に留めない。異様な状況。
「ぼくは」
たった一つの目標のために。
「ぼくは」
感情は犠牲にしなければ。仕方のないことだから。
こみ上げてくるものがあった。自分の奥深くからくる、理屈ではない感情。
「彼女が生きている間……まで」
「普通、こういう話には他人はでてこない」
男は驚いていた。そしてなにか見定めるようにこちらを見る。
「じゃあその彼女が死んだらどうするの?」
そんなもの……。

「君は死ぬのかい?」

諦めが心を満たす。そんな気がした。
誰が死のうと、結局人は生きていく。そして忘れる。それが現実だ。
「そんなものだよ。答えなんて」
だがそれでも。
「じゃあどうすればいい?」
受け入れるのは許容しがたい。
忘れたくない。失いたくない。だが取れる手段なんてない。
詰んでいる。終わっている。意味を失っている。
「消去法的選択というのがある」と男は言った。
例えば、君は武器を持った大量の敵によって崖に追い詰められている。崖の下は深く、底が見えない。でも君は飛び降りなければならないんだ。飛び降りるのがどんなに怖くても、敵の元に向かえば、絶対死ぬのだから、身を落とすという選択肢しかない。
さて、君は崖の上に立っているか?
「どうだろうか」
「僕は……」
彼女はそこまで大切だろうか?
要するに僕には藁にすがるという選択肢が残されている。だが失敗すれば全てを失う。成功しても全てを失う。あまりにも釣り合わない、愚か者の選択。大人にならなければならない。もう、いいかげんに。
『ずっと一緒にいようね』
それでも……感情が否定している。
泣きそうだった。もういい加減にしてほしかった。だって無理だ。前例だってない。前例をださないように、この都市は徹底している。
僕は崖に立っている。
「彼女は死なない」
「そっか」
男は優しく笑っていた。
もし他人の、第三者がいればきっと僕を否定する。
諦めたほうがいい。 |だって仕方のないこと《、、、、、、、、、、》なんだから。

「世の中意外と何とかなるものだよ。世界には手段が溢れすぎているから。そして君には素養がある」
立ち去ろうとしているのが気配でわかる。
「最後に聞かせてほしいんだけど、もしその彼女が永遠に生き続けるなら、君も永遠に生き続ける?」
「うん」
「いい答えが聞けたよ。じゃあね」
違和感が消える。どこまでもいつも通りに。
世の中のルールは規則的に回り続ける。逆らうことは許されない。秩序を守るために。
枠外からはみ出ることを、愚か者と、世間一般は呼ぶ。

 


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彼女を助ける。そしてそのあと、どうやって生活していくのか。
この二つの問題を見つれられなければ、助けることなんて諦めるしかない。今までの僕は手段を考えることさえしなかった。今は考えてはいる。だがあまりにも難しい。
最も重要なのは助ける前よりも後だ。すぐ捕まりました、では意味がない。
試しにこの都市の地図を眺め、隠れひそめそうなところを探ってみた。なんとか見つかりそうにもないところを見つけ出した。しかし……政府の本気には対応できない。何年かは防ぐことができる。だが一生逃げ切るというのは確実に無理な話だった。
頭を悩ませる。土台、無理な話だ。民間人が普通に立ち回って出し抜けるような隙間。そんなものは万が一つもない。
本来なら諦めるところだった。いくら思いが強くても、無理なものは無理。駄々をこねたって揺るがない、意味がない。現実に逆らうというのは不可能だ。
しかし、
『俺はレジスタンスに入るよ。なんとかして姉さんを救う手段を見つけるんだ』
卓也の言葉。
本来詰んでいて、諦めるしかない状況だが、まだ全てを試したわけではない。彼の言葉がそうさせたのだ。
彼女の一つ年下の弟は、なぜだかレジスタンスの繋がりがあるようだ。現在、何一つ問題は解決していないが、解決方法を探す手段を探す、という頭の痛くなるような道だけは残されている。
だが卓也はいなくなっていた。その親も行先は知らないらしい。
ということは、卓也は組織に潜り込めた……あるいは殺された、ということだ。状況は動いている。
レジスタンス……あまりにも危険な相手だ。馬鹿げた空想ともつかぬ妄想を謳い、殺人をするだけの組織。300年ほど前に大きな事件を起こし、最近だと40年ほど前に人を殺した。だが皮肉なことに、彼らの存在はこの都市の人々の結束を高めている。法に仇名す、唯一の脅威として。……実際、長い目で見れば、彼らは良い影響を与えている。だいぶ昔に、僕はそう結論付けていた。
目隠しをとかれる。
「……」
彼らを捜索して三日目。僕はようやく手掛かりを得た。革命論を唱える演説かあたりに目星をつけ、そこに出席する共通人物を探っていった。
「小僧、ここから先はもどれないぞ」
そんなわけで、僕はレジスタンスの拠点の前にいる。接触してきたのはあちらからだ。政府が見つけられない場所を、個人が見つけられるはずもない。
「わかってますよ」
いかつい面の男が扉を開ける。埃っぽい雰囲気。
そこにはいかにもおおものらしいオーラを出す男と……。
「裕樹さん!やっぱり来たんだね!ボス、あの人が俺が言っていたひとだよ」
卓也がいた。ほっと一息をつく。一つ年下の彼は、生きていたのだ。それどころかなじんでいるような感じもするが。
ボス、と呼ばれた男がじろりと頭のてっぺんからつま先まで、観察するようにこちらを見た。
「なあ、おまえ。俺たちの組織に入りたいらしいが……志望動機をきかせてもらおうか」
この場を支配する雰囲気。背負っているものがあるという自負が、決意が、感じられる。
「現在の貧富の格差を強く感じたからです。だから世界を変えたい。それにはここしかない、と」
「で?」
――見抜かれる。
まともじゃない。ただのうのうと、生きてきた人間じゃない。
冷や汗が滲むのを感じる。下手なことはいえない。真に迫る何かを、引き出さねばならない。
「法は絶対に正しく、また、そうあるべきです。実際、そういう流れはあります。――でも今の法は完璧ではありません。それを変えようとする答えが、ここにいる理由です」
つっかえずによく言えたものだ、と我ながら思った。
ふと思う。これは真から出た言葉。つまりはそういうことではないか?
「まあ、いいだろう」
ボスと呼ばれた男は頷く。気配は緩まっていた。もう見定め終えたということだろう。
「これから俺のことはボスと呼べ。慣れんだろうが形からだ。|照(てる)!こいつは賢そうだ、図書室へ連れていけ。教育は任せる。羅門!お前はこいつの訓練係だ。ほかの新入りと同様かわいがってやれ」
とたんに敬礼をした順番で誰が誰だかわかった。照、と呼ばれたのはスキンヘッドの優しげな男だ。羅門、と呼ばれたのは僕を連れて来たいかつい男だ。
照がこちらに近づいてくる。
「じゃあ付いて来てくれる?」
「はい」
卓也がこちらを心配そうに見ている。卓也の時とは違う誘導なのだろうか?
歩く照の後をついていく。通路は武骨なつくりだった。まるで飾り気がない。機能性を追求したような作り。
「座って」
本がずらりと並んだ部屋。いわれるまでもなく、図書室とわかるその場所で、椅子をすすめられる。
恐る恐る、慎重に座る。
「君ってさ、何か大きな力に憧れてここに来た?」
いきなりそんなことを問われる。
「……え?」
「あー違うか。気にしないで。じゃあ、何か欲しいものがあるのかな?それとも別の目的があるのかな?」
それに答えようとする、寸前で咳がこみ上げる。通路が埃っぽかったのか。
「大丈夫かい」
「あ、はい。ぼくは――」
……待てよ?この質問に答える必要がどこにある?最初にこの組織のボスにいったことを繰り返す、それでいいはずだ。
ふと気づく。この照という男の人の好さそうな顔。そしていつの間にか緩まっていた緊張感。
会話がどこかに誘導されようとしている。
「最初に言った通り、世の不平等を正すために来ました」
「なるほどなるほど。立派なことだ」
それから世間話が続いた。あれはほんとはこうするべきだ、こっちにすればもっとよくなるのに。博識だねとかいい考えだ、とか、時々僕を褒めるようなことを照は言った。だが一度違和感を感じると……それがますます確信的になっていく。
「照さん。もうやめませんか」
照は人のいい笑顔のままだ。スキンヘッドにもかかわらず、威圧感というものが全くない。細められた目のパーツ、頬のあたりのえくぼ。それがこんな印象を生むのだろうか。
「やっぱり頭がいいみたいだね。名前を聞かせてもらっても?」
隙あらばこんなことを言う。家族に迷惑がかかるかもしれないのだ、いうわけがない。だが一瞬答えそうにはなってしまう。会話術、というものだろうか。
照が明るく笑い始める。
「いやーまいったまいった。どこらへんで気づいた?警戒心が強いのか、気づくという能力に長けているのか。わからないけど君みたいな人は良い」
「まだそんなことを――」
「いやいや、待ってくれ。今回のは本心だよ。そう怒らないでくれ」
ウインクをしてみせる。その程度で一度根付いた猜疑心は消えやしない。
「君は有望だよ。是非ともうちに欲しい。でもだからこそ、一度チャンスを上げよう」
「……はあ」
「君は一度帰っていい。戻ってくるかは君しだいだ。今日のことをまるまるなかったことにしてもいい」
到底意味が呑み込めなかった。
「なんでですか?」
「作戦会議が必要なのさ」
「作戦会議ですか」
話す気はなさそうだった。
「まあ、こっちの事情は置いといて君ももう少し考えてみるといい。わざわざ暴力に訴えてまで世界を変えたいといってるんだ。君はそういうタイプに見えないけれど、内側から変えるには成績がたりないとか、法を変える立場は一般人がいけるものじゃないだとか、何かしらあるんだろう。でも現実の生活を脅かしてまで理想を叶える必要があるのか、本当にこんな道でいいのかゆっくり考えるべきだ」
「……わかりました」
再び基地の入り口まで送られる。そこでは羅門という男が待っていた。
目隠しを渡される。確かに、本当に僕が戻ってこないと決めたなら、通報をさけるためにも基地の機密性は重要だ。
「じゃあね。また会うことを願ってるけど……君次第だ」
照の声が聞こえる。

 

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ずっと考え事をしている。
結局、何事もなく僕は帰された。明日にでも革命派がどうたらこうたら言っている場所に行けば、レジスタンスに入ることになるだろう。きっとあちらから僕を見つけられるはずだ。
「……」
考える。いまならまだ、引き返せる。だが引き返すといってもどこまでだ?彼女はいない。彼女の弟、卓也だって。ここまで来たんだ、今更引き返せない……なんて考えは捨てる。ギャンブルに嵌る思考だ。もっと論理的に、指針を見つめねば。
なんで今更迷うんだろう。
『現実の生活を脅かしてまで理想を叶える必要があるのか』
照の言葉。わかっていたことだ。だが、他人に言われると、また違う方向で心に来る。失敗すれば何も残らない。僕の親だって悲しむ。僕の親は生き残るだろう。僕は今までずっと法を勉強してきた。
『犠牲者の血縁関係があるものがその奪還を目論んだ場合、その血を絶やす』
この法に穴があるのは実際の奪還の例が一度しかないからだ。もう一度でもあれば見直しが行われ、きっと塞がる。今の社会は、そういう体制だ。何年も何年も努力し、法を考察してきた。だから確信がある。
そう、失敗すれば、僕は死に、親は生き残る。考えが及んでいなかったわけではない。だが浅かった。僕が彼女を救うがために、親を悲しませる。成功しようと、きっともう会えなくなる。
頭が混乱する。結局、今更悩むのは成功を信じていないからではないか?他人に現実を突き付けられ、自信を失ったのだ。決心が弱かったわけではない。あの時の思いは本物だ。だが、何よりも自分自身が成功するはずがないと思っているのにどうして自分の道を信じていられる?僕はそこまで強い人間ではない。
こんな時に彼女がいてくれたら、なんてことを思う。誰かに背中を押してほしい。お前ならできるといってほしい。でも赤の他人に聞けば、きっと無理だというだろう。それが現実だって、そんなことはわかっている。
トントン、と扉が叩かれる。「どうぞ」という言葉の後に開かれる。入ってきたのは、父だった。
父は老けた容姿をしていた。母が病で死んで以来、白髪が増えた。きっと男手一つで息子を育てるのはさぞ苦労しただろう。だが代わりに、父と僕の関係は良好だった。
「裕樹、悩みごとか」
「……」
何も言うことができない。言ったところでなんになる?否定の言葉なんて聞きたくない。その後に来るのは同情とか、おまえは悪くないだとか、そういう生ぬるい言葉だ。そしてこう言うのだ。「そこまで思うことができるなんて、お前は優しいな」優しさを尊ぶ父は、きっとこう言う。優しい父は、絶対に最後は僕を肯定する。
「聞いたよ。連れていかれたんだってな。その……残念だったな」
そう思っていた。だからこそ沈黙を貫いたのに、向こうから踏み込んできた。怒りにも似た感情。でも父は悪くない。父は優しいだけだ。『結果が実らなくても、努力や気遣いは、特に身近な人に対しては、認めるべき』
彼女と僕が考えた結論。彼女がいない今、絶対に守らなくてはならない誓いに似た約束。優しい親に当たり散らしてはならない。理屈ではわかっているし、当然のことだ。だが、こみ上げる感情を抑えることのなんとも難しいことか。
承認と肯定が欲しかった。だが父が僕を大切に思うからこそ、きっと父は彼女を助けるという行動を止めるだろう。
「大丈夫、なにも問題はないんだ」と僕は言う。父と争いたくない。どうせ互いに認め合うことができない。誰かが悪いわけじゃない。けれど、これが現実だ。せめて、何事もなく出て行こう。……申し訳ない気持ちはある。
そんなことを思った。仕方がないんだと。だが父はさらに踏み込んできた。
「あのな、裕樹。聞いて欲しいことがあるんだ」
背筋がざわつく。やめろ、と叫びたい。
「お前は優しすぎるから、自分を責めているかもしれない」
やめてくれ。
「でもお前は、悪くないんだよ」
――歯を食いしばった。
誰も、何も悪くない。能力の欠如による失敗は社会では咎められる。結果がすべてだからだ。だがせめて、身近な人だけはそれを咎めないであげよう。だってそこにいる自分は最後の見方なんだから。
だから、僕は耐えなければならない。それが正しいと、誰よりも、僕自身が信じているから。
「どうだっていいよ」
「諦められないのか?」
まだ、続けるのか。
「……」
「時間が解決してくれるさ。というよりも、それしかないだろう」
月並みな言葉。月並みな慰め。父はそれを繰り返す。別に父が悪いわけじゃない。でも……欲しい言葉は何一つくれない。それでも、誰かが悪いわけじゃない。
向けられる感情は憐憫、そして愛情。思いやりの心。それだけだった。
「父さん」
父は紛れもなく味方だった。だから、この悩みを聞いて欲しい。背中を押してほしい。
「彼女を助けたい」
そう言った。
父の顔は歪んだ。
「やめなさい」
「迷惑はかけない。法に穴が開いているんだ。とれあえず、被害を被るのは彼女の家族と、実行する僕だ。父さんは大丈夫だから」
「そういうことじゃないんだ」
「無理っていうわけ?」
この瞬間も、父は次の言葉を考えている。どうやって説き伏せるかを。なんとかして、僕を傷つけない言い方を。
「それもある」
僕は目を瞑る。わかっていたことだ。
「だがな、それ以上にお前には危険な目にあってほしくないんだ。お前が雪ちゃんを助け出せて、命が無事な可能性がどんなに高かったとしても、父さんは感情的には……言ってほしくない。理屈はまた別の話になるが」
わかっている。わかっているんだ。父は息子のほうが大事なだけ。感謝こそすれど、恨むなんて筋違いだ。
……だけど、
「もう決めたんだよ。応援してほしいんだ」
「……無理だ」
嘘を言うことのない誠実さ。いや、今、嘘をつくのは、最悪の事態を招くとでも思ったのかもしれない。
沈黙が続く。夜の静寂が、逆に耳に突き刺さる。
はあ、と心の中でため息をつく。気持ちが揺らぎすぎている。自分自身が嫌になる。身動きが取れない。息が苦しい。
溺れている。もがいて苦しんで、答えを探している。
いったいどうすればいいんだろう、と胸に問う。答えは返ってこない。
「なあ、裕樹」
と、父が言った。
「なに」
「人は何のために生きるだと思う?意味はあるのか?きっとないんだろう」
父は首を振る。僕は黙ってそれを見ている。
「結局、意味なんて自分で決めるしかないんだ。心の奥底では、誰だって気づいてる。神様は意味があって人を生んだんじゃない。理不尽な現象が存在するのがその証拠だ。迷路の話、覚えてるか?」
「うん」
頷いて答える。
以前、父にこの世はまるで迷路のようだという話をされたことがある。
その迷路に出口はなく、自分がどこにいるのかがわからない。みんな出口を探している。途中でそんなものはないと何人かが気づく。だから代わりに目的地を探す。でもそれだってほとんどの人間は見つけられずに死んでいく。だから、多くの人は死を目的地と定め、いい人生だった、なんて言って死んでいく。「父さんはな、それが納得できないんだ」と言っていた。納得したふりをすることはできる。でもそれは嘘だって、他の誰よりも、自分が気づいているんだ。だからずっと悩み続けているんだよ。そしてこの問題が解決することはないんだろうって思っているんだ。
そんなことを言っていた。
「お前の目的地は……彼女と共にあるんだろうな。父さんはどうしても、お前が危険な道に行くことを応援することはできない。でもな、
やっぱり、自分の道は自分で決めるべきだし、他人が決めれるわけじゃないんだ。……お前が本当にその道を進むと決めたら、どんなものに逆らうことになっても進むしかない」
父は気弱そうな笑みを浮かべる。
「応援してあげられなくてごめんな。でもこれは、変えられないことだから」
父の言葉は、確実に欲しい言葉ではなかった。要するに、自分のことは自分で決めるしかない、とながながと説いただけだ。突き放した言葉だった。助けてはくれなかった。
……だが確かに、父は信念を僕に伝えた。
「そっか」
「ああ、本当にすまない」
「……ありがとう」
きっと。きっと、僕が決心をしていなかったら、この言葉は決定打にはなりえなかった。
父は僕を助けなかった。信念だけを与えた。でもそれで十分だった。元々考えは固まっていた。自信がなくなっていただけだ。
父を見つめる。
「明日からはもう会えない」
父は悲痛な表情をしていた。
「アテはあるのか」
「あるよ」
「そうか」
僕は身支度を始めた。長くとどまることはあまりいい効果を生まない。
そして最後に、言うことがあった。
「お父さん、今まで育ててくれてありがとう。本当に、感謝してる」
「……ああ」
扉に手をかける。
「裕樹……頑張れよ」
応援はしないって言ったくせに。
最後につぶやかれたその一言にただ頷いて答えた。

照が僕を出迎えた。
「ああ、結局、来たんだね」
彼は穏やかに笑う。
「いい目をするようになったね。さて、歓迎するよ。茨で作られた、反逆者の道へ、ようこそ。ここから先の道は、君次第だ」



「どういう自分になりたい?」
きっかけは、気まぐれの一言だった。いや、彼女はわざとこんなことをいったんだろうか。
幼年期の、少しだけ分別が付き始めた頃。
アリの死骸を見つけたら、悲しくなるということをわかり始めた頃。
相手が嫌な気もちだと、自分も嫌な気持ちになるんだと、気づき始めた頃。
当時、僕らはまだ、七歳だった。
「すごいひとになりたい」
すごいひと。漠然とした、子供のふわふわした思考。
子供の頃、世界はもっと狭いと思っていて、周りが幸せなら、世界全体は幸福だと思っていて。
不可能なことはなかった。世界とは、自分のもので、自分そのものだった。
――願えば、なんでも叶うと、思っていた。
「どんなすごいひとになりたい?」
僕よりほんの少し、具体的な考え方。ふわふわを、ほんの少しハッキリとさせる思考法。
思えば、子供のわりに、彼女は大人なびていた気がする。
「しあわせにできるひと!」
「どうやってしあわせにするの?」
「なんとかする!」
ひどい答えだった。
「あはは」と彼女は笑った。
「ねえいま、しあわせなの?」
と僕は聞く。
君、キミ、きみ。恥ずかしがって、僕らはお互いの名前をあまりよばなかったっけ?
彼女はとても幸せそうに笑っていた。
「もちろん。キミはどう?」
小さかった頃の僕は、幸せそうに笑っているきみを見ていた。それで。
「しあわせだ!」
わけもわからず、そう叫んだ。
それは、まやかしや、ごまかしに近いのかもしれない。風邪がうつるように、つられて笑っていただけかもしれない。
単純だった。でもそれが悪いことだというわけではなかった。
そうやってきみの笑顔を見て。単純にいい気分になって。
人の笑顔を見ると、自分も楽しいんだなあ、と思って。
子供、だった。
そんなあやふやな状態で、いろんなことを思った。
すごいひとになりたいと思った。すごい人とは誰かを幸せにできる人だった。笑顔は幸せの象徴だと、信じた。
「きみはなんでわらってるの?」と僕は問いかける。
「しあわせだからだよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
だから。
ふわふわとした考えは少しずつ形を作っていった。いまだにそれは曖昧だった。
それは、僕の基盤となった。



「いいことをするのは本当にいいことなの?」
「どうしたの急に」
大きくなっても、僕らは結構な頻度で会っていた。周りにそんな関係を笑われたりもした。だから表ではあまり関わらなくなった。だからといって、彼女と一緒の時を過ごさなかったわけではない。
秘密の場所があった。子供のころからの、ふと寄ってみれば彼女か、僕がいる、そんな場所。
中学に上がった時も、それは続いていた。
「なんだか……わからなくなってきちゃってさ」
「いいことをすることが?」
「そんな感じ」
「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない?」
「どうして?」
「……」
「じゃあ、宿題ね」
「えー」
もともと、僕はそこまで、物事を深く考えるほうでは、なかった気がする。複雑で無意味な考え事は、彼女の受け売りで、彼女が答えを求めるから、僕も答えていた。最初はどうだってよかった。だが、だんだんと、影響された。
鳥はなぜ飛ぶ? 人はなぜ生きる? 私たちの目指す形は何?
互いに疑問と主張をぶつけ合った。話のタネが欲しかっただけなのかもしれない。僕らの間に何があるかなんて、点でわかっちゃいなかった。だから、理由のような、言い訳のような、何かを、手放さないためにそういう話をしていたのかもしれない。
「考えてきたよ」
「ほお」
「僕は|結果《、、》が大事だともう」
「どうして?」
「みんなが幸せなら、なにも問題ないでしょ?」
僕は熱弁した。
例えば、嘘をついて、ある人を幸せにしたとしよう。それで結果がよかったから、めでたしめでたし、で終わるのは問題ない……わけではない。嘘をつけば嘘をついた人が不幸かもしれない。嘘をつきとおせる保証もない。だから清廉潔白に、できる限り王道で良い結果をだす。それがいいこと、だよ。
そんなことを言った。
この答えには穴がいくつもあった。実際に、それができない時はどうするかは想定されていない。
だがひとまずこれは正しい答えだとは思っていた。これに当てはまらないものは、またべつの時に考える。問題を細かく砕いて、最初の土台を作る。これは、物語でいえば序章のようなものだ。
「なるほどねー」
「こっからもいろいろ考えたよ。これが現実的に当てはまらない時も多いしさ」
そうやって、少しづづ砕いていって。少しずつ、答えを出していった。
「じゃあ嘘は絶対にばれなかったらいいの?」
「大丈夫だと思う。でもそれは嘘をつく人が嘘をつくことに納得している時だけだし、絶対にばれない状況なんてほぼないけどね。失敗したら全部本人に降りかかるわけだし」
「なるほどね。じゃあさ」
「……?」
「結果が全て、ってキミは言ったけど、努力して失敗した人は、頑張ったのに咎められるの?」
「本当は咎められないほうがいいんだ。でも現実は許してくれない。そういうものだよ」
話は理想と現実に移る。
「そんなの、おかしい……いやわかるよ。私は、納得はいかないけど理解はできる。だけど」
「……僕もそう思うよ。もっといろんな人が幸せになりやすい、そういう世界だったらいいのにって、何回も思った」
でも、現実はそうじゃない。努力は結果が出なければ認められないし、努力を見てくれる奴なんていない。
「もっと優しい世界だったらよかったのに」
「誰かが不幸になるような世界じゃなければいいのに」
僕らは同じようなことを言う。
現実はあまりにも残酷すぎる。でも、僕らが立っているのは現実だった。
「もっと資源があればよかったのか、法でもっと人を正しく導けれはよかったのか」
「私もそんな感じのことを思ったよ」
現実には現実的な解決策というものがある。そういうのも考えた。理想は現実に持ち込むことができない。
答えが少しずつ固まり始める。



「どうしたの?」
「なんでもないよ」
彼女は笑っている。悩みなんて無さそうに、辛いことなんてまるでないかのように。
思えば、僕は彼女の異変に気付くことが、あまり得意ではなかったかもしれない。それはそもそも、彼女がそういう態度を取るのがうまかったとか、暗い印象が彼女には無さすぎたとか、そんな理由もあったかもしれない。彼女は、僕よりもすごい人だ、なんて意識が漠然とある。
だからあっさり信じてしまった。違和感は勘違いで、彼女は僕に対して嘘はつかないと思っていて。
「ならいいんだ」
「うん」
そういうところが、嫌になる。優しさゆえの嘘だとか、いくらでもありえそうな選択肢はあったのに。狭い思考では、そういうものを見ることができなかった。
――完璧な人になりたかった。
自分の低い能力が許せなかった。なんでもっとできることがないんだと、悔しかった。
「毎日が楽しいね」
そういって彼女は笑った。

数日後。
僕は彼女が苦しんでいるのに気付いた。最初、彼女は認めようとはしなかった。でも、隠し通せるものでもなかった。
――もっと自分に能力があればよかったのに。
そうすれば、彼女がこんなにも傷つくことはなかった。
颯爽と登場し、ヒーローは仮面を被り、彼女の問題を裏から解決する。そうであればよかったのに。
彼女は泣いていた。
僕は正面から問題を問い詰めた。現実は、そういう手段しか取れなかった。
……彼女はいじめられていた。
「私は、弱いね」
「……」
「最後まで隠そうと思ってたのに、嘘をつくからには結果が全てなのに」
自身の弱み。それをさらけ出すというのは、随分とプライドを傷つける。相手と対等でありたいと思うなら、わざわざ弱みをみせる、なんてことは、避けたいに決まってる。誰だってそうだ。
自分をしっかりと持ち、正しく生きたいと願い、正しくあろうとした彼女は、周囲から疎まれた。ポイ捨てを注意する。他人のいじめを止めようとする。
それ自体は、正しい行動だ。だが鼻につく。何様なんだと疎まれる。
彼女は正しかった。間違っているは世界のほうだった。だが、世界とは、現実のあり方というのは、そういうものだった。
「私はね、自分が正しいって思ってた」
善意の押し付けは独善行為だ。それはとっくに彼女と話し合ったことで、そういうことはしないと互いに決めていた。
「私は失敗したんだよ」
もともと、彼女は押しつけ善意の独善者だったのだ。それは間違っていると、途中で気づいて止めた。でも、周囲の目には、いったんついた印象は、彼女をそういうやつと見る。
処世術、対人関係の基本。
最初に間違えた彼女は、次が正しくても色眼鏡を通してみられる。
「どうすればよかったのかなあ。ふふふ」
「……」
「キミは私が間違ってたと思う?」
何と言おうか、なんと庇おうか。下手な嘘はただ彼女を傷つけるだけだ。
だから「そうだよ」と僕は言った。
「そうだよ、ね。そんなこと、聞かなくてもわかってたんだよ。つまらないこと言ってごめんね」
彼女は賢い。間違いを認めることができる。だが、完璧な人間など存在しない。ミスをした後の行動をほぼ完璧にできても、ミスをゼロにするということはできない。
「それでも」と僕は言う。
「現時点のきみは間違っちゃいなかった」
「ふふふ。慰めてくれるの?」
ああだめだ。これでは彼女には届かない。
直観的な感覚は僕の口を縫い付けた。
なにもできなかった。何も言えなかった。
彼女が泣いている。泣いているのだ。
何とかしてやりたいと思う。
……でも。
二人で風の吹く景色を眺めていた。ほの暗い空間。取り残されたような感覚。
場は、限りなくロマンチックだった。僕と彼女だけが存在していた。
取り残された世界で僕は考える。
法、という文字が頭に浮かぶ。それはルールだ。
現実、という文字が頭に浮かぶ。それは拒めないものだ。
理想、という文字が頭に浮かぶ。それは役に立たないものだった。
……本当に? 本当にそうか?
僕は口を開く。
「現実にはルールが存在する。理想が付け込める場所はない。そんか結論だったよね」
「そうだね」
「そうかな?」
細かく要素を抜き出す。かみ砕いて消化する。
「きみは正しい行動をする必要はない」
「……そんなこと、ない」
彼女はいつだって清廉潔白で、誰もが救われるべきだと、信じていて。
絶対に正しい、されど現実に通用しない理想論。
「妥協しなきゃいけないんだよ。誰かのために動いて自分が破滅したら意味がない」
「そんなこと、ない!」
「でもここは、現実なんだ」
不可能なことは不可能だと、誰だって気づいている。
「じゃあ諦めるのが正しいの? そんなわけ、ない」
「でも現に僕らはなにもできない」
彼女は、何も言えなくなった。
僕の言い方は、卑怯にも思える。でも、必要な言葉だ。
だから。
「誰かを助けれるときは助けよう。自分を犠牲にしないようにしよう。本当に叶えたい理想は、胸の奥にしまっておこう」
「……」
「ただ祈るだけでいいんだ。優しい世界でありますように、って」
僕らに誰かを助ける義務なんてない。
……身の程を知った。僕らは何もできない子供だと。
「それで、いいの?」
彼女はそれを認めなかった。認めたくなかった。僕だってそうだ。
「それでも」と僕は言った。
「僕らがするべきことは現実の範囲で、できる限り正しいことをすることなんだよ。それだって十分に尊い」
「そうだけど」
彼女の瞳が揺れる。迷いとわけのわからない感情が、ごちゃ混ぜになったような表情。
「現実は結果に依存する。僕らは間違っていると言われたら間違っていることになる。独りよがりになる」
「結果を常に出すような行動をしなきゃいけないの?」
「そうだよ」
彼女は悲しそうに笑った。
「この結論は正しいね、きっと。悲しいぐらいに一つも否定できない」
もう、お互いに納得はできた。
言いたかったのは先にあった。
「じゃあ、私はそれを踏まえて話すよ」
「うん」
「私は結果を出せなかった」
「でも君は間違ってない」
「……なんで!」
怒声が滲む。
「なんで中途半端に私を庇うの? 私は間違ったんだよ!」
「世界からみたらそうだよ。でも僕からみたら違う」
ずい、っと彼女に詰め寄る。
「努力が認められないんなんて悲しすぎる。……それでも! それが現実だとしても! ……僕だけはきみを認めるんだ!」
彼女はぽかん、としていた。気圧されたような、そんな表情。
「……ありがとう?」
「どういたしまして」
「……混乱してきた」
つまりは。
「現実は僕らの努力を認めてくれないこともある。でも、せめて身近な人の努力は、身近な人が認めてあげよう」
「なるほど」
「だから、きみも僕を認めてね?」
「……もちろんだよ」
約束事。身の程を知らされた、僕らの妥協案。
でもできる限りのことはできるようにしよう。身近な人のことだけは、周囲が否定しても、自分だけは味方になってあげよう。
もうすぐ、あたりが暗くなる時間だ。この地下都市は、ある時間を境にどんどん照明が暗くなる。
「すっきりした?」
「おかげさまで」
「帰ろう」
「帰ろっか」
重い腰を上げる。
現実的な問題は、何一つ解決しちゃいなかった。
でも、これからはきっとよくなる。
影が揺れる。まだ彼女は立ち上がらないのかな、と思って足元の影を見た。
彼女の影。両手を広げている影。
僕は後ろを振り返った。彼女は今にもなにかを抱きしめようとしているような、そんな恰好をしていた。
「……」
「……」
沈黙。
「なんでもないよ?」
「なんでもないね」
時間が再び流れ始めたような感覚。
二人並んで歩く。家路につく道へ。
「さっきのは内緒だよ?」
彼女の言葉に僕は頷く。はっきり言って混乱していた。
――ふと、彼女の横顔を見る。
少しだけ見惚れた。漂う甘い香り。安心感と、心臓の音。
きっと――なんてことを思う。
この子と僕は切っても切れない縁があるんだろう。どこかでは告白して、付き合って、キスをする。一緒に子供を育てる。「幸せだね」なんていう彼女の笑顔を見て、余韻に浸る。
そんな未来を信じていた。運命がそうなっていると、そういう星の下で生まれたんだと。
――だから、まだ焦らなくていいや。
後悔している。
なにもしなかったことを。
勇気を出さなかったことを。
だが、何かしたところで結果が変わるわけではなかった。
結局、なにをしても後悔だけが残る。

 


◆◆

 

 

 

 


――影が踊っている。
笑い声。否定の嘲笑。
白衣の男が、私のほうが正しいと勝ち誇っていた。これで理想の世界が来るのだと。
相対する男は首を振る。そんな保証はないと。
絶望の歌が鳴り響いていた。ほとんどの命は今日で絶える。大いなる星が、終末の時が、人類を滅ぼす。
「あなたの気持ちはわかるんだ」と男が言う。
でも結果が保証されるわけではない。理想のために犠牲になる人々のことを考えなければならない。
そんなことを言った。
――前に進むためには犠牲が必要だ。
しかし、
――人を犠牲にする権利は誰にもない。
世の中は理不尽に回っている。誰かがそれを変えたいと思った。人々は幸せになるべきだと、報われるべきだと説いた。
その結末がこれだった。
誰よりも理不尽に納得していなかった。腹を立てていた。
そんな奴が何人もの命を犠牲にしようとしている。そう、いつだって、世の中は理不尽だ、だから。
小を切り捨て、大を取る。
「今現在の百億を捨て、未来の千億のために」と白衣の男はそう謳う。
民族、宗教、政治。異なる価値観によって起こる紛争、夥しい死体の群れ。それらはすべて必要のないものだった。
――大いなる星が落ちてくる。堕ちてくる。
星は本来、人類への贈り物。しかし、それは人の滅亡のために利用される。止められる手段は、もはや存在しなかった。
人間賛歌。肯定と肯定と肯定。人は理想の姿に生まれ変わる。普遍的な価値観は共有され、争いは最低限にしか起こらない。誰も無意味に死ぬことはない。互いが互いに権利を認め合う。そこには嘆きだって、差別だって生まれる。だが、最小限なのだ。綺麗事を限りなく現実で成功させる、現実に迎合した理想。
誰もがその理想を肯定した。「価値観の壁などの障害さえなければ可能かもしれない」と、誰もが諦めた。
白衣の男は笑っている。「私が正しい」と。
ほとんどの人間からはそう見えた。だが、たったひとりの男の眼には、違うものが見えた。
――罪を背負っていると自覚している表情。
犠牲なんて、本当は誰も望んでいなかった。もっと違う手段があったらよかったのに。誰も悲しまない、誰も死なない世界があればいいのに。
「やめろ」と男が言う。
「手遅れだ」と白衣の男は答えた。
――星が堕ちる。

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

 


この一か月、僕はありとあらゆることを仕込まれた。照には知識を。羅門には力を。比重は知識のほうが多かった。つまりはそちら側に僕は期待されているらしい。
彼女はいつ犠牲になるのか。焦る気持ちはあった。だが無闇に動いて解決するほど現実は甘くはない。
犠牲執行の日にちは、ある程度なら想定可能だ。ようは僕が犠牲の取り組みを決めるとすればどうするか、それを考えればいい。
犠牲が都市の命運を握る以上、マージンはとるはずだ。仮に一日の間で犠牲が引継がれるとしよう。それで、もし手違いやミスで失敗が起きたらどうなる?
――何人もの人が死ぬ。
絶対に失敗は許されない、重い、重い責任だ。だから日にちは余裕をとる。おそらく、早くて三か月、遅くて一年以上。……だいたい六か月というのが妥当な気がする。目標は彼女がいなくなった日から三か月――今からで言えば、二か月以内に何とか助け出す、といったところか。ここまでの推測に、断固たる根拠はない。ただ、この程度の期間は最低限必要だからここまでに救出しよう、と思っているだけだ。
選ばされているな、なんてことを思う。あまりいいことではない。本来なら、できる限り早く彼女を助けなければならない。でもそれは、現実的に無理だからそうなった。消去法的選択。これしか取れる手段がないから、こうするしかない。
僕はパラパラと本のページをめくる。ここには一般開放されている図書館にはないものが、たくさんあった。思うに、政府が一般人に必要のないと定めたものは公開されていなかったということだろう。
確かに情報の統制はある程度必要だ、と僕は考える。規制しすぎるのは、一般市民の権利を無視しすぎることになるから、やってはならないことだ。だが都市壊滅の可能性を誘発するものは……多少、権利を侵害してでも統制したほうがいい。
例えば『犠牲』に関する本。この本には次のようなことが書かれている。

犠牲の装置『メギナラムシステム』について。
犠牲の装置は対象者の魂の容量と比例し、奇跡の業を起こす。十のエネルギーを持つものを犠牲にし、都市を守れる時間を百とする。そしてこの場合、百のエネルギーを持つものを犠牲にすると五千の期間守れることが、わかっている。このことから犠牲者は、より高い魂容量を持つものが選ばれるのが、少しでも失われる命を軽減する助けになる。また、魂容量は魔力容量と比例していることが多く…………

そんなことが書かれていた。そして問題なのはこの後だ。

仮説ではあるが犠牲者はその身体を装置に収めた後、魂としての意識は生き続けているのではないか、というのがある。もしそうであれば、犠牲者はさらなる苦しみを過ごしているのかもしれない。また、この仮説が正しければある意味人間の寿命の数倍を過ごすことが…………

犠牲者は、死んでもなお、苦しんでいる可能性がある。作者は仮説、と定めているがどこか確信があるような文体だった。
……これが本当なら、あまりにも惨い。これを知っていて、自分の大切な人が犠牲になるという人がいたら……間違いなく、奪還を目論もうとするだろう。全員が政府に抗おうとするほど怖いもの知らずではないかもしれない。だが、間違いなく大切な人を救おうとする人の増加は避けられないはずだ。
そういうわけで、情報の統制は仕方ないことなのだ。例え死んでもなお、犠牲者が苦しむとしても、それでも犠牲は必要だ。あまりにも過酷で、不平等な重荷が個人に課されるとしても……何人もの命が失われるよりもは、そうあるぺきだ。法を学んだ身としては、痛いほどこれが最適解だとわかる。
綺麗事は現実では通用しない。本当はこんなことにはならないほうがいい。それでも。
僕はかぶりを振る。せめて犠牲者を減らさなければならない。理想通りには確かにならないかもしれない。それでも、理想にできる限り近づこうとするべきだ。本の作者も、暗にそう言っている。
僕は本をめくる。今は魂、という言葉の意味を探していた。どれもはっきりとした答えは書かれておらず、唯一まともな情報は犠牲の装置の製作者がそういった説明を残した、ということぐらいだった。他のものは『どうにも存在する可能性は高いらしい』のようなことしか書かれていない。
魂。カルト的な馬鹿げた妄想に近いものだ。死んだらそこで終わりだと認めたくない奴が願うようにして信じている、幽霊のような存在。
だが、魔法というのも奇跡の力で、本来ありえないものと、昔はされていたらしい。ならばあるいは……。
「裕樹さん!」
鼓膜を揺らす大声。思わず頭をおさえる。
「聞いてなかったでしょ」
「……ああ、ごめんごめん」
そういえば途中で卓也も来たんだっけか。彼も彼で、調べたいものがあったらしい。
僕と彼女より一つ年下の彼は、調べるということに秀でている。元は僕と同じ、法の番人を目指していたが、能力の関係で諦め、歴史の方面に向かった。「裕樹さんはやっぱりすごいや」とその時の彼は言っていた。何を言っても卓也を傷つけるような気がして、僕は何も言えなかった。
「それでなんだけどさ、やっぱり不自然なんだよ」
「えーと、なにが?」
「ほら、やっぱり聞いてなかった!」
ごめんごめん、と僕は謝る。こういう変わらない彼を見ると、少し安心する。
彼はむすっとした顔でこちらを見た。
「この都市って独裁政治でうごいてるだろ?いちおう複数人で動いてるけど王の権力が強すぎてなんでもできる状態だし」
「まあ、特に問題はないし、いいんじゃないかな」
「問題がないのはおかしいんだよ。常に優位な地位にある人間が、下位に位置する人間の権利を脅かさないなんておかしいんだ。罰する役割の人がいないんだから、普通自分の権力をさらに大きくするはずなんだよ。しかもこんなにも長い間!」
この都市の歴史は五百年程度だ。
「まあ、確かに王を止めれる人はいないし、少なくとも王自身はなんでもできるけど」
僕の言葉は若い熱弁者に遮られる。
「しかも王の継承は長男って決まってるんだぜ? それなのにボンコツな暴君が現れないのはおかしい。いや、現れてるはずなんだ。なのに俺たち一般人がなにか押し付けられたことは一度もない。絶対におかしいんだ」
卓也の言葉には熱が籠っていた。
確かに、人間のメカニズム的に、人間は自分をより有利な状況にしようとするはずだ、という理論を鑑みれば、王の暴走が五百年間で一度もないというのは不自然かもしれない。おまけにそれを止めれる者もいない。
そういう点で考えてみれば確かにおかしい、という気がしてくる。だが言われなければ絶対に気づけなかっただろう。なにしろそういう視点で見る機会がない。人間の基本的な本能と、王の独裁体制。自力で繋がりを見出すのは難しい。
「前々から思ってたんだ。『星堕ち』前の人類の歴史では、大きかった国のいくつかは反乱が起きて、滅んでる。だいたいそれは官僚間での賄賂の横行、ボンコツ暴君の圧政、とかの政治体制の腐敗が原因で起こってるんだ。なのにこの都市にはその傾向が一切ない」
聞けば聞くほど、納得させられる話だ。
卓也は自分には能力がない、と言っていた。だがこうして彼の理論を聞いているとそうは思えない。多角的に物事を捕らえ、調査能力による不自然の発見ができる能力。その点でいえば、彼は断トツだ。卓也は、法に関することが、ただ向いていなかっただけなのかもしれない。
「卓也、すごいよ」
「え、そう?」
努めてそっけないフリをしているように見える。
「こんなこと普通は思いつけないよ。少なくとも僕には無理だ」
「へへ……そうかな、ふふふ」
卓也はレジスタンスのメンバーと比較的早く馴染んでいた。彼のこういった素直な態度が、そうさせているのかもしれない。
「すごいすごい」
「へへへ」
なんだかな、と思う。もう少し、卓也は変わってしまうと思っていた。……僕らは人を殺す手段を、多少なりともだが、教わった。卓也は僕よりも上達が早かった。それは才能の差もあったかもしれない。僕が人よりもできなかったわけじゃない。だが怯えや躊躇、そういった覚悟の差が、あるような気がしてならない。だが卓也は依然として卓也だ。人懐っこく、すぐに人の輪に溶け込み、敵を作らないタイプ。冷酷な人間に変わってしまうと思っていた。でもこうもアレだと……。
「卓也はさ……いや、なんでもない」
「……?」
異常な空間にいるからこそ、というのもある。
「なあ裕樹さん」
「ん?」
「こっからが俺が言いたかったことというか、なんていうか」
「どうぞ」
「笑わないで聞いてくれる?」
「……それは聞いてみないとわからないけど」
それでも彼は「笑わないでくれよ?」と僕に念を押した。
「俺が言っていた『矛盾』の話の続きなんだけど。これはなにかが裏で動いててるからだと思うんだ。俺たち一般市民どころか、政府の中でもほとんどの人が知らないよう何かが。陰謀論臭いけどさ」
「うん」
「俺の中で二つの仮説があるんだけどさ。一つは完璧な人工知能が人間を統治している。もう一つは……価値観の変わることのない不死身の人間が裏で政府を操ってる」
なかなか、現実的にあり得そうにないな話だ。だが魔法、というものが存在している時点でそうとも言い切れないような気もする。昔の人類は火をおこすことさえできなかった。電気をつかってものを動かすなんて考え付く土台すらなかった。
……ならありえない、と切り捨てるほどでもない気がする。まあ、空想にすぎないという可能性のほうが高いのだが。
「笑わないのか?」
「まあ、笑うほどでもないというか」
僕は奇跡を必要としている。彼女を助けるなんて普通に行動するだけじゃ無理だ。
縋りつくこととよく似た願望。それが、こういった考えを引き起こしているのかもしれない。
「それで俺が考えてるのは人工知能よりも、不死身の人間のほうなんだけどさ。機械だと故障とか、なんとなく無理がある、っていうあやふやな理由でそっちを押すんだけど……」
まあ、いろいろ考えた結果らしい。
「不死身の人間がいれば月日がいくら経っても考えが変わるはずがないんだ。歴史の引用によれば、『もっともよい政治方式は賢君による独裁体制だが、継承の問題とそれほどの能力をもつ人間は生まれにくい。だから我々は民主主義的な競争体制を取る』なんだけど、不死身の人間がいればその問題は全部解決するんだ」
永遠の命があれば継承に問題はない。能力は最高峰のものになるし、手が足りないなら組織を使えばいい。一貫した思想による統治なのだから良い環境に進み続けることができる。
「不死者たる英雄」と卓也は言う。
それはある意味、民衆が焦がれていた偶像であり、これ以上にないくらいの安定をもたらす人類の英雄。
「まあ、全部俺の妄想なんだけどさ。いたとしてもあんま現実に影響なさそうだし」
「確かに」

 

ーーーーーーーーーーー

 

「お、裕樹クン。勉強熱心だね。君、ほとんどの時間、ここにいないかい?」
「気のせいじゃないですか?」
確かに、僕はしょっちゅう図書室に来る。法の原点など、学ぶべきものが多いからだ。だが図書室に籠っている頻度は卓也のほうがたぶん多い。過去の歴史の宝庫であるここは、彼にとってととても楽しい場所なのだそうだ。
おそらく、照の勤務時間とかそこらへんが僕と被っていないのだろう。
「いやー、『図書館の後光、照』の名の返上は近いね」
「はあ」
「ところでなんだがボスがお呼びだ。ちょっと来てくれる?」
「ボスが?」
ボス。このレジスタンスのボスは正直、そこまでかかわりたくない存在だ。恐ろしいとかではなく、力強さというか、気を緩めれないというか、そんな理由。
あまり姿を見せない人だ。そんな人が僕に何の用だろう。
僕は照の後についていく。
「最近どう?」
「普通です」
「そりゃよかった。そういえばさっきの『図書館の後光、照』の話なんだけどさ。この頭、禿げてるだろう? だから光を反射して図書室を照らすから名づけられたんだ。このつるつる頭が坊さんみたいだから後光、っていう寺っぽさを表現してるらしい」
人の自虐ネタほど、反応に困るものはない。
まもなくボスの下についた。大きめの削られた机に、椅子に座り、その人は待っていた。
首の骨を鳴らしながら、ボスはこちらにニヤッと笑いかける。
「待ちくたびれたぞ。照、コーヒーを出せ」
「はいはい」
「小僧、お前は座れ」
「はい」
照が湯気の立つコーヒーを運んでくる。ちゃっかり三つぶん持って来ていた。照は椅子を引きずり、ボスの近くに座った。
僕はコーヒーに口をつける。……っと、物凄い苦みが舌を締め付けた。今すぐに吐き出したいぐらいの苦み。
「おっと、子供には苦すぎるか?」
ボスがニヤッと笑う。顔に出ていたようだ。……まあ、それぐらい苦かった。普通じゃないくらいには。
少し悔しくてもう一口コーヒーを喉に注ぎ込む。あまり量は減らなかった。ボスはそれを見てほくそ笑んだ。
「無理しなくていいぞ」
「……」
今度こそ、コーヒーを流し込む。毒を飲んでいるような気分だ。だが顔には出さず、平然を保った。
「男気があるな」
「これぐらい誰でも飲めますよ」
「そうか。照、砂糖を持ってこい」
「はいはいはい」
「……」
ボスは角砂糖を入れた、二つ分。普通、こういうのは一つしか入れない気がする。
「裕樹、とかいったか? よくこんな劇物そのまま飲めるな。普通の奴は無理だぞ」
「……は?」
どういうことだ、と思うと照が声を堪えて笑っているのに気付いた。そもそも、照がコーヒーと同時に砂糖を持ってきていれば……つまりはわざとということだ。
「俺は、子供には苦すぎるか? と言ったが大人にとって苦すぎないとはいっていない」
「……」
ボスはニヤニヤと笑っていた。
「あんまり警戒するな。余裕を持て。真面目すぎる奴はからかわれるぞ。こんな風に苦い経験を味わうことになる」
「そうですか」
ボスは砂糖が十分溶けたのを確認し、コーヒーをうまそうに飲んだ。なんだかもやもやする。
「コクっていうんだがな、あえて甘い部分と苦い部分を混ぜすぎないようにして味の差異を引き立てるんだ。そのために特化した特注のコーヒーと砂糖を使ってるんだよ。単一で飲める奴なんて照みたいな変人だけだ」
「趣味が合うので私の好みと同じにしてみたんですよ」と照が白々しく言った。明らかな確信犯だった。僕は照を睨み付けた。
照がもう一杯コーヒーを運んでくる。今度は砂糖もある。
「裕樹、今度は砂糖入れて飲んでみろ」
正直、あまり飲みたくはなかった。
さきほどの感覚を思い出す。毒のような、じわりじわりと染みこむような味。今度はそんなことにはならないとは思う。……なるようになれだ。
砂糖を溶かす。口をつける。
……悪くない。
「うまいだろ?」
「そうですね」
「ほら見ろよ照。お前よりこいつは俺との相性がよさそうだ」
確かに、そうかもしれない。僕が思っていたより、ボスの性格は違う。
照が苦笑する。
「たかがコーヒーでそんなこと、わかりませんよ」
「じゃあ本人に聞いてみようか。俺たちのどっちのほうが気が合いそうだ?」
「ボスです」
「わはは」
照は職務乱用がどうだかと呟いた。でも実際、僕はボスとのほうが気が合いそうだ。
「さて、本題なんだが……裕樹、お前にはスラムのほうに行ってもらいたい。なに、危険はない。羅門と一緒におつかいをするだけだ」
……いきなりどういうことだろう?
「まあ、たまには外に出てみようってことさ」
と、照が言った。
僕は頷く。
「わかりました」
「あーそうそう」
ボスはコーヒーを飲んでいる。
「羅門はスラム出身だ」


ーーーーーーーーーーーーー


羅門の後ろをぴったりと歩く。周りには無気力な人、人、人。小汚いぼろを纏い、物乞いをする彼らを横目に、僕たちは進んでいる。
「なんか、可哀想だな」と卓也が言う。
羅門との同行にはついで、ということで卓也も付いて来ていた。つまり、おつかいは羅門、卓也、僕、の三人だ。あまり危険はない、ということなのであまり外に出ない卓也と僕はたまには外の空気を吸え、と今回のおつかいに参加している。
一方、羅門はほとんどの時間、外で活動している。基本的にはボスの身辺警護を承っているとのことだが、訓練係であり実力者である彼は、レジスタンスの中でも活動時間が長い。
いかつい表情に、明らかに堅気ではない雰囲気。それが物乞いたちを近寄らせず、僕らの進行を楽にさせていた。
大男は卓也の言葉に反応する
「可哀想? なぜだ?」
不機嫌そうな声。
「いや、あんまり……裕福には見えないから」
「それは奴らが何もしていないからだ。自分の状況を仕方がない、と受け入れ、自分で腐っていくことを選んだからだ」
「そりゃそうですけど」
羅門の言うことは、実際、正しい。法によって支配されたこの世の中は犯罪を許さず、限りなく限界まで秩序を守っている。だが世の中のすべての人を裕福にすることはできない。いくら切り詰めようが、こういった人たちは出てきてしまうのだ。減らすことはできる。だがなくすことはできない。そのはけ口がここだ。ここは、一般的な人が存在を知りながら無視され、見捨てられた場所。僕だって、ここについては考えたことはある。例えば、ここにいる人たちを救うために救済資金を作ったとしよう。だが結局、今いるここの人たちを救っても、また似たような人たちが現れる。
イタチごっこ、徒労、無意味。
やがてスラム救済資金は尽き、民衆は税の無駄遣いを糾弾し……。
つまりはそういうことだ、必要悪。
そもそも自分のことさえ手一杯の子供に何ができる? そうやってかつての僕は諦めた。
「物乞いは無視しろ。構ってる時間が勿体ない。それに一度施せばうようよとわいてくるぞ。ゴキブリみたいにな」
羅門の言葉は辛辣だった。必要以上に貶めている気もする。確かに言っていることは正しい。だが言い方が……。
だからといって、僕はその言い方を改めるように言うのはお角違いだ。別に正義感ぶりたいわけじゃない。そもそも、人の価値観というのは個人の物で、批判できるものじゃない。思想の押しつけは独善的な偽善行為となり果てる。そう、彼女と一緒に、話し合ったことがある。
『羅門はスラム出身だ』
ボスの言葉。いやに引っかかる。なぜボスはこんなことを言ったんだろう。
試されているのかもしれない、と思う。だが思うだけだ。
ぼんやりと辺りを見渡す。それになぜか目をつけられた。
「小僧、お前もだ。聞いてるのか?」
咎めるような言い方。
価値観の押しつけは独善的な偽善行為となり果てる。それを羅門は僕にしようとしている。年長者だとか、そういうこともあってこういうことを言っているのかもしれない。
だが、
「そうですね」
「気に食わなそうだな」
因縁をつけられている。そんな気がする。先程から卓也と比べて、僕に対してのあたりが強い。基地に羅門はあまりいないので、卓也が羅門と仲がいい、というわけでもない。
少し、腹が立つ。
「努力をしないやつは救われる権利がない」と羅門は言った。
だからどうした、と僕は思った。
「努力をするきっかけがないんですよ、この人たちは。努力したところで結果が保証されているわけでもないんだから、仕方ないでしょう」
そんな言葉を返した。
羅門は僕を睨み付ける。
「だが何もしなければ確実に腐っていくだけだが? 助けようとする奴がいても、徒労に終わるだけになる」
助けようとする奴?
――違和感を感じる。
「それは羅門さんの価値観でしょう。ここの人たちは本当に救われる、という可能性を信じることができない。選択肢を持っていないんですよ。僕ら外部の人たちはそういう考え方ができるけど」
卓也が注意を促すように僕に触れる。羅門は目に見えて怒っていた。僕はそれを見つめ返すだけだ。
怖くないわけじゃない。羅門の容姿は、今まで出会ったどんな人よりも、恐ろしい。だがきっと、力で押し通すことはしないはずだ。それはボスが信頼しているから、とか義理堅いという評判を落とすようなことを簡単にはしないだろう、とか、そういった理由もある。だが以上に、彼からは信念めいたものを感じていたから。接点はほとんどなかったが、多少はある。小さな行動から、どういった人物なのかはうっすら見えてくる。
羅門は何かを言いかけ、やめた。
「確かにそうだな。わかってるさ、その程度」
そういって背を向ける。拍子抜けだった。突然怒りが収まったかのような、諦めたかのような。
……。
「何やってんのさ裕樹さん!」
卓也が鋭く、小さな声でそう言った。
「あ、うん」
「うんじゃないでしょ!」
「これからは気を付けるよ」
卓也は相当心配していたようだ。あの容姿の男から怒りの感情をぶつけられたら、確かに心配もするだろう。
僕は羅門の背を見る。誰も寄せ付けない、大きな背中。そびえ立つような、孤高のような。
なんだったんだろうか。よく……わからない。



犠牲の都市4

薄暗い取引現場。
危険物の取引など、並みの場所ではできない。この<スラムという場所が見捨てられているからこそ、可能な芸当だ。ここでは誰も罰せられない。誰も救いに来ない。ここには法がない。
「ああ、じゃあ手筈通り頼む」
「了解」
羅門と男が話し込んでいた。漂う緊張感と、鋭い言葉の応酬。
本題自体はうまくいったようで、次の段階に進みそうだ。
僕らは小さく、少々の家具がある部屋に案内された。しばらくここで待ち、物を受け取り、それで終わりのようだ。
軽い食事を出される。コーヒーとパン。
卓也は食べ終わるやいなやトイレに行った。緊張とかで腹が痛い、みたいなことを言って。
僕は食事を終えた。羅門はゆっくりと食べていた。なんというか、見た目に反して紳士みたいな……なんというか。
気まずい雰囲気が流れる。「なぜ僕をそんなに嫌うのか」と聞いてみたい。だが、そんなことをしても変わるものはないもない。拗れるだけだ。
そして、羅門も食事を終えた。そのあとに祈りをささげるような仕草をした。
「どうした、珍しいか?」
彼をじっと見ていると、そんなことを聞かれた。
返答に困る。羅門は明らかに僕を嫌っている。下手に会話をしたくはない。
「そうですね」と僕は答えた。
「俺のところでは、これが普通だったんだよ」
「普通?」
「カミサマ、っていうのを信じるんだ。信じていれば救われる。そういう風に教育された」
……なんとなく、気づいたことがある。カミサマを信じれば救われる、という慣習は一般的には存在しない。そして『羅門はスラム出身だ』という言葉を思い出す。つまりは、スラム独特の考えだろうか。
そもそも、なぜいきなりこんなことを?
「……」
「だが信じていれば救われる、なんてありえない。所詮、空想みたいなものだ。現実的に、そうやって何かを縋っても何も解決しない」
「そうですね」
俺は、と羅門が言った。
「あまりお前のことが好きじゃない。何もかもが平気そうなお前が」
いきなり。そんなことを言った。
それは外見、個人の主観による意見。だが実際は、何かも、平気なわけじゃない。そう見えるというだけだ。
「人間味が無さすぎるようにも思えるだ。割り切りがうますぎる。お前という人間は効率よく生きすぎている。お前自身にも腹が立つし、お前には関係のないことでも腹が立つんだ」
「じゃあどうしろと?」
「どうしようもないな」
「……そうですか」
本当に、どうしようもない。おまけに僕には関係のことでも腹が立つらしい。
「お前は外と中の人間では価値観、物事を考える選択肢が違っている、と言ったな。確かにそれは事実だ。じゃあ誰が何をすればいい? ずっとこのままか?」
そんなことを羅門が問う。彼は僕のことを嫌いだと言った。だが彼は言う。いったいどうすればいい? お前はどう思うんだ? と。
試しているのかもしれない、と思う。だがそんな権利は羅門にはなかった。それどころか、ほかの誰にだってない。そういうことを、彼はしている。
「……バカみたいな理想論を抱いてるんですね」
「なんだと?」
「誰も、何もできない。わかりきったことでしょう」
……きっと、羅門は現状に不満を抱いているのだろう。スラムの人々に救いはこない。羅門にもそれがわかっていて、自分ではどうすることもできなくて……腹が立っている。そんなところで、僕がそれが当たり前だ、仕方ない、と言ったのだ。まあ、腹が立つのはわかる。わかるけれど。
「あなたの考えはなんとなくわかった、とても綺麗な思いだ。でも理想の押し付けはよくない。きっとその思いは正しいんですよ、でも」
「……」
「別に僕はあなたと争いたいわけじゃない。仲良くしましょう。そもそも、羅門さん。別に僕はスラムの人々がどうなってもいい、なんてことは思っていませんよ」
必要以上に誤解を受けている、気がしていた。
羅門は黙った。しばらく、何も言わなかった。
「悪かったな」
「……」
「自己嫌悪みたいなもんなんだ。――俺はスラム出身だ。自分では奴らを否定するくせに、他人に否定されると……なんともな」
わからない心境ではない。羅門はわりと正義感がつよい、気がする。……頭がそれほど良くないように思えるけど。
「八つ当たりみたいなことをしてしまったな、本当に悪かった」
頭は悪いけれど……正直な人だ。こんなことまでいわなくてもいいのに。
大人の容姿をしているくせに理不尽なことに腹を立て、糾弾するような人物。一応|間違っている(、、、、、、)ということには気づけるタイプであり、それを認められる人物だ。経験上、このタイプは一度打ち解ければあとは大丈夫なことが多い。あくまで経験上、だけど。
「こちらこそ、生意気なことを言ってすいませんでした」
「いやいや俺が悪いんだよ。こんなバカな俺が――」
謝罪の譲り合いになってしまった。
「ところで羅門さん」
「ん?」
「僕には関係のないことで腹を立てている、というのはなんでしょうか」
羅門は、言葉に詰まったような顔をした。もうある程度和解はできたはずだ。なのに話せない、というのは……他人が関わっている? 人を売るような性格とは思えない彼は、もしそうならきっと話してはくれない、これ以上掘り返しても関係が悪化するだけだ。
人間関係。処世術。妥協はある種の必然か………。正直、嫌な気持ちにはなる。だが無駄なものは無駄だろう。
それでも聞き続けるは、ただの我儘に近い。
「ところで羅門さん今日は――」
僕は話を切り替えた。諦めが肝心、だから。
羅門はほっとしたような顔をしていた。僕の話に快く乗り、肯定と賛成の意を示す。
やがて、卓也が戻ってきた。
「あれ、仲良くなったの?」
「まあ、そんな感じかな」
「よかったよかった。羅門さんは見た目以上にいい人なんだぜ?」
なんだと、と羅門がいった。
たしかに、と僕は答える。
もう険悪な関係とは言えない状況だろう。
ひそかに思う。幹部である羅門との軋轢は正直まずかった。もう一人の幹部、照からはいやに好かれている状況ではあるが。
……僕の目的には障害がいくつもある。
一つずつ、一つずつ取り除いているけれど、まだまだ問題は山積みだ。
僕は彼女を救わなければならない。そのためには逃げ場を探さなくてはならない。逃げ場はレジスタンス内ぐらいしか思いつかなかった。でも、わざわざ爆弾を抱えたいと組織が思うわけがない。
だから、爆弾には素敵な贈り物もつけなければならない。爆弾なんて些細なものに見えるぐらいの、不良債権と有用な株の抱き合わせのような、素敵な、素晴らしい贈り物。
幸い組織はそういったものを欲しがっていた。欲しいものは、有用な人材。
上に立つような人材はなかなか現れなくて、幹部が二人というのはまずすぎる状況だと、照は言っていた。
――彼女の救出にまでは、組織は手を貸してくれない可能性は高い。だが、僕が政府の目を欺きながら、そこまで組織に被害を受けないように彼女を助けられたら?
きっと、彼女ともども僕を受け入れるはずだ。犠牲者が変わったところで、|抵抗組織(レジスタンス)が気にするはずがない。
僕は組織内での人間関係を円滑に、そして能力の有用性を示さなくてはならない。
人心の掌握として、人がやりたがらない仕事を率先してやった。会話では相手が欲しがるような回答と、怪しまれないための反論を少量挟み込んだ。
全て、全てうまくいっている。
そう思っていた。



「完璧な人になりたかったんです」と僕は言う。
なにもかもが実現させたい、そういうバカげた願い。
超人、英雄、完璧者。そういった単語が脳裏に浮かぶ。
「完璧な人になりたかったんです」と僕は言う。
『どうして?』
闇より沈む、深淵から、そんな言葉が返ってくる。
どうして? なぜかって? なぜだっけ?
『完璧な人になってなにがしたいんだい?』
願いがあったから、望んだ。
僕は、誰かが不幸なのが嫌だった。できることなら生きとし生けるもの全てが幸福であることを望んだ。
誰だって、一度は考えたことがあるはずだ。
誰だって、他人の幸福をうれしく思うことだってあるはずだ。
妬みや羨望、そういったものを除いた、純粋に人の喜びを感じたときに感じる幸福感。それをずっと見つめていた。
だからだろうか。できることなら全てを救ってしまいたかったのだ。
踏み殺されたアリを瞬時に治し、飛べなくなった鳥に力を与えて飛べるようにし、泣いている子供に手品を見せる。
「完璧な人になりたかったんです」と僕は言う。
『なれると思っていた?』
まさか。そんなはずはない。
とてもとても、現実的じゃない。夢見がちな幼少期はとっくに卒業した。大人に近づいて行った。最善を選んだ。
全ての生命から人間へ。人間から周りに見える世界全てへ。周囲に見える世界全てからほんの一握りの大切な人へ。
年を取るにつれて、少しずつ現実的に調節していった。持っていけないものは置いて行った。今でも、全てが救われてしまえばいいのに、と思うことがある。だが実際、僕ができるのは、ほんの一握りの大事な人を大切にすることだけだ。それに納得している。
「完璧な人になることを、目指そうとしたんです」と僕は言う。
目指すということ。努力するということ。
それは、決して無駄なものではない。優しくあろうとするから、より人は優しくなれる。意識することによって、人は変わる。意味があるのだ。
『だから祐樹さんはそういう生き方をするわけだ』
声が変わる。それはより身近な者へ。
『ずっと考え続けてるわけだ。これ以上の正解はないって知っているのに。なのに苦しんでるわけだ。意味もなく、救われなかったもののことを考え続ける』
怒りの混じった声。
「そうだ。僕はそういう生き方をしている。考えれば考えるほど八方ふさがりなのがわかって。それでも考えることはやめられないんだ」
そういうものだった。彼女と話すことによって変容した僕の思想は、そういうふうになっている。
不変の意思。くだらない理想論。無意味でもったいぶっていて、本人ですら価値を認めてはやれない。
それでも、それでもこれは、間違った考えじゃない。
『なんでなんだ?』
「正しいことだと、信じているからだよ」
『苦しいだけなのに? なのに他人のことなんかを考えてるのかよ』
ふざけるな! と声が叫んだ。
『それで祐樹さんになんの得があるんだ? なんで身を削ってるんだよ! なんで祐樹さんが苦しい思いをしなきゃいけないんだよ! 犠牲になる必要なんてないじゃないか!』
苦しむようにのたうつ影。
『なんでそんなに優しいんだ? なんでそこまで他人のことを考えるんだ? 義務なんてないのに、なのになんでそこまでするんだよ!』
――優しい、ね。それは意味がない。
「でも僕は結局、誰も救えちゃいないんだよ。偽善行為の自己満足だ。結果が出せていないんだよ。だから、誰かが僕を庇う必要はないんだよ」
『それは違うよ』と誰かが言った。
影の形が再び変わる。女の影。
『少なくともキミは、私を救ってくれた』
救った? 救われた? そうか、それは正しいのかもしれない。
でも、
「でもきみは犠牲になるんだよ。死ぬんだ。ひょっとしたら魂が消耗される痛みに、何十年も苦しむことになるかもしれない。きみは救われちゃいない」
『そんなこと……』
「そういうことなんだよ。結果的に僕は何もできていない。結果が全てなんだ。努力? 努力すればきみが苦しんでもいいのかよ!」
やるせなさがこみ上げる。完璧な人になりたかった。目指すんじゃない、完璧そのものになってきみを救いたかった。犠牲なんてシステムがなくても、都市の人々は生きていけるような、そういう創造をしたかった。
『でもキミは私を助けようとしてくれている』
「今してるのは現実的な話だ。現実的に考えて、僕はきみを救えない」
進むと決めた道だった。だからといって成功を信じられるほど、夢に狂っちゃいない。
『そんなに自分を責めないで』
優しい、柔らかな声。
『キミが苦しんでると私は悲しいよ』
僕は震える声で言う。
「でも考えることを止められないんだ。こんなことを考えずに最適解を選べ続ければいいってわかってるのに、考えてしまうんだよ」
無駄なことをしている。僕が苦しんだところで誰かが得するわけじゃない。わかっている。わかっているんだ。
『優しいね』と声が言う。
それに沸き立つ否定の感情。
何かを言おうとする。だが影が口を塞ぐ。
また、影の形が変わっていく。
『悲しいぐらいに君は正しい。少なくとも僕はそう思うよ』
知らない影だ。どこかであったことがあるのかもしれない。だとしても、覚えていない。
『無駄に苦しんで損をしているように見える。だけど、その考え方は人ができる中で最も現実的で、尊い』
口が解放された。
僕は影に言う。
「それでもなにか意味があるわけじゃない。押しつけの独善を禁じたから、誰かに影響をあたえることもできていない。まるで無意味だ」
だから、嫌なんだ。結果が欲しい。意味はあったんだと、誰かに認めてほしい。
何の意味もないなら、いままでのことは全て無駄だ。それだけは嫌だった。
影が消える。僕はひとりぼっちだ。
あたりは徐々に暗くなっていった。それは、まるで趣味の悪いショーの幕切れのようで。
たったひとりで何かを求める。
人はゆっくり手を伸ばす。けれど決して届かない。
「だれか……」
孤独だ。
「だれか……」
無意味だ。
「だ……れ……」
何かを成し遂げたい。僕が絶対に正しいはずなのに、世界はそれを否定する。でもそれが、嫌になるぐらいに現実的だった。
何もかもが足りない。資源が、優しさが、能力が。
「完璧な人間になりたかったんです」

 

 

あれから二か月、彼女が僕の日常から消えてから三か月たった。
組織が手放そうとは思わないほどの人材には、なれている気がする。
人心掌握。処世術。人間関係。
すべて順調だった。現実的に可能な完璧に、限りなく近い、と思う。
組織もまた、動いていた。六十年以上、表立った活動をしていなかった反社会組織だが、なにやら大がかりなことをするらしい。政府への反発として、地表の捜査、魔法の探求などの様々なことだ。確かに、これらのことに関して民衆からの疑問はあった。政府はなぜ新たな探求に手を伸ばさなかったのだろうか? もともと、市民からも声が上がっていた問題だ。
政府の回答は「今の社会は完璧ではない、その努力を欠かさなかったことはないが、問題がある状態で多くに手を伸ばすことはできない」とのことだった。
多くの者は納得した。僕だってそうだ。よりよい社会を目指す政府が、余計なことをして、新たな問題が発生したらどうなる? 少なくとも、今の政府は間違っちゃいない。そんな結論だ。
異論を唱える奴もいた。新たな探求の結果は富裕へとつながり、今ある多くの問題を解決に導くかもしれない、と。だが確実な手ではない以上、多くの民衆からは支持されることはなかった。
……そういう意味では、このレジスタンスは実に反社会的で、抵抗的だともいえる。汲み取られなかったわずかな意思。そういったものを拾い上げるつまはじきもの。だからこそのレジスタンスだ。
魔法は、地表と関係している。だから組織は、それを重要視していた。だが、魔法とは犠牲を除けば役に立たないものだ。ほとんどの人間は、かがり火程度の火を灯すことができる。けれど、結果として待つのは、成果に見合わない体力の消耗だ。五十メートルを全力疾走するほどのそれは、はっきり言って役に立たない。場合によっては死にさえも至る、欠陥品だ。
だが……犠牲に選ばれるほどの魔力を持つ人は、どうなのだろう? 魔法は皆が使えるが、体力の消耗の多さから、危険だとされ、一般的には使用を禁止されていた。でも……内緒で、秘密の場所で、僕らは禁を破ったことがある。今の法を遵守するような僕からしたら、考えられないようなことだけども。
組織の魔法の研究はまるで進んでいなかった。体力の消耗の大きさからいっても、材料が無さすぎるのだ。だからこそ彼女は、組織としては価値があるはすだ。
やれるだけのことはやった。彼女のいる場所も偵察してきた。助けに来る実例がほとんどないからだろうか。警備は存外緩く、様々な考察の結果、二割程度の確率で、救出は成功しそうだ。決して高い数字ではなかった。だが現実的な数字ではあった。
失敗すれば、見せしめの処刑が待っている。
死ぬのだ。だけど。
――命を懸けるだけの理由はある。
すぺてすぺて、可能な限りにおいて、完璧な行動をとった。すべて順調だった。
そんなある日のことだった。
「祐樹君、君はボスに呼ばれたようだ」
照の声。
「どういう理由ですか?」
「重要な理由だよ。とても重要な、ね」
照は意味深にそう言う。少したりとも、笑ってはいなかった。
「……そうですか」
「なあ、祐樹君」
照は笑ってはいない。目も口も、何もかも。
「我らがボスはご多忙だ。少し、時間つぶしに話さないか?」



「それで、話ってなんですか?」
「なに、くだらない話だよ。くだらない、くだらない話だ」
照は絡みつくような物言いでそう言った。
なにかが起きる。そんな予感がする。どちらにせよ、彼女が消えて三か月だ。僕は、そろそろ行動を起こす必要があった。
「君はずっとこう思っていたはずだ。『なぜ照はこんなにも自分のことを好くのだろう』と」
それは、思っていなかったといえば嘘になる。だがそれは重要なことではなかった。
人心掌握。処世術。人間関係。
相手の望む言葉には、その相手が不快になる言葉もある。だがそれを悟って嘘をつけば、失うのは信用だ。結果が重要なのだ。そこに僕の意思、真実は、関係がない。
「そうですね。変だとはずっと思っていました」
「私はね、勝手に君と私が同類だと、思っていたんだ。……まあ、そういうわけではなかったようだけど」
――嫌な予感がする。
「私と君はかなり似ている……そんな仲間意識をもっていたんだよ」
「はは。そこまでとは、思ってもいませんでしたよ」
照は人との距離をうまく保つ。踏み込みすぎず、されど支えられる位置にはいる、そんな男。
僕は初対面のこともあって、そこまで照のことを好かなかったが、実は組織での照の評判は低くない。その人の好さそうな顔と、トレンドマークである髪のない頭が、まるでお坊さんのような雰囲気を生み出していて、話していなくても、勝手に好印象を持たれるのだ。事実、組織の構成員が、彼に悩み事を相談しに来たりするらしい。話がうまく、敵愾心を感じさせない彼は、非の打ちどころのない優秀な幹部だった。
「『人が目指すは完璧という高見。見えず、届かずともいえど、それを目指すということには意味がある』こんな言葉を、知っているかい」
「いえ……」
「ははは」
照が笑い声をあげる。何がどうおかしいのか、まるで判断がつかなかった。
「この組織にある昔の本さ。『星堕ち』以前に書かれた小説で、私はその本のファンなんだよ」
「……」
「君は、知らない、と言ったね、でもこの言葉と同じようなことを、考えた事があるはずだ」
確信したような口調。
こういった考えを持つものは一定数存在するだろう。当てはまりやすい事象をかまかけで聞いているだけだ。
「完璧な人になりたかった」と照は言う。
その言葉は。そしてそれに対する僕の反応は。照に『なにか』を確信させたように見えた。
「私はね、ずっとそんなことを、子供のころから、思っていたんだよ。ちっぽけな自分が嫌でたまらなかった。こんな自分は自分じゃないと、憎んですらいた。君もそうだろう?」
引きずり出された。そんな気がした。
なにもかも見抜く、一歩手前の状態。
照は訴えかけている。本心を話せと。真実をさらせと。
「そうですよ。それが……それがどうしたっていうんです?」
照は笑っている。
「人は大きすぎた失敗を前に、その原因を求める習性がある。それは根本的で、絶対的な原因だ。
不完全な世界のせいにする奴。
特定の誰かのせいにする奴。
……そして、自分の能力のなさにせいにする奴。
何も恨まず、なんて風にはいられない。はけ口を求めているんだよ。理由が欲しいんだ。『なにか』がなくてはやっていけないんだよ」
無意味さには耐えられない。物事がうまくいかない。じゃあそれはなぜだろうか。
きっとそれは……。
「そういう風に、何かに負荷をかける。一つに原因を集中するんだ。わかりやすくかみ砕いて、定義を置いておくんだよ」
もっと能力があればいいのに、と思ったんだ。全部、自分のせいにしたんだよ。運とか奇跡を信用していなくて、世界というのはむしろ敵対者で、だから全部、自分で完結させたんだ。
そういう意味で、君は僕に似ているんじゃないかな?
「なにかを信じるのがばかばかしかったんだ。そんなものより自分を信じるほうが現実的だった。私はね、なにもかも信用していなくて、世界の全てが大嫌いだったから失敗を全て自分のせいにしたんだよ。でも、君は違ったようだ」
「……」
たしかに。照の言っていることは僕に一定の共感を与えた。しかし、決定的な部分が違っていた。
「そういうことですか。だから照さんは僕を似ている、というくくりでとどめた。同類とは見なさなかった」
まるで、照は……照は『彼女がいなかったら』なっていたかもしれない、僕だった。
「完璧な人になりたかったんです」と僕は言う。
照は黙ってそれを見ていた。
世界は絶対に救われるべきで、けれど救われないのが現実で。
それは、もとはといえば、彼女の受け売りの考えで、僕の考えではなかった。優しすぎた彼女は僕にそれを分け与えた。影響された。決して不満はなかった。例え自分を苦しめる考えだとしても、それでもこの考えは正しいと信じていた。
そんなことを思っていたから、僕は失敗を自分のせいにした。
しかし、照は違う。
「至った結論は同じでも、原点がまるで違う。一瞬見ただけではわからない。そういうことなんでしょう」

「世界は素晴らしくあるべきで、救われるべきだと信じていた」と僕は言う。
「世界とは救いようがない敵対者で、決して信用できなかった」と照は言う。

つまりはそういうことだった。彼はむしろ、最初は僕に対して同族嫌悪を抱いてさえ、いたかもしれない。でも違った。まるで僕らは、別物だった。
照が力なく微笑む。
「私はね、力ない自分が嫌だった。可能なら世界を思うがままに操りたかったんだ。でも、現実的にそれは無理だった。だから、届かないと知っていても努力したんだよ。間違えない人間に、失敗を修正できる人間に。それで、今の私があるわけだ。組織の幹部。ちっぽけでは終わらない、世界にとっての重要人物。副産物としてついてきた対人関係は、今でも役に立っている」
汚い考え方だった。他人のことなんて見向きもしなかった。結果的には私は組織の人間からいいやつ、として扱われているし、実際に何人も助けた。
それでも、それでも私はこう思うんだよ。
「君は……よくぞそこまで綺麗な考えでいられたものだ。そりゃそうだ。積極的に人の不幸を願う奴なんていない。そんな奴は自分が世界で一番不幸だと信じている奴だけだ。でも、そんな奴でも、不幸じゃなかったのなら人の幸福を願うんだよ。……私は、君のような考えをもってこの場に居たかった。君のようで、ありたかった」
幾度となく聞いてきた照の称賛。だがそれは、決して偽物ではない、そういうものだった。
だが、僕の考えは違った。
綺麗な考え? それがなんになる?
まただ。幾度となく湧き上がる自己否定。
『お前は優しいな』と父はよく言っていた。今にして思えば、それは慰めなどの建前の言葉じゃなかったのかもしれない。本気でそう思い、わが子を誇りに思い、褒めていた。
それを聞いていた当時の僕は、今も変わらず、嫌でたまらなかった。
なぜかって?
「照さん、それは違いますよ。隣の芝が青く見えるように、それでそんなことを思っているだけです」
わかりきったことだ。
「僕は少したりとも結果をだしていない。だから、あなたのほうが素晴らしい人なんですよ」
あまりにも単純明快な、それだけのことだった。
究極的結果主義。
どういうところで今までの行動を正当化するのか。いままでの悪事があったとしても、それが自分を成長させ、その悪事以上に人を救い、自分が幸せなら、なにも咎められる要素はないはずだ。そうじゃない、という人もいる。けれど、他人が他人をどこまで詳しく見る? 見ることができるのは切り抜かれた、現在という枠組みだけだ。さらけ出さなければ他人は他人のことなど気にしない。
照は、最初はそれを聞いて、呆れてさえいた。けれどそれは長くは続かなかった。
「……本気でそう思っているのかい?」
「目に見えるものが|現実《、、》です」
そういうものだ。
「過程を汲み取ろうとする人だって」と照は言った。
だが次には表情を歪ませていた。失言ではないのに、間違えてしまったかのような表情。
なんとなく、照はもう気づいているはずだ。彼がこういったことを考えたことがないはずがない。
きっとそれは、絶対に正しくて、綺麗な考えだ。
けれども、
「ほんとうはそうあるべきなんです。でもそれはどちらかと言えば明らかに少ない。――だって現実はそういうものだから」
人は何かに捌け口をもとめると、照は言った。
僕も照も、自分にそれを向けた。
誰がどう認めても、『自分だけは』認めることができない。よりよい結果を求めるから、満足はできない。人の欲望にはきりがないように、理想には果てがない。
人の称賛はひどく耳障りだ。嬉しくないわけじゃない。でもどこか納得できない自分がいる。そういった思いが大きくなるのは、決まって物事がうまくいっていない時だ。彼女を救える見通しはたった。
けれど、されど、その確率はいまだに――とてもとても、現実的じゃない。
「完璧な人になりたかったんです」と僕は言う。
照は――

 

 

「学力試験第一位、佐藤祐樹」
それは、なにもかもを破壊する魔法の呪文のようだった。
照は濁りきった瞳でそれを発した。
動揺と、諦念と、何かに対する失望。
組織の調査能力を甘く見ていたわけではなかった。だが組織に余力は、あまりない。だから志望者を詳しくなど調べない。特に末端はそうだ。裏切りはその地帯を切り離すことによって対処される。同時多発的な裏切りは組織の壊滅だ。政府が取れない手段じゃない。常々思っていたことがある。反社会的な抵抗組織はかえって法に対する市民の結束を強めている。全力をだせばつぶせないことはない組織を、なせ政府は潰さない?
半分、泳がされている、侮っている、そこまでの余裕はない、なにかしら考え付かない事情がある。
そんなことを推測した。だから自分の身元に関しては調べられたとしても、そこまではないと、そう判断した。
だがそれは賭けだった。防ぎようがないから、臭いものに蓋をするように見ないようにした。
消去法的選択。
でもこれしか、やれることはなかった、だから。
「それが……?」
強がりだった。それがなんだと。だからどうしたといわんばかりに、平静を保った。
声は震えていた。
「幼馴染の近藤雪は今年選ばれた犠牲者である」
――すべて終わった。
いやまだだ。最初からバレていたなら僕はここに入れてはいなかっただろう。つまり気づいたのはあとからだ。今や僕は組織として非常に欲しい人材になったはずだ。まだ芽はある。
『祐樹君、君はボスに呼ばれたようだ』
照が最初に言った言葉だ。予感がある。だがそれでも、最良の選択肢を取り続けるという選択は間違ってはいないはずだ。
「そうですよ、ちょうどよかった。その件についてずっとボスに話そうと思ってたんです。ボスは時間がなかなか時間が取れない人だから」
自分の言葉がどこまでもしらじらしく聞こえる。
落ち着け、と強く念じる。
焦ったところでいいことはなにもない。いつものように最善を選べばいい。やることはいつだって同じだ。
「なにをするつもりなのか、私にはわからない。だがこれは、確実にウチに来た理由にかかわってるんだろうね。君は社会を変えたい、と言った。けど普通、少なくともウチにくる前に、その学力をもってなにかをやろうとするだろう」
冷汗が背をつたうのを感じていた。
だがそれでも、平然としたなりを装って僕はこう言う。
「それがなんだっていうんです?」
照は、長い、長い溜息を吐いた。
「助けるつもりかな?」
「ええ。組織に迷惑はかけません。僕が自分――」
「諦めたほうがいい」
――なぜ。
「そうかもしれませんね。でも一度、ボスに相談しようと思ってるんですよ」
照の判断は関係ない。ボスの指示で全てが動くのだ。有利となる材料はいくつかある。照はやり過ごせれば、それでいい。
「それはやめたほうがいい。絶対に成功しない」
「……理由を聞いても?」
照はただ首を振った。
「君のためを思って言っているんだよ。理由は言えない。でも絶対、止めたほうがいい。諦めるんだ」
「それは僕が選びます」
今更、選択肢がほかにあるとは思わない。
照は痛みを抱えたような表情をしていた。僕に対しての悪感情は感じられなかった。ただただ、同情していた。
「今の君を見ると胸が痛むよ。私が言えることじゃないが、自分を責めずに、もっと楽に生きたほうがいい。私はね、君の生き方を尊敬してるんだよ。信じられないことかもしれないけど、君には幸せになってほしい。君みたいなひとが報われるべきなんだ」
それはひどく矛盾した言葉だった。
照は本心でそう言っているのだろう。でもやはり、それは僕にとって関係がないことだった。
「なあ、君のいうことはわかる。わかるんだよ。でも私は、感情的にそれは嫌なんだよ。君は自分を絶対に許さないだろう。でも時間が解決してくれるさ。バカみたいなことをいうけど、それだって感情的な愚かな行動だ。私が君に言う資格がある言葉はなに一つとしてない。だけど……」
そうだ。それらすべては照が正しく、もう想定の終えた結論だ。僕は間違っている。それでもやり遂げる必要がある。
それは経験や思い出、人生と目標において、必要なことだから。
「もう一度言う。君は――」
「――なんでですか!」
その大声は、照を黙らせた。
彼は何も言わない。言えないのだろう。きっとその情報はボスから話される。彼にはその権利がない。……今、彼が言っている言葉だって、おそらくは逸脱した行為なのだろう。
照は天を仰ぐ。何かを誤魔化すみたいに、きまり悪く笑う。
「ああ、自分らしくないことをしたなあ。嫌になるぐらい感情的な行動だ。なあ、祐樹君?」
扉に指を指す。
「行ってきなさい。私は全てを知っているから君を止めた。でも土台、無理な話だったんだと分かったよ。自分で何とかするといい」
なんともできないと、暗に言っている。
「言われなくても」
扉に手を掛ける。
「なあ、最後に聞くけど、考えを改める気はないかい?」
沈黙をもって、その言葉に答えた。
照の最後の一言は、僕を苛立たせただけだった。



「よう、小僧……じゃなくて祐樹。最近、首尾はどうだ」
「上々ですよ。現実的に可能な限りにおいて、ですが」
からからと、ボスは笑う。
僕はゆっくりと息を吸う。照に言われた言葉がわずかに余韻を残していた。それはこれからのことに邪魔になる。必要な要素だけ抜き取り、使うのだ。ただただ、最善を選ぶ。今まで通りに、同じことをすればいい。
「それで、話とは何ですか?」
不用意なことは決して喋らない。相手の出方に合わせ、対応する必要がある。
「ああ、そうだったな。俺はおまえに話があるんだよ」
狭い個室。机と椅子と、湯気の立つコーヒー。
ボスはそれに口をつける。ボスが好む、あの苦さと甘さを混同したコーヒーだろう。僕はそれに触れなかった。
「苦いな。なのにわけもわからんぐらいに甘い。良いことと悪いこと、どっちから先に聞きたい?」
「ボスが好きなように」
「ははは、つれない奴だな。堅物すぎると人生損だぞ? もっと楽に生きろ」
まるで、照のようなことを言う。だがまるで意味の違う言葉だ。込められた意味が、感情が、厳しさが、そういうものがない。
「では、おめでとう祐樹君。君は晴れて我がレジスタンスの幹部候補になったのだ! 嬉しいか?」
わざと場を盛り上げるような演技がかった仕草。
「……そうですね。早すぎる気もします。悪い点を聞いてから判断したいです」
「いや、お前が嫌がらないなら特にない」
「なら、嬉しいんじゃないでしょうか?」
それは組織が僕の価値を認めたようなものだ。僕にとっては得になる。だが、それにしても早すぎる。幹部候補? 入ってたった三か月程度の子供を? 無論、本物の幹部になるには時間がかかるだろうが、そういう問題を差し引いてもおかしい。組織は人材が不足しているとは思っていたが、ここまでではないはずだ。
「いろいろ照に教えてもらえ。羅門は武闘派だからおまえとはそこまでかかわりがなくなるな。それで――」
「――待ってください」
「なんだ?」
「なぜ僕なんですか? 不満があるわけじゃないんです。でも、早すぎませんか?」
「知りたいか」
「はい」
「……どうしてもか?」
「……はい」
はあ、とボスは溜息をついた。
「教える気はなかったんだがな。今教えとかないと後が怖そうだ。まあ、どっちでもよかったんだが、仕方ない。あのな、祐樹。おまえは……」
俺の後継者になるんだよ。
「…………は?」
はじめは、幻聴かと思った。だがボスの真剣な顔や、何も次に喋らないことから、本当なのだと分かった。
これは夢か? あまりにもうまくいきすぎている。もし夢でないのなら、彼女を助けられる確率はぐんと伸びる。本来、僕単独で、卓也さえなしに彼女を助けようと思っていた。彼がいようといまいと、見つかったら守衛に警戒される。そうなれば終わりだ。つまり、卓也はいてもいなくてもそこまで救出の確率は変わらない。だが、組織の手があるなら話は違う。何事もなく、長い間安全すぎた犠牲者の収容所は、僕単独での救出成功率が二割ほどある。ならば、プロに任せれば九割……いや、ほぼ確実に成功する。
胸が高鳴る。現実的だ。これならできる。彼女を助けられる!
……落ち着かなくては。まだやるべきことは残っている。
「驚いたか?」
「そりゃ……そうですよ」
「おまえのことだ、きっと理由を知りたいだろう」
「お願いします」
「まず、後継役の問題は深刻だった。照も羅門も、最終まとめ役には向かないからな。それで、人材が欲しかった。客観的に物事を見れる奴。冷静でいられる奴。自分を機械にでもするかのような、そんな奴」
「……」
「自分自身を歯車に徹底しようとするような奴だ。何かを遂行するためには、感情は邪魔でしかない。冷静に冷徹に、組織柄、そういうことができなければならない。だがそれでも、俺たちは人間で、支配しなければならないのも人間だ。単純な機械じゃだめなんだ。組織の頂点は人に裏切られにくい、人の気持ちがわかって、場合によっては汲み取れなくてはならない。……再度いうが、組織柄上、な」
なるほど、と思った。
レジスタンスは危うい組織だ。それこそ、こんなに存続できたのが不思議なぐらいに。五百年の歴史を誇るこの都市で、レジスタンスは実に二百年もの存続を続けている。都市の歴史の半分ぐらいだ。これだけの期間、そこそこの被害を、与えているのにも関わらず。
「わかるか? 要するに『機械を目指す人間』が欲しかったんだ。なれないと知っていながら、完璧を目指す。そういう人間はなにかしらで能力を発揮する。それがボス、という存在に適役かは置いといてだが。照は適役ではなかったタイプだが、能力の高さは発揮している」
並びたてられていく言葉の数々。
それは、やや過剰な称賛とも言えた。僕が精密な機械を目指す、ミスをしないことを目指す、完璧な人を目指している、というのはあながち間違いではない。
人心掌握。処世術。人間関係。
ボスの言っていることに、いくつかの心当たりはある。僕がどういう目的で、人との付き合いを円滑にしたのかとか、そういうことは、あまり関係がないのだろう。結果はすでに出ている。それが自分に嘘をついた仮初の姿だったとしても、三か月の期間、演じ続けられたのなら、これからもできる。『能力がある』そういうことだ。
「照にお前の観察を頼んだ。お前がどういう人間か、どういう考えをするのか、どういうことができるのか、そういうことを。照はな、心理学を極めた男なんだ。あいつは感情なんかじゃなく、経験と理論で人を理解できる。知ってるか? 人間の表情っていうのは面白いもので、ある物事に対する反応が約0、1秒の間、顔にそのままでるらしい。どんなに取り繕っても無駄で、嘘はつけない。時間の短さから、その分野を極めたわずかな人間しかできないが……照にはそれができる」
ボスはじっと僕の顔を見る。どういう感情が浮かんでいるのか、さっき言った方法で確かめるみたいに。
……照は、だからこんなにも僕のことを見通し、理解していたのだろう。嘘を見通すのではないかというあの感覚。それは間違いではなかった。真実だった。ただの勘と感覚で、それを感じ取っていた。
「十分に時間をかけた。はりぼてかどうかは、関係ないぐらいには。おまえは適役だった。ならばもう、教育は早いほうがいい。理由は、こんなところだ」
ボスの言葉には、違和感がなかった。筋道は通っている。自分を過大評価するわけではないが、確かに、僕みたいな人間はあまりいない。この思考と考えは、ただ重くて苦しい。おまけに救いようがない。
自分の行動を考え、周りの人間を見てきたからわかる。
簡単に人を否定する奴。
いわなくてもいい悪口で、争いを始める奴。
自分の行動がどれだけ人を傷つけるのか、考えた事のない奴。
それらすべてが、最終的に自分に返ってくるかもしれないことが分かっていない奴。
これらは、軽率な行動と言え、しかし細かすぎて絶対に自分に返ってくるとは言い切れないものだ。人を傷つけたり、自分を誇示することによって、周りに強い自分の印象を与える。発言力の上昇と、声の大きい者に付き従う人種の列が、さらに強化を生み出す。暗にスクールカーストのようなものができあがる。
だがこれらには代償が存在する。強さは誇示するがための行動は、結局、人を不快にさせることが多い。大きなミスからその立場は危うくなり、影で失敗を笑われる。
無論、そういうことにならないことだって多くある。要するに致命的なことをしなければ、その立場は続いていくことが多い。メリットとデメリットをどれだけ天秤に乗せるかだ。致命の時に仲間がいなくなるかもしれない。影で何かを言われるかもしれない。だが優位性による通常時の満足感は得られる。
最終的な結果なんて、運と行動いかんによって変わる。ただ自分はそういうリスクを負いたくなかっただけで……。
良い人間であろうとした。人の悪口で盛り上がらないように気を付けた。その場の空気というのもあるし、愚痴のようなことは言ったかもしれない。だがそうであることを望んだ。そうなりたいと目指した。努力した。そういう届かない高みを見つめていた。完璧な人で、人には優しくあれることを望んだ。
きっとそれはいきすぎた行動で、無意味な葛藤と苦しみだ。自分にとってを考えれば、もっと楽に生きたほうが都合がいいと、僕だって思う。
でも、もしかしたら、苦しんだかいがあったのかもしれない。全ては最終的な結果で語られる。この葛藤が、考えが、苦悩が、もし彼女を救うために役に立ったのなら……願ったり叶ったりだ。
「祐樹」とポスが僕の名を呼ぶ。
「ここが境界線だ。了承の選択をすれば引き下がれない。その前に、なにかいうことはあるか?」
――熱のこもった、おどろおどろしい気迫。
きっと第三者から見れば、なにも不自然な雰囲気はなかった。
僕だけに向けられた、そういう気迫。最初にボスにあったときのことを思い出す。
――ただものではない、なにかを背負っている。
僅かに怯む。
予感がある。
このままでは終わらない、いいことだけで終わらない、予定調和めいた不幸。
なにを? なんてことを聞くのは無粋だった。ついさっきまで、浮かれていた。
引き戻された。頭の中にあった絶望を、言葉を、思い出した。
『諦めるんだ。それは絶対に成功しない』
照の言葉。
それは僕がこの先、有利に動かすための言葉だ。だがそこに『彼女』は入ってない。ただ僕一点のみの有利。未来の行動の制止。
『諦めたほうがいい』
そうすれば、僕だけは有利になる。そういう情報。
「……ボス、言わなければいけないことがあります」
そう、ここでいわなくてはならない。
僕が助かってなんになる? 決意の日以来、もう自分の中にそういう選択肢は存在しない。
当然、ボスだって僕が彼女を救おうとしているなど、知っているはずだ。照が報告したのは間違いない。照はボスに逆らわない。でもその中で、僕を助けようとした。
もしかしたら、ボスは『救う』なんてことは知らないかもしれない――はずがない。
そういう人種だと、わかっている。
試されている。きっと最後の。言わなければならないこととして。
ここを境界線だとボスは言った。匂わせた。次はない、と。
「僕は今回選ばれた犠牲者、近藤雪を助けたい」
言った。どうなるかはわからない。だがそれは、彼女を諦めないという選択を取るなら、最善のはずだった。
「そうか」とボスは短く言った。
沈黙は続く。僕のコーヒーは満たされていた。ボスのコーヒーは空だった。コーヒーは暗く、濁っていた。
「知っていた。照から聞いた。俺に会う前、照に会っただろ? どうせ言わなくていいことをアイツは言ったんだろうな」
乾いた笑い声。やはり、照は組織にとって余計なことをしていた。だが、ボスは見通している。照すらも、見通している。ぞっとする。なにもかも利用して、てのひらのなかだ。
「テストだったんだよ。俺の独断でなにもかもを謀った。お前がそれを言ったのは今この場までは正解だ。そして言うことがある」
続く言葉は、わかっていた。
「諦めろ」
照は、あくまで僕に心の準備と、諦めるという選択肢を濃厚に示しただけだった。救いはなかった。
これになんと答えるか、それは決まっている。だがなんと答えるのか、どう説得するのか。
予感があった。予定調和めいた不幸。
諦めれば、僕の人生は決まる。だが諦めなければどうなる? ただ、ろくなことにならないのは確定していた。
――予感がある。
たぶん、殺されるか、飼い殺しか。結末が顔を覗く。うすら寒い。
――だがそれでも。
「無理です」
嫌だとか、どうしてだとか、そういうことは言わなかった。
断定の一言。愚かしい、そういう行動。だがそれでも、やるしか、ないのだ。
「――諦めろ」
命令形。最終通告。
けれど決して、揺らぐことはない。ばかばかしい気さえする。結果はなかば、わかっている。なのになぜこんなことをするんだろう?
「――無理です」
ボスは目を閉じた。そして開く。諦めと失望。
「やはりか。俺自身がおまえを見てきたわけじゃない。だがやはり、そういうやつなんだな」
悟ったような、諦めたような、そして――ただただ残念だという声音。それが全てを体現していた。結果だった。
「さっきまでの話はなしだ。おまえは一生平で、もう外に出すわけにはいかない」
殺しはしない。せめてもの、温情ってやつだ。どうせ個人じゃどうにもできないしな。ボスはそう言った。
「いいえボス。彼女を助けるのはぽく一人です。組織には一切負担をかけることもなく、連れてきます。その後は忠義を誓います。身を捧げます。それでなにもかも、あなたの思がままに。だから一度でいいんです。チャンスを下さい」
なにもかも、材料をぶちまけた。出せる手札全てだった。しかし、ボスはそれらに大した反応はしない。どうでもいい、とばかりに。
「教えてやるよ。この組織のことを。そうすればおまえは納得するだろう。諦めがつけば道もわかれるかもしれない、だから」
ボスには、僕の言葉欠片ほども届いていなかった。
「なあ、考えた事はないか? なんでこんな社会の害になる組織がこんなにも長い間続いてるのかって」
なにかを刺激するような声音。
「おまえは思ったことがあるはずだ。この組織の存在は、むしろ結果論でいえば、市民の団結と法の統治を補助している、と」
まさか。
「ああ、さっき言った表情を見分ける術を使わなくてもわかる。驚いただろ? そして理解したはずだ」
バカな。
「|俺たち《レジスタンス》は政府とグルだ。不穏な存在、社会に対する敵対者は、人々の結束を促す。その結果、多少の死人は仕方ない」
そんな。
「――我らが住まうは、犠牲の都市だ」



「嘘だ」
「目をそらすな。わかっているんだろう?」
そう。嫌になるぐらいに。
考えた事はあった。だがあまりにも突拍子で、ありえない可能性と、切り捨てた。
「組織の多くは知らない。知っているのはほんの少しの、信頼できる上層部のみだ」
そうだ。僕がおかしいと思ったのだ。ボスや照が思わないはずがない。無意味な行動を、二人がするはずがない。つまり、絶対の保証と、根拠があったはずなのだ。
「ほとんどは不満をもったごろつきだ。第一、こんな組織が普通持つはずがないだろう? ほかに犯行組織がほとんどないのも変だ。この都市の統治は完璧に近いんだ。まだなにか、言ったほうがいいか?」
「……もう、いいです」
つじつま合わせの答え合わせ。そうだ、考えれば考えるほど不自然だ。だがそんなもの、よほど注意深く見ないと見えてこない。ほかに考えることなんていくらでもあった。それになにより、組織は現実として存在していた。目の前にあるコップは実は机だなんて、いったい誰が思う?
「そういうことだ。俺たちは政府の犬だ。おまえに絶対に協力しない」
絶対。
全てつながってくる。照の言葉も、なぜ僕の言葉にボスがたいして耳を傾けなかったのかも。
「なんで……なんでボスがそんなことをしているんです? 政府の犬、だなんて。あなたはそういう人に見えない……照だって! 自分が小さくないことを望んだ! 世界にとっての重要人物に、なろうとした!」
とてもとても、認められない。ボスも照も、なにかを自分で変えることを望んだ。はかりしれない存在だった。それゆえに小さなところに居られない、そのはずだ。
現実? 現実的に不可能だから?
噛み合わない。納得できない。
「ここが小さいか、そう見えるか。確かにそういう味方もある。おまえの言う通り、照も俺も、世界の変革者でありたかった。だがそんな場所は、な? 現実に存在しないんだ。政府にたてついて、人を殺して……それでなんになる? 個が巨大な組織に敵うことはない。俺一人がなにをやったって、所詮無意味だ。消去法的選択。だから一番重要な位置に、俺はいるんだ」
「重要? ここが?」
「ああ、お前も見ただろう。ここはそんなにうまく回っているわけじゃない。完璧とは程遠い。だが反逆者役を誰かがやらなくてはならない。そんなことができる奴なんて、世界中探しても、俺ぐらいだ。俺にしか、できないんだよ」
そういうボスの言葉は。
自信にあふれていて、疑いを知らず、黒を黒だと、当たり前のことを言っている口調で。
だから、なのだ。自分にしかできない。俺は世界にとって、必要な重要人物だ。だから。
「照も同じだ」
「そんな……こんな……」
こんな話がある。
奴隷の実情。
遠い昔、旅人がいた。旅人はその旅路の途中で女の奴隷を見つけた。そしてかわいそうだと思い、救ってやろうとしたのだ。しかし、奴隷は拒否した。旅人は、強引に奴隷を助けた。その奴隷の主人は死んだ。血だまりの中、女の奴隷の一言で物語は終わる。「愛していました」と。
誰にとって、彼にとって、正義の定義が違う。歪んでいるように見えても、価値観が違うだけだということもあり得る。
僕は社会の反逆者であるこの組織が、もし政府の見方だとしたら、犠牲を許容しているのなら、と考えたとき、それを正義ということはできない。なぜなら人が死んでいるのだ。殺しているのだ。だがこれも所詮、僕の価値観でしかない。
もし反論した時のボスの言い分も予想できる。数でいえばこれだけの期間で百も死んでない。何十万も生活しているこの都市で、反乱が起きればきっとこれ以上の死人は出る。反乱で起きる死人だけじゃない。政治の不安定化で死ぬ人数は、見過ごせないものになる。
きっとこんなことをいうのだろう。
組織の大半が本物のごろつきというのもカモフラージュのために仕方がない。そもそも現実問題、こんなことをやりたがる人の数も知れている。組織を保つための最低人数。それが被害を及ぼしたとしてもやはり……それでもこの組織はなくてはならない。
僕は完璧を目指すが故に認められなかった。しかし、そういう正義もあるのだと、理解することはできた。決めつけと独善はしないように、そういうことも僕の完璧、なことに入っていた。
ボスに何かを言おうとした。乾いた喉は、音を発さない。
何も、言えなかった。
「どうだ?」
「……」
「お前のここまでの行動、姿勢、照から聞かされたときは感動すら覚えたぞ。いきなりスーパーマンみたいなことをするわけでもなく、現実的に、できることだけをおまえは選択してきた。それはすなわち、英雄的な行動に酔っていないことの証拠だ。本気で助けようと思っていたんだろう。並みの人間ができることじゃない。しかし、運が悪かったな」
ボスは笑わない。誤魔化すことはしなかった。
「この社会構造的に、おまえはなにをやっても無理だったんだ。|仕方がないんだよ《、、、、、、、》だから、いい加減、諦めろ」
「……」
なにも、言い返すことはできなかった。
なにかを考える。僕はここから、なにをすればいい?
取れる手段は、なにもかもが潰れていた。どこにも逃げ切れる場所がない。もう、どうしようもない。スラムに逃げたっていずれ捕まる。その期間で、ほかの犠牲者が選ばれ、彼女の犠牲は止められるかもしれない。だがそんなことをしたって、政府は例外を許さない。きっと僕らは晒し者として殺されるのだろう。あの、いつかの娘を救おうとした父親のように。そして巻き込まれた、ほかの血筋のものたちのように。
だから、レジスタンスはどうしても必要だった。しかし、ここは逃げ場所ではなかった。
「俺は『機械を目指す人間が欲しい』と言ったな。あれは本当だ。今回のことがなければおまえは後継者になる予定だったんだ。……今後の行動によっては、まだわからないがな」
ボスはささやいている。諦めろ、と。そしてそうすればおまえにはこういう立場が用意されている、と。
「おまえは人のことを思うことができるやつだ。きっと組織をうまく導く。さらにおまえが頭になれば俺たちの行動による『犠牲』をうまく減らせるだろう」
きっと、どんな人だって僕がなにをすればいいかなんてわかる。彼女も同じことをいうだろう。
だって。
彼女のことを諦めるのだ。不可能なことだと、仕方がないと。彼女は犠牲になる。ならせめて、彼女の意思を継ぎ、誰かのためになることをしなければならない。優しくあらねば。
結局、組織を継ぐことは影の中でしか見えないとはいえ、英雄的行動には違いないのだ。
英雄。超人。完璧者。
僕の目指したものの一つの形とも言える。
そのかわり何かを諦めている。だがそれがいかにも、現実的だ。
「僕は――」
――もう、選択肢は一つしか存在していなかった。
いやだいやだ、と心の中で悲痛な声がする。
まだ諦められない。
必死で考える。なにもない。バカげた妄想が頭に浮かぶ。僕は英雄のように、強大な力をもって彼女を救う。歯向かうものは皆殺し。強い強い、そういう魔法のような。
嫌になる。
なにもかも。
何もできないことが。
なにもできなかったことが。
「僕は――」
いつだって思い出す。
秘密の場所。薄暗い空間。風の舞う感触。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
――彼女の後姿が頭によぎる。
今に振り返る、そんな一瞬の写真のような思い出。
泣きそうになる。彼女のことがどこまでも大切だった。
――きっと。
どこかでは告白して、付き合って、キスをする。一緒に子供を育てる。「幸せだね」なんていう彼女の笑顔を見て、余韻に浸る。
――そんな未来を信じていた。
きみさえいてくれれば、僕は幸せでいられる。きみじゃないと嫌なんだ。
落ち着いた雰囲気で一緒にいられること。たまにだけどふざけあうこと。
どうしても、どうしても――。
「ひとつだけ、お願いしたいんです」
「なんだ?」
――だからどうしても、僕は。
諦める、ということはできなかった。
だから今から、僕は自分でも笑いそうなことをする。
「地表調査に行かせてください。僕の数少ない夢なんです」
魔法。
奇跡の力でしか、もう彼女を救うことはできない。そして地表とは星が堕ちた場所であり、魔法と関係している。そして……もうすぐこの組織は、調査のために人員を出す。
絶望している体で『夢』と言って同情を誘う。賭けではある。
自分のやっていることがばかばかしくなる。
つまりは……幽霊を信じるようなものだ。そういうものを頼るという、もはや死んだような選択。
「……む? 諦めるんだな? ならいいが」
「はい、諦めます」
諦めない。
しかし、それは形だけに近い。
僕はうつむく。ボスになにかを悟らせないために。そしてこれは不自然ではない。なにしろボスから見た僕は、全てを失ったに近い状態なのだから。
「そうか、いいだろう」
ボスの声からは同情が感じ取れた。ボスもまた、『機械を目指した人間』だ。感情を抑制することができる。しかし、人を思いやることもできる。ボスの口調からは僕のことを理解している言葉が出てきた。きっと照と同じく、多少の感情移入があるのだろう。
警戒心はなかった。なにしろ彼女の救出とはあまりにも関係がない。
うまくいった。だが同時にこうも思った。
だったらどうした?
どうせ彼女は救えない。自分を納得させるためだけの、それだけのエゴでしかない、そういうことをしている。
愚かとしか思えなかった。さっさと諦めるのが正しい。一時の感情に流されている。ボスの言う通り、感情など行動のためには邪魔でしかない。なにしろ生き延びれば、どうせ彼女のことの記憶は薄れていくのだから。
けど、諦めたところでどうする?
それでたまに思い出して泣くのか? 何の意味もなく、まるで自分は被害者だというように?
結局、納得できない。
だからと言ってこまま魔法なんかを、奇跡なんかを信じて行動するのか? ろくに信じてもいないくせに?
地表の探索は控えめにいっても死ぬか寿命が縮まる可能性が高い。きっとこうやって、僕は死んでいく。
なにを選んでも、なにをしても、納得のいく結果は存在しなかった。
なにもかもいやになる。
それでも、やるぺきことをしなければならなかった。



卓也と出会った。話してはいけなかったが、組織の真実の姿についても話した。ボスから、信頼されていたのを、裏切った。しかし、そんなことはどうだっていい。仮に噂として広まってもバカにされるのがオチだ。
そして僕は彼に諦めるように言った。さらに僕は最後の夢として地表の調査に行くと言った。
彼は何も言わなかった。ショックをうけたような顔をしていた。
僕も彼も、なにもいわずに立ち去った。なにもできなかった。


 

犠牲の都市6

満たすのは諦めと無気力感だ。なにがいけなかったのだろう、どこで失敗したんだろう。
答えはわかっている。結局、僕自身がだめだったのだ。
完璧な人になりたかった。どんなことでも叶えてしまえるような、そんな存在になりたかった。
……そこにある、すぐ近くの未来を覗く。特別な能力か何かがあるわけじゃない。ただ、どうなるのかは、ほぼ予想がついていた。誰もいないところで横たわる己の死体。なにも、できなかったという事実。それが、わかりきった結末だ。
いままで何のために生きてきたのだろう? ただ彼女さえいればよかった。多くは望まなかった。なのに、どうしてこうなっている? 
人に優しくあれることを望んだ。完璧な人になりたかった、という外付けの理由はあったかもしれない。だが、少なくとも悪いことではなかったはずなのに。
苦しんだ。無意味な思考と、それでも正しいと、信じて疑わなかったこの思いから。
だが結果はどうだ? どうせ彼女は死ぬ。僕もまた、死んでいく。
楽観的になどなれない。コインの表が何十回も連続ででるなど、思えない。
せめて卓也は止めなければ、と思う。だが無理だろう。自分の姿を見ているようだ。彼が何を考え、どんな葛藤を抱いたかと想像すると、感情移入してしまう。自分の親を死なせてしまう可能性が高い、そして自分も死ぬ可能性が高いと、自覚して彼は行動してるのだ。それを考えると……できない。
何もない虚空を見上げていた。なにもかもが、どうでもよかった。
「……なにしてる」
ぶっきらぼうな、男の声。
振り返ればそこには鋭い眼光の大男がいた。羅門だ。
「地表のことを考えていたんです。ずっと、夢でしたから」
よくもこんなにも心にもないことが言えるものだ、なんてことを思って……ばかばかしくなって思考を打ち切る。
結局、ボスはあのあとも僕を引き留めことはしなかった。それは主に僕について考えすぎた同情心が、関係はしているのだろう。だが、ボスは感情だけで物事を決めるタイプの人間ではない。要するに、もう後継者のかわりがいるか……僕は後継者の資格はないと判断したのだ。それもそうだ。あの話を聞いた後では、僕を後継者にするなどリスクが高すぎる。恨みの気持ちから、本来決してやってはならない本物のクーデターを、政府に対して起こすかもしれない。組織ははりぼてで、ほとんどの人間は本物のゴロツキだとボスは言っていた。おそらく、頭が代われば組織はいくらでも変えることができてしまう。
「なあ、祐樹」と静かに羅門は言う。
なにかを話そうと、踏み込もうとしている。
……けど、それもどうだっていいことだ。
「おまえ、本気でそれをいってるんだよな?」
「当然ですよ。子供のころからの夢です」
なにかを言おうとして、飲み込む羅門。それを繰り返す。だが諦めて、彼はかぶりをふった。
「なあ、俺はあまり頭がよくない。だから単刀直入にいうが、気を悪くしないでくれ。……おまえ、死のうとしてるのか?」
彼は……本気で僕のことを思っている。伝わってくる。思いやりや気遣いが。頭が悪いと自覚しつつ、それでもなにかをしようとする志が。
羅門は最初からそういう男だった。一本堅気。粗暴でも筋を絶対に曲げない、愚かなまでな正直者。
彼のような人物は嫌いではない。そういう人は、きっと多い。
「……そうかもしれませんね」
ぽつりと呟く。実際、僕がしようとしていることは自殺だ。諦めがつかないから、自分の行動規範を裏切れないから、こういう形になっただけで。
しかし、僕は続けてこうも言う。
「でも、夢だったんです。死ぬ時ぐらい、最後ぐらい夢をみても、かまわないでしょう?」
「……おまえ」
「大丈夫ですよ、羅門さん」
精一杯、穏やかに笑って見せる。
羅門には何も言う必要がない。意味がないことだからだ。だけど、僕は最後まで自分で決めた倫理規則には抗えない。僕は彼に何も話すつもりはないと同時に、傷つけたくはないのだ。むしろ、彼のような人を称賛したいとさえ思う。彼は善心から僕に語り掛けた。それが結果的に不愉快な言葉でも、彼に怒ってはならない、そうしたくない。……己はそういう人種なのだと、理解している。
「僕は生きて帰るつもりですよ。でも、やはり僕は死んでしまうかもしれない。……羅門さんはそのとき、自分を責めそうですね。けど、それはやめてください。あなたは正しいんです。人を思いやることが、そういうことを考えようという気持ちは、少なくとも悪いものであるはずがないんです。僕は、あなたのような人を好ましく思ってるんです」
感謝しています、と僕は言った。
何かを壊したい。誰かを傷つけたい。
なにもかもに絶望した今、そういう気持ちがあるのを自覚している。しかし、できなかった。全部、一緒だ。『自分だけは自分を許すことはできない』と照がいったように。結局、僕は自分自身を裏切れない。こびりついた思想は強要まがいのルールを押し付ける。それは自分という核なのだから、抗うという手段が存在していない。
「違う」
震える声で、羅門は言う。
「違う、違うんだよ。俺は……」
尻すぼみに消えていく声。彼は、悩んでいる。
「だめだ。説明できない。もういい、悪いが一から聞いてもらえるか」
羅門は語り始める。



ある物語の主人公は師匠の死によって使命から逃れられなくなる。いつだったか、そんな話を読んだことがある。
彼は最初にそう言った。
「俺はスラム出身の孤児だった。名前はなかった。一人で生きていた」
羅門は言う。俺は無価値な人間だったと。
「だがそんなものは長くは続かない。一人で生きていけるほど、世の中は甘くない。だから徒党を作った。子供だけの集団。結束団体。弱い奴らの集まりだ」
楽しかったさ、と羅門は言った。自由であると信じた。他の誰かが困ろうと、かまいやしかった。
しかし、そんなものは長く続かないのが世の道理。中途半端な、目の上のたんこぶの集団は、大人につぶされた。同じスラムの奴らだ。当たり前の結果だった。
「なあ、祐樹。その集団のやつらはみんな殺されたんだ。ゴミみたいなやつらがゴミのように殺されたんだ。だが一人だけゴミのように生き延びた奴がいたんだ。そいつはただ運がよかったのかなんなのか、同情心から孤児院に入れられた。そこもスラムという区域であったが……暮らしは良くなった」
「だから|そいつ《、、、》は自分をゴミだと言うんですか?」
「そうだ。罪悪感があった、なんで自分がと思った。それでも生き延びたのはそいつだ」
孤児院手の生活の中、少し自分に余裕がでるにつれてそいつは周囲を見れるようになった。このままではダメだと思った。自分が生き延びた理由はわからない。けれど、成り上がらなければ、強くならなければ、生き延びなければならないと思った。……周りの人間は環境甘んじていると気付いた。俺だけしか、向上心がない。
「俺はお前にスラムのやつらは蛆虫のようだと言ったな。誰かが助けようとしても無駄になると。……実際、無駄になったことがあるんだ。俺がまだ若いころだった。とんでもなく、虚しくなったんだ」
「それで、諦めたと?」
「そうだ。言い訳に聞こえるかもしれないが、当時の俺にはもっとやるべきことがあった。……俺は頭が悪い。多くは出来ない。だから見捨てたんだ。そういうのも含めて、なにもかもにも腹が立つんだ。だが正しいという根拠はあった」
やがて孤児院に男がやってきた。そいつはその子供だけを連れ出してこう言った。
『お前の仲間たちは俺が殺した』
それでナイフを子供に渡して。
『やりたきゃやれよ』
そう不敵に笑った。
「俺にはボスがいた。ボスを支えなきゃならなかった。それが最優先だった」
子供は理由を聞いた。なぜ殺したのか、それだけを泣きながら聞いた。……なにも現実を知らない、子供だった。それでその男の雰囲気が変わった。その子供の意識は次の瞬間には消えていて……目覚めたとき、レンガで作られた建物の中にいた。
「そこで俺はいろいろと学んだ。考えなければならないことを教わった。子供の集団が死んだ理由を聞いた。ボスは完璧な人間だと認識されていたが、違うということを知った。……俺は先代のレジスタンスのボスに会ってな。その人からボスが子供を殺したがらなかったことを聞いたんだ」
一年後、子供は子供殺しの男にまた会った。そいつは驚いた顔をしていた。子供が跪いたからだ。あなたに仕えたいと。
「ボスは完璧なふりをしているだけの人間だ。子供は一人残らず殺すべきだった。……先代のボスと、今のボスの会話を盗み聞いたことがある。『私は死ぬ。あとはすべてお前に任せる』そういう厳しめの声。その次の日にテロで何人かの人間と、先代のボスが死んだ。――死ぬ間際の言葉は人を強く縛り付ける。だから死ぬことで、今のボスに重荷を背負わせたんだ。……その盗み聞いた会話の中で誰かが泣いていたのを今でも覚えている。後にも先にも、そいつが涙を流すことは、たぶんない」
子供は全てを知っていた。それらすべては先代のボスの差し金だ。だからといって不正に得た情報が正しく働かないわけではない。子供は忠誠を誓った。一人の男を支えなければならないと。
「俺には名前がない。子供の頃から記号のようなものとして呼ばれるものはあった。けれどそれには意味がない。俺は名前を決める必要があった。自分の領分はわきまえていたから、極道のような、そういうものになれるような意味が欲しかった。結局、名前は何でもよかった。羅門、なんて名前も、極道の人物っぽいってだけでつけた。ばかばかしいかもしれない。だが俺がそれを名前として認識した。俺は羅門|《、、、》という人物になった」
「……」
「俺はお前が嫌いだと言っていたな。その理由は、『おそらくボスとしての座を引き継ぐ時、死ぬことでその座を引き渡すからだ』だから後継者になるであろうお前が憎かった。……死ぬ間際の言葉はもっとも人を縛り付ける。勝手なことだとわかっていたが、それでも『ボスを守らなければならない羅門』は、お前のことが嫌いだった」
「だから、ですか」
「そうだ。だからお前のことを見ていたんだ。たりない頭でお前のことを考えた結果はこうだ『それでも少なくとも、こいつは悪い人間ではない』」

 

 

「だからなんだっていうんです?」
他人の肯定と称賛。それがなにを及ぼす?
所詮、意味がない。どうしたって、結果は変わらない。
「俺は羅門だ。その名は極道として、一本の筋道を通さなければならない。お前のことを見てきて、それで、お前は悪い奴じゃないと思った。なのにお前は救いようがない場所にいる。それに、腹が立つんだ」
この世の中は理不尽すぎる、と羅門は言う。
誰もかれもがわかっている事実だった。皆、不満に思っていた。けれど現実は依然として変わらずに存在する。誰もそれを変える力を持たない。みんなが諦めている。
「納得できないんだ。腹が立つんだ。なあ、なんでお前は死のうとするんだ? お前は悪い奴じゃないのに、なぜそんな場所にいるんだ? 少しでも力になりたいんだ。俺は、羅門は、そういうことを願うんだ」
――理不尽に耐えられない。
それはきっと、多くの人間が持つ共通意思だ。たとえ自分とは関係のない不幸でも、一度目撃してしまえばいやな気持になる。夢見が悪くなる。小さく押し込めることはできる。しかし、小さなしこりは残る。
羅門は僕と彼女のことを知らない。今までの発言からそういうことが読み取れる。けれど、助けになろうと思ったのだ。一人の人間が理不尽のただ中にいるのを見て、何とかしたいと思った。
……だけど。
怒りや不満、やるせなさがこみ上げる。
そんな感情が、一体何の役に立つっていうんだ? 結果は不変で、何をしようとも、僕の運命は変わらない。
何度も何度も、そういうことをも考えたことがある。世界全体が救われてしまえばいいのに、と本気で思っていた。他人の不幸が許せなかった。完璧でない世界を恨み、無力な自分を呪った。
だが結果はどうだ? この思想は少なくとも悪いものではないと思っていた。少なくとも、多少なりとは誰かを幸福にできると信じていた。……そうはならなかった。どんな高尚な理念も信念も、いつだって現実が示す結果によって否定される。羅門の思いに意味はない。
吐き出したくなるのは罵倒と呪詛だ。お前がやっていることは無意味だ。僕を見ろ、僕はなにもできていない。
……それでも、ほかならぬ自分自身がそれを止める。
もう嫌だった。これ以上の思考は無意味で、ただ、苦しい。この思考は誰も救わない、誰も救えない。
なにもかもを、投げ出してしまいたかった。
「意味なんて、ないんですよ。僕が失敗したのにも、なにもかも。失敗したんです、僕は。結果が得られなかったんです。だから誰かが僕を助ける必要は、ないんですよ」
本心から思った。失敗者に権利はない。他の人にはあるのかもしれない。だが、僕自身にはないのだ。自分自身が救済の許可を与えてやれない。無力な自分を許せない。それに……現実的に救済される手段もない。
助けられたいと、願っていない。
「違う!」
語気を荒くして羅門は言った。
「そんなのはお前が決めたことだ! お前は何かをしくじったのかもしれない、けど、失敗した奴を誰もが責めるから一体誰が救ってやれるんだ! 俺はそんなのはごめんだ! だから! 俺こそは!俺だけはせめて! 失敗したやつを認めるんだ!」
――それは。
誰かと話した記憶がある。同じようなことを言っていた。誰かが、本来は世界全体が救われるべきだと説いた。同時にそれは現実的に不可能だと言った。
『現実は僕らの努力を認めてくれないこともある。でも、せめて身近な人の努力は、身近な人が認めてあげよう』
――その言葉は。
『できる限りのことはできるようにしよう。身近な人のことだけは、周囲が否定しても、自分だけは味方になってあげよう』
その思いは。
――全部全部、自分の言葉だ。
いつまでも跳ね返ってくる、そういう類の、呪いなのか祝福なのか、見分けのつかない言葉。
子供から大人になって、世界のことがわかるようになって、ひっそりと絶望していった。どうせ無理なんだと、世界は理不尽で溢れすぎていると、そう思っていた。
何かがわかりそうな気がする。
何かがつかめそうな気がする。
絶対に救われるべきで、されど絶対に救われない現実という世界。だから、せめてもの抵抗として……。
ああ、と思った。だからなんだ、と理解した。
人は、出来る限り周り他の人間を認めてやるべきなのだ。人は失敗する。そいつが悪くなくても運という要素が失敗を引き起こすことなんてざらにある。
だから、なんだ。
人が人を認めるということは。
誰かが誰かを救おうと、その意志だけでも持つべきなんだ。
大きなことじゃなくてもいい。
でも、小さなこと善意で、十分人は救われる。
羅門は必至な顔をしていた。俺だけはせめて認めてやりたいと、そう言っていた。それは小さいなんてものじゃない、大きな善意だ。
僕は彼女を救えない限り、救われることはない。
いままでしてきたことに納得できなかった。結果がでなかったと、絶望していた。優しさを目指す思想は欠落品だと、そう思った。
――そうじゃなかったんだ。
結果は不動で、羅門の行動はなんら介入できていない。それでも、と僕は思う。
人の善意が間違ったものであるはずがない。結果は伴わなくても、それは――
「俺はお前を認めるんだ!」
――絶対に正しいものなんだ。
納得した。今現在の結果は運が悪かっただけで、この考えのせいではない。
延々と渦巻く思考に苦しんでいた。意味がない、と何度も何度も思った。
「あり……がとう」
少なくとも、僕は少しだけ救われたんだ。人間の善意から。人を想う、その想いに。
否定を否定して、ずっと繰り返して。
「ずっと……苦しかったんです」
自分で立ててた倫理の順番。積み上げていく作業には絶望が多かった。
こみ上げてくるものがあった。それは暗い感情ではない。納得できたから。今までのことは無駄ではないと、そう思えたから。
頬を何かが伝う。それを見て、羅門は目をそらした。
「ばかやろう、お前は悩みすぎだし、自分を押し込めすぎだ。そんなに機械みたいにならなくていいんだよ」
そのぎこちない言葉とそっけなさをみて……思わす笑ってしまう。
泣き笑い。
「解決したのか?」
「はい」
「これからどうするんだ?」
「地表に行きます」
「それでも、なにかあるってことか」
「そうです」
「なら、応援だけはしてやる」
少し、愉快な気分になってくる。相も変わらず、彼はそっけなくて、でも彼の感情がうっすら伝わってきて。
「羅門さん、僕は死ぬかもしれません」
「ああ」
「でもなんとか生き延びようと思います、本気です」
「……ああ」
「今日羅門さんが僕に声をかけてくれたのは、最終的な結果をなにも変えられていないかもしれません。だけど、僕が次にいう言葉もまた結果です」
それは、たった一言でよかった。
「ありがとう」


 

「点呼だ」
「一」
「二」
「三」
「四」
「よし、全員いるな」
短く髪を切りそろえた男――隊長は元気よくそう言った。
ついに、地表に出る時が来た。
あれから僕は少々の体力訓練と、地表に対する見解予想を学ばされた。僕に与えられた番号は四番だ。この探索では仲間を見捨てる可能性もあるので、無駄な感情は必要ない。よって互いに名前はしらず、僕らには番号が与えられている。
「俺たちは仕事をしに行く。だが……地表は我々の夢の場所だ! 少々ならハメを外して構わん!」
……しかし、隊長はあまり規則を気にしない人物のようだ。
僕以外の番号を与えられた者はみな若者で、隊長だけはやや中年といったところか。みんな夢があってやってきた。未知なる場所への冒険心、好奇心。そういったものを抱えて。
残していく者のことを考える。
卓也のこと。父のこと。彼女の両親のこと。
今からするのは奇跡を願うことだ。魔法がさらに発現して彼女を救えるようにしたり、その技術の痕跡を盗む。政府から逃げられる場所を用意する。
最悪、ここにいるもの全員を裏切ってでも、なにかしらの特異ななにかを持ち帰らなければならない。とても、ばかばかしくても、やらなければ。
彼女を助ける。不可能に近くても、死ぬかもしれなくても。
誰かを傷つけないといけなくても。自分の信念を裏切ってでも。
僕らは移動を開始する。地表にいくために秘密裏にあけられた洞窟の中へ。
犠牲の装置メギナラムの効果はその装置の周囲数百キロメートルを、薄い膜の球で覆うことだ。その膜は人体に有害である粒子を防ぐ。魔素、という粒子だ。星が堕ちてきたあとに発生した謎の粒子。それはメギナラムの力以外では防げず、人類をほぼ滅亡に追いやった。さらにやっかいなことに、電波当を強烈に妨害し、探索機などが使い物にならなくする。
だから、人間が直接調査するしかない。僕らはそのための防護服を着ているが、魔素を防げるのは三日が限界だ。それ以上地上を闊歩しようなら、命の保証はない。
やがて、僕らは膜との境界線上までやってきた。
隊長が立ち止まる。そして、他の者も。
「ここまで掘るのに何人かが正体不明の病で死んだ」と、隊長が言う。
祈るように手を合わせ、それに他の者も習う。
やがて顔を上げた。隊長は重々しく言う。
「原因はおそらく魔素だろう。防げないものである以上、死体は速やかに処理され、保管ができないから、対処するための研究もできなかった。――諸君、肝に銘じることだ。我々は他人の命の犠牲の上で成り立っている。我らが住まうは犠牲の都市だ」
はい、というまばらだがしっかりした声。みな、思うところはあるのだろう。自分たちの命があるのは犠牲者のおかげであり、地表を探索するためにも誰かが死んでいる。自分も命を懸けるからといって、そういう者たちのことをないがしろにはできない。そういうことだ。
ひとり、ひとりと膜を通過していく。ある程度の説明は受けている。ここからは世界が変わる。通常とは異なる違和感が常に、付きまとうと。
そうだ、ここが境界線だ。今なら戻れる――なんてことを思うのも今更過ぎることだ。
僕の番になる。みなこちらを見ていた。背後からも視線がある。僕らが異常を抱えたまま帰還した時、処理をする者たちだ。役職を処理係という。
緊張する。何かが変わることを願い、祈り、僕は一歩踏み出した。
――突如、襲うのは違和感だ。存在しているのに存在する。矛盾だけを感じる。なにも外見に変わったことはない。だが……。
「みんな、大丈夫か?」
隊長がひとりひとりの顔を覗き込む。
それに全員頷いて答えた。僕も同じように頷く。
背後を振り返れば、処理係は消えていた。長居はしたくないのだろう。現にここを掘った人達が正体不明の病で死んでいることを考えても、この辺りは魔素の濃度が高いのだと想像がつく。
隊長が上のマンホールに手をかける。そこが地上への入口だ。
光が僅かに漏れる。都市では見られない、作り物ではない、本物の光。
「いくか」
隊長が最初に潜り抜ける。そして一番が続く。
「どうした三番?」と二番が言った。
「ああ、いや」
「故郷がさみしくなったか?」
「いや、違うんだ。なにか後ろのほうで見えたような気がして……」
「ははは、幽霊でもみたか? むしろ幽霊なら地上にたくさんいそうだがな」
確かに、と僕は思った。
背後を見る。なにもいない。きっと哀愁がもたらした幻覚を、三番は見たのだろう。残していくものは、誰にだってある。
「俺たちは死ぬかもしれない。それでも……人生を特別なことに消費したいと思ったからここにいるんだ」
二番がにやりと笑う。
ここに集まったのは普通以外を求めた酔狂なものたちだ。
なにかを成したいと思い、勇気を胸に、集った若者。
「さあいこう」
その言葉に、三番は頷いた。
もう一度僕は振り返る。やはりそこには、なにもなかった。



辺りは砂嵐が吹いていた。
「きつい天気だ。といってもほとんど年中こんな有様らしいがな」と隊長は言う。
望遠鏡を用いた地表の探索は何度も繰り返されている。しかし、基本的には砂嵐や霧が立ち込め、周囲が見えない状態だ。そもそも、砂嵐と霧の共存というのがあり得ない。出た結論は地上はおかしい、とのことだった。地表は現実とは思えない、異常が続くミステリアスとも言ってもいい謎だらけの場所だ。
「おい見てみろよ、サラサラした土だぞ」
一番がはしゃぐ。
「それは都市にもあるだろうが……」と二番。
「はめをはずしていいとは言ったが早すぎるだろう……」と隊長。
たがみんな、抑えているだけで似たような状態だった。押し寄せるのは未知への期待感と、興奮だ。現に僕も、そういったものを感じていた。ここは、明らかにおかしいが、だからこそ何かを期待してしまう。
肉声は防護服と砂嵐の影響でほぼ聞こえない。用いているのは特殊なトランシーバーだ。だがこれも近距離でないと魔素の影響で届かないのではぐれたら使えなくなる。
「知っての通り、今回の我々は仕事は地表の探索だ。期限は三日。よってマージンもとって一日かけて真っすぐ移動し、また一日かけて戻る。元の位置に戻れるよう、特別性のワイヤーを出発地点にくくりつけ、それを装備して、帰るときはたどっていく。食料は活動に適した少量のものだ。……まあ、都市を作った『賢者の塔』なるものでも運よくみたいものだ」
賢者の塔。そこに住まう科学者が、星が堕ちたときに都市を作ったとされている伝説だ。もっと昔の資料はある程度あるにも関わらず、星が堕ちたその瞬間についての資料は、不自然なほど都市には残っていない。。だが考えてもみれば、星が堕ち、人が死んでいく中でどうやって都市を作ったのだろう。魔素は急速に人体に影響を与え、拡散スピードもはやい。で、あれば前もって星が堕ちてきた対策を用意し、そうして都市はつくられているわけで、それをしたのは誰かのか、ということになる。それが賢者の塔の伝説というわけだ。
『先を見越した賢者様は未来のわれらを救いたもうた』
「出発」
周囲を見渡しながら僕らは歩み始める。地表には生き物がいると聞いていたが、あるのは砂ばかりで、緑すらみえない。辺りは砂と霧が混じり、空は暗く、濁っていた。
ワイヤーが僕らの歩みを証明するみたいに、跡に伸びている。
「死んだ土地」と誰かが呟く。
まったくその通りだと思った。何かが生きている様子が、まるでない。
「おい!」
歓喜に似た叫び声。
「興奮しちゃだめぞ一番」と二番が冷静に諭す。それをろくに聞かず一番はある方向に指さした。
「生き物だ!」
途端に皆の目の色が変わる。
トカゲがいた。しっぽの短い、普通にいそうでいない、地上でみた初めての生物。
「捕まえよう」と三番が言う。
「慎重にいけ、まんがいち防護服が破れたら死ぬぞ」と隊長。
「僕が回り込みますよ隊長」
「任せた四番」
「では俺たちは横に……」
囲い込む形になった。
三番がにじり寄っていく。
「なんか、興奮するな」
「生き物なら都市でも見れるだろう」
「だが見ろよ二番、こいつ、みたこともない種だ。そもそもここで生き延びてるってだけで奇跡の生物みたいなものだぞ」
「たしかに」
トカゲは目を閉じていて、眠っているように見えた。こんな無防備に、と思ったがどこを見渡しても砂しかないこの場所では、どこも同じようなものなのかもしれない。
ゆっくり、ゆっくりと近づいていく。みんな興奮に酔っている。単純だな、と我ながら思う。しかし、そういったものに身をゆだねるのも悪くない。
実行するのは三番だ。身振り手振りで今から捕まえると合図。自然と周囲の気が締まる。
――瞬間、トカゲが動いた。
三番の手を潜り抜け、駆け抜けた。
みな意表を突かれた。しかし、それだけではない。
「……嘘だろ」
三番が驚いた声を上げた。
トカゲは速かった。明らかに普通以上に。
もう終わりか? とでもいいたげなトカゲを見送る。予想外だった。
「すごいな……」
「隊長?」
「これが地上種なんだよ……! 明らかに普通じゃない。この五百数年で、急激な進化を遂げたに違いない……!」
みな色めき立った。そうか、と納得が降りる。自分たちは大発見をした、そういった興奮が周囲を囲った。
「しかし、注意しなければいけないかもしれませね」
そういったのは二番だ。
なぜなら、と彼は言う。
「生物が進化したというのは我々人間にとって不利なことかもしれません。過去にあった戦闘機、核など、兵器全般が衰退している我々は、地上では捕食される側にもなりえます。そういった危険生物がいるとしたら……我々は武力を強化せざるをえないでしょう。今は平和な都市ですが、武力の統制がおいつかなくなるかもしれません」
隊長が困ったような顔をする。水をさされた、とでもいいたげな表情だ。
「たしかに、そうかもしれん」
「地上への進出はまだしばらく後になるかもしれませんね」
「……まあ、まだそうときまったわけでもない。先に進もう」
それを止める者がいる。
「待ってください隊長」
「どうした一番」
「危険生物が存在する可能性がでたんですから、決め事を作っておくべきです。襲われたらどうするか、とか」
そうだ、と僕は思う。想定されていない可能性ではなかった。しかし、主な予想は地表では生物が死滅しているという前提で動いていたのだ。実際、プランもそれにそったものが多い。だからここで簡易的に決まり事を作る必要があるだろう。
「そうだな、我々が来たのはやはり仕事のためだ。予算もかけた、人も死んだ。てぶらで帰ることだけは許されん。……脅威に対しては逃走を選択する。誰かが死にかけても撤退が優先だ」
厳しい言葉だった。だが、妥当だ。結果は絶対に必要だ。なにしろ、この調査のために人が死んでる。
「我々がそこまで親密でないのもそういった理由ですしね。異論があるものはいるか?」
二番の言葉にみな首を振る。反対する理由はなかった。
再び僕らは進行を始める。
「なあ」と二番が僕が話しかけてきた。
「どうしました?」
「ここにどんな生物がいると思う?」
「さあ……毒を持った生物とか、いるかもしれません。あとあながち巨大生物がいる可能性も捨てきれないかも。生き延びるために大型化するなんて話をよく聞きますし、さっきのトカゲのことを考えると異常な進化があってもおかしくないかもしれません」
「たしかに。『星堕ち』が起きて人間はほぼ全滅した。そう考えると他の種が多数全滅していると予想するのが妥当だ。いま生きているものは大なり小なり魔素を克服したやつらだと思うしな。……けど」
言おうか言うまいか、迷っている表情。
「話してみてください」と助け船を出す。
「なんかあれなんだがな」
「はい」
「人間はどうなってるんだろうな?」
「……はい?」
「『人間となってから種としての環境適応は遅くなった、だから他の生物が生き残れても星堕ちで人間は死滅するだろう』というのが今も昔も変わらない、科学者の見解だった。けど……本当に、地上に人間はいないのか?」
「というと?」
「ほぼ役に立たない力だとしても、俺たちは魔法という力を獲得している。これは進化の一つとして考えられないか? いや、機械で増幅しているとはいえ、この力が都市を守っていることを考えると間違いなく進化だ。なら単体で生き延びた人間がいないとほんとうにいえるのか? そもそも俺たちが人類最後の生き残りだと信じ込みすぎだ。星堕ち当時の情報がほとんどないし、都市の外を俺たちはあまりにも知らない。俺たちはあまりに多くの情報を抜き落としてしまっている」
それは多くの都市の人たちに当てはまることだ。僕も無意識の影響か何か、人類は都市でしか生き残れていない、という情報を|確定した情報《、、、、、、》として扱っていた。
「そもそも俺たちの都市に矛盾を多く感じるんだ。長い年月をかけたのはわかるけど……統制が完璧すぎる」
……卓也も同じようなことを言っていた。
レジスタンスの真実を知る僕は、統制のシステムに、政府が並々ならぬ労力をかけていることを知っている。例えば……批判の統制をするために、その批判者は実は政府の回し者だったりする。一般的集団心理を利用した誘導法。誰かが不満の声を先頭に立ってあげているなら、自分が先頭に立つ意味はない。ついていくだけでいいのだ、といった誘導。
「もしかしたら都市は末端なんじゃないか? 実はもっと大きな人間の集合地があって都市に指令をだしているのかもしれない」
「……」
「俺が思っている矛盾はこうだ。『人間が魔法なんていう力を扱えるのはおかしい、進化が早すぎる』。もしかしたら魔素は生命に進化を促すためのものだったのかもしれない。その種の数が減るのはむしろ予定調和で――」
二番は他にも様々な考えを展開した。もともとこういうことを考えるのが好きな性分なのかもしれない。突拍子がすぎるものも多かったが引っ掛かりを覚えるのも多くあった。
「僕の知り合いが言っていたんです。『政治体制が腐敗しないのは不自然だ』なにかあるかもしれない、と」
「おお、なるほど。それでそれで?」
「『不死者たる英雄』がいるのかもしれないと。星堕ち前の科学者たちならできたかもしれない、そしてなにより、統制が完璧すぎるのは一貫した思想が用いられ続けているからだと」
「面白いな、その人も矛盾をどうにかして説明しようとしたわけだ」
実際、どうなのだろう、と僕は思う。感覚が麻痺しているのかもしれない。たしかに地表は非現実的だが、だからといってありえないことというのはそうそうおきないはずで。
歩いている長い間、二番と会話しながら過ごした。無論、周囲を警戒しながらではあるが。
「死んでも満足だな」なんてことを彼は朗らかに言う。
微妙な気分になった。



進行は順調だった。危惧されていた危険生物との接触もなく、半日。生物はほとんど見かけなかった。見たのは最初に見たトカゲと、ムカデのような虫。きっとこれら以外にも生物の種類は生存しているはずだが、絶対数が少ないのか、遭遇できていない。
見つけた生物にもあまり近寄らなかった。トカゲはどうせ逃げられるとわかっているし、あのトカゲの進化のことを考えると、防護服があるとはいえ、虫の毒やらも怖い。当然、地表の虫の解毒剤などないので接触は危険だった。
足場は悪かった。延々と続く砂漠に凹凸のある地面。なかなか体力を消耗させられた。僕らは一時間ごとに二十分の休憩をとりながら進んだ。
……やはり、地表はどこかおかしい。真っすぐ進んでいるはずなのに、それができていなかったりする。ワイヤーが帰り道を指してくれてはいるが、不安になる状況だ。
そして、見えてはいけないものが、見える気がする。
怨念めいたものを感じる。ただの錯覚だろうか? プラシーボ効果? とにかく、ここは現実的ではない。
当然ながら僕が期待したような技術の発見もない。砂と霧が続くだけだ。
手持ちには隊員たちが持っているサバイバルナイフがあった。レジスタンスのメンバーなら殺す覚悟がなくても、経験がなくても、手段は教わっている。
だがそういったことにならなくてほっとしている自分がいた。覚悟がないわけではない。必要とあれば……やれる……とは思う。だがそういうことをしなくてよさそうだと安堵してしまう。
こんなことにすら罪悪感を覚える。これではまるで彼女の救出を諦めたようではないか。
頭ではわかっている。これは人間として抱える普遍的な感情で、制御できるものではない。
ため息をつきたくなる。なにかしらがほしかった。だがなにごともなく、順調だった。
「待ってください」
会話もつき、隊員たちに疲労が見え始めたころ、一番が言った。
隊長が振り返る。
「どうした?」
「なにか……いえ、少し待ってください」
僕らは止まった。一番は不安そうな、怯えているような、そんな表情をしている。
「どうしたんだ?」
「あの……その……」
「焦らすな。可能性だけの話でもいい。話してみてくれ」
「……」
すう、と息を吸い込む一番。
「たぶん、ワイヤーが切れてます」
「……なに」
今回用いているワイヤーはピンと常に張っているものではない。進むごとに背中から出てくる仕組みになっている。だからワイヤーが切れたとして、違和感はほんの少ししか感じない。地表では金属性のものはすぐに劣化し、自壊してしまうため、ワイヤーは特別製だった。耐久性は決して低くはないが、金属には劣る。
「全員、確かめろ」
言われるまでもなく、皆が始めていた。
軽く引っ張ってみる、が確信が持てない。本当についているか? ついていないのか?
ここに来るまでに、少し不安になりワイヤーを引っ張ったことがある。そしてその時の感触と比べると……。
「……切れてる」
ばかな、と思う。どうやって? 一体なにが、こんなことをできたんだ?
予感がある。偶然ではないと。そしてこれは……。
「二番、切れてます」
「三番、繋がってません」
「……こちらもだ」
――押し寄せる恐怖、焦燥感。
「急げ!」
一番が走ろうとする。それを二番が腕を掴んで止めた。
「おまえ!」
「無駄だ、どこで切れたのかもわからない。立ち止まって考えるべきだ」
一番が無理やり振りほどく。
もう一度走ろうとして……やめた。
二番の表情。泣き出しそうな顔。
「……すまない」と一番が言った。
誰もが、同じだった。皆が混乱している。恐怖に怯えている。ワイヤーは生命線だ。……死ぬかもしれない。
やれやれ、と平静をよそった隊長が首を振る。
「魔素で死ぬかと思ったが、帰れずに死にそうだなあ」
「隊長、食料は十分すぎるほどあるのでちゃんとさまよって魔素で死ぬかもしれませんよ」
ははは、と三番は笑った。
皆が平静ではなかった。しかし、やるべきことをやるということだけはわかっていた。
次第に落ち着きを取り戻していく。
……それでも、恐怖は残る。
隊長が案をまとめ始めた。
「風でワイヤーの向きが変わってしまっている。が、ひとまず我々は真っすぐ進んできたはずだ。だからそこを逆に行こう。それでもやはり、距離が距離だ。目的地からはずれる可能性が高い。……我々はトランシーバーが届くぎりぎりの距離を保ちながら広がって進んでいく。ワイヤーの捕捉を続けるんだ。砂が積もってワイヤーは見にくいが……目を凝らせとしか言えんな」
方針は固まった。確実性はない。完全な運頼みだ。おまけに勝ち目が高くない。
僕らが出発した地点には旗が立っている。高めのものではあるが、砂と霧という最悪の組み合わせでは見つけることは難しい。
足跡はほとんど消えていた。激しすぎる砂嵐のせいだ。頼りはワイヤーのみとなる。引っ張りすぎるとワイヤーが切れた場所からこちら側が離れるので注意をしなくてはならない。
歩き始める。最初はあまり広がらない。ワイヤーは同じような道筋を描いているからだ。
僕らは各々の考えを語る。
「五人全員のワイヤーが切れるなんて変だ。そもそも簡単に切れるものじゃないのに」
「人為的? なわけはないはずだよな? あまりにも得する奴がいないし、レジスタンスのメンバーぐらいしかできないとなるとますます損しかしなくなる」
「とれあえず人為的なものと仮定すると、俺たちに致命的なダメージを与えるなら出発してすぐの場所ではなく、中間あたりで切らなくてはならないな。出てすぐで切ったなら帰れてる目算が高くなるから。しかもそいつが帰還して、俺たちが戻らなかったら犯人だと思われるにきまってる。人為的、ってのはなさそうだ」
「じゃあ、なにが?」
「トカゲの進化を見る限り、ワイヤーも噛み千切る生物がいてもおかしくないんじゃないんだしょうか?」
「おかしくはない、が、五本分もか?」
「それは……」
「珍しかったから口に入れちゃったんじゃね?」
「くそが」
苛立ちが継続している。みんな自分の中にある恐怖を自覚しているのだろう。だから、それを誤魔化すために、見ないために、怒る。雰囲気は非常に悪い。
考えに思いを張り巡らせる。だがいくら考えても、答えは出なかった。
……だが。
思えばここは、変だ。常に違和感が付きまとう。ここにある。ここにない。境界線があいまいになることが、しばしばある。存在しているのに存在していないという矛盾の塊。しかし、稀に強い存在感のようなものを感じるのだ。そこに実体はない。だが、おかしい。奇妙だ。一連の結果をすぺて偶然で片づけるのは無理があるような気がする。
「広がれ」
トランシーバーからの隊長の一声で散開を始める。ワイヤーは追えている。今のところは順調だ。
「……なんだ?」
人影が見える。人為的、人為的でないかの話をしていた僕らは、自然と警戒心が上がった。
《……い。お……………い》
トランシーバーは同じ機種のものなら音を拾う。遠目から見ても、防護服が僕らと同じことから、レジスタンスの誰かだろうと予想できる。
《な……る?み……な、どうして……止まって……だ?》
声が聞こえる。それはどこか、聞き覚えのある声だ。
《おーい! おーい!》
完全に声が拾えるようになる。まさか、と思う。
たく……や?
一番がつかつかと、隊長の静止も聞かずに歩いていく。手に持つのはサバイバルナイフだ。慌てて僕は走り始める。一番からは僕からが最も近い。だが、この距離では間に合わないのは明らかだった。
卓也と思われる人影は、何も知らない。今、僕らが彷徨っていることを。そして、まともな精神状態ではないことを。
一番が前に立つ。そして、こう言った。
「お前がやったのか?」
どすの聞いた声で、そう言った。

「え……?」
卓也は呆然としていた。何が起きているのかわからない、といった感じで。
一番の顔から血の気が引く。人は本当に怒ると顔は紅潮よりも白くなる。本格的に暴力を働く時は、血管を収縮させ、致命的な傷をうけても出血が減るようにと体が準備をするからだ。
つまり、一番は本気で怒っている。そして、彼はナイフを持っている。
しかし、彼はすぐには動かなかった。それは理性による制御か、ただ怒りで動けなかったのかはわからない。だがともかく、彼は動かなかった。
「待ってください!」
叫ぶ。
卓也が死んでしまうかもしれない。すれ違いで、何の意味もなくそうなるなど、絶対に嫌だ。
ぴくりと一番が動く。
だが動き出す前に僕がその腕を掴んだ。僕の身体能力はそこまで高くない。地表の探索のために鍛えた体ではあるが、それをいうならずっと前からそれに取り組んでいた一番のほうがはるかに強い。
僕は急いで言う。
「彼は敵ではありません」
「……なぜ?」
「僕の知り合いです」
「……そうか」
瞬間、一番の体から力が抜けた。それは理解したから力を抜いた……というだけではない。彼の表情から窺えるのは安心感と……恐怖だ。
「俺は……本気で……」
殺そうとしたんだ。
彼が実際に言ったわけではなかった。だが安易に想像はついた。
困惑した顔で卓也は僕を見る。
「祐樹さん……いったいどうなってるんだ?」
「あとで話すよ、今は……」
膝をつく一番を見る。震えていた。それが何よりも彼の言葉が真実だったと証明している。
だがなぜだ、と思う。
切羽詰まった状況ではあった。皆、恐怖を内に抱えていた。だがこうも判断能力が低下するものなのか? ありえないことではない。だが彼は自分を止めたのだ。中途半端なのだ。恐怖による思考の暴走ならば最後に歯止めがかかるのだろうか。
……ありえない可能性ではないかもしれない。
雰囲気に呑まれているのだろうか? 地表は異常だ。常に違和感が付きまとう。それで僕の思考ですらも、まともではないかもしれない。
やがて皆が集まってきた。
おおよその説明を僕はした。卓也は僕の知り合いで、信用できる人物だということ。おそらく、一番は不安と恐怖感から、突然現れた卓也に殺意を向けたこと。それは衝動的なもので、彼が望んでいたわけではないだろうということ。
「大丈夫か?」と隊長が言う。
震えながら一番は頷いた。
隊長が周囲を見渡す。
「すこし休もう。思えば休憩なしに進みすぎた。それと……状況の整理だ。おまえ、名前は?」
「卓也……です」
「わかった。では卓也。おまえはどうやってここに来た? 何のために? 質問は急かさん。だが慎重に答えてくれ」
緊張が走る。卓也は信用できる、と僕は訴えたがそれが信用されたわけではない。僕は彼がそんなことをする人物ではないと知っているし、彼には理由もないとわかっている。だがそれは、皆が思うことではない。
「……俺は、祐樹さん……今あなたの隣にいる彼を追ってここに来ました。来た方法は……処理係の目をくぐってきました。あまり処理係の人たちは長居したくなかったのか、そこまで難しくなかったです」
隊長が天を仰ぐ。
「あいつらふざけやがって……! そこはわかった。たぶん本当のことを言っているな。だが動機について詳しく聞きたい。死ぬ可能性が高いんだぞ? そもそも許可を取らずに強引にくるメリットもない。さらに言えばあと三年もたてばもっと死亡率の低い状態で地表の探索もできただろうに」
「俺は…………」
卓也はためらった。僕の顔を見ている。だが言うしかない。選択肢はそれしか存在しない。卓也は諦めたようなため息をつく。
「祐樹さんが……死のうとしていると思ったんです。祐樹さんが地表の探索に行くと知ったのは出発の前日でした。それで、こんな強引なことをしました」
どきり、とさせられる。
僕が、死のうとしているように見えた。羅門にも言われた言葉だ。たしかに……卓也に最後に会った時はそういう精神状態に近かったかもしれない。
卓也はおそらく嘘を言っていない。地表に行くのを知ったのは出発の前日だというのもそうだ。地表の探索が行われるのはレジスタンスのメンバーなら知っていた。だがメンバーについては公表されていない。
隊長が僕のほうを見る。
死のうとしていた、など言われると僕に疑いの候補がかかる。卓也はまだワイヤーの件を知らないからすべて真実を話した。結果としてだが、卓也の言葉は僕を不利な立場にさせた。
なにかを、言わなければならない。
「……幼馴染が犠牲者に選ばれていたんです」
卓也が驚いた顔でこちらを見る。それを言うのか、と。しかし、これしか言い分は思いつかない。下手に嘘をつくと疑われる。そして、この非常時の懐疑は致命となりうる。
「彼女に地表の様子を伝えなくてはいけませんでした」と僕は言う。
……賭けになっている。このセリフでは彼女がまだ連れていかれていないという状況だと、隊長が思ってくれなければならないのだ。一応、犠牲者の公表は公には行われない。それにボスがいざこざを避けるために隊長などに伝えていないはずだ。伝えるならそもそも僕は地表の探索ができていないだろう。
だからたぶん、大丈夫だ。
「そんなために命をかけたのか?」
「はい」
「最後まで一緒にいようと思わなかったのか?」
「そういう気持ちもありましたが、僕はやるべきだと思ったんです」
「……」
だましきれそうだ。
真実の中に混ぜる嘘は悟られづらい。なんせ本当の感情が一部とはいえ籠るのだ。苦すぎるコーヒーに甘すぎる砂糖をいれると絶妙になる。似たようなものだ。
嘘は本来好きな手段ではなかった。だが今はそんなことをいってはいられない。
二番が隊長に声をかける。
「隊長、いいですか?」
「なんだ?」
「俺は彼とずっと話してましたし、五人全員のワイヤーを切るのは難しいと思います。あまり疑わなくてもいいかと」
隊長は頷く。納得したようだ。
「なるほど。では次の質問に移ろう。卓也、ここに来る途中ワイヤーが切れている場所を見なかったか?」
「……え」
一拍をおいて、卓也が絶句する。彼は知らなそうだ。
「俺は今あるワイヤーのあとを辿ってきました……見てません……すみません」
「……そうか」
全て振り出しだ。結局、なにもわからなかった。
こわごわと卓也が聞く。
「ワイヤーが切れてるっことは……どうやって帰るんですか?」
「どうしようもない。我々は死にかけだ」
皮肉っぽくそう言った。隊長もあまり機嫌は良くないようだ。
他の皆も遅れて頷く。卓也の顔が青白くなっていく。
「……了解です」



結局、卓也も加えて六人で行動することになった。だからといって状況は好転したとはいえない。
通常、こういったサバイバルのような状況で気になるのは食料だが、僕たちが心配するのは魔素による人体の影響だ。防護服である程度は防げるものの、その日にちはあまり長いとはいえない。
あれから、半日たった。僕らは切れたワイヤーを眺め、呆然としていた。
「……終わったな」と隊長は言う。もう片方の切れたワイヤーを探すため、周囲の捜索をすでに開始していた。だが成果はない。この激しい風のせいだ。あまり重量のない特別製のワイヤーははるか遠くに飛ばされ、どこに行ったのか見当がつかない。皆疲れ切った顔をしていた。このままでは生きては帰れない、そんな状況のせいで。
「やっぱり凶暴な生物がいたんだな」と二番が言う。
ワイヤーにはなにかに噛み千切られたと思われる跡がついていた。それも、五本すべてのワイヤーに。
珍しい物質だから興味を持った何かがかみついたのだろうか? しかし、そんなことを考えたところでどうにもならない。
一番がうめき声をあげる。
「どうしますか、隊長」
「……取れる手段は二つある」
隊長は重々しく言った。皆が彼の言うことに耳を傾ける。
「一つは、完全に散開してみんなばらばらのところに行くという方法だ。この手段なら誰か一人が帰れる可能性が高くなる。二つ目は……今まで通り広がって一方方向に進む。帰れる可能性は落ちるが、ある程度の方向は予想がついているからそこまで下策とはいえない。それにワイヤーを見逃す確率はさがる。ただ、その方向は完全に間違っている可能性もおおいにある、ということを考えるとわからなくなってくるが」
隊長が皆を見渡す。
「選べ、誰もどっちを選んだかで文句は言わん」
二番がゆっくり手を挙げる。
「隊長、ここで我々がとるぺきは一つ目の方法です。俺たちの命より、誰かが帰ることに意味がある。隊長も最初にそう言っていたはずです。……客観的に考えて、僅かだろうと誰か一人でも帰れる目算が高い手段をとるべきだと、俺は考えます」
三番が手を挙げる。
「いいえ違います。それはあくまで僅かな可能性の上昇のためにそこまでするのは合理的ではありません。実際、適当に考えて十パーセントほどの成功確率の上昇が見込めるならそうするぺきでしょう。しかし、そうではないのなら、生き延びる人数の期待値が目に見えて高い後者の方法をとるべきです」
まったく反対の、しかし状況をうまく分析した意見がでた。どちらを選ぶべきか、その答えは明確だ。組織のために、ここにいる人たちは地表の探索に来た。命を捨てる覚悟はできている。
しかし……。
「おまえたち、本気か?」
隊長と卓也はは静観し、残りの隊員たちが選択をする。二番を除いて、みな後者の選択を選んだ。
「俺たちは私情のためにきたんじゃないんだぞ……? 俺たちのために人が死んでいる。なのに、お前たちはそうするのか?」
二番の言葉を隊長が制止する。
「二番、決まったことだ。一度決めた約束事は覆せない。こんなところで決められた約束事は法と一緒だ。一度破れば取り返しがつかない。諦めろ」
「……! わかってますよ、それぐらい……」
誰しも、命を積極的に捨てたくはない。確かに、みんな覚悟はしていたのだろう。だが、選択肢としてそれが吊るされたなら……? 
彼らは自殺願望者ではない。あくまで地表という未知のために狂った冒険家だ。可能ならば死にたくないに決まっている。
きっと……彼女のことがなければ僕は前者の選択肢を選んでいただろう。重んじなければいけないものがある以上、二番の言う通り、私情の一切を捨てなければならない。それが僕の生き方だからだ。まあ、彼女のことがなければここにはいないだろうが。
「進もう」と隊長が宣言する」

そして何時間もの時間がたった。ワイヤーも、出発地点も、見つからなかった。真っすぐ帰れているのならとっくにもうついているはずだった。何度か方向を変えたり、そういうことをし始めるようになる。
こんな道、来るときは通っただろうか、と思う。
足場が悪い。進みずらい。でこぼこしていて、足を取られる。
最初に来るときは終始違和感を感じていて、それどころではなかったのかもしれない。だが今思えば、ところどころにこのような歩きにくい場所があったのなら、僕たちは最初から真っすぐ進めていなかったのかもしれない。
さらに時間は過ぎていく。トカゲを見る頻度が多くなった。蛇のような生物もなんどか確認している。
皆、それに大した反応はしなかった。一応警戒するだけだ。
気力などとうにない。だが生き延びなければならない。その一心で足を動かした。
きっとみんな気付いている。どうせ今していることは無意味だ。どうせこのまま死ぬ。もう未来も希望もない。
そして僕らが地上に上がって二日半、体調の不調を訴えるものが出始めた。
「この防護服は三日持つ、との話だったが」
ぽつりと、隊長が呟く。
もともと不確定要素が多い探索だった。起きても仕方がないハプニングともいえる。一番と三番は見るからに顔色が悪い。
「歩け、でないとおいていく」と厳しく隊長は言う。
誰もそれを咎めなかった。そうするほか、ないのだから。
不調の者も体を引きずって、追いかける。最初に脱落したのは三番だった。
「……おいていかないでください」
誰も返事をしない。卓也が僕を見た。なんとかしてやりたいと、きっと思っているのだろう。しかしその後、彼は首を振る。諦めなければならないと自分で理解したのだろう。卓也は現実が見えていないわけではない。
三番が一番を見る。一番は顔をそらした。
「進もう」と隊長が言う。
五人の集団が砂漠を渡っていく――。



また一人、脱落者が現れた。一番だ。彼はなにも言わなかった。まるで三番をおいていったのを悔いているかのように。
「行ってください」と一番は言う。彼は一番がいたであろうところを見つめていた。
「早くしてくださいよ。泣き叫びたくなりますから」
「……すまない」
隊長がなにかをこらえるかのようにそう言った。
誰もうしろを振り返らなかった。


次に膝をついたのは隊長だった。
肩に担ごうとする二番を隊長自身が止める。
「ばかが!」
血を吐くような怒鳴り声。それでも二番はおろそうとしなかった。
強引に隊長が二番から離れる。どさり、と人間が砂の上に倒れる。
「……これ以上近づいてみろ」
隊長がナイフを取り出す。それを二番に向けた。
「殺してやる」
はったりだとわかっていた。これ以上自分にかまうなと、そのためにこんなことをしていると、みんなわかっていた。きっと二番が近づいても隊長はこけおどしにナイフを振るだけだろう。それでも……。
「……わかりました」
二番が引き下がる。何かをこらえるような表情。
隊長がここまでして遠ざけた。へたな悪役になってまで、そんなばかみたいなことまでして。
その意志を踏みにじるわけにはいかなかった。決してそれは、許されないことだった。
「それでいい」
満足気にそう言う声が聞こえる。
僕らはまた前に進む。
人が死んでいる。
なにもできずに、死んでいく。
「斉藤さんは俺に俺が泣いているときグミをくれたんだ、大丈夫か?って」
二番は誰にしゃべりかけているわけでもない。卓也のほうも、僕のほうも、向いていない。
「嬉しかったんだ。些細なことだけども。でもきっと……隊長は俺のことを覚えていないんだろうな……」
彼の言葉は誰かのためのものではなかった。何の意味もない、誰かが救われるわけではない、そういう類のものだった。
彼がしているのは独白だ。



「仮説を立ててみた」
二番が突然そう言った。卓也と僕は顔を見合わせる。
「どうしたんです?」
「なにかわかったんですか?」
「いや」と二番は言った。
ただこうも言った。「死ぬ順番がわかった」と。
「魔力が低い奴から死んでるんだ。ただの予想だし、裏付けはない。俺の魔力が平均よりだいぶ高いからそう思っただけで、ほかのやつらの魔力の程度は知らないけど」
ずっと考えていたんだ。どうして俺はまだ生きてるのかって。
「考えていたんだ。人が魔法を使えて、そしてなぜその力で都市を守れるのかって。きっと魔力が高くなって魔素への親和度が高くなったとき、人は地上に戻れるんだ。完全な別種として生まれ変わってようやく、人類は元いた場所に帰れるんだ。……すまない、馬鹿なこと言った。忘れてくれ」
二番は口をつぐむ。
「祐樹さん……」
卓也が不安げな声をあげる。二番の予想が事実なら、卓也よりも僕が先に死ぬ。
「どうしようもないよ」
「でも……」
「僕らはやれることをやるだけだ」
「……」
実際、その程度しかできないし、それ以外にやることもない。
ごほ、とせき込む音がする。その主は二番で、彼は口から血を流していた。
「……ここで終わりみたいだな」
ははは、と彼は笑う。それが虚空へ消えていく。
「いけよ。誰かはたどり着いてくれ」
「……必ず」
誰かを見捨てること。それに慣れてしまったのかもしれない。悲しみは感じなかった。できもしないことを約束し、それでも進まなくてはならないという状況が、今の現実だった。
前に進もうと一歩、踏み出す。少し迷って振り返る。
「あなたの魔力の数値を教えてください」
死ぬ順番。
「五百二だ」
その数値は、僕のものよりも、卓也のものよりも低かった。
……どうやら二番の予想は的中してそうだ。
僕はきっと、卓也よりも早く死ぬ。僕は彼に何を残せるだろうか、何をすればいいのだろうか。
「祐樹さん……」と泣きそうな声で卓也は言う。
僕らは前に進むしかない。

 

 

二番の予想は外れた。先に体調に影響が出たのは卓也のほうだった。
彼は青い顔をして歩み続ける。できれば休憩しよう、と言ってやりたかった。だかそれが彼の命を伸ばせるものではない以上、なにも言えなかった。
恐怖感が押し寄せる。僕にはなんの変化もなかった。だが問題はそこじゃない。ついに、彼女を助けるために人が死にそうだ。それは僕にとって、大切な人で、長い間一緒にいた人物で。
お姉さんを助けるんだろう? と言おうとするのを飲み込む。辛そうな彼をさらに追い詰めるようなことはしたくない。それにきっと、僕が言わなくても卓也はわかっている。
……どうすればいい?
いい加減にしてくれ、と思う。なんど自分の無力感を感じればいいのだろう。もっと僕の能力が高かったら、完璧だったら。そしたら誰も死ななかったかもしれないのに。
そして気付く。もはや、僕は卓也の死を確定させてしまっているということ。諦めてしまっていると、わかってしまう。
「俺は大丈夫だよ祐樹さん」
卓也は努めて明るく言った。
僕が彼を励まさなきゃいけないのに、年長者なのに、彼は彼女の弟なのに。
「喋らなくていい、今は前に進もう」
自分が憎くなる。また、僕はなにもできない。
遠い、遠くへと歩く。気が滅入る。果てが見えない。
見えるのはどこまでも似た風景だ。いつまでも同じところにいるのではないかと錯覚しそうになる。
ごほごほ、と咳の音が聞こえる。卓也の体調が悪くなっている。
怖い、と思った。卓也が死ぬ。僕は責任を持てない。彼女もその両親も、きっと僕を責めない。だが僕は自分を許せない。絶対に、無理だ。
ずっと考えている。なにか解決策がないかどうかを。だがそんなものはなかった。そんなことはわかっていた。だがそれでも、考え続ける。無意味で苦しい、救いようがない思考。それでもやめるわけにはいかなかった。
――人が一人死んでいったい何人助けられれば納得できる。
彼女を救うために、命を犠牲にしている。それは確実性のない賭けのチップとしての使用だ。勝率は恐ろしく低い。それでも僕はかけた。それは僕が必要だと思ったからだ。卓也の意思を尊重していないわけではない。だがやはり、彼が自分の命をチップにして欲しくなかった。思い出がある。親愛の情がある。……しかし、彼は死ぬ。それが、現実。
――僕だけが、賭けをするべきだと思っていた。
どさり、と音がする。
「卓也!」
駆け寄る。理解したくない現実があった。だが今までの経験、思想が、嫌でも答えを頭に刻む。
うつろな目をしていた。卓也はとっくに限界を超えていた。
「……少し、視界がぼやけるかな」と卓也が呟く。
「たくや」
「うん、先に行ってくれ」
有無を言わせない、言い方。
彼を持ち上げる。脱力した人の体は、ひどく重い。
「おろしてくれ」
「嫌だ」
「死ぬつもりなの? まだ姉さんを救えてないのに?」
「……」
全て、わかっている。このまま卓也を連れ帰れたところて十中八九、謎の病とやらで倒れて死ぬだろう。この行動は理性的じゃない。だが、卓也は……。
「おろしてくれ!」
「……無理だよ」
卓也は、本当に大切な人なんだ。
血はつながっていなくても、本当の兄弟みたい過ごしていた。なんどか『姉さんとどうせ結婚するんだから今のうちに祐樹兄さんって呼んどこうか」などといい慕ってきた。彼の尊敬の念を感じていた。彼が諦めた法の番人という道を突き進む僕を、すごいや、とほめた。
理屈なんかじゃない、感情的な行動だ。もはや卓也の死は確定しているのだから、僕が生き延びる可能性を高めるべきだ。少しでも無駄なことはするぺきじゃない。
卓也は暴れる気力もないようだった。今まで死んでいった者と違う、急激な衰弱。
「死にたくない」という声が聞こえる。
「死なないさ」と僕は答えた。
誰も信じていない言葉だった。
空を仰ぐ。驚いたことに、霧が晴れていた。砂嵐も止んでいた。
だが……出発地点は見えない。
右足を前へ、左足を前へ。一歩一歩、進んでいく。
卓也をおろして休憩を挟む。彼は口から血を流していた。
もう一度背負う。卓也がせき込む。
「……もう、無理だ」
「違う!」
やけくそだった。現実を見たくない、子供みたいな言い方。
「俺の最後の言葉だ、聞いてくれ」
「僕は……」
嫌だ、と言おうとした。だが、このまま何も言わさずに彼を死なすことは許されなかった。僕の感情なんかより、卓也の思いの方が重要だった。
「俺は……ここで死ぬ」
なにも言えない。気休めの否定すらも。
「俺が言いたいことはわかってるよな。――姉さんを、救ってくれ」
そうだ、わかっている。僕らの共通認識、共通目標。ずっとそのために行動してきた。すべてをかけた。だが、なにもできなかった。きっと、僕も都市には帰れない。ここで僕は死ぬ。帰れたとしても救えない。手段が、存在していない。
「もちろんだ。命をかけて、彼女を救う」
それでも言わなければいけないことは一つだけだった。必ず救って見せる。きっと卓也も無理だと気付いている。気付いていても、願わずにはいられないのだ。姉のことを大切に思っているから、家族だから。
「最初は俺、泣き虫だったんだよなあ」と卓也が言う。
それでよく姉さんが慰めてくれたんだよ。よしよしって。男なのにみっともなかったなあ。
「最初は姉さんといる祐樹さんが嫌いだったんだ、最初に俺と会った時、覚えてる」
「石を投げられたね。その時に『姉さんから離れろ!』って君は言ってた」
「ドラマの決め台詞みたいだな」
「君は泣いてたけどね」
「ははは、まだ泣き虫だったしね。すっごい姉さんが祐樹さんに懐いてて……めちゃめちゃ嫉妬した」
マジ泣きだったな、と彼は笑う。
「でも、姉さんは幸せそうだったんだ。それは俺に向けるものとは少し違ってて……悔しかったけど、祐樹さんもいいひとだったからさ。……どうして迷子の俺をみつけれたんだっけ?」
「泣き声が聞こえたんだ」
「ああ、まだ泣き虫のころか」
「うん、元気な奴だと思ったよ」
「はー? 俺を見つけた時、祐樹さんも泣いてただろう? 覚えてるぞ」
「ははは」
僕も覚えている。あの頃は必至で、不安で、たまらなかった。その頃の卓也はほとんど他人だったが、見知った顔が消えてしまうのではないかと不安だった。彼を見つけたとき、本当に嬉しかった。年長者として彼を導かなくては、なんてことを思ったっけ? 少しだけカッコつけて、泣いている彼に『ここまでの道は完璧に覚えている。記憶力だけはいいから任せろ』なんてことを言った。まあ、泣きながら、なんだけど。
「……でも、その時に思ったんだ。なんでこの人は泣いてるんだろうって。勘違いかもしれないけど、この人は人の気持ちを考えるから泣いてるのかなって、そう思ったんだ」
「……」
「だから姉さんを任せてもいいかなって思ったんだ」
「……」
「俺は見てたよ。卓也さんが人のためになにかしようとしてるところをいっぱい見てた」
はあ、と卓也はため息をつく。
不安そうな顔。僕は彼の手を握る。
「なあ、祐樹さん。昔、姉さんにひどいことを言ったんだ。泣き虫だった自分が嫌でたまらなくて、泣いてたに俺を慰めてくれた姉さんに『触るな!』って言ったんだ。……姉さんは、傷ついてた」
「本心からでた言葉じゃないって、彼女もわかっていたはずだよ」
「でも、姉さんはその時傷ついたんだ。まだ謝れてない。泣き虫だった自分が嫌で、そのことには触れなかったんだ。……俺は、あまりいい子じゃなかったんだ。食器を片づけなかった。それを当然のように姉さんが片づけてた。お姉ちゃんだからって理由でなんどか我慢をしてたのを知ってる。知ってて俺は甘えたんだ。当然だとすら思っていた。『お姉ちゃんだから』って」
「……」
「後悔してるんだ。なんでもっとありがとうって言わなかったんだって。なんでもっと素直になれなかったんだって。ほんの少しでよかったのに、俺はできなかった」
「……それは」
「ごめんさいは言いたくないんだ。ただありがとうって言いたい。姉さんが小さいころに慰めてくれたのを覚えてるって。些細な優しさに毎回感謝してたって。俺はその時もなにもいわなかったんだ。でもずっと姉さんのことか大好きだったんだ」
「……彼女も、わかっているよ」
卓也は泣いていた。
「言葉にしたかったんだ。プレゼントでもよかったかもしれない。俺は姉さんに何かしたかったんだ。何かを――」
目から溢れる涙。愛情が伝わってくる。それゆえの後悔も。なにもかも。
「――卓也」
静かに僕を見上げる、顔。
「心配しないで」
――ばかなことをしようとしている。
「――僕が全部伝えるから」
できないことを、約束する。
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
なぜ、彼は期待しているのだろう。僕の何を見て、本当にできると信じているのだろう。
卓也は僕の言葉を本気で信じていた。
ははは、と彼は笑う。
「祐樹さんは昔からなんでもできたからなあ。きっとうまくいく」
「まかせろ」
「うん、信じてる」
卓也が目を閉じる。それは安らかな表情で。
「……卓也?」
「大丈夫、まだ死んでない」
「そっか」
もうずっと休憩している。そろそろ、僕は先に進むべきだ。だが、そういう気分ではない。気分では、ないのだ。
卓也はゆっくり衰弱していった。思い出話をした。なにもかもが懐かしかった。
ぽつりぽつりと会話は途切れた。彼の限界が近づいているのを感じていた。
「祐樹さん」と信じられないぐらい力強い声で僕を呼ぶ。
「死なないでくれよ? 祐樹さんは姉さんと結婚して、両方とも幸せにするんだから」
「わかってるよ」
「姉さんだけじゃ、だめだからな約束だ」
「うん、約束だ」
穏やかな声。
「なあ、もう前が見えないんだ。耳も聞こえない。まともな言葉を話せてるかな?」
僕は彼の手を握りしめる。、
「こんな話を読んだことがあるんだ。人の限りなく純粋な願いは、祈りは、絶対に届くんだって。この世の中にエネルギーが溢れてるなら、人の意思は、その意思をもったエネルギーは、なにかを変えるんだって」
信じたい気分なんだ、と彼は言う。
「だから信じるよ。きっとなにもかも叶うって」
きっとなによりも純粋なこの思いは。人のことを願うこの祈りなら。
「――祈りは届くと信じてる」



卓也の体から力が抜けたのがわかった。
泣き出したかった。
もうだめだと叫びたかった。
だが許されなかった。
膝をつくことはできない。
進むしかない。
約束したから。約束したから。

 

犠牲の都市七

ひどく体が重い。全身から熱が出ていく感覚。熱い、そして寒い。
……限界が近い。
それでも前に進まなければならない。人の意思を背負っているから。死んだ人間の願いを担っているから。
世の中はひどく理不尽だ。世界は周り続け、止まることを知らない。
平和のための統制。法による絶対支配。都市の致命性が理由となり、徹底的にそれらは行われた。
思えば、僕はなぜ法を勉強しようとしたんだっけか。確か、納得できないことがあったのだ。物心がついて、いろんなことを考えられるようになった頃。その時、法が悪用されていた。『生まれながらのハンデを負うものたちを敬おう』というものだった。その法はハンデを負っている者たちへの優先権を増大させるものだ。例えば、何かの順番ごとがあった時、ハンデを負ったものたちに普通の人は前を譲らなければいけなかった。困っていたら、必ず助けなければならなかった。一見、そこまで問題ないように見える。だが問題はその法が強制を伴うものだったということだ。罰則は軽い。だが、強制だったのだ。
この法は憐みの法だった。だから、感情的に反対することが難しかった。もちろん、反論を唱えた者たちもいた。しかし、彼らは次のような言葉によって封殺される。
『彼らに同情しないのか? 私たちは彼らと比べてこんなにも恵まれているのに。分け与えることを拒むなどまるで獣のような行為だ。お前たちは人の心を持っていない』
人でなしというレッテルを貼り付け、なかば強引に、その法は建てられた。理論ではなく感情を利用した、やり方だった。一般人も反対できなかった。『お前は残酷な奴だ』など、言われたくなかったからだ。
……この法はハンデを負っている者たちの増長によって終止符が打たれた。まるで王様きどりというか、偉ぶったりし始めたのだ。これを受けて民衆の怒りに火が付く。荒れに荒れ、結局本物の王が独裁的に法を廃した。この都市でもっともまともではなかった政治だった。なにもかも、めちゃくちゃだった。
それを見て僕は、法は強い力を持つからこそ、正しく使われなければならないと思ったのだ。感情が世の中を動かすなどあってはならない。必要なのは整然とした理論と、謙虚で自分が間違っているかもしれない、という意識を持ちながらの運行だ。だから、僕は法の番人になろうとした。
気付けば地面に倒れていた。さらさらとした砂の感覚。嘘みたいに晴れやかな空。
立ち上がる。前に進まなくてはならない。
視界が歪んでいる。まるで現実感がない。
塔が見える。高い、天まで突くような、塔。
足から力が抜けた。砂の味がする。
かろうじてまだ判断能力は生きていた。目の前の塔に向かわなくてはならない。そこが出発地点でなかったとしても、一度体を休めなくてはならない。
すでに日にちの感覚はなかった。卓也が死んで、どれぐらいたったのだろう。
数時間? 一日? 一か月?
どれも同じこと。
重要なのは今、体は魔素に侵されていて、さらに疲れ切っているということだ。帰り道がどこか見当もつかない。
……ここで死ぬのだろうか?
なにもできていない、成せていない。現実的になにかをするのは無理だ。帰れたところでじき、力尽きる。決して彼女を救えない。なのに……僕はなにをやっているんだろう?
徒労であることは理解していた。卓也に言った言葉はただの嘘だと、自分が一番よく分かっている。
「でも、人が死んだんだ」
一人、呟く。聴衆は自分のみで、誰も答えてはくれない。
「……それがどうしたっていうんだろう」
人が死んだ。確かにそうだ。だがそんなものは世の中に溢れている。意味もなく転がる死体。しっぽのちぎれた猫。翼が折れて飛べなくなった鳥の亡骸。
踏みにじられた蟻。汲み取られなかった意思。悔しさと失望の慟哭。
すべてすべて、それらはなにかを変える力を持たない。
「大切な人、だったんだ」
それがなんになる? 怒りや失望、嘆きと呪詛。感情が世の中のあり方を変えられるわけではない。常に世の中の変革は、理性と世情の方向によって任される。感情がなにかを救うなら、とっくに世界は、幸せで溢れてる。
次に目を覚ましたのはやや硬い土の上だった。
背後に砂漠が見える。塔が近い。あと、数時間もすれば着きそうだ。
だが指一本すらも動かなかった。それは疲労、魔素による浸食が重なり、生み出している現象だ。
――体が熱い。
それでも前に進まなければ。そう強く念じた。
しかし、動けなかった。もう意思でどうにかなる段階を過ぎていた。
もういいや、と思う。ここまでこれただけでもまともじゃない。真っ逆さまに落ちていく崖に向かい続けて、正気を保っているだけましだ。むしろ僕はほめたたえられるべきだ。
そんな思いも次には否定が襲う。
だが、結果は出せていない。努力でなにかが救われるわけではない。結局、してきたことすべては無意味だ。
僕はゆっくり目を閉じる。
何も見えなかった。何もできなかった。
――誰かの声が聞こえる。
願っている、祈っている。
無意味なのに、ずっとそんなことをしている。
気付けば僕は再び立ち上がっていた。塔を見据える。
硬い、地面の感触。地面に立つ自身の脚。
ところどころに緑が見えた。小さく咲いた花。剥き出しの根。
なにかがかわっている。変化している。そのことになにかを期待しながら進み続ける。一歩一歩、進んでいく。風が吹く。生ぬるい、風。
防護服は一部一部が破れていた。だがそれでも、多少は僕の命を繋いでいるのだろう。
塔を目指して、ひたすら進む。
遠ざかっているような、近づいているような、奇妙な感覚。
おかしい、と思った。まともに足が動いていないのかもしれない。
そう思って自分の足を見たけれど、それはしっかりと役割を果たしていた。交互に繰り返される歩み。そして……。
ぞっとする。そんなばかな、と言いたくなる。
叫びたかった。だがそんな機能はとっくに喉にはないようで、音はでない。そもそも口が開いているのかも怪しい。
塔には近づけなかった。僕が狂っていて、幻覚を見ているのだろうか? 無理やり足を動かす理由をつくるために、だからこんなものが見えるのだろうか?
違う、と思った。塔は確かにある。そこにあるのにそこにはない、矛盾した感覚。強い存在感と空白。気付いた。ある、と確信しているのはやはり己の感覚で、そんなものは地表に出た時点でおかしかったのだと。
こみ上げる感情がある。強引に周囲の草をちぎって投げた。それは風にのって漂い……ある地点で消えた。とうとう、狂ってしまったのだろうか? 発狂は当人自覚なしに行われる。なにかを根拠に正気の証明をしようとも、その『なにか』が正しい根拠がない。
草が消えたあたりで手をかざす。そこで違和感を感じた。辺りを見渡せば踏みつけられた草があった。ここに僕以外の人間はいないだろう。そう考えると、やはり。
だがこれも根拠がない。自分が正しい、証拠がない。
息が苦しい。胸を手で押さえる。
――ああ、
体中の感覚がない。
――なぜこんなに暗いんだろう。
僅かに頭を持ち上げれば地面があった。口の中には砂の味。
――限界だ。
頭の中で誰かが呼んでいる。なにかを言っている。それは『信じてる』と言っていた。
――ごめん。
なにを信じているんだろう?
ゆっくりと失われている感覚。最後の最後で、僕は何かを願う。
溢れそうなぐらい感情が爆発する。
その想いは――。


光が見える。
何かが開かれる音。
扉がある。
なにかを向かい入れるように、導くように。
影がうごめく。
世界は光で包まれる。
そこには塔があった。
じっとこちらを見つめる目。
一人の男が歩いてくる。



「雪様、こちらへ」
感情を感じさせない表情をした女がそう言った。
「わかってますよ」
ここではすべてが手に入る。望めば現実的に可能な限り、叶う。ここはそのための場所だった。
叶わないものも多数ある。それは本当に大切なものだ。親しい人間とか、家族とか、愛する人とか。そして、自分の命とか。
機械のようだ、といえば共感されそうな女が私に服を着せていく。彼女はメイドとしてその職務を全うしていた。
最初にここにつれてこられたとき、次のようなことを言われた。

「あなたは死にます」
「ここで手に入るものは何でも手に入ります」
「傷つけるという方法以外なら、人を使役することができます。風俗的な意味でも可能です。また、あなた自身の体なら傷つけても構いません。危険な薬物に酔うことだってできます」

ここは、まるで現実ではない場所のようだった。自分の命を犠牲にする代わりに、可能な限りを実現できる最期のための場所。
「お困りでしたら今までの具体的な例をあげましょうか?」
メイドの女は返事も待たずに言葉を続ける。
「最初に多いのは一般的な娯楽です。やはり、気が引けるのでしょうね。次に豪勢な食事、異性の肉体、薬物の使用。あと、可能な限りの都市の真実や、犠牲の装置について聞かれることも多かったですね。特殊なものですと死の一歩手前の経験を望んだ者もいました。予行演習だと」
メイドの女はさまざまことを語った。恋の演習で肉体関係を望まないものもありました。あと女性の方ですと姫となることを望んだ方が多かったです。薬物に早々と染まるものもいましたが、絶対に嫌だという方もいました。ただ平凡な生活を過ごして終わる方もいました。
そして、と彼女は言う。こうしてあなたは様々なサービスを受けることができます。また、実際に私たちが行ってきたものは完成度の高いサービスとして行うこともできます。新しいことをしてもいいのですが、それはあなたに任せます。
「ねえ……えっと、あなた?」
「メイドとお呼びください」
「……じゃあ、メイドさん。なんでこんな無駄なことをするの? どうせ死ぬ人のために過剰な資源を使う必要はないと思うのだけど……」
こういうことを最初に考えてしまうのは、彼に影響されたせいだろうか。
「あなたの気分を害する情報の可能性があります。前もって言っておきますが、あなたは真理を求めるタイプに見えます。なので私はすべてを話しますが、止めたいときは言ってください。可能な限り、汲み取ります」
「わかりました」
「では……。私たちはサルではないということです。ここの方針は『我々は人間である』なので、一部を除いた人道的な支援を行います。また、これは言い訳でもあるのです。犠牲になる人に感謝していると、申し訳ないができるかぎりのことはするから許してほしい、と」
「……」
「無論、あなたが私たちを許す必要はありません。ただ、理解が得られなくてもやれることを最大限する。……私たちにはそれだけしかできませんから」
メイドは頭を下げる。
「仕方ないってことなのね」
「そういうことになります。誰かが死ぬことを、望んでいるわけではありません。……なるべくなら、犠牲はないほうがいいのです」
そう言ったメイドの表情には、僅かに感情の色が見えた。それすらもわざとなのかもしれない。けれど、そんなことはあまり重要ではなかった。きっと、人が死ぬことを積極的に願っている人はいない。それは普遍的なことで、納得できた。メイドの彼女も私に対して興味はないかもしれない。でも少なくとも、積極的に私に死んでほしいとは思っていないのだ。
それから、メイドの女に進めるがままにサービスを受けた。強制はされなかった。どんなものでも私の意思を聞いた。『今日は何も食べたくない』というくだらないことにも真摯に対応した。
都市のことを聞いた。ここがどういう仕組みなのか、とか、裏で何が動いているのか、とか。彼女はすべてを教えてくれた。きっとここまで知ったら絶対に逃げれないだろうな、と思いながらそれを聞いていた。抵抗組織は、実は政府が操っているとか、最近、法に対する民衆の意識が低いから、見せしめがほしい、だとか。逃げないように念を押された。また、実は私を誰かが助けに来たらその人を見せしめにしようと計画されていると聞いた。この場所は実は厳重すぎるほどの警戒態勢が施されているらしい。
それを聞いて、いろいろ考えて……少しだけホッとした。彼が私を助けに来たりしたら、彼は見せしめに殺されるのだ。だけど、彼はきっとこない。彼は感情が現実を動かすことはできないと知っている。また、法は絶対に守るぺくものだと思っていて、彼はその職務を目指していた。助けに来れば私の家族が死んでしまうことも冷静に考えるはず、だからきっと、こない。
……でも、きっといろんなことを考えて、悲しんでくれるはずだ。思えば彼はあまり感情の起伏をあらわにしない性格だった。そんな彼をくすぐったり、からかったりして彼が感情を見せた時、鉄壁の守りを破ったみたいで嬉しかったものだ。
……彼はどうしてるんだろうか。
心配だ。彼はきっと、なにもかもを自分せいにしてしまう。理性的に自分が悪くないとわかっていても、苦しんでしまう。でも彼はなにもすることができない。卓也が、私の父と母が死んでしまうことを考えると、きっとなにもできない。
ごめんね、と思う。一度でいいから彼と話したかった。でも……それができないのが現実だ。
彼の幸せを願う。
夢を見る。彼が誰かにキスをする。そこに私はいない。彼は幸せそうな顔をしている。胸が締め付けられる。でも、それでも私は、彼が幸せになることを望んだ。
「この都市の秘密はそれだけ?」
「いえ……もう一つあります」
「なに?」
「この政治は幼少期から専門の教育を受けた議員によって動き、王が決定を下します。大まかな方向はすべて王によって決められ、実質の独裁です。ここまでは知っていますよね?」
「はい」
「王は飾りです」
「……え?」
常識外のことをなんども話された。しかし、この話はその中でも特におかしかった。
「王は『誰か』から指示を仰いでいます。ここからは憶測ですが、王がそれに逆らったことがないのが不自然です。歴代の王は非常に人道的な方、あるいは逆の方もおられました。しかし、明らかにその『指示』に不満を覚えているように見えても逆らおうとはしませんでした。昔は『誰か』が政治を支配していたのを議員は知っていました。しかし、長年の王の支配のせいで、その事実を知るものは少数ですし、選べと言えば王につく方が多いでしょう。ですが、愚直なほどに王は『指示』に従います」
不確定な情報を話してしまい申し訳ありません、とメイドの女は詫びる。こんなことまで話す意味はなんだろうか? もはやこれはある種の不敬罪になりうるというのに。……まあ、そこらへんに対応する法が、なにかあるのだろう。
……卓也が、弟が政治体制が変だ、と言っていたのを思い出す。これ以上先はメイドもしらなそうだし、実際どうなっているのだろう?
「変な話ですね」
「たしかに、この都市はなにかしらが特殊です」
メイドとはいろいろなことを話した。……犠牲についても、話した。
「あなたは非常にまれな魔力の質を持っています。あなたはいままでの犠牲者五人分の魔力を犠牲の装置に供給できるでしょう」
「……私が自殺したら?」
メイドが私の目を覗き込む。ほんとうのことをいっていいんですか、という表情。
私は頷いてそれに答えた。
「現在、犠牲になるものの候補が不足しています。あなたがいなくなれば次に犠牲になるのは十にもならない少年です。しかし、彼では五年ほどしか持たないでしょう。その次も子供です。少年の犠牲を考えると年は十一を過ぎた状態で犠牲になるでしょう。彼は四年しか持ちません。あなたは二百年持ちます」
それを聞いて、震えた。「ここまで候補がいないのも異常な事態なのです」とメイドは付け足す。
私一人が犠牲になれば、数十単位で人が犠牲にならなくて済む。どちらにせよ、私は逃げられる状態ではなかった。メイドの言葉はせめてもの抵抗に私が自殺しないための嘘かもしれない……とは思わない。彼女はいままですべて本当のことをいっている。そう感じた。確かに根拠はない。でも……。
嫌になって考えるのをやめる。どうせ意味がないのだ。余計なことを考えて苦しみたくない。
せめて、と考えこの場所の娯楽を堪能した。見たこともないもの、普通に暮らせていたら経験できなかったであろうことをたくさん経験した。……だけど。
私は普通に暮らしたかった。彼と一緒に笑って、手を繋いで。彼の困ったような顔をみて、満足そうな顔をみて。それらすべては、もはや絶対に叶わないものだ。……考えてはだめだ。胸が、苦しくなるだけだ。
私はひとり、綺麗な景色を見つめていた。でも、ここに彼はいない。
メイドには近づかないように言っておいた。といっても、自殺しないように見張りぐらいはついているし、それが可能な道具に私が近づけば、きっと彼女はここに来る。
目頭が熱くなる。私は、死ぬのだ。なんでこんなことになっているんだろう? 彼さえいてくれればよかった。多くは望まなかった。
きっと、運が悪かったのだ。だがそんなことで納得できるわけではない。
告白しておけばよかったなあ、なんてことを思う。彼はどんな反応をするだろうか。きっと、最初は動揺するに違いない。そのあと困ったような顔をする。でもきっと、嬉しそうに私を受け入れてくれるはずだ。まあ、私のうぬぼれかもしれないけど……。
でも、と思う。告白しなくてよかったかもしれない。そんなことをすればきっと、彼は余計に苦しむ。きっと、だから、私は……。
なにをしても、後悔だけが残る。泣きそうだった。彼との思い出を見る。そこには弟もいて、毎日が楽しかった。
どんなに辛くても、涙だけは流さなかった。それは無意味だが抵抗的で、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせているかのようだった。
私は部屋の中に戻る。「大丈夫ですか」というメイドの言葉に微笑んで頷く。
「大丈夫」
一体何が大丈夫なんだろう? 自分を誤魔化していないとメイドに当たり散らしてしまいそうで怖かった。誰かを傷つけることだけは、したくなかった。
「なにかにおぼれることはできますよ」とメイドは言う。風俗、薬物、各種のリストを私に手渡す。男の人の裸が乗っていた。たくさんのリストからはどんな人でも好みに当てはまりそうなものもあった。薬物からは幻覚作用のパターンや、詳しい説明が乗っていた。量によって効果をずいぶん調節できるようだ。
「いいえ」と私は言う。
「なぜですか? あなたは死ぬんです。なにかに溺れたって誰も文句をいいません。もしそんな人がいたら私が排除しますよ。あなたはすべてを許されているんです」
「そうかもしれませんね。でも、私が私を見ているんです。だから、やめておきます」
「それでも」とメイドは言う。少しだけ荒い語気、込められた感情。それに気づいて彼女は恥じ入ったように俯いた。
「どうせ死ぬんです。たとえ自分が自分を許せなかったとしても、もう時間はないんですよ……? プライドなんか重要じゃありません。辛いことばかり考えて死ぬつもりなんですか? 最後ぐらい、楽をしてもいいのに」
ああ、と思う。初めてメイドのことが分かった気がした。人の苦しむ姿が、彼女は好きではない。他人の不幸が許せない、そういうタイプ。
「すみませんでした、こんな強制させる言い方をしてしまって……」
「いいんですよ」
メイドは不思議そうな顔で私を見つめる。私の声に悪意や、苛立ちを感じなかったからだろう。
……人が、誰かを思いやるということ。それが結果に結びつかなかったとしても、そういうのを感じるだけで救われたような気分になる。
メイドはなにかを言おうと、してやめた。食事をとってくるといってこの場を去った。
「……きっとキミなら、こうしたと思う」
ひとり、そんなことを呟く。彼とはいろんなことを話した。難しい話だったが、彼の思いや優しさが垣間見えるあの時間は、嫌いではなかった。
「……祐樹くん」
彼の名を呼ぶ。
ここに、彼はいない。
なにかに溺れてしまいたかった。もう何も考えたくなかったるひたすら辛いだけの時間は、もう嫌だった。それでも、私は溺れることを拒否する。
彼のことを思い出して、浸って、それで……満足して死んでいく。いや、きっと満足なんて一ミリもできない。でも、私はこういうふうに、死んでいきたかった。



世界はあまりにも優しくない。本当なら世界全体が幸福で満ち溢れているぺきだ。しかし、現実はそうではない。
――耳を傾ければ、誰かが苦痛に喘ぐ声が聞こえる。なにかを呪っている。泣いている。無力さを憎んでいる。
誰かが赤の他人を助けようとした。しかし、誤ってそれは赤の他人を追い詰めてしまった。そして人が死んだ。そいつは誰からも責められた。
余計なことをするから。おまえのせいだ。僕なんか、生まれなければよかった。
助けようとしていただけだった。しかし、失敗した。現に結果は最悪で終わっている。弁明は言い訳に聞こえ、人に嫌悪感を抱かせる。
泣きながら身を投げた。こんなはずじゃかったと。

私は弱った小鳥を拾いました。その子は放っておけば、間違いなく死んでしまうような状況でした。だから私はその子を手当てして、元気になったあとにまた逃がしたんです。それから三日たってカラスが集まっているのを見ました。不審に思って近づいてみると、カラスは一斉に飛び立ちます。そこにはぼろのように横たわった、『なにか』がありました。それには見覚えがある傷があって、目の前が真っ暗になりました。私はそれを拾ってこの前と同じように助けようとして……。私の手の中にいる小さな生き物は、家に着く前に冷たくなっていました。私は泣きながらお墓を作ります。そして、こう思うのです。カラスに弄ばれて、苦しかっただろう、私が余計なことをしなければ、少なくともこの子は安らかに死ねていたんです。

俺は子供の頃、喜んで蟻を踏み殺していた。意味もなく小さな命を潰していったんだ。大きくなって後悔した。馬鹿なことをしていたと。ずっと罪悪感があった。贖罪をしたかった。俺は正義のヒーローを目指した。俺は反省しているんだと、自分に証明したかった。いじめられているやつがいた。だから首謀者を椅子で殴りつけたんだ。そいつは片耳が聞こえなくなった。皆が俺を化け物でも見るかのような目で見た。最初は周囲がおかしいと思っていた。だが大人になってからわかった。もっと取れる手段はあった。結局、俺は周囲に対する不満を怒りに任せてぶつけただけだった。過剰な正義心の、独善的な偽善者だった。俺は、謝りに行った。そいつはゴミをみる目で俺を見て、こういった。
「よかったな、これでお前は自分を許せるわけだ」



『世界全体は絶対に幸福になるべきで、されどそうはならないのが現実である』
その事実を許せないものがいた。争うのが人の性、資源が足りないのが現実。人は分かり合えない。宗教、言語、思想、各々の価値観。それらが大きな壁となって、世界全体の幸福を阻む。
もっとこうすれば少なくとも世界はもっとよくなるはずだ。しかし、その『少し』をすることは難しすぎる。世界は規模が広すぎる。個人では手に負えない。誰も世界を変えられない。
民族、宗教、政治。異なる価値観によって起こる紛争、夥しい死体の群れ。それらはすべて必要のないものだった。
――大いなる星が落ちてくる。堕ちてくる。
星は本来、人類への贈り物。しかし、それは人の滅亡のために利用される。もう、星は堕ちた。人の滅亡は、確定してしまった。
「私が正しい」と白衣の男が言う。
人間賛歌。肯定と肯定と肯定。人は理想の姿に生まれ変わる。普遍的な価値観は共有され、争いは最低限にしか起こらない。誰も無意味に死ぬことはない。互いが互いに権利を認め合う。そこには嘆きだって、差別だって生まれる。だが、最小限なのだ。綺麗事を限りなく現実で成功させる、現実に迎合した理想。
誰もがその理想を肯定した。「価値観の壁などの障害さえなければ可能かもしれない」と、誰もが諦めた。
相対する男は滅んでいく命を見つめていた。世界がかわるための犠牲だ、と白衣の男は言った。
男はそれに対してこう反論した。「あなたの思想はすぺてが間違っているわけではない。だが、結果が保証できないうえに行為が他人を踏みにじるものである以上、間違っている」と。
白衣の男の体の一部が、劣化した建造物のように崩れ落ちた。星を呼んだ代償が、彼体を蝕む。
彼はただひとりの目の前の男を、見つめていた。
「もうとめられやしないさ」
死んだような声音で白衣の男は言う。
男は首を振った。
「後悔、してるんですか?」
「……」
「人を何千億殺して、胸が苦しみを訴えて、それなのになんでこんなことをしたんですか」
「私は……」
世界は幸福に包まれるべきだと頑なに信じた男がいた。しかし、そうはならないのが現実など、許せなかった。
「罪悪感に耐えられないから、それで死のうと思ったんですか?」
――白衣の男の一部が崩れ落ちる。
「そうだ」
足は一本たりとも残ってはいなかった。片腕はもげていた。耳がひしゃげている。指を動かせば、それは直ちに失われた。
星が堕ちていた。苦しみの声が溢れかえる。
怨嗟の声が鳴り響く。殺せ殺せと泣き叫ぶ。
「人が死んでいるんだ」と白衣の男が言う。
恨みの声が聞こえる。何かにはけ口を求めている。私はそのために殉じる。信じてくれないかもしれないけど、これは罪滅ぼしなんだ。全く足りていないかもしれない。けど、私にできることはこれだけなんだ。
そんなことを、言った。
「なあ、任されてくれるかい?」
「……」
「君が人を導いてくれ。私にはその資格がない。もうことは起こってしまった。人が死んでしまった。だから……現実に迎合した理想の世界を、作ってくれ」
「……」
「君は断らない。君ならば、やれるだろう」
男には相手の感情が見えていた。自分を悪だとわかってるその感情と、それでもやらなければやらなかった、矛盾を。
――世界は絶対に救われるべきだ。そう唱えた奴が、世界の人間を殺しつくした。
やりたくなかった。そしてなにより、誰かの悲鳴を聞きたくなかった。他人の苦痛の声は自分にとっても苦痛だった。
男は白衣の男の手を握る。それに白衣の男は救われたような顔をした。
男はそれを見据える。目の前の者は償い切れない罪を犯した。だが、それでも――。
脳裏に浮かぶのは理想を語ってた白衣の男の姿だ。彼は本気でその理想が正しいと信じ、また、叶わないことを知っていた。
「あなたは許されるぺきじゃない。でも、周りが何と言おうと、僕はあなたの気持ちを知っている。苦悩を、悲しみを知っている。僕はあなたを助けません。でも、こぼれ落ちたその罪を、僕が背負います」
焼き尽くし、根絶やしを広める緑の炎。分散され、空気に散っていく人を殺す魔素。
「ありがとう」
許しをこい、求める声。
「ありがとう……」
命の鼓動が止まっていく。
男はたったひとりで辺りを見渡す。
できる限り理想に近い、そんな世界を作らなければならない。
死んでいく者たちを見ながら、そう思った。
それが、これからの生涯の使命だった。


 


彼女のことを考える。楽しかった時の思い出。些細な苦労と、乗り越えた時の喜び。それらすべては、僕にとって大切な宝もので。
「君は死ぬのかい?」
――声が聞こえる。
「大切な人を置いて、諦めて、死ぬのかい? 君は言っていたはずだ。『彼女』が生き続ける限り、自分も生き続けたい、と。そんなばかばかしいことを、言ったはずだ」
無理だ、と思った。もうなにもかも限界で、擦り切れていて、人としての領分を超えている。
――誰かの声が聞こえる。
若い声。僕の知っている、大切な人の。死んでしまった、願いの籠った意思。
『信じてるから』
――目を覚ます。
「は……あ、はあ、はあ……」
何も見えない空間。最初にそう思った。しかし、目の前にぼんやりと人影が現れた。僕はこいつを――知っている?
たぶん前は、顔が見えなかった。しかし、今は見える。
冷酷な顔だった。なんら感情をたたえていない、まるで機械のような、人間ではないような、そんな表情。
彼は僕の方を見て微笑む。途端に雰囲気がかわった。人を安心させるような、自然とそう思ってしまう、そういう表情。彼が微笑むのを止めれば、また感情をたたえていない表情に戻った。
「大丈夫かい?」
「ここは……?」
「どこだと思う?」
止まっていた頭を動かす。僕は砂漠で力尽きたはずだ。最後に見た光景は、開いていく扉と、視界に指す光。そびえたつ塔。
「賢……者……?」
確かめるように、その言葉喉に上らせる。
「そんな大層なものではないけど、記号として僕は『賢者』と呼ばれているね」
賢者の塔の伝説。星が堕ちて、人類は壊滅した。だか一部の人間は生き延びている。なぜだろう? それはきっと、誰かが先を見据えて人が生き残る手段を講じたからだ。ああ、未来を知る賢者様は我らを救いたもうた。
おとぎ話にでも迷い込んだような感覚。現実感が麻痺していく。
「どうして僕は、ここにいるんです?」
「いちおう、君の頭の中に答えは入ってるよ。でも突拍子もないから教えておくと……魂の成長と、魔素の適合のおかげかな」
魂? 魔素の適合?
「最初に僕と会った時に唾をつけたおかげたよ。特別や偶然でもなく、必然でここに君はいる。僕はあの日の君の答えを気に入っているんだ」
「なにが……なんだか……」
まるで、わからない。
「そんなことは重要じゃないんだ。大事なのは君がどういう選択をするか、ということだ」
「選択……?」
「ほら、わざわざ選択肢を表示するほど僕は優しくない。なにを思うか。なにをしたいか、そして僕に何をいうかを、君自身が選択するんだよ」
……選択。
たったひとつの、当たり前に優先するべきことがあった。そしてそれは彼にどう思わせるだろうか。それすらも選択なのだろう。そういうことを、求められている。
「僕は彼女を助けたい」
「ふむ、いいんじゃないかな? それで?」
彼は、目の前の賢者は部外者でしかない。僕がなにかをしたいと言った。だが、賢者は「それで?」と答えた。関係がないという立場であると、お前がなにをしようと勝手だと、そう意思を示した。
「力を借りたい」
「なんで僕がそんなことをする必要があるのかな?」
そうだ。彼は関係がないのなら、メリットが、見返りがなければなにもしない。「助けてください」で助けてくれるほど、そもそも世界が甘くない。
「僕が……あなたに協力します」
「そんな価値が君にあるのかい?」
「わかりません。しかし、僕はあなたが彼女を助けるために協力をしないのなら僕はあなたの言うことを一切聞きません。なにもかも、絶対に」
彼が僕を生かした。そして……彼は、僕に以前、都市の中で出会っている。さっき思い出した。そしてこれは、きっと偶然ではない。
確証があるわけではない。他の可能性などいくらでもあり得る。しかし、僕自身に価値がなければ彼女を助けることはできない。価値がなくとも、僕だけは助かるのかもしれない。だからこれは……。
「ははは、考えてることがわかるよ。僕が言った言葉だ。さて、なんと言ったんだったかな?」
「……消去法的選択」
このやり方でしか彼女は助からない。だから、この選択をするしかない。
以前、彼は言っていた。
『例えば、君は武器を持った大量の敵によって崖に追い詰められている。崖の下は深く、底が見えない。でも君は飛び降りなければならないんだ。飛び降りるのがどんなに怖くても、敵の元に向かえば、絶対死ぬのだから、身を落とすという選択肢しかない』
そう、もう、僕は身を落とすという選択肢しか持っていない。彼女が生き延びることができないのなら、僕はいずれにせよ死ぬのだ。事実はそうでないとしても、僕はそう決めた。
「いいよ、力を貸してあげるよ。でももう一つ言っておくことがある」
指さす方向には僕がいる。
「君はもうそういうことができる存在だ」
「……え?」
「魂の成長と、魔素の適合が起きたんだ。まあ、それは最初にあった時にそうなるように僕が仕込んだからだけど。それでも普通なら無理だ。君の魂は本当に特殊な形だったんだよ。魔素に向き合えるだけの魂に成長したキーはこれだ。『世界は絶対すきわれるべきだが、救われないのが現実。完璧な人になれたかった。人の善意は、少なくとも悪いものじゃない』」
僕の思想。そしてその答え。
「だからこそ、君のその答えを叩き潰さなきゃならない」
暗い空間になにかがなだれ込む。人の……記憶。
三人の少年と少女がいた。彼らは善意で行動をした。しかし、結果がでなかった。結果は他人を傷つけるものだった。取り返しのつかない、ひどい結果だった。
「彼らは失敗したんだ。世の中では結果がすべてだ。けれど彼らは、失敗したんだ」
静かにそういう賢者。
「誰かがそれを認めてあげるしかないんです。努力したことを。少なくとも善意は、悪いものじゃなかったと」
「確かにその通りだ。だが……それは取り返しのつかない時でも言えるのか? 人が死んでるんだ。苦しまなくてもいい奴が苦しんだんだ。耳が聞こえなくなったものは一生不自由さが付きまとう」
人の善意は少なくとも悪いものではないかもしれない。だが、それが取り返しつかない結果を生んでしまったら?
「彼らは罰せられるぺきだ」と賢者は言った。
なにも言い返せなかった。善意のために失敗した者たちに、お前は悪くないといってやりたい。しかし、その被害者はどうなる? 僕が悪くないと言えばそれは被害者に対する冒涜だ。いいことだけを言う、偽善行為だ。終わったことだと、被害者の意思を汲み取らない悪事だ。
どちらかにつけば、どちらかを否定することになる。
それでも。
「いいえ」と僕は言う。
「なぜ?」
「現実問題として、その結果的加害者は罰せられるべきかもしれません。でも僕個人はそうしません」
「なにをするんだい?」
「僅かな救済」
いつだって、僕の答えは変わらない。
「加害者に、『お前は悪くない、しかし罰を受けるだろう、けれど僕はお前を認める』と言います。このことは被害者は知りません」
「誰に彼にもいい顔をするって?」
思わず苦笑する。嫌な言い方を、わざとしている。
「被害者への否定はなかったことになります。知らないんですから。加害者は少しだけ救われます。誰かが僅かにそいつのことを肯定したんです。僕は卑怯なことをします。加害者には、お前悪くない、といい。被害者にはそのことを知らせないんですから。でも、それでいいんです。程度さえあれ、結果的に誰もが救われている」
「どうだろうか? それがばれれば君自身は救われない」
「そうですね。でも少なくとも、怒り矛先は僕に向くはずです。加害者と被害者がまた争い始めることはない」
「……君は馬鹿なことを言ってる」
そうかもしれない。
だがそれでも、僕の答えはいつだって変わらないのだ。
世界は絶対に救われるべきで、救われないのが現実。
しかし、せめて助けようとはするべきだ。
そういう考え。
僕がこれをして殺されたりするなら……やらないかもしれない。だが恨みが向くだけだ。僕は出来る限りを現実的に可能な限り救う。時には見捨てなければならないときだってある。けれど、この考えは、きっと正しい。
「君だけが損してる。君は愚かだ」
英雄的行動に酔っている? 善意を振りまくことために狂っている?
なにかに影響されたがゆえの思考停止?
……いいや、そうではない。
「でも僕はそれが正しいと思うんです。自分だけは、この考えを裏切れません。僕だけが僕を見る。人が報われないのをみると、夢見が悪いんですよ」
それは自分のためだと言い訳をして。それで僕はこの考えが正しいという。
「本当なら、世界全体は救われるべきなんです。運が悪いかったから仕方ない、は嫌なんです」
僕の考えは、実に抵抗的で、しかし、もう変えられないものだ。
「ほんとに……はあ……」
賢者はため息をついた。あきれているような、ある意味感心したような。
「君みたいな人は嫌いじゃないよ」と笑いながら言う。
「損していて苦しいのは、もうわかっていたことなので」
「どこまでも曲がらないね。なんていうか……効率が悪いというか、自分に無頓着というか」
僕は笑う。
僕がするのはあくまで現実的に可能な限りだ。あまりに救いようがなにものは、救わない。あまりにも自分に被害がくるなら無視する。だが心を痛める。そいつが救われますようにと、願う。
抵抗的な行動、そういうことをする。
賢者はやれやれと首を振る。
「現実主義者で理想主義者、ここに極まりって感じだ」
「そうかもしれません」
賢者が笑う。仕方ないなあ、という表情。
「頑張ってね。『彼女』とやらを救うために。わかってると思うけど『彼女』を救うというのは他に犠牲者を生み出すということだ。君が彼らを間接的に殺すんだ」
「……わかってます。それでも、やらなきゃいけないんです」
暗い空間が破れていく。辺りは無の領域へ。
「いってらっしゃい」と言う声がする。
ごめんよ、と代わりの犠牲者に言う。誰にも届かない声だった。彼女を救うという僕のエゴで、彼らを殺すことになる。それでも思い出があったから。彼女が狂おしいほどに大切だったから。
『姉さんを救ってくれ』と卓也は言った。どうあがいたってやることはひとつだ。
だからといって僕の行動が許されるわけではない。それを痛いほどに肝に銘じる。僕は罪を背負っている。
どうしてもそのことは気がかりだった。だがどうすることもできなかった。
だが、それが現実だ。
だから「ごめん」と僕は言う。誰にも届かない。許されるわけではない。それでも、僕は謝り続ける。そういうものだった。

 

目を開ければそこは都市の中だった。賢者がなにかをしたのかもしれない。
――人の声が聞こえる。
「もう四日だな。あの冒険狂たち、帰ってこなかったな」
「ああ」
「でも少し……安心してるんだ。接点はなかったけどあいつらだって俺たちの仲間だ。それを殺さなくて済んだと思うと……俺って、矛盾してるよな」
「矛盾してるな。だが、気持ちはわかる」
彼らに近づいてみる。その服装で処理係だとわかった。地表探索隊が魔素に侵されて帰ってきたとき、処理を実行する者たちだ。
自分の中にあるのものを意識する。彼女を助けるためのものだ。僕は彼らに近づいていく。
処理係のひとりは怪訝そうな顔をした。だが首を振って思い直すような動作をする。
「どうした?」
「なんでもない。きっと気のせいだ」
|そこにあるのに《、、、、、、、》|そこにない《、、、、、》。矛盾した存在感。それが僕にできることだった。僕を認識できる人間はいない。僕が認識させようと思わなければ、できない。
おまけに飲み食いなしに体内器官を動かせる。魔素に適合して、僕は人間なのか、人間でないのかよくわからない存在になったようだ。
彼女を連れ出して賢者の塔に匿う。彼女は魔素に侵されたとしても進行は遅いだろう。そして塔につけば彼女は生き延びることができる。
僕はひとり、組織の中を歩いた。誰にも築かれなかった。途中、羅門を見た。元気にやっているようだ。照はひとりで退屈そうに読書をしていた。照らしいといえば照らしい。
最後にボスのところへやって来た。僕がしているのは自己満足だ。だがこの三か月過ごした彼らを見ておこうと思った。
ボスはひとり、机と向き合って資料を眺めていた。テロに関する計画書だ。
ぴくり、と肩が動く。
「誰だ」
自分の心臓が飛び跳ねる音。
まさか、と思う。尋常ではない。まともな人間のそれではない。今の僕を認識できるなど、ありえない。
ボスは用心深く周りを見渡す。僕がいる方向も見た。だが、
「……ばかばかしい」
気付くことはなかった。
「変な気分だ」
僕は息をひそめていた。そしてボスの様子をうかがう。
「あいつが来てからだ。ほんとに、変な気分だ」
もしかしたら気付いてるのではないか? そんなことさえ思う。だが確信があったのなら、ボスは僕を見逃してはくれないだろう。ボスは、そういう人間だ。魔素の適合が僅かに起きているのだろうか? とにかく、尋常ではない。
「ばかばかしい」と彼は言う。
僕はその場からひっそりと立ち去った。
これで……ここにくることはもう、ない。


 

彼女がいる建物についた。父に一度会うと思ったが、やめておいた。すべてが終わったら、その時は一度家に帰ろう。僕が成功したか失敗したかどうかは、僕がみせしめの処刑にされるかされないかで判別できる。まずは、彼女を助けることを優先しなければ。
建物の中にはいたるところにガラスが張られていた。きっと、僕が単体で彼女を救出しようとしていれば必ず捕らえられていただろう。
今だからわかる。ガラスに反射を利用して、死角から覗くいくつかの監視カメラが見える。気付いた時には見つかってしまう。そういう仕掛け。
僕はなにものにも認識されることがない。だから、今なら突破できる。彼女のいるところへと。
ゆっくりと歩いていく。途中、メイドや執事の恰好をした者などを見た。犠牲者はその死までは最大限の敬意を払われる。彼ら、彼女らは犠牲者へ奉仕をする者たちだろう。
誰にも気づかれずに、歩き回る。建物の中は広かった。だが探していればいつかは彼女のもとに辿りつく。扉を開けたりしても誰かに不審がられることはない。誰もがいつも通りの行動をし、異常に気づけない。
そしてその扉を見た瞬間、胸が高まった。確信した。ここにいる、と。
打ち震えた。もう何年もあっていなかったような錯覚。ようやく、辿り着いた。
僕は扉を開く。光が差す。穏やかな雰囲気と、としかし、刺すような悲痛。

 


「祐樹……くん?」


 

「会いた……かった」
何を言おうか、なにから話そうか。そんなことを考えていた。だが最初に出た言葉は、それだった。
「嘘……うそ……」
彼女は目に見えて動揺していた。広い部屋にぽつんと、佇む彼女。目をいっぱいに広げ、まなざしは僕へと向いている。
「迎えに来た」
「ついに幻覚を見るようになったみたい……」
彼女の手を握る。
「ここにいるよ」
「リアルな幻覚……」
冗談で言っているのか、本気で言っているのかわからない声音で、彼女はそう言った。
そして彼女は静かに泣き始めた。嘘みたいに綺麗に、彼女は涙を流した。
「どうやって……どうしてきたの……? 法が大事なんじゃないの? 社会の秩序はなによりも大切だって……」
「そうだよ。世の中に犠牲は必要だ。でも、それに逆らってでも、きみに会いたかった。……助けにきたんだ」
「……変わったね。確かにキミなのに、なんだか別人みたい」
確かに、と思う。
彼女は不思議なものを見るかのように僕をみた。そしてまるで確かめるように僕の体に触れる。こそばゆい。
「夢……みたい」
「まだ幻覚うんぬんを引っ張るの?」
「あはは」
「それで、助けに来たんだけど」
「どうやって」
「どうにかできるんだ、任せて」
卓也のことは伏せておいた。何もかも終わってそれにから話そう。……気が重い。でも、いずれ知らなければならないことだ。
「私ね、すっごい辛かったんだ」
「うん」
「日にちが過ぎていくにつれて自分の命の終わりを数えてるみたいで。ここの人たちはね、私が死ぬってことを示唆するの。たぶん、そうすることによって犠牲になるときの効率が上がるんだと思う。三か月で死ぬんだって、あと一か月で死ぬんだって、ずっと考えないといけなかった」
「……もう、大丈夫だから」
「キミはどうやってここに来たの? 逃げるあてはあるの?」
「賢者って人に力を借りたんだ。逃げるあてもあるよ」
「――よかったあ」
ぞくり、とさせられる。その彼女の声音は、確かに安堵からのものだった。だが、そこには。
「キミは逃げられるんだね」
「僕だけじゃない。きみも来るんだよ」
「私はいけない」
どうしてだ? それはできない。それだけは、絶対にできない。
湧き上がる焦燥感と、恐怖。必ず彼女を救わなくてはならない。
怖い、と思った。それでも平静なフリを保って僕は彼女に問う。
「なんで?」
「……私が逃げるとね、かわりに子供が死ぬの。犠牲者になれる人が少ないから、たくさん、死んじゃうの。私は犠牲者としてこれまでにないぐらいの逸材なんだって」
懸念はあった。優しすぎる彼女は、他人が犠牲になるのを許さないのではないかと。
「……関係ない。きみは生きなきゃ。そうしないと悲しむ人がいる」
「少なく見積もって、六人」
「……」
「それが私の犠牲者としての価値。まだ二人とか、三人ならよかった。でも、少なくともこれだけいる。多ければ二十人、私の代わりに死ぬ」
逃げていたのかもしれない。彼女が何を思うか。何を考えるか。それを想像しなかった。考えるのは助けに来てくれたんだと喜んでくれる彼女の笑顔ばかりで。
成功すると、確信していた。
酔っていたんだ。囚われた彼女を助ける行為は、まるで英雄のようだと。物語は幸せに包まれて終わると、根拠もなく、信じていた。
「敬くんはね、いたずらっ子だけど、お父さんとお母さんを大切にしてた。茜ちゃんはね、好きな男の子がいるみたいで、将来の夢はお嫁さんなんだって」
政府の嘘かもしれないじゃないか、と思う。でも……理屈めいたその思考が告げている。そんなことをする意味はない。あるがままの真実を見せたのだと。
該当する知識がある。いつのまにか理解していた、魂と犠牲のメカニズム。魔素に適合したから得た、感覚。正しく犠牲になれる人はこの都市で……彼女しかいない。そしてもうひとつ、気付いたことがあったそ。れは……。
「海くんはね、将来――」
「――聞きたくない!」
動悸がする。自分を殺すかのように脈打つ心臓。
少なくとも犠牲者の不足について、政府は嘘は言っていない。
彼女を直接見てようやく、魂と犠牲のメカニズムを理解できた。彼女のその巨大な魂の波動。ありえないぐらい人間離れした魔力。もっとはやく気付ければなにかできたかもしれないのに。なんでこうも、世の中はうまくいかない。
なにがなんでも説得しなくちゃいけない。でも……どうやって? 成功の未来が、なぜこんなにも見えないんだ?
予感がある。直感めいた、結論を示唆する記憶の渦。きっと、本当は理由をわかっている。
「自分を大切にしてくれ、自分を優先してくれ……! お願いだ、ずっと言ってたじゃないか。他人を助けるのは自分に被害が及ばない範囲だって。きみが死んだら、誰かを救えたって……意味がないじゃないか!」
吐き気がするほどの恐怖感。うっすらとわかっている。きっと僕は、どうやったって彼女を救えない。
「最近、人の悲鳴が聞こえるの」
誰かを恨む声、哀願し、救いを求める声。
「わかるの。人が死んだ未来が。助けてほしいって、何人もの声が重なってるの」
私はその声の持ち主を知っている。
「私は犠牲者の候補に直接会わせてもらった。ここではどんなことだって教えてもらえた。願えば可能な限りが叶った。私は私が犠牲なることによってどれだけ救われるか、私がいなかったらどれだけが死んでいたか、教えてもらった。私は、自分が死ぬ意味を知りたかったから。生きてきた意味を、知りたかったから」
「……」
認めるわけにはいかなかった。
今までしてきたことの意味。卓也が死んだこと。
僕だって、もう元の生活には戻れない。
今更彼女を諦める? そんなの、絶対に無理だ。絶対に、絶対に。
それをするなら死んだほうがましだ。彼女が死ぬことを、許容できない。
許すわけにはいかない。僕はすべてをかけて、ここまできたんだ。
「卓也が死んだんだ」
吐き気がする。むせかえるような感覚。
彼女は絶句していた。弟が死んだという事実に、衝撃を受けていた。
「……今更、戻れない。卓也が死んだんだ。僕もここまでくるのに犠牲にしたものがあった、なのに、それら全部を無視して、きみはここに残るの?」
もう止められなかった。
「それは困る。苦しかったんだ。なのに僕の気持ちはどうなるんだ。命だって懸けた。死にかけた。……卓也は、僕の目の前で死んだんだ!」
彼女の、泣き崩れる表情。そして……それで……。
今、気付いた。
自分がなにをしたのか、なにを言ったのか。
卓也と自分をだしに、言うことを聞かせようとした。理屈ではなく、愚かにも感情に訴えて。
優しい彼女の性格を利用しようとした。こんな言い方をすれば、傷つくって、わかっていたのに。
――嫌悪感。
馬鹿なことをした。もっとやりかたがあったのに、僕は最悪をした。
そして、もっと最悪なことは……。
「ごめんね」
そう、それでも彼女は。
「私は、いけない」
――決断は変わらない。
人が死ぬから。何人も何人も、彼女が逃げれば死んでしまうから。
そいつらは顔のない人物ではない。彼女が自分で確かめて、知った、無関係ではない人間。
僕がしたことは無為に彼女を傷つけただけだった。
完璧を目指していた。失敗したくなかった。
なのに、最後の最後に、最悪を犯した。自分が許せなくなった。猛烈な自己嫌悪。
「嫌だよ」
それでも彼女には生きてほしい。
僕を選んでくれ。他人なんて気にしないでくれ。
お願いだ。
……お願いだ。
「来てくれよ。お願いだ。きみがいないと、生きてる意味がない……」
まだ、縋って。
それでも彼女は首を振った。そして同じ言葉を繰り返す。
「私はいけない」
自分が死ねば、救ったもののことなんてわからない。死ねば感覚はすべて失われる。誰かを救ったという実感は無意味だ。なのに。
彼女は他人を救うことを選んだ。他人のことを思いすぎた。
きっと原因を僕は知っている。
他人を見捨てたまま生きることはできない。それは絶対に、|自分を許せなくなる《、、、、、、、、、》。

 

――勢いよく扉が開かれる音。
とっさに振り返る。
豪華な衣服で着飾った男がいた。背後には執事とメイドが待機していた。
瞬時に誰にも認識できない状態に、なろうとする。
ばかな、と思う。できなかった。干渉を受けている。それをしているのは、目の前の男だった。
「誰だ」と僕は言う。
「王だ」と男は――王は短く答えた。
細められていく目。僕を見る、目。
「入口から誰にも気づかれずに来たな? 見ていたぞ。入念に周囲を観察していたな」
なにが起こっているのか、理解できない。こいつは何を言っているんだ?
「なにを……」
理解したことがある。その口ぶりと容姿と、あふれる存在感を見て。こいつは明らかに、違う。まともな人間じゃない。僕と同じだ。こいつは魔素と適合している。
全て知られていた。口ぶりから僕が入った時点で、こいつは僕を見つけていた。
てのひらの中だ。泳がされていた、遊ばれていた。
「賢者……あの神を気取るやつに、会ったんだろう?」
賢者を知っている。それどころか、敵対的な感情を抱いている?
「だが無意味だ。賢者のたくらみなど、上から指図するだけのやつの計画など、知ったことか」
王はまるで宣言するかのように、そう言った。
殺される、と思った。僕はこいつの前だと普通の人間と変わりない。逃げきれない。見せしめに殺されて、彼女は犠牲で死ぬ。
不自然な感覚があった。本来なら今すぐにでも、指示をして僕をとらえればいいはずだった。なのに王はそうしない。ずっと僕を見ている。なにかを待っているような、僕がなにかを言うのを、望んでいるような。
――予感がある。犠牲と魂のメカニズム。
成長した魂。
「動かないで!」
叫び声。
彼女の、声。
「その人を外に返して。私はちゃんと犠牲になる。でもその人を殺すなら、私はここで死んでやる」
決意を秘めた、そんな言い方。絶対に実行すると、彼女はそう言っている。
それを聞いて、胸に来るものがあった。彼女は僕をないがしろにしていたわけではなかった。僕について来てくれないのはほんとうに他の犠牲者を増やしたくないからで、僕を守るために彼女は命をかけている。
「やめてください雪様」
メイドの女が歩み出る。感情の見えない表情。
「そんなことしても無駄です。わざわざ命を捨てる真似はやめてください」
「無駄? 本当に?」と彼女は静かに言う。
僕が殺されるの確定的で、彼女が犠牲になるのも同様だ。だがせめて、彼女は僕だけは逃がそうとしていた。
「動かないで。その人をそのまま通して。誰も、一歩たりとも動かないで」
激しい剣幕で言う。必死さが窺えた。
――王がこちらを見ている。
「無理ですよ。あなたの見えないところでその男は捕まります。あなたがしていることは無意味です」
「どうかな? 捕まる前に彼が大声をあげるかもしれない。そしたら私がすぐにでも自殺するかもしれない」
「人は簡単には死ねません。あなたがそんなことをしたった治療が行われるだけです」
「確かにそうかも。でもそれで私が助かる確率は? そこまでして彼を捕まえるメリットはあるの? あなたたちから見れば私は絶対に失ってはならない人材。わざわざ賭けをするようなことを、あなたたちはできるの?」
「……」
メイドは黙った。彼女に言い負かされた。実際、彼女の価値は大きすぎる。見せしめの処刑を行うために、彼女が死ぬかもしれない選択を政府側としては取ることができない。
でもこれじゃあだめだ。結局、彼女は死んでしまう。僕だけが生き残っても意味がない。
予感があった。怖かった。だが、おそらく、結末を変える方法はあった。
王が笑っている。わかっているぞ、とでも言いたげな表情。
そうだ。王は待っている。僕が選択をすることを。そして、僕がどの選択をするのか、知っている。
「僕は」と言う。
皆がこちらを向いた。いぶかしげな表情。お前ができることはなにもないと、言いたげな、そんな表情。
ただひとり、王だけは満足げに笑っていた。
「僕が犠牲になります」
「……え」
彼女の声。
メイドが僕に反論する。
「なにを言っているのです? あなたにそんな価値はありません。雪様ほど犠牲の資質があるわけではないのなら、あなたの言い分は通りませんよ。身の程を知りなさい」
「関係ない。王よ、どうせ犠牲をはかるなにかを持ってきているんでしょう?」
何かを言おうとするメイドを王が静かに手で制す。信じられないものを見る目をメイドした。
「なにをなさって……?」
「おい執事。計測器をお前に持たせたはずだ。ここに持って来い」
後ろから呼ばれた執事が顔を出す。執事は丸い機械のようなものをもって王の前に跪いた。
「ここに」
「よし。メイド、こいつでアレの魂をはかれ」
「……かしこまりました」
明らかに納得いっていない様子で、メイドは王の指示に従う。
メイドが近づいてくる。抵抗はしない。
彼女もなにも言わなかった。どうせ彼女の魂の値を上回れるわけがないと思っているのだろう。ほとんどのものがそう思っていた。だが王と、僕だけは違った。
「八百年……です」
理解できないというメイドの声。化け物でも見るかのような、表情。
けたたましい笑い声。王が笑っている。
抑えきれないというように。積年の悲願が、目的が叶えられる瞬間が来たかのように。、
「見ただろう! こいつは新人類だ! 八百年もあれば賢者から逃れられる! ははは、はははははは!」
なおも王は言う。
「あいつは人類を再び地上に進出させようとしているんだよ。だがそんなことをすればどうせ争いが生まれる。人間はこの都市で生き続ければいいというのに! 発展など必要ないのだ!」
解放されたような、そんな感情を王から感じる。そして、わかったことがある。王は賢者を嫌っている。憎んでさえいるかもしれない。そして地表への進出を望んでいない。
予感がある。王は賢者に従っていないが、ボスは賢者に従っているのではないか? 内部で組織が分裂している? そして、地表探索でイレギュラーな異常が起きたのは。
「地表探索隊のワイヤーを切ったのは、あなたの手の者、か」
確信があった。ボスがわざわざ無駄なことをするはずがない。失敗するとわかっているなら理由をつけて止めるか、そもそも計画を立ち上げないはずだ。ボスは組織をほぼ完全に掌握している。だが本物の敵対勢力は想定しておらず、スパイの潜入はたやすい。
「ああ、お前は地表に出たのだな? 魔素と適合しているのだから当たり前か。念を押して人為的なものに見えない細工をするよう指示したのだがな。少ない情報からよく気付いたものだ」
こいつは……!
「人を殺したんですね」
「未来のためだ。多少の犠牲は仕方ない」
平然と王は言う。なんとも思っていない、口調。
にやり、と王は笑う。
「そんなことはどうでもいい。お前はおとなしく犠牲になってくれるな? お前のようなやつは嫌いじゃない。お前の大事な女は生かしてやろう。外には出すわけにはいかない。だが平民にはできない、贅沢な暮らしをさせてやろう」
どこまでも傲慢な言い方。だか従うしかなかった。たぶん、約束は守られる。彼女は生かされる。僕の犠牲には意味がある。
――わかっていたんだ。彼女を見た瞬間に、犠牲になれる人間はひとりじゃないって。むしろ、僕こそが、犠牲に最も適した人間になったんだと、魂がそうなったのだと、理解した。
現実味がない。選択はあっという間で、死ぬという感覚がうすい。でもこの選択は、きっと、他人からしてみれば愚かなものだったとしても――僕にとっては最善だ。
残されていく者を思う。彼女と一緒に、生きていたかった。でも、他に選択の余地はない。僕が死ななければ彼女は死んでしまう。彼女が死んでしまえば、僕もまた、同じようなものだ。
僕は頷いて王の言葉を肯定した。犠牲になる、と。
「こい」と王が言う。
「嘘だよね?」
彼女の声。
「ねえ、いかないで」
悲痛な叫び。
「嫌だ……嫌だよ」
その声を聴いて。大切な人の哀願を聞いて……情けなくも、もう少し生きたいと思ってしまった。だがそれでは彼女は生きられない。
安心した。彼女が僕を思ってくれることに。
後悔した。もっと、ああすれば、こういうことをすればよかった、と。
でも結局、僕はなにかをすることはできなかっただろう。後悔だけが残る。
だが満足していた。少なくとも、自分の生き方を最後まで貫いたと。
充足感があった。少し、寂しいけども。
恐怖がある。死を自ら選んだことに対しての恐怖。実感が押し寄せる。
僕は、死ぬ。
「待って……待って……!」
彼女が抑えられるのが見えた。
「最後になにか言ってもいいぞ」と王は言う。
何を言うべきか。何か言うべきか。
感情が溢れていた。言いたい言葉があった。
だが言うべきではないのかもしれない。言ったところで、彼女は救われない。きっと、かえって苦しむ。
でも、最後のわがままだから。命を捨てるのだから、これぐらいなら、許されてもいい気がした。
目を閉じれば、彼女の笑顔が浮かんだ。おかしさことをして、笑いあって、そういう余韻に浸って。
彼女と結ばれるんだと信じていた。きっとこのままずっと一緒にいて、キスをして、結婚して、子供を作って。「幸せだね」なんてことを確かめるように言う。
――でも、それらすべては全部、夢の中の話だ。
彼女の顔を見る。綺麗だった。どこまでも愛しかった。今までくだらない意地を張って、思いを伝えることをしなかった。
伝えるべきではないかもしれない。
「ごめん」と胸の中で謝る。そして、僕は彼女にこう言った。
「大好きだよ」
彼女は大きく目を開いて、僕の方を見て、途切れ切れに返事を返す。
「私も……だよ」
よかった、と思った。もう、諦めがついた。
ずっと諦めないことは、辛かった。いつまで続くんだと思った。でも、ようやくこれで終わる。
彼女の姿を目に焼き付けた。遠ざかっていく時も、扉が閉まる直前の時も。
ぱたん、とすべてを終わらせるような扉の音がした。
「大好きだ」と確かめるように僕は呟く。
生涯を通じて、ようやく、完全な諦めがついた。
もはや僕はなにかをすることはない。誰かを想うことはない。
彼女は……いま、何を思っているんだろう?
――扉の向こうから、誰かの慟哭が聞こえる。



その装置には人を一人、収容するスペースがあった。
「光栄に思え、私自身がこの手で犠牲を執行するなど、初めてのことだ」
それは僕への思いやりや優しさではない。賢者という敵に反乱するための記念。そういったことへの象徴、自己満足。
「そうですか」
「お前のようなやつを待ち望んできた。魂の質だけあってその精神も、実に好みだ。お前は、人間だ」
王は僕のような奴を嫌いではないと言った。実際そうなのだろう。
「眠るように意識が消える。だがすまないな」
横たえた己の肉体。ガラス越しに見える顔。
機械音がなる。装置が、始動している。
わきあがる感情があった。それを必死に抑え込む。なんでもないんだと、忘れようとする。
「お前は装置の中で苦しむだろう。とても、長い間」
なにも見えなくなっていく。意識が混濁を始める。
「こればっかりはさすがに同情するぞ」と誰かが言った。



暗く、よどんだ穴倉から。
なにかを呪う声が聞こえる。
助けてくれてと泣き叫ぶ。
答えるものはなにもない。
それはずっと生きていた。
苦痛は魂を苛んだ。
救済は後継役にて行われる。
よかった、これで終わる。
ようやくこれで、死ねる。



僕はゆっくりを目を開く。いや、目という表現は仮のもので、僕がそう認識しているだけだろう。
目の前に何かが浮いていた。そいつはわけもわからないことを叫び、消えていった。
……僕はため息のようなものをつく。
こんな光景が続いていた。狂ったものたちの、叫び声。苦しみぬいて、死を喜ぶものの呪詛。
ここには何もなかった。ほんとうに、なにもなかった。
考えることはできた。だが、それをするのはひどく苦しい。後悔と、それと結びつく幸せな思い出。
僕は長い夢を見る。そこには彼女がいた。卓也がいた。両親も、なにもかも、大切な人はみんなそこにいた。誰もが苦しまず、完全無欠の世界だった。
でも、これは夢だと知っている。
失われていく感覚がある。
なにかを思い出そうとすると、どうじに抜けていく感覚。
魂の消耗。自我の崩壊。
少しづつ削られていく感覚。狂気がすぐそこにあるのを、感じる。
だから何も考えないようにする。思い出さないようにする。
それでも狂気に溺れていく。縋りたくて、思い出を頭浮かべる。それはその瞬間から頭から消えていく。
涙のようなものを流した。
悲しくて辛くて。恋しくて懐かしくて。
でも、全部諦めたんだ、と思う。それでよかったんだと、そう思う。
ずっと同じ暗闇を見上げていた。ここにはなにも存在しなかった。
僕はゆっくりと目を閉じる。
そうすれば、彼女の声が聞こえる。
僕にしゃべりかけ、嬉しそうにし、幸せそうな笑顔を浮かべる、彼女が。
『私たちだけの秘密!』
『今日、どんなことがあった?』
『キミは私にとって、大切な人だよ』
そして僕は。
「うるさい……うるさい」
なにもかもなくなってしまえばいいのに。こんな欠陥だらけの感情も。苦しいだけの思い出も。
なにかを言いかけてやめる彼女の姿があった。少し恥ずかしそうにしていて、やっぱりやめておこう、という感じの。
妥協なのかなんなのか、彼女は僕にこう言った。
『家族の次にキミが好きかなー』
「うるさい! うるさい! ……うるさい」
認めたくなくて。彼女のことが好きなんだと、思いたくなくて。
世の中のすべては無意味で、価値なんてないと思いたくて。
なにもかもを否定したかった。でも、いつもきまって僕をひきもどすのは彼女の声だ。
どんな完璧な理屈も、自分の決意も、落ちていく自分を止めなかった。ただ、彼女だけが、感情だけが僕を離してはくれなかった。もうなにもかも、捨ててしまいたいというのに。
諦めたんだ。すべてには価値がなかったんだって。どうだっていいんだって。
でもそれなら、僕が最後にした選択はなんだというのだろう?
泣き声。嗚咽。慟哭。
認めたくなかった。苦しいのだということを、認めたくなかった。
僕はゆっくり手を伸ばす。けれど決して叶わない――。
「本当に?」
自分が言っているのか、誰が言っているのか。
「諦めたかったの?」
「そんなわけない」
「君の思いを聞かせてよ」
「世界全体はすくわれるぺきだ」
「どうして?」
「それが正しいと信じるからだ」
「彼女のことが好き?」
「とても」
「諦めるの?」
「それが現実だ」
誰かが否定の声をあげる。産声めいた変化。
「君はいつまで生きる?」
「またその話か」
「君はいつまで生きる?」
「彼女が生きている間まで」
「わかったよ」
声は笑っている。
賢者が笑ってる。
「君は変なやつだ」
「変?」
「まともじゃないね。世界全体の幸福を望んでいて、一人の女の子を愛していて、自分が苦しむ思考から逃げない。もっとも効率よく生きればいいのに。そのことすら自覚しているのに、愚かだって思っているのに……いつだって君の思いは変わらない」
「……」
「君と塔で話したとき、君になら任せられると思ったんだ。君みたいな変な奴に。だからここから、救ってあげよう」
いいのだろうか? 僕だけが助かって、こんなにも苦しんでいる人はいるのに。
「いいんだよ。だって僕も君と同じ考えを持っているんだから」
――世界全体は救われるべきだ。
――けれど救われないのが現実だというのなら。
――現実的に可能な限り、助けになりたいと願う。
「優しい奴こそ、救われるべきなんだ」
「でも、結果がでていない」
「でも、僕こそは、僕だけしか君を助けられないというのなら、助けてあげたいんだよ」
それは結局――。
「君の言葉だ」
賢者は笑っている。
「言っただろ? 最初から目をつけてたって。でも君が頑張ったからここまでこれたんだよ。君が誰かを思うから、苦しい思考から逃げなかったからなんだよ。だからこれは、偶然なんかじゃない、必然だ」
暗く、よどんだ穴倉から。
一筋の光がさす。
それは救済ではない。
ほんの少しの助けであって、苦しみは取り除かれない。

 


「ほんとうにいいの? 都市の人たちはどうなるの?」
「いいんだよ。都市の人たちも無事だ」
「どうやって?」
「僕は星が堕ちてからずっと生きてるからね。魂も濃い」
「そんなことをしてもよかったの?」
「些細な代償だ。それに、僕はもう表舞台から消えるから問題ない」
「え……?」
「さよなら」


 

「陛下」
無表情な顔のメイドが王を呼んだ。
「装置は無事です。不可思議なことに稼働も十分です。ですが……前犠牲候補者、近藤雪様の行方はつかめません。犠牲者、佐藤祐樹の遺体も」
「……まあいい下がれ」
一礼をして下がっていくメイド。それをどうでもよさそうに王は見送った。
「機嫌が悪そうだな傲慢主義」
「処刑されたいのか?」
「やれるもんならやってみろ」と男は笑う。
「よかったな、組織の後継役がまだ見つからなくて」
「そんな奴めったにいるわけないだろ? 俺だからやれるんだよ。他にできるやつがいても俺ほどうまくはできない」
男は――ボスはからからと笑った。
王はボスをにらめつける。
「うせろ」
「偉そうな態度をやめることだ。からかわれるだけだぞ?」
「おまえぐらいしかそんなやつはいない」
不満気に言う王にボスはまた笑って見せた。
それで、と彼は言う。
「なにがあった?」
「私は賢者のてのひらにずっといたってことだ」
「逆らうなんて無駄に人間らしいことをするからだ」
「……お前はどう思っているんだ?」
「本質的には、賢者とか世界とか、どうだっていい」
「こんなにあっさり言うならもっと早く聞くべきだったな」
からからとボスは笑う。だがその後居住まいを正した。ボスは射貫くような目つきで王に言う。
「気を引き締めろ。次の犠牲の猶予は長い。だが長すぎる。平和ボケして次の犠牲を失敗して終わらせる、なんてことにはするな」
次の犠牲の期間はでは長い。八百年という歳月は、人の脳裏からシステムを消すのに十分だ。絶対の統治も、それを補強する法も、年月が腐らせていく。それを絶対にあってはならないことだ。
「わかっている。法も作った。知識も引き継がれるシステムをあらたに構築した」
「ああ、だが手を抜くな。人が死ぬようなことでも躊躇なく行え。都市のシステムのためならなにを犯してもいい」
「……結局我々の本質は同じだ」
「ここまでくるにも犠牲があったからこそだ」
「ああ、誰かが死んでいる」
「そうだ。結局――我らが住まうは、犠牲の都市だ」

 

 

ぼんやりと天井を眺める。
そして首を振った。やるべきこど山ほどある。賢者は人々を見つめなければならない。
世界が広がっている。人がどこで生きているのか、どれだけいるのかがわかる。
耳を澄ませば――人々の苦痛の声が聞こえる。恵まれなかったこと。失敗したこと。理不尽に妨げられたこと。
不幸の意思が、世の中には絶えない。
だが、相反するものもある。
些細な気遣いに感謝する思い。それらは大きくは目に見えない。例えば、近くにあるものをとってくれたり、誕生日を覚えていてくれたり、ぶつかりそうになったところを笑顔ですみませんね、と謝ったり、なにかを買ったあとに財布を忘れて、それを届けられたり。
通行人がものを落とした。それを何人かが見て、どうしようかと躊躇する。一人が素早く持ち主に声をかけて届けた。ありがとう、という声。
それで通行人は感謝した。名も知らぬ他人に。そいつは勇気をだしてよかった、と思った。感謝されてうれしいと、そう思った。
それを見ていた周囲の人々は称賛と、ほんの少しの罪悪感を覚えた。勇気をだして落とし物を拾わなかったことを恥じたのだ。だがそれだって、もとは綺麗な感情だ。だから、そういうものを感じた人も、納得している。
誰かが誰かをほんの少し助ける。それを受けて、自分も機会があったら真似しよう、と思う人がいる。実際には、勇気がでなくてできないかもしれない。でも、思うだけで、感謝をするだけで、十分綺麗だと、僕は思った。
「頑張るねー、はいコーヒー」
彼女は元気よくそう言った。僕はありがとう、と微笑み、コーヒーをすする。
苦すぎるのに甘すぎるコーヒー。これを好んでいた人物のことを思い出して、すこし懐かしい気持ちになる。
世界は不幸で溢れている。救いようがないくらいに苦しいことだらけだ。
卓也が死んでしまった。彼女が生きていたとしても、その事実は消えず、忘れることもできない。
苦しいのだ。世界は、不便すぎる。
綺麗なだけではいられない。それが現実という世界だ。
でも、誰かが誰かに優しくした、気遣った。その事実もまた、現実だということでもある。
それに少し救われた気分になる。人間という生物は誰かを傷つけ、誰かを救う。
僕の人生もそうだった。嬉しいことも楽しいことも、悲しいことも辛いことも、隣りあわせだ。
でも、納得している。現実をかろうじてだが、受け止められている。
僕は彼女を見つめる。それを受けて「どうしたの?」と言われる。困ったような、幸せそうな、僕が望んでいた光景。それを見て余韻に浸る。満たされたような感覚。
「なんでもないよ」と僕は笑った。
人の苦悩は続いていく。それを忘れることはできないかもしれない。
彼女が僕を見つめ返す。
なにもかも、受け止められる気がした。とにかく、今日も人間は、生きている。
だから、賢者は、僕は、こう願う。
世界がもっと優しさに包まれますように、と。